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精神分析

けん玉、布マスク、ポストコロナ?

紅茶の抽出時間中、ごちゃっとしたテーブルのオレンジの陶器の入れ物にさしてあったけん玉をなんとなくやってみた。一回で真ん中に入れるのに成功。私、これだけ得意。この真ん中にさすのって名前があるのかな、昔なんか言ってた気がすると思って検索したらありました、玉をけん先にさす技=とめけん。そういえばけん玉って剣を玉にさす遊びなんだよね。これが剣であることを忘れとった。お、そうか、最初からwikiを見ればよかったのか。日本けん玉協会のサイトが先に目にはいったからそっちをみたのだけど面白いよ、いろんな技がある。「とめけん」はこうやって膝曲げないと合格にならないのかな。私は小手先だから不合格かも?こんな朝に一発で入れたのに?もしそうだったらガーン。

さて、wikipediaの「けん玉」には

けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具。日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。

とあります。へえ(読んでる)。

けん玉、オフィスに置いておいて練習しようかなと思ったけど注意力ないくせにそれだけ集中しそうだからダメ、と思って元の場所ではなくごちゃっとしたテーブルの上に置いたら昔小さい子がビーズで作ってくれたヘアゴムがあった。布マスクはもういらないかな。短期間だけど大変お世話になりました。不織布不織布ってなってからはオンラインでも売り切れ続出だった布マスクの受容もあっという間になくなっちゃったね。誰もがはじめて体験する事態では何が正しいか間違っているかなんてわからないからいろんなことが起きた3年近くでしたね。布マスクをオンラインでみているうちにそれまで何度か利用していた着物のはぎれでスカートを作ってくれる個人のサイトが閉じていたのに気づきました。とても残念。どのスカートもいつも周りの人に褒めてもらっていました。ありがとうございました。お互いの住所と名前を知っている関係だけど一度もお会いしたことはないしこれからもお会いしないのでしょうね。不思議。私は旅好きだから旅先ですれ違ったりするでしょうか。そのスカートはいてたら気づくかな。いつもバックパッカー旅だからスカートはかないけどその土地へいく機会があったらはいてもいいかもしれません。

昨日も渋谷の混雑について話しながらこの3年近く、この街にいかに人が少なかったかを実感した。慌てて行かなくてはいけない場所にもスイスイいけた。今は歩くスピードも混雑に委ねるしかない。でもコロナ前だってそうだった。コロナで仕事も家も失った人たちにもお会いした、しばらくして会えなくなったりもした。突然の転校や転居を強いられた子どもたちもいるし、突然会えなくなった人たちもいた。今はみんなどうしているだろう。また会えるのだろうか。多分会えない。生きていれば?元の生活に戻っていれば?どうだろう。悲しいけどそれは本当には「元」ではないから難しいかもしれない。でもどこかですれ違うかもしれない。そう思うのはこれまでも偶然びっくりするような場所で友達や知り合いとすれ違うことがあったからかもしれない。地元に帰ると幼稚園のときからの友達に声をかけられたり、名前とか全然思い出せないけど知っている人に呼び止められたりもする。これは小さいときからそうか。田舎はそういうものか。新宿や渋谷も偶然見かけたりすれ違ったりすることが割と多い気がする。とても笑えない状況を作った人が楽しそうにしているのを渋谷で偶然見かけたことがある。向こうにしてみたら楽しく笑うためにいいっぱなしやりっぱなしにしたわけだろうけど人はあっという間にさっぱりしちゃうんだなともっと辛くなった。事実をなかったことにしないという想いを強くした。コロナ禍で見えたものも見えなくなったものもある。失ったものや得たものとどう関わるかはそれまでのプロセスと現実の状況が大きく影響するだろう。なかったことにして「前を向く」?そうする人もいるだろうけどそれはその人のひとつの選択であってそうすべきことかどうかそれがよきことかどうかは他人が決めることではない。どの気持ちも状態もその人がどう感じどう捉えているかでしかないし判断をするならそれはある特定の事柄に対してでありその人全体をジャッジすることなどできない。特定の出来事もある人は忘れ、ある人はとどまり続け分断も乖離も進むかもしれない。それでもせめてひとりにならないように。これまでのなにかが支えてくれますように。それでもなんとか、と日々繰り返し呟きながらなんとかやっていきましょうね、わたしたち。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生