ミナ ペルホネン(minä perhonen)の皆川明の文章を読みながら「幸福」という言葉をずるいと感じた。その文章自体は一見すればごく当たり前に大切な、でも大抵の場合は困難な関係を記述したものだった。まだどうしても立ち上がる力が出ない身体にはさらに重たく感じた。
幸福という言葉はずるい。頭痛がひどくなる。差異をうやむやにしたりいつでも反転可能な状態にしておけるこういう言葉にはなすすべなしと感じる。しかし実際幸福というのはそういうもののようにも感じる。取り巻く状況も最悪で、心身の状態も最悪で、私たちの関係も最悪なように思えるのに会い続ける中で時折訪れるあの感じ、そこだけふと明るく温かくなるような一瞬、あれは多分幸福な瞬間だ。でもすぐに消える。やっぱり幻だったという絶望と引き換えに。
会い続けるのが条件。そのためには幸福を感じられることが条件。無限ループ。断ち切るか継続にかけるかはその人次第だと思うがそれだっていつだって「そんなつもりはなかった」という言葉で無効化できる。時間って?責任って?愛情って?そしてやっぱり幸せって?
昨日は真冬のようだった。今日の光は溢れんばかり。日々は続く。空。見上げるしかない。包まれるしかない。心身への影響も回避できない。一喜一憂。これまでだってそうだった。
「100年後を想う活動」、ミナの理念。憧れのブランドは着るには身近ではないけれど作品としても追っている。ひとつひとつの手作業に潜む記憶。それを無意識的に受け継いでいくこと、離れても纏うことでじっと感じる、そうしたいしたくない以前に。そんな行為を幸福と感じられたら。今日もなんとか。