柿と梨。どちらも大好き。スルスルむけるわりに桃みたいに手首までタラーっと濡れることもないし。むきやすいから好きというわけじゃないけど。桃も大好き。秋の果物はほんと豊か。
気持ちを教えてほしいというから伝えたら不快な顔をされた。それ以上いえなくなってしまった。対話というのはこういう状況を避けることはできないという前提のもとそうなったときの自分の感覚や気持ちに対して防衛的にならず、相手の様子にもそれ以上は被害的になることなく次の言葉や態度をお互いに待ちながら続けていくものと思っている。
ルール設定のある対話なら不快な状況が生まれないように、ということはなんとなくできるかもしれず、自分の話をする、相手の話を聞くという役割を取ること自体が貴重な経験になって日常生活でもこういうのって大事だな、と思ってそういうルールのある対話の場での学びを生かすこともできると思う。
でもつまりやっぱりそれはかなり限定された意味での対話ということになると思う。
うちと外で違うというのも普通のことでなんでそんなことしちゃってるの、気持ち悪いって思われるよ、カッコ悪いよ、みっともないよ、他人は言ってくれないよ、ということを思ったとしてもそれが仕事でそれが生活費を稼ぐのに役立っているとしたらそんなこと言えない、という人もいれば、そういう態度が社会的な関係ではない自分たちの関係を侵食する感じを嫌ってそう伝える人もいる。でもこちらがどう判断してどう行為した(しない)としてもその次を作るのは相手だ。そして多くの場合、親密な関係におけるずれはお互いを傷つける。ルールに守られればできることがそこではできないことがさらに複雑な気持ちを掻き立てもする、お互いに。だから私たちってどういう関係なの、と問い直す事態がよく生じるのだろう。それはつまりその人の考えではこの関係でそういうことは言ったり言わなかったりしたりしなかったりするものだと思うけどおかしいよね、と言いたいわけだ。そして大抵期待通りの返事はこない。それだって家族のように通常は続けることが豊かさにつながると期待される関係においては当たり前に生じることだ。そういう関係は嫌なことや思い通りにならないことがあってもそこに居続けることが前提になっていると同時に何度でもやり直す機会がある。そしてまたやはり同じことを繰り返すのだがそうこうしている間に別のことも生じる。いろんなことが起きてそれらを共にしていく、ただそれだけ。ただそれだけということの貴重さ。
もし関係を続けたいなら圧力のかかる負担な状況が生じるのは当たり前だという認識が必要だし、お互いがお互いに関心を向けている限りは別のことも生じているということに対する希望も必要。だから相手を決めつけたり利用したりしないでとりあえず自分の問題として考えていけばいいんじゃないの、暴力とか明らかに離れた方がいい事態は別として、というのが私の仕事の前提だし仕事でなくてもそういうものだと思っている気がする。
私は「対話」という言葉が苦手なのでほとんど使わないけれどもし使うなら対話をする相手は自分自身でもあり自分が何をどう感じてどういう態度をとっているかを相手を通じて知ることに対して使うかもしれない。ルールのある場所での対話はそれがどういう感じかをイメージすることに役立つかもしれない。そういう時間を持つことさえ普段は難しいわけだから。でも私たちはそんなに簡単ではない。変わらない変わりたくない自分を愛してほしい、自分で愛するのは難しいから。今日も自分は嫌なやつ。それでもそればかりではないだろう。そう思ってやっていく。