何言っちゃってんだろ、何しちゃってるんだろ、と眺めつつ自分の作業の進まなさにぼんやり寝たり起きたりする。これ家族だったら大変だなと思うが他人のことは他人のこと。特殊な状況以外では優先すべきことではない。
話されないこと、書かれないことが重要なんだと考える精神分析からするとその人がそのことを書かないのは当たり前なのにそれが書かれていないではないかと指摘する人がいた。この二人はあからさまであることに対する態度が異なるのだろうと面白く思った。
いいかげんバレバレなのはその人のプライベートに関わり続けている親密な相手にとってであり、私たちのデフォルトは偽りの自己なので精神分析状況のように特殊な状況以外で「それが書かれていないではないか」と指摘されるようなことは隠されてしかるべきだろう。隠すためになされているさまざまな行為を無下にするのは大きなお世話かも。もちろん身近な人の不安や恐れは強烈だと思うが本人だってそうだしそれらを抱え合う関係を親密というのだろう。
まだとても小さな子がかまってほしさにやっていることを甘えだのなんだの叱られたりしているのをみるとおじさんおばさんになってやられるよりはいいのでは、と思ったりするが、小さいときにほどよくそういう部分を満たされてこなかった子どもがそういうおじさんおばさんになるかもしれない可能性を考えればいろんなことはその人と出会い次第ということになるだろうか。大人になるとあからさまなかまってちゃんとそうは見えないけど一部の相手だけが困るかまってちゃんがいるのでそれはそれで複雑だなと思う。
依存というのは誰にでもあるけどそこで自分自分となるか相手にも依存心があるという事実を思い出せるかどうかで対等な関係に対する態度も変わってくる気がする。部分的に依存をみたしあう関係は快楽とか利用とかいう言葉と結びつき排他的である可能性も含むので対等というより差異を否認するじゃれあいといったほうがフィットするか。遊びとしては必要な側面もあるけど同時に誰かを傷つけている可能性もあるだろうから難しいところ。
甘えとはなにか。土居健郎を再読した方がいいですね。