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精神分析

雨、卓球、防砂林

やっぱり雨やまないよね。あーあ。鳥は鳴いてる。雨でもいつも通り。人間は雨で予定を変えたりするのだけど鳥たちはどんなですか?

久しぶりに卓球をした。ほめられた。スタミナがあるという褒め言葉が嬉しかったことが新鮮だった。そんなもんとっくになくしてたかと思ってた。結構上手だったので習いたい。すぐこうなる。バドミントン部のとき、コーチにまともなフォームを教えてもらってからしばらく全く打てなかったのでやるなら最初から正しいフォームでやりたい。精神分析も結局同じなんだろうな。私はオーソドックスな形をまずは身につけることを大事だと思っているのだろう。

以前、多分青森のホテルに泊まったとき、卓球ルームがあり、というか当時は卓球台を求めて宿を探していた時期かもしれない。そこはすごかった。選手みたいな格好をした娘が父にコーチされてたりやたら上手い人が多くて卓球リーグ上位校の部活に紛れ込んでしまったみたいだった。楽しかったなあ。

今、お家みたいな宿の卓球台を思い出したのだけどあれはどこだったのだろう。萩かな。あれはどこだったのだろうと何度も思い出す宿で聞けば「ああそうだった」となるのにこうして毎回忘れる。また「ああそうだ」となろう。そのうち聞いても「そうだっけ?」とかなるのだろうから。

海に近い道路には防砂林らしき高過ぎない木が立ち並んでいた。あれはなんだったんだろう。地面の方は野趣溢れるムラサキツメクサたち、あの白い花はオオデマリ?オオデマリは低木だと思うのだけどあの高さまで行かない?低木って何メールまでを「低」とするの?これもあとで聞くか調べるかしましょう。そのときは一緒にいる人もわからなくてただただそれらの野性味に驚いていた。花や木をみていると「これってあのときのあの子?」みたいな驚きがたくさんある。人間と違って逆順もあるしね。逆というか生まれ変わり。循環。人間も私が死んでもどこかで次が生まれてると考えれば循環。少子化は深刻な問題よね。

今朝は再びお菓子天国の我が家。再び塩山の和菓子屋さんのお菓子。嬉しいな。外の風の音が安定しないなあ。風の音が安定するなんてことないか。常に強弱あるものね。雨でもいいけど風は嫌だなあ。まあ美味しい緑茶をいれてのんびりお菓子食べることからはじめましょうかね。みなさんもどうぞお気をつけてお過ごしください。

あとこちらは雑文ブログですが、オフィスのウェブサイトも更新しました。よろしくお願いいたします。

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精神分析

習慣とか

カラスが鳴いて小さな鳥たちが鳴きはじめる、という順番に思えるのだけど違うのかな。なんかいつもと違う感じの鳴き声が聞こえるけどどなたかしら。

以前その地域で間借りして面接をしていた頃、隙間時間によく行っていたビルへ久しぶりにいった。かわいいものがたくさんでウキウキした。オフィスのある初台になんの不足も感じないけどインスタで目にするようなものたちが実際に並んでいるとどれもこれも目新しくはじめて東京に出てきたような・・・と思わず書いたけどはじめてはどうだったかな。当時、群馬から東京入りするというのはまずは上野駅に到着するということであり、そこからお茶の水へというのが私のはじめての東京。家族でなら毎年後楽園に野球にきてたから水道橋だけど。3月に千代田区のギャラリーへ行ったついでによく泊まったホテルのあたりを歩いた。当時私が少しドキドキしながらした寄り道の距離の短いこと!知らない道を延々と走っても見晴らしがよく、少しのランドマークで戻ってこられた田舎とは違う景色に警戒していたのだろう。立ち並ぶ高めの建物に挟まれた道路、つまりは普通の住宅街の道だが、とまで書いて携帯をいじったらそのまま『ゴリラ裁判の日』を読んでしまっていた。著者は須藤古都離、ことりさんって読むのかな。講談社から。はじめての東京がいつのまにか最も長く住んでいる場所に変わったがいまだにキョロキョロして過ごしている。群馬と比べると視界が狭いのだ、やはり。視線が「その先」を見ることができない。老眼も進んでいて本を読むのも苦痛だがこうしてなんとなく読み始め気づいたら読み耽っているのは習慣だからだろう。東京は変化が大きく習慣は個人のものな気がするが田舎はまず自然に規定されるものとしてあるような気がする。久しぶりに寄ったビルは上の方の階にはあまり人はいない。ギャラリーも無料なのに誰もいなかった。フラッとよると受付の人にわりと遠くから挨拶をされたのでお辞儀をかえした。眺めながらそこに置いてあるものたちの関連性を考えていたらしく、いまやすぐそばにいる受付の人の視線を受けて尋ねてみた。この距離でそんなふうにみられたら言葉で距離をとるかそそくさと出ていくかしかないが私は言葉で。これとそれには関係がなかった。びっくりと納得と。なぜそうなっているかといえば、という説明を聞いてはじめて知ったのはギャラリーの運営をする会社のこと。そうか、どの建物にも管理者がいるもんね、など展示の中身よりも箱に関するお話を色々伺って「もっとゆっくり手に取って」と言われたが時間調整で少し寄っただけだったのでお礼を言って次の場所へ向かった。本の話はやはり盛り上がるな。

今日は何を食べようかな。耐え難い苦痛や行動化への衝動から身を守ってくれるものがあるとしたらその一つはやはり「習慣」だろう。外に光が増えてきた。今日は一日お天気なのかな。みんなはおやすみ?おやすみの人もそうでない人もどうぞよい一日をお過ごしください。

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精神分析

塞ぐことなどできないし。

真っ暗。というのは外のこと。外に出たらでたで真っ暗ではないのだろうけど。コロナに振り回される生活を送ってきた人もコロナ禍であろうと以降であろうと変わらず人の心と体をもてあそんでいた人も同じように自由や倫理や生活について語ってお金をもらえるのが世の中。戦争を教えない教育になるわけだ。この人はこんなこと言ってるけど本当はそんな生活していないどころか他人の身体傷つけて他人の生活脅かすような人だけどね、ということを日々の生活から学んでいる子供も大人も多いから救いがないけどなんでも明るくポジティブに語ることが大事だもんね、「前を向こう」だっけ?私は全然そう思わないけどそうでもしないと辛すぎるのもまた事実でしょう。起きたこともそれに伴う気持ちもただそのまま言い伝え続けることをしようとしても辛すぎてできないものね。平然と棚上げし忘れることができる人の実際を伴わない自分語りが耳障りいいのは当たり前。当事者にならないですむから。もちろんそういう人がいる一方で当事者はいるわけだけれど。マスクをしてもサングラスをしてもノイズキャンセリングのイヤホンをしてもオイディプスみたいに目を突き刺しても目も耳も心も塞ぐことなどできないなかなんとか生きてきた人たちと毎日毎日会って話を聞いている。怒りや悲しみに耐え難い雰囲気になることもある。一緒に笑うこともある。沈黙のままなこともある。口を開いたら何が起きるかわかってる、反復を恐れる。実際似たようなことは起きる。それでも時間がくればお金の受け渡しをして別れる。そしてまた会う。それでも人を喰い物にしてと言われることもある。実際喰い物にされた経験があるひとは特にそう思うだろう。人って平気で嘘をつくし、喰い物にしといて喰われたお前が悪いこんなまずいとわかっていれば喰ってなどいなかったお前なんか喰ったと思うと後悔しかない、とか言える人がいる生活を生きざるをえない場合もあるのだから。単に快不快で生きてるだけではと言いたくなってもだとしたらどうしてそうなったということを考える。因果関係を探すというより事実の描写を積み重ねていく。今ここを反復を共にする場として立ち上げていく。外側からわかったようなことをいうことが必要な局面もあれど大抵はそんなお気楽さは求められていない。現場にいるってそういうこと。葛藤なき快不快原理で生きる「賢い」消費者にならないように、戦争だってそのまま語り継いでいけるようにと願うけどどうしてもそうなってしまったりする毎日。自分のことがもっとも疑わしいからこそ目の前の人間関係にとどまる。感じたり考える力を奪われる出来事に本当に死んでしまうことのないように切実さに開かれる誠実さを。それを支えてくれる環境を、と願う。

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精神分析

チョコ、同一化、四月は三十日まで。

夜中にチョコ。いつも遅くまで仕事してるから夜ごはんも遅い。なのでおなかが空いているわけではない。でもね、甘いものは別。うちでの作業には常に必要、ということで暗いキッチンで冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中はいつも明るい。閉めると再び暗くなるのでしょう?どーもどーも。ありがとう。起こしてごめんね。おやすみなさい。今日は朝食べたいお菓子がないことを知っている。さっき目を覚ましてぬくぬくしながら最初に思ったのはそのこと。また夢を忘れてしまった。おみやげのお菓子も尽きてしまった。いや、ある。もったいなくて開けていないドライフルーツが。ドライフルーツって苦手だったんだけど紅茶屋さんとかのをもらうと美味しい!ってなる。その紅茶屋さんのをもらった。でももったいない。あと1,2時間後、果たして私はそれを開ける決心をするのでしょうか。

何もないなあ、とか思いながらも冷蔵庫を開けるのはそこにいつもチョコがあるから。特にGODIVA。1年に2、3回海外から帰ってくる親戚がいつも定番GODIVA+何かをくれたり、友人がカルディで珍しいものがあったからとくれたり、チョコはちょこちょこもらうから結果的に常備。朝はチョコ♪チョコチョコ♪とはならないけどまだ暗いうちの一粒はいいかも、と上品な並びから一粒とる。それにしても「朝はパン!パン、パ、パン♪」みたいに[m] [n][ŋ]か、あるいは[ɔː]みたいな音がないとこのリズムとるの難しいのかな。チョコの「コ」は跳ねる感じも伸びる感じがないしね。朝のお菓子は半分に切ることが多いのだけど夜明け以前にいただくチョコをちょこっとかじってみる。あれ?切れない。キャラメルか。手を口元から離してみると断面が2層になっている。キャラメルとなんだ?ココア?色が違う。お菓子は断面をみて感動することが多い。チョコはあまり包丁で切らないけどキャラメルだと切りにくかっただろうな。口の中をしばらく甘くして楽しんだらノンカフェインのレモンティー。世の中には本当にいろんな飲み物があるね。

そうだ。先日個人での開業を考えている昔からの友人がオフィスに見学に来てくれたときも街の素敵なお菓子屋さんのチョコをくれた。色や形も繊細でかわいくてとっても上品な甘味だった!こちらももったいないので少しずつ少しずつ。Merci! 久しぶりにいろんな話をゆっくりできて嬉しかった。Chocolatierにもメルシー。美味しすぎるから大切にいただきますね。カフェもあるらしいので行ってみよう。

またお菓子のことばかり書いてしまった。昨日、ある食べ物ツイートをみてフロイトが記述したいくつかの同一化の型を思い出していた。唐揚げ大好きな小さい子が「大きくなったら唐揚げになる」と言ったりする段階があるけど、「あーこの人はこういうものを食べてその欲望のまま振る舞っているわけか。身体には不健康で欲望に忠実という意味では精神分析的には健康、いや行動化はどうだろう」とか。以前セミナーで同一化について話すときにまとめた資料をあげておこうとパソコンのなかを探したけどなかった。なぜー。そういうの多いのだけど整理が悪いのがいけないのよね。もっと工夫しないとなんだろうけどフォルダ作ってもそこに入れるのを忘れちゃったりするからだめね。

昨年の学会で指定討論したものを原稿にしないといけない。後期ビオンと後期ウィニコットから学んだことについて。私は主にウィニコットの側からan incommunicado/isolate self that is non-communicatingのことを。勉強しなおさないと。

あーまた四月中にやらねばならないことを忘れていた。今思い出した。四月って何日まで?三十日か。そりゃそうか。あー。なんとかなりますように。今ここにいる気がしないやる気ある自分が戻ってきてくれますように。そんなときがあったかどうか覚えていないけどきっといる。きっとくる。きてください。みんなはどうかな。今日は雨靴じゃなくても平気みたい。もう明るくなってきた。鳥たちもおはよー。もうすぐ立夏だ。気温も気圧も身体にくるけどお大事に過ごしてくださいね。

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俳句 写真 散歩

花々

行き慣れた家をピンポンした。門からお庭をのぞいたら見慣れないきれいな花がスラッと長く立つ枝に散らされたように咲いていた。人が出てきた。飯能で見つけた「食べる甘酒」を渡しながらこのお花って前からあったかという話をする。おとうさんといっしょに買った苗で昨年は花が咲かなかったという。だから気づかなかったのか。しかもどうだんつつじだという。え、私が知っているどうだんつつじはいつもの散歩道で見る茂みのようなものなのにこんなにすっと背高く咲くものなのか。きれいなピンク。お庭はほかにもこの時期のお花が美しく咲いていた。あやめ?ジャーマンアイリスって言うんだって。ドイツのあやめか。よくわからないのだけどこっちにも似たようなのが咲いていたのよ。へえ、あっちのは?などおしゃべりをして別れた。「おとうさん」は昨年一月に亡くなった。元気そうでよかった。

「どうだんつつじ」と打ったら「灯台躑躅」と出た。打ち間違えたともう一度打ったら自動変換の候補に「満点星」ともでた。あれ?なんで?また打ち直したらまた同じのがでた。これ、どちらも「どうだんつつじ」と読むそうだ。「満点星」でそう読ませるのはなかなか難易度高いが散らされたように咲く花が空に散らばる星々に似ているということだろうか。wikipediaには

「「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。満天星の表記は本種の中国語名の表記をそのまま引用し和名のドウダンツツジの読みを充てたもの。」

と書いてあった。そうなのか。お花をラテン語の学名で見ることは多いが中国語名を意識してみるのも面白いかもしれない。深夜、少しだけ片付いた床でむくみのひどい足を伸ばしながら『花のことば辞典』(講談社学術文庫)を見ていた。また片付け途中でみつけてしまった。古田徹也さんがどの本か忘れてしまったが言葉の本のどれかを出されたときに選書リストにあげていた本だ。文庫サイズの辞典はありがたい。その頃は毎日意識しなくても感じられる風や雲の方に注意が向いていてこちらも古田さんの選書で知った『風と雲のことば辞典』をパラパラすることはあったが花の辞典の方はあまり見ていなかった。パラパラ。俳句だ。

「花は夏・秋・冬にも咲くが、ただ「花」といえば、桜に敬意を著して春の季語である。」

下の4句が並べられていた。

花の雲金は上野か浅草か 芭蕉

草越しに江戸も見えけり花の山 一茶

花更けて北斗の杓の俯伏せる 山口誓子

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太

たしかに。見えてくるのは桜、ですよね。そう聞いたからそう見えるだけかな。北斗七星の三つ星を杓に見立てるとは知らなかった。「暦生活」のサイトにわかりやすく書いてあった。

「アイリス」が「あ行」の最初のページに載っている。「アヤメ科アヤメ属の栽培多年草」と。うちの花壇にも植えてみようかな。紫のお花は梅雨に向けての構えをしっとりと作ってくれる。すぐに咲かなくても次の年に咲くかもしれない。

携帯電話には花の写真がたくさん。あっという間に日が過ぎるのでこういうサイトに使おうかと思った頃にはもうその花は枯れ落ちていたりする。季節はめぐる。外は雨の音。さっき南側の大きな窓からのぞいたときは降っているように見えなかったのに。今日は一日雨みたい。写真を撮る余裕はなくてもたくさんの木や花に出会うでしょう。辛いことも悲しいこともたくさんだけど紛らわしながらなんとか過ごしましょうか。どうぞご無事で。ご無理なく。

明治神宮
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精神分析、本

漫画、フロイト、オグデン

昨晩は大正ロマン関連を色々チェック。旅に出るから。袴で街をそぞろ歩きしたい。今朝は吉田戦車『伝染るんです。』をパラパラ。少しずつ積み上げられた本と論文の整理をせねばと単に別の場所に移動させるようなことをしているときに見つけてしまった。ちっこい文庫。『はいからさんが通る』ではなくこっちを見つけてしまった。これ帯もつけっぱなしにしてたんだ。1巻「読んだらキケン!』2巻『不条理来襲』3巻『枠組み破壊』4巻『爆発的伝染力』5巻『非常識の完結』。『伝染るんです。』なんだから4巻のはどうかな。まあ大きなお世話かな。今こんなことしてる場合じゃいないんだよー(泣)。でも面白いよー。それにしても部屋がひどいことになっている。

Reading Freudも事例検討グループも始まったからインプットを増やしていかないとなのに別のことばかり調べてしまう。英語論文とか最近ちょっとしか読んでないからめちゃくちゃ読むの遅くなってるし。そんな賢いわけではないのだから真面目にやらないとなのにね。あー、吉田戦車とか大和和紀天才。フロイトと同じくらい読むべきものたちと思う。

一応、私が読書会でいつも言っているフロイトの書き方に意識を向けることについて話すためにオグデンの2002年の論文を再読したのであげておこう。これはオグデンの単著に入っていただろうか。訳されていないけど誰かが編集している本に入っていることは知っているけど書名を忘れてしまった。漫画読んでないでこちらをチェックしないとね。

Ogden, T. H. (2002) A New Reading of the Origins of Object-Relations Theory. International Journal of Psychoanalysis 83:767-782

The author presents a reading of Freud’s ‘Mourning and melancholia’ ということでフロイト全集14の『喪とメランコリー』をオグデンが再読。この論文は対象関係論のはじまりと言われている論文。これは十川幸司訳の『メタサイコロジー論』にも収録されているからそっちで読むといいかも。フロイトが短期間で一気に書き上げたというメタサイコロジー論文の中でも最重要。

オグデンが重要と考えるのはvoice。太字は私が太くしました。

the way he was thinking/writing in this watershed paper.

オグデンはのちに‘object-relations theory’(対象関係論)と呼ばれる心の改訂モデルの背景にあるフロイトの考えを以下に要約。

(1) the idea that the unconscious is organised to a significant degree around stable internal object relations between paired split-off parts of the ego

(2) the notion that psychic pain may be defended against by means of the replacement of an external object relationship by an unconscious, fantasied internal object relationship

(3) the idea that pathological bonds of love mixed with hate are among the strongest ties that bind internal objects to one another in a state of mutual captivity

(4) the notion that the psychopathology of internal object relations often involves the use of omnipotent thinking to a degree that cuts off the dialogue between the unconscious internal object world and the world of actual experience with real external objects

(5) the idea that ambivalence in relations between unconscious internal objects involves not only the conflict of love and hate, but also the conflict between the wish to continue to be alive in one’s object relationships and the wish to be at one with one’s dead internal objects.

要約だけだとまあそれもそうかという感じかも。症例の話がないとということで興味のある方は本文も読んでみてください。

ちなみにオグデンは下に書くフロイトの論文の終わりの部分を引用して患者の実際の生活に根ざしていないと精神分析もthe self-imprisoned melancholic who survives in a timeless, deathless (and yet deadened and deadening) internal object worldと変わらないよ、ということでこの論文を閉じています。

Freud closes the paper with a voice of genuine humility, breaking off his enquiry mid-thought:

—But here once again, it will be well to call a halt and to postpone any further explanation of mania … As we already know, the interdependence of the complicated problems of the mind forces us to break off every enquiry it is completed—till the outcome of some other enquiry can come to its assistance .

オグデンは少しだけ省略してしまっているので十川訳の方からこの部分を引用しておきます。
「しかし、ここでは再び立ち止まり、まずは身体的苦痛、それからその苦痛と類似した心的な苦痛の持つ経済論的な性質への新たな理解が得られるまで、マニーについてのさらなる解明は延期するのが適切だろう。周知のように、錯綜した心的な問題は相互に関連しているため、他の研究成果を役立てられるようになるまで、このような研究は不完全なまま中断せざるをえないのである。」

これぞフロイトの書き方という感じがする。フロイトには常に次へ継続するための中断がある。実際、ここに書かれたことは継続的に探究され別の論文に書かれています。フロイトを読み始めるとこうやって読み続けることが必要になってしまうことをみんな無意識的に知っていて敬遠してしまうのかな。ここに書いてあることがよく掴めなくてもまた出てくるから大丈夫、ということを私はよく言うけど。精神分析みたいな心の探求は時間がかかってしまうのですよ、反復につぐ反復を扱うから。まずは反復を認識するところから時間がかかるし。うーん。体験と結びつくと多分かなり読みやすくなるのだけど読むために体験するわけではないしね。精神分析を体験するのはフロイト全集を買うよりもお金もかかるしそう簡単におすすめできるものでもないし。うーん。悩ましいですね。とりあえず読んでいきましょう。

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精神分析

Reading Freud、初回面接検討グループ

ふー。身体がバキバキ。顔が腫れてる。昨晩は少し冷えましたね。もう24日。困りました、といいつつ隙間時間は散歩電車散歩の日々です。

私主宰のReading Freudは新規メンバーを2人お迎えして4人で始まりました。5人でやろうかと思ったけど私のオフィスのサイズ的にも進行的にも4人がちょうどいいみたい。ウィニコットやクラインは読んでいるけどフロイトは…という人はそれなりにいるみたいでたしかにあまり読んだことがない人がフロイトを読む様子をみているとフロイトの書き方も書いていることも難しいのかもしれないとも思うけど読み方のせいもあるかもしれない。フロイトは精神分析の創始者なので自分がしていることを科学として基礎づけるために多彩な先行研究を引用しつつ「こんなことは誰々も誰々も誰々も言っていて自分はこの人のを採用するけどそれでもそれだけだと十分じゃなくてと」と論破しつつ臨床体験を構成するものを探求していくことを自分の理論に対してもずーっとやり続けるから『夢解釈』なんて20年にもわたって加筆修正が続けられている。最初は何言っているかちんぷんかんぷんでもあまり構えずに学会発表を聞くくらいの感じで聞くように読めるといいかもしれない。学会だとどんな難しいこと言われてても本を閉じるように出ていっちゃったりしないでしょう。まずはその場でフロイトの言葉を体験し続けること。このグループは1パラグラフずつ順番に音読していくものなので他人の声で聞くという体験ができるわけだしね。がんばろ。

初回面接を検討するグループは3人グループ×2。昨年度と同じメンバーで。みなさん初心者ではないので基礎的な型は身についているわけだけどどうして自分がそれをしているのかに対してあまり意識を向けていなかったりする。なのでそこを検討しつつ型がなぜ型として成立しているかに立ち戻る。自分がやっていることをメタでみるって本当に難しいけどグループでやると自分では到底気づかなかったことに気づいて驚いたりその驚くということがどういう体験なのかも身をもって吟味できるし楽しいですよね。

さてさて身体も温まってきたことだし今朝は何をいただきましょうか。かわいいういろうのお土産がまだあった気がする。眠くて眠くて眠いけどなんとかしましょう。みなさんの色々もなんとかなりますように。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 散歩

女王様のおやつ、工場見学、消しゴムマジック

今朝は群馬県高崎市に工場があるガトーフェスタハラダの群馬限定ラスク「グーテ・デ・レーヌ キャラメルショコラ」をいただきます。高崎市にある珈琲屋さんのコーヒーと。さて女王様のおやつ、とのこと。なるほど。ゴージャスな作り。なんでこれが群馬限定販売なのかな。普通のグーテ・デ・レーヌもあるんだね。レーズンサンドと合わせてるんだ!美味しそう。ぐんまちゃんのイラストが描いてあるわけでもないしなぜだ?まんまと買ってしまったではないか。おいしいからいいけどさ。ここは工場見学にいくと生ラスクも試食させてもらえるの。これがとっても美味しかった。生ラスクって言い方でいいのかしら。まだ少し柔らかくて表面にお砂糖だっけな、それをその場で炙ってくれてすぐいただけるのです。飲み物つきでいただけるスペースもきちんとあるし。県民としてはこんな田舎へ誰がくるのだろう(私は行くよ)と出かけた工場見学だったのに混んでたー。特にショップ。工場をまじまじと見学しているのはわたしたちくらいだったけどね。工場見学ってとても面白い。小学生の時に行った前橋市六供の清掃工場と下水処理場の中身は覚えていないけど温水プールとのセットでその仕組みとか感動した。あの辺は遺跡も多くて古墳みたいなところも行ったな。あとから国立中学附属の小学校はバスで行くんだよ、と聞いたけど確かに私の通っていた公立小学校は子供の足では遠いだろうと今なら思うほどの距離を歩かせていた気がする。ああいう「付属は」みたいな言い方って面白いし変。群馬のお受験なんてそこくらいだものね、受験に対する意識が低い学校でもそういう言葉だけはなんとなく使うようになるのだから面白い。

昨日も寝不足のままうつぶせで倒れこんでいたから顔が変。見慣れない顔になってる。出来事をまるでなかったことにして平然と軽薄でいられるのはなぜかということをここ半年くらいずっと考えているのだけど精神分析のセッションでは瞬間的にでも長期的にでも生じる状態。意識化ということが強調されがちだけど無意識化のプロセスだと思っている。精神分析場面でなくてもDVやハラスメント事案の多くにそういうのって見られるでしょう。そんなことしておいてよくそんなこと言えるよなってやつ。向こうはこっちにそう言わせない圧力をもって「自分のしていることがわかってるのか」とかいってきたりするから怖くて何も言えなくなってしまったり悪循環。誰かを喰い物にしてただの排泄物にしたり詐欺みたいな行動に役立てたりなんにしても「もの」扱いしてしまう心性は相手がいない状態、つまりナルシシズムの文脈が一番語りやすいと思う。相手がいないから平然と相手に押しつけて自分だけさっぱりしてしまう心性。相手のことを人として見てればそんなことはできないと思うのだけどなかなか。最近、写真の編集で「消しゴムマジック」ってあるでしょう。あれを人間関係でやってる感じといえばいいのかな。むしろああいうのは人間の性質がテクノロジー化したともいえるのか。DMとかと同じで一方が消してももう一方のは消せないし、オンラインからはほぼ永遠に相手はいなくならないのでそういうマジックを気楽に使わない方は苦しい。使えない方がいいけどね、魔法的なことは。ドラえもん的なことは。アンパンマン的なことは。万能感はケアとセットならともかく、と思うけど、自分のいったこと、したことは棚上げどころかマジックで一括消去してケアとか環境型セクシュアルハラスメントについて語って賞賛と共感を得てしまう「いい人」でいるとかいう場合もあるでしょ。それってどうなんだろう。そうなりたいわけではない人でも相手を部分的に利用したくなるときはあると思うけど怖さや理不尽さが強烈な場合は問題にしていかないと。自分のせいにすることでなくしてしまわないように。今日もみんなで考えられたらいいですね。

先日、神代植物公園へいったら藤が満開でした。バラ園のバラの蕾もいっぱい。ハンカチの木の花も満開。緑はすでに少しずつ濃くなってきています。少しずつ少しずつ。

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精神分析

不器用、忘れっぽさ、優しい人

緑茶、友達がくれた紅茶、いつものコーヒー、特別なコーヒー、普通のリプトンはもうなくなってたんだ、そういえば。急に商品名を書いてしまった。個包装になっていない紅茶がいっぱい入ってるお得なパックみたいなあれ。最近紅茶をいただくことが続いていたから忘れていた、なくなっていたの。洗濯物をまず干さねばなるまい。その前にコーンスープ。今日はあまり飲みたいものがなくて粉末にお湯を注いで15秒だっけ、混ぜるだけのコーンスープ。粉の入ったパックとパックを切り離すとき点線を変な方向へ引っ張らないように注意せねば。不器用な人はほんと小さなことに意識向けなくてはなのですね、こうやって。私はいつも混ぜ方が適当なのだけどカップの底に残る小さくでろんとしたダマも好きだから敢えてってこともあるかもね。そんなに意識してやってるわけではないから個人的には怪我の功名。不器用さ、適当さにため息つかれたり呆れた顔されたり悪意と受け取られたりすると本当に悲しいけどそう受け取ってしまう人には人の事情や性質が、とも思う。でもやっぱりとっても悲しくなるし気をつけなくちゃって方に注意が向いちゃって余計に「失敗」しちゃったりまた冷たい視線向けられたりほんと一瞬一瞬負担が増えても曖昧に笑うしかできなかったりそういう雰囲気をどうにかしようとしてさらに空回りしたり悪循環ってちょっとしたことで始まって加速するから本当に難しいよね。小さい子が叱られているときに周りに注意が向いちゃって「こっちみて!」って怒られている場面に出くわしたりするとそれ以上注意がそれないようにこっちがそっちに注意を向けないようにするとかしちゃうもの。お互い辛いでしょう、怒る方ももう止まらなくなってしまうのだろうから。

涼しい風がスーって入ってくる。時折ギュンって風が渦巻くような音が聞こえる。今日のお天気はどうかしら。昨晩は帰り道少し雨に降られてしまった。朝、電車の電光掲示板っていうのかな。車内で天気予報が出るじゃないですか、あれで新宿は夜は雨のマークでもっとも雨に弱いスニーカーを履いてきてしまったよ、でも帰り道ならまあいいか、と思ったのだけど予報自体を忘れていた。オフィスに傘をとりに戻るのも面倒だから小走りで駅へ。電車に乗ってうちがある駅へ着く頃にはやんでいたのでした。何粒かあたった気はするけど。

昨日、日記を書いた。色々忘れてしまうので記録しておこうと思って書き出したら日記になった。ipad miniのカバーを買わねば。もう結構ボロボロ。日記を思い出したら買わねばならないものを思い出した。これもずっと頭にあるのに忘れてしまうのよね、何度も思い出すんだけどお店を通り過ぎるときには忘れてるの。変なの。私が?私か。日記にもこんなこと書いてある。

“電池単4を買うこと。このキーボードのために。電池のサイズが1と3以外よくわからない。4も結構使う、こうして書いてみると。今忘れないうちにと思って書いたがSlackに新しい方達を招待するのもこのブルートゥースキーボードに慣れるためにやっておくべきだろうか。このキーボードのための電池。もう一つのキーボードは電池式じゃないけど充電が完了すれば使えるようになるだろうか。どうしてこの二つを買ったんだっけ。多分ipad miniのためにネットでしらべてAmazonで買ったのだけどBluetoothって何という状態だったか今日ようやく使ってあげられたことになる。多分Wi-Fi環境が整っていなかったから使いづらかったのだろう。”

これは日記なのか?忘れ物をしないために色々書きつけているだけに見える。今載せちゃったっけど公開するものでもないからブルートゥースとかカタカタで書いてるね。二度目は自動変換に気づいたから変換したのだけど最初は気づく前に確定しちゃったの。でもキーボードが無駄にならなくてよかった。

今日は何を忘れるかな。もうね、こう言いたくなるくらい自分に諦めてる。昨日も打ち合わせのあとなくさないスキルとしてバッグインバッグを徹底してリュックに色々戻して立ち上がったあと「あれ?私バッグってひとつでした?」「ひとつひとつ、大丈夫。あるある、そういうの」と言ってもらえて世の中には優しい人だってそれなりにいるから大丈夫よ、と誰にともなく思ったりしたのでした。色々辛いし困ることも多いけどいいこともあるといいですね。今日もどうぞご無事でお過ごしください。

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精神分析

フルーツ、同窓会、フロイト読書会

寝不足。フルーツが胃にしみる、気がする。むしろ歯にしみる。歯医者さんが知覚過敏知覚過敏っていう。いやそうなんだろうけど。今日は朝の隙間時間にパッと打ち合わせに行かなくてはなのだ。指定場所はコメダ珈琲。少ししかいられないのがなんだかもったいないけどお仕事だからしかたない。そこで何かコーヒー的なものを飲むだろうから朝は飲まない。ここ数ヶ月カフェインとりすぎていた気がする。カフェインと頭痛は関係があるのでは、と聞いて、というかカフェインって本来あまりよくないわけだからほどほどにしないとですよね。

大学の学部卒業から25年ということで同窓会がお祝いをしてくれる、と幹事宛に手紙が来た。私は幹事。あー。死ななそうとか冗談で言われながら指名されたけど小中高のどれかも幹事だよ。何もしてないけど。大学のも何もしてこなかったけど友人とやりとりしながらこれを機に集まるかあ、みたいな感じでLINEのオープンチャットを立ち上げた。身近に佐久間一行ファンがいてお笑いライブをオープンチャットでみたりするというから「それって何?」と教えてもらったり、最近PTAでも使っているというから真似をしてみました。みんなすごく協力的であっという間に方々から懐かしいお名前が!嬉しい。大学に勤めている友人は当時の先生方にも声をかけてくれるとのこと。とてもお世話になった東洋先生はお亡くなりになったけど。海外の友人とも連絡がついた。ぼんやりはじめたわりにあっという間に話がまとまりそうで嬉しいしありがたいし楽しみ。

昨晩はアドバイザーとして招いていただいているフロイト読書会があった。遅い時間にみんなよくやる。フロイト全集2=ヒステリー研究。何度読んでも気づきが多い。自分主宰のReading Freudでは技法論集を読むけどそこに繋がる文章がたくさん。昨晩は病歴D エリザーベト・フォン・R嬢のところ。方法としての自由連想に対する確信が芽生え、「抵抗」と用語がはじめてつかわれた部分。あれから100年以上、精神分析を受ける人は日本では数えるくらいしかいないけれどまだ絶滅してませんよ、フロイト先生。不快極まりない自分を他者に見つけ、癒しなどとはほど遠い体験の中で得られるものを名付けることは難しいけど悪くないというかかなりタフな部分が作られていくプロセスにはなる。そういうタフさがみんなに必要かといえばそれはそうでもないかもしれないけれど。傷を生き延びるときには役に立つと思う。

今日のお天気は?くもり?お風呂入る時はまだ暖房使ってるけど部屋の中で半袖でいても大丈夫な季節。今日もなんとかやれたらと思います。みなさんもどうぞご無事で。

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俳句 精神分析

晩春、「ねば」、津山

今朝は昨日に引き続き「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」白餡のほう。包み紙にキラキラの文字で書いてある和歌は同じものでした。昨日はキラキラしてて読みにくかったけど一度読めてしまうと二度目はすんなり。なんでも触れてみるものですね。

ぼんやりしているうちに春も終わってしまいそう。春以前からもう何ヶ月もこんな感じでどうしましょう。すでに晩春ですよ。GW明け5月6日は立夏。立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、で立夏。

3月を切り抜けたのも嘘みたいだったけど4月はどうなるのかな。あと少ししかない。昨晩もメールの山に埋もれさせたまま忘れてて慌てて提出した書類があったしもうダメかも。こんなことばかり。でもこんなでもやるしかないですね。今月も家賃が払えることに感謝。精神分析がラカン理論のように形骸化してしまわないように実践を続ける場所を維持せねば。候補生の会のニュースレターも作らねば。大抵のことは「ねば」ではないのだけどこれらは「ねば」。

「これはマスト」という表現っていつ頃から使われ始めたの?学生時代は聞いたことなかった気がする。この20年くらい?でもこういう外国語からきたカタカナ用語って意外とすごく昔からあったりするんだよね。明治の文学とか読んでるとしょっちゅう出てくるし。正岡子規の幼名は升(のぼる)なんだけど帝大哲学科に入学する年の三月、同級生に宛てた手紙の署名が「野球」。なんて読ませたかわかりますか?もちろん「ノ・ボール」です。子規の野球愛。俳人の言葉遊び。にしても「ノ・ボール」ってどうなのさ、って突っ込んだかしら手紙をもらった大谷藤次郎(是空)は。是空は美作国西北條郡西苫田村大字山北、今の岡山県津山市の生まれ。津山には小さい頃から何度か行ったことがある。川でお魚とったりお城へ行ったり。何か買ってあげると言われても当時からあまりほしいものもなく赤べこを買ってもらった。赤べこといえば福島だと知ったのは大人になってからだけどいまだに私は赤べこをみると津山に思いがいく。かわいいよね、赤べこ。多分はじめて自分で選んで買った漫画は「キャプテン翼」だけどこれも津山の商店街の本屋さんに子供だけで行ったときに買った。当時「からだのしくみ」の図鑑にもはまっていたな、そういえば。と仕事が積まれていようと、回復できない気持ちを抱えていようと自由連想しながら生きている木曜日の朝です。

みなさんはどうでしょう。東京はいいお天気で暑くなるみたい。梅雨がくる前に傘をささないでお散歩できる時間を楽しみたいな。「ねば」だけはこなしながらなんとかやりましょうかね。どうぞご無事でできたら元気でいらしてくださいね。

ひたむきな薔薇というか下向きに咲く薔薇を下から撮った。

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コミュニケーション 散歩 言葉

菓詩、歌詞、葛藤なき世界

朝は少し冷えますね。すっかり寝不足ですが今朝も山梨県塩山のお土産をいただきます。今回は「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」の抹茶のほう。栗を抹茶餡でくるんであります。今日の断面は素朴できれい。そしてこれもほんのりした甘さで美味しい。ただほろほろ崩れやすいのでご注意あれ。包装紙にはキラキラした文字で和歌みたいのが書いてあるのだけどキラキラしてて読めない。少し暗いところ、でも暗すぎないところで見てみましょう。あ、見えた。

志ほの山  さしでの磯にすむ千鳥  君が御代をば  八千代とぞなく

古今集 詠人しらず

だそうです。ふーん。少し君が代的かな。山梨には磯はないから志ほの山ってどこかしら。一青窈のハナミズキ的でもあるわね。「菓詩処 石井」だものね。どのお菓子にもなんらかの詩とか和歌とかが書いてあるのかしら。あとで白あんの方もみてみましょう。大学生の頃、山梨県身延の方の廃校になった小学校で学校に行かない子たちと一緒に生活するポランティアをしていたので塩山は何回も通っている。桃の花といったら塩山のあの景色を思い浮かべるなあ。農園に降りるなり高齢の方が小さなナイフで手早く桃をむいてくれてその場で美味しい美味しい言いながら食べた。手がぬらぬらになるのも外だと気にならないしね。手をきれいにするというところまで混みでむいてくださっていますし。自然の中でいちじくをとったり鳥兜を「触るな」と言われたり音楽室でバンドで歌ったり騒いだり眠ったりシベリアンハスキー2頭の散歩行ったりウサギを校庭に離して草食べさせたり、烏骨鶏の卵をいただいたり。チーコだっけな。とってもかわいいひよこがどんどん大きくなっていくのにはびっくりしたしなんかどんどん立派になって別の世界へ行ってしまったと感じて悲しんだこともあったな。修羅場ありつつ楽しかったけどあんなことよくやってたな。すごい体力。地元の子たちもよく遊びに来てくれた。ちっちゃい頃からよく遊んでいた子に弟や妹ができてたくさん面倒もみた。彼らは別の世界へとは思わなかったな。当たり前か。チーコの世界はどうなっていたのかなあ。かっこよかった。こっちはカラスが鳴いてるよ。こんなとき「君が御代をば 八千代とぞ」とか「君と好きな人が百年続きますように」とかいう気分になるのね。みんなに幸あれと。

そうそう、この前高崎に行ったばかりだからなおさら思い出したのかもしれないけど高崎市山名町に石碑之路(高崎自然歩道)というハイキングコースがあってそこに万葉集の歌碑がたくさんあるの。寂しくて悲しい歌詞が多くてね、山の中で読むとなおさらジーンときてしまうのですよ。

自分のお気に召さないと葛藤するのがいやだからすぐ別の人で代替、補完してしまうような、人を想う余裕などないというか人を人とも思わない人もいるしそういう人でも本の言葉、他人の言葉とかを上手に借りて葛藤について語ることはできてしまう。でもできたら想うこと、想うがために生じる葛藤から言葉を紡げたらいいのではないか。こっちはポイ捨てしたしこっちには上手く隠せてるしこっちは絶対に味方してくれるしみたいな感じで葛藤なき世界を作り上げることはできてしまうけど。葛藤することが実はいかに難しいかはこの仕事をしてればわかる。してなくても体験から知ってるかも。多くの犯罪と彼らの言葉を知ればその極端な例もわかる。そうでなくてもあんぐりしてしまう言い分もたくさん聞くし巧妙な言い回しもたくさん聞く。嫌ね。辛いね。苦しいね。私はネガティブな方に強く気持ちを揺さぶられたらとりあえずじっとする。時間経過でそれがどう変わっていくか観察する。それから表現する、なんらかの形で。直接的にすることもあればただ黙々と不特定多数の相手にそうするだけのこともある。ある事象に関しては即座にパターンとして表出することもある。俳句や和歌にできる人が羨ましいけど自分が壊れてしまわないためにやることは自分なりの形式でやればいいのだろう。

さあ、今日は水曜日。まだまだですね。なんとかやれたらいいなあ。みんなはどうですか。どうぞご無事でお過ごしくださいね。

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散歩

和菓子、花々

今朝は山梨県甲州市塩山「三省堂」の「一葉懐古」という和菓子。青い桃の実を白餡と黄色い餡でくるんだ甘さ控えめの小さなお菓子。断面もとてもきれいです。

あとは先日高崎駅のお土産売り場で買ってきた珈琲。名前を忘れてしまった。いろんな地元の珈琲屋さんがおしゃれパッケージのドリップコーヒーを売り出していたのでした。若草色の定番っぽい味のにしました。突然決めて向かった群馬県高崎市。若葉がキラキラと美しく、ハナミズキと八重桜が今まさに満開でした。名前を知らない木や花たちもいろんな形や色でとても可愛らしく白雲木という木を知りました。細い枝に穂のように連なる白い花たち。まだ咲き始めらしく蕾がたくさんでしたが満開になると雲みたいになるから白雲木らしいですよ。木には「ハクウンボク」と札がかけられていて私は最初に「ハクウンボウ」と読んでしまったためにそれでインプットされてしまい何度も呼び間違えました。どうしても視覚優位なので漢字を知ってようやく修正がきいた気がします。また間違ったりして、というより忘れてしまいそうだけど。

晴天とはいえ強風に帽子をかぶるのも諦めていた頃、東京の友人から雹のお知らせが。まあ。公園とか神社とかいろんなところでイベントがあったでしょうに。でも東京は雨宿りするところも多いからそれはそれでイベントの一貫?なんて呑気なものではなかった?自然にはなすすべなしなことがたくさんだから大人になっても対処ってその場しのぎばかりで全然うまくならないのだけどみんなそんなことないかしら。雨予報のとき靴だけはしっかり雨用なのに傘を忘れたり基本的なところからできていないから大体のことはそのときはそのときってことになってしまいます。

先日、私が主宰するグループの人たちと呑みながら植物に関する超進化論の番組のことを聞きました。ものすごく詳しい人もいるのでとっても興味深く、いかに触れずに手をかけるかということで臨床と同じだねえという話になりました。私は食虫植物を愛しているけど最近はそういう人たちのおかげでいろんな植物の見方が少しわかってきたらしく植物の名前もインプットされやすくなった気がします。あ、そんなことないか。ハクウンボウの修正にも時間がかかるくらいだから。まあそれでも以前よりはね、引き出しの整理の仕方が少しわかった気がするのです。これとこれはこんなに違うのに同じ分類なんだ、どうしてだろう、とかそういうことを聞いたり調べたりするのは楽しいです。いつも見ている木や花もいつの間にか花が咲いてたり枯れてたりするから面白いし。根津美術館のフジと杜若(カキツバタ)のニュースも聞きました。一度か二度この時期に行ったことがあるけれどとってもきれいでした。明治神宮の菖蒲はもう少し後かな。有料になってしまうけどこんな場所にこんなところがと驚かされます。紫の花が増えてくる時期ですね。ということは梅雨も遠くないと。いろんなことが苦しかったり辛かったりするけれどそればかりでもないことに気づける瞬間を掴んでいけるといいですね。痛みや怒りに対して無力無策でもじっと持ち堪えるしかないこともたくさん。今日もなんとか過ごしましょう。

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仕事

隙間勉強(こども)

今年も平均週3時間程度、保育園を巡回して相談をうける仕事に割く。もう10年以上続けてる。園数は徐々に減らしてもらっているけど。0歳から2歳までか、0歳から就学前までの園。こどもをとりまく状況や見立てのための視点は常にアップデートが必要、ということで隙間勉強。Gesell Instituteの研究で子どもの発達自体は以前と大きく変わっていないことがわかったというしエリクソン、ピアジェ、コールバーグの理論もいまだに有効。特に新しく勉強すべきは脳の発達と民族的アイデンティに関することとテクノロジーの影響。ジェンダーの恒常性は6歳で確立するとされているけどそれまでの性の発達が安全な環境でなされているかには特に目配りが必要。大人は子どもよりも明らかに力があることを忘れがちだから。そんなつもりはなかった、悪いこととは思わなかったという人の外側にいるみなかったことなかったことにする大人たちにもなってはいけない。その子の親でなかろうと保育士でなかろうと自分に子供がいなかろうと自分の体験がどんなにつらかろうとやってはいけないことは普通にやってはいけない、それが支持され、当たり前とされる集団を目指すような援助って実はとても難しい。まずは知識の伝達、ということで勉強。

河津桜の実
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精神分析

言葉。現場。

人たらしという言葉を聞いて笑ってしまった。またかと。まるで褒め言葉のように使っているのも面白いなと思った。思いやりもなくコミュニケーションしたい人にだけ開かれている人、身体的な搾取をする人に対してもその言葉は使えるらしい。部分的で個人的な「よさ」を全体に広げてみたいものだけみたいときに起きる言葉のずれや歪み。そういうもんだ、ですまさないために言葉はあると思うが実際はすましていることの方が多い。立ち向かうエネルギーを奪われる言葉に立ち向かうなんて傷が増えるばかりだから。それを防ぐために言い聞かせる。そういうもんだ。そういうもんだ。

かっこ付き「ビジネスパートナーシップ」とホモソ依存が目立つ「ファミリー」のようなグループを抜けて高橋ユキさんのニュースレターのサポートメンバーになった。先日のジャニーズ性加害問題に関する記事のスピードも内容もすごかった。個人でこういう仕事ができる人はそういう依存ではない繋がりをもっているだろうけどお金儲けが上手なのは大抵前者だし実際に現場に出向く人が私は好きらしい。昨晩配信された「いにしえの傍聴記録」を読みながら「ファミリー」とは・・・となった。

かきながら寝ていた。出かけた場所で起きたことについて書こうと思っていたのだけど。眠い。がやることやらねば。今日も現場へ。良い一週間を。

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精神分析

池袋、今井俊介「スカートと風景 Skirt and Scene」@東京オペラシティアートギャラリー

雨の音。久しぶりに夜の埼京線に乗った。新宿から一駅の我慢と思いながら。以前よく使っていた頃のことを考えたらこれくらいの混雑はたいしたことないはずだ。あの頃は自分で立とうとしなくても全方位から押されることで立っていた。身体が部分的に触れ合うくらいの混雑を自分の足で立ちながらあれはあれで変だったのかもと思った。駅の中もすごい人で待ち合わせにみんなが遅れた。私はここが拠点だった頃からパルコ、西武、東武の違いしかわかっていなかったが混雑とわかりにくさの予測はできていたので時間通りに着いた。すぐそばで久しぶりの再会を喜ぶ二人をみて私も楽しくなった。今すごく悲しくて嫌だったことを思い出してしまった。すごく忙しい中、とても貴重でとても大切にしてきた時間に不機嫌に現れるようになった人のこと。ある日はたくさん言葉を呑み込まれて無視されて怖かったしとても寂しかった。コミュニケーションを断ち切られた記憶に突然刺されるようなことはこれからも続くのだろう。それはともかく人が街に戻ってきた。海外からの人も増えている。活気がある。楽しかった。

昨日から東京オペラシティアートギャラリーで今井俊介「スカートと風景 Skirt and Scene」が始まった。ふらりと立ち寄ったらちょうどアーティストトークというのがあると聞いて参加してみた。今井俊介さんご本人が一緒に展示室を周りながら昨日の成り立ちや意図について説明してくれる時間だった。今回の展示の担当キュレーターの瀧上華さんと昨年この展覧会を開催した丸亀市猪熊弦一郎現代美術館のキュレーターの竹崎瑞季さんも案内役として丸亀と東京それぞれの箱の特徴を生かした工夫やそれに伴って今井さんが作った仕掛けなどのお話もしてくださってとても興味深かった。主にストライプで表現される色と形、部分と全体、平面と奥行きを行き来できる発見の多いとてもおしゃれで楽しい展覧会だった。こういうスカートが欲しいと作品をさらに部分的に切り取って写真をたくさん撮った。作品に囲まれさらにそこに飛び込むように楽しんだ。触って揺らしたり潜ったりできる布を境界としても通路としても透かし窓としても体験してみた。離れて置かれているのにその間を色が溢れ出すように埋めてくれるのを感じたりした。竹崎瑞季さんには個人的にも色々教えていただき発見や楽しみを一緒に作品をみながら共有していただけた。とっても特別な時間だった。丸亀でもみたかったな。両方の展示をみたという方もいらして羨ましかった。

さてさて準備準備。ぬかるみや水たまりに気をつけて過ごしましょう。気温は上がるみたいです。重ね着対応かしらね。ふー。ため息も出ちゃうけど動きますよ。またね。

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雨。熊本。

東京は雨。結構降ってるみたい。タイヤが水を巻き込んで走るのが聞こえる。カラスの声はいつも通りよく響く。小さい鳥たちの声はまだ聞こえない。

2016年4月14日と16日、熊本県で大きな地震が起きた。最も被害が大きかった益城町の読み方を知ったのもこのときだった。友人は当時熊本の病院で働いていたという。熊本へ旅したのはいつだっただろう。県民百貨店が閉店したのが2015年だからその少し前だ。どこかへ寄ってから熊本駅に向かったのだろう。完全に夜ではなかった気がするが少し疲れて市電にのってホテルへ向かった。独特の街並みをゆっくり走っている間に元気がでたらしく市電を降りてからそんな遠くないホテルに向かうまでのことを覚えている。バスターミナルを何かと勘違いしたせいでこの旅を思い出すときまずそれを思い出す。今も変わらずあるのだろうか。今確認したらこのときは福岡から佐賀の吉野ヶ里へいき、そこから熊本へいっていた。そうか、だから新鳥栖と鳥栖を熊本だと勘違いしてしまうのだ、いつも。あれは夏だった。吉野ヶ里遺跡で緊急地震速報の大きな音が鳴った。そこで働く人たちとなんだなんだと空を見上げたりした。何分経っても揺れを感じなかった。みんなで笑いあった。緊張が解けると人は笑う。その約2年後、熊本の人たちは大きな地震を体験し、その二日後にも再び大きな揺れを体験した。私たちが見上げた美しい熊本城は特に石垣に大きな被害を受けた。テレビでみて呆然とした。あのとき行った場所は、出会った人たちは無事だったのだろうか。その後も熊本城の復旧の様子は気にかけてきた。その技術の高さに驚かされた。それでも完全復旧の見通しは2052年。私はそれを見ることもないのかもしれない。あの地震で亡くなったのは50人、関連死が218人、豪雨被害関連死が30人、負傷者は2809人だという。避難者数はその何十倍にもなる。県民百貨店の催事場では熊本出身のデザイナーなど作り手の人たちが作品を展示販売していた。作品を間におしゃべりをした。リビングの壁にはそのときに買った作品が飾ってある。東京で演劇の仕事をしていたという人ともおしゃべりをした。共通の知り合いがいることがわかって盛り上がった。彼らも元気だろうか。

雨の音がする。神経痛が痛む。出かけるのが憂鬱だが行かねば。熊本は雨や雷雨か。同じような空の色なのかな。熊本はお買い物も楽しかった。旅先で靴を変えるなんてリスクが高いがもうボロボロだったトレッキングシューズを買って古いのを捨ててもらった。全く問題なく快適に歩けた。素敵な商店街で食事の思い出も色々ある。色々思い出してきたぞ。ありがとう。また行きます。とりあえず今日は仕事行きます。みなさんもどうぞご無事で。ご安全にお過ごしください。

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精神分析

受け止めきれないものたち

「邪悪」という言葉を使いたがる人が本当に邪悪だなと思う出来事があるとポカンとする。わかっていることにポカンとしてしまうのはどう考えても理解不能だからだろうなあ。

TwitterのDMの問題について聞いた。何かに情報を書き込むって怖いことね、こうやって。SNSは公私混同とかバウンダリーに対する意識をうやむやにしやすいツールだし削除してしまえばもろもろなかったことにできる。とはいえ、たとえやりとりを消すことができなくても立場利用してDM悪用して安全そうな顔して近づいて利用や搾取を繰返している人の実態は分析されることはないだろうし立場の弱い人ばかり傷つくことが繰り返されるだろう。特に女を利用する男という構造はなんとでも言い換えできてしまうから。最近立て続けに読んだノンフィクション本でもそう思った。救いがない。

自分の身体の痛い箇所をどうやって説明したらいいのだろう、と一般向けの解剖図など見てみたがやはりよくわからない。痛みの移動もあるからなおさらよくわからない。痛むたびにマジックで印をつけておくとか、と思えるほどの余裕があるうちは大丈夫か。

いつも通る遊歩道のつつじが満開で、この前まで沈丁花が満開だったのになんだか不思議と思う。まるで沈丁花がつつじに置き換わったみたいに道全体がつつじの雰囲気。沈丁花も結構な面積をしめていると思うのだけど。

最近、明治の作家に触れていたので久しぶりに松浦寿輝『明治の表象空間』を読んでいた。鴎外、漱石の文体と対比される樋口一葉などの日本語への意識、大江健三郎作品への言及あたりを。

実体のなさ、あるいは隠蔽や抹消、空虚で軽薄な言葉たちに振り回される毎日を「そんなもんだ」という絶望とともに生きるのは身体にもよくなさそう。受け止めきれないものたちとどう過ごすかというか過ごさざるをえない。苦しいね。辛いね。悲しいね。普通に優しい言葉と出会って行けたらいいですね。

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精神分析

チョコ、チューリップ、『子規、最後の八年』のこともちょっと。

宇多田ヒカルの「普段から〜♪」で何度目かの目覚め。その前から起きていたけどぬくぬくしてた。暖かくなってもお布団の中は気持ちいい。前はNo Lie-Sense(鈴木慶一+ KERA)Kimimoshussegadekiruだったけどジャーンってうるさく始まるからびっくりしてしまっていた。起きるにはいいけど眠りの世界と断絶なく起きるには宇多田ヒカルの方があっている。今はそのままU2が流れている。懐かしい。

カーテンの向こうが明るい。南側の大きな窓のカーテンを開けたときの光を想像しながら寝返りをうって起きた。

コーヒーを入れたはいいけど食べたいお菓子がない。お菓子はあるのだけどどれも好きなお菓子なのだけどそういう気分じゃない。チョコが多いんだな。うーん。ソフトサラダもあるけどこれは夜食べたい。うーん。チョコはチョコでもこの前もらったこれにしてみるか。GRAND Chocolate Snacks Bites RASPBERRY。細長いパッケージの4個入り。フリーズドライのラズベリーがパラパラとまぶされていてかわいい。いただいてみますね。あ、これ4個入りじゃないんだ。大きいチョコがドンドンドンドンって4個入ってるのかと思ったら「枚」で数えるが適当な薄さ。一つの枠に3枚ずつなのね。ドンって大きいチョコより好き。いいじゃんいいじゃん。チョコはちょっとなあとか思ってごめんなさい。おー。粉々のラズベリーがちょうどよくダークチョコの味と混じり合う。美味しい。もう一枚、もう一枚って食べたくなるけどゆっくりゆっくり。すぐ肌に出ちゃうから。細長い箱にスーッと戻しますよ。またあとでね。原産国オランダだって。オランダ、チューリップ?オランダのチューリップも今の季節かな。日本だと砺波チューリップ公園はいいですよ。富山県砺波市ね。昔GWにとなみリューリップフェアに行ったことがあるの。今年も無事に開催されるらしいです。300品種300万本か。先日のつつじもそんな数字じゃなかったかな。すごいね、お花の種類って。植物園とかいくたびに驚くものね。同じ名前で呼んでたけどこんなに種類あるの?って。

オランダは森鴎外が最初に言ったところだっけ。最初に習った語学か。この前森鴎外記念館で学んだはずがもう曖昧。あ、誤字。「言った」だったらオランダ語、「行った」のはどっち?オランダ?ドイツ?森鴎外記念館に行った日は電車で関川夏央『子規、最後の八年』(講談社)を読んでいたの。私が先日特別展で学んだのは「鴎外の食」についてなんだけどこの本でも鴎外が最初に出てくるのは食のこと。

「陸軍の兵食の現状維持を強く主張したのは鴎外森林太郎第二軍兵站軍医部長であった」

日清戦争の時のこと。

「その鴎外を、子規は金州で訪ね、帰国船へ乗るために柳樹屯に移動する明治二十八年五月十日までの一週間、毎日会って俳句について談じた」

って。戦時中の食と俳句。どんな言葉が交わされたのかな。この一週間後、子規は帰国の船中で喀血。五月十八日馬関(下関)に到着、と書いてある。子規は日清戦争には従軍記者として出向いていて金州には句碑もあるんじゃなかったかな。なんでも曖昧だな。あとで調べてみましょう。

この本、28歳(明治二十八年)の発病から35歳で亡くなるまでの子規のことを詳細に知れる本なんだけど序章の「ベースボールの歌」からとてもいいですよ。さあ、もう準備せんと。昨晩は少し雨が降ったみたいね、オフィスにいて気づかなかった。帰る頃には上がってたし。今日はどうかな。このままいいお天気だといいですね。それではみなさんも良い一日を。

追記:wikiから辿ったらここで句碑の写真とそれに至るエピソードも見られた。

金州博物館と正岡子規の句碑 阪急トラピックス大連・旅順・金州4日間の旅2

http://4travel.jp/travelogue/10610504

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精神分析

つつじ、西参道、鴎外の食

昨晩からずっと風の音がすごい。春の嵐はいつまで?東京はもう桜よりもはなみずきよりもつつじの存在感。

根津神社の文京区つつじまつりへ行った。約100種3000株のつつじがあるというつつじ苑。見事だった。根津神社は谷根千散歩のときは寄っているけどこの時期に行ったことがなかったのだろう。こんな華やかな場所があるとは知らなかった。つつじはどうも野生のイメージが強い。私のオフィスから明治神宮や小田急線参宮橋駅に向かう西参道(首都高速4号線の高架下)の植込みは道路側が銀杏、内側がつつじだったのだがあまり整備もされないまま咲く姿が毎年ワイルドで整備すればいいのにと思う一方で好きにやればいいよねと励まされてもいた。昨年からかもっと前からか明治神宮の方からずっと工事が続いており少しずつ甲州街道の方まで整備がされてきてつつじの植込みは全て取り払われ夜も明るく凸凹のないきれいな道路に変わった。先日、ニュースになっていた藤本壮介デザインの真っ白な公共トイレもその一環で作られたのだろうか。街の景色はどんどん変わる。きれいで安全なのも悪くはないが神宮外苑の再開発の見直しのが方が先にすべきことではないだろうか。これについては柏書房のWebマガジンで連載中の西本千尋「まちは言葉でできている」のこちらの記事も参考になる。

つつじの野生味に注意が向くのは目にするのがさつきつつじが多いせいかもしれない。花びらが大きい。こうやって形を整えられたり小さかったりいろんな色だったりその種類の多さを目にするとワイルドさより華やかさが際立つ。つつじとつつじの間を潜りこむように見たのは初めてかもしれない。ふわふわの真っ赤なつつじが作る影まで少し赤い気がした。

根津神社からは先日時間がなくて寄れなかった和菓子屋さんで3種類の柏餅からよもぎもち+つぶあんのを選んで食べながらまた漱石旧居後の猫を愛で、森鴎外記念館へ向かった。今は特別展「鴎外の食」が開催されている。どこかでもらったハガキのおかげで団体料金480円で入れた。私は森茉莉はたくさん読んできたが鴎外はあまり読んでいない。今回は「食」ということで鴎外の子供たち、於菟、茉莉、杏奴、類みんなの文章が読めてよかった。不律も生きていたら父鴎外のことを書いただろうか。それにしても食の話題はどうしてこんなに楽しいのだろう。時代や歴史、国や地域や家によって異なる文化、生活が生き生きと見えてくるのがいいのかもしれない。若いときは夜ごはんをみんなで食べる時間があったから仕事帰りに同僚の家でみんなで飲みながらごはん作ったりそのまま泊まったりして楽しかった。今でも年に一回とかだけどおうちに行けば美味しいものを作ってくれる友達が数人いる。逗子に住んでいる友人のところへいくと山と海に囲まれた街に育った娘さんが色々と案内してくれる。いくたびに大きくなるが数年前、岩場をぴょんぴょんと飛び回りながらおしゃべりを繰り広げる彼女に野生味を感じた。海に落ちやしないかとヒヤヒヤしながらみんなで見守った。近隣の港から上がってきた新鮮な魚を海が見える小さな店で買う。友人の夫がさばいて美味しいものを作ってくれる。きみはいつからいる猫だっけ、など猫に話しかけたり台風のときに家の屋根を壊した大きな木のことを聞いたりする。自然と繋がっている世界だから楽しいのか、食は。生身の人たちと言葉で密に繋がる仕事をしているとその人その人の欲望を知ることになる。それはあまりにそれぞれだけど共にいるために失うもの共にいることでえるものいろんなことに持ち堪えつつやっていくのだろう。

東京は強風が吹き荒れております。せめて雨が降らないといいね。気をつけて過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「意地悪」とか「ひどい」とか。

まだ薄暗いというか明け方が曇り空なのかこの時間にしては空が黒っぽく感じる。カラスの鳴き声をいつもより大きく感じたせいかもしれない。

坂上から坂下に向かっている途中、二人の間に白いものが落ちた。「鳩?」「カラス?意地悪されたのかな」「意地悪ではないでしょ。移動式トイレだと思われたのでは」どうでもいい話で笑いながら「あ、パン屋さんだ」「このお店いい感じ」と初めての坂道を下った。

トイレットブレストというクライン派の用語がある。精神分析プロセスの描写に使う言葉だ。移動式トイレの発想はその用語を思い起こさせた。

こんな話もある。

「ひどいことしてきたのはみんな女」って言ってた、と中年の男が心配そうに仕事で利害関係のある女に相談された話をした、不倫相手に対して。そういうことを家庭持ち彼氏に愚痴る中年女性に対して大抵の人なら感じそうなことを男も感じたようだったがその女にはそうしたくないようだった。無条件で「サイコー」と言ってくれる女はキープしたかった。男は他人の人生相談に公開でのることがあった。自分の相談は週一で手早く食事をして身体を弄れる相手にした。「誰でもいいわけではない」と言いながら「女にばかりひどいことをされる」という女が自分を心配してくれるLINEを嬉しそうにみせた。週一でその女の満足そうなコメントと共にSNSに映りこむうちに身体だけの女とは別れた。「生活に口出しされたのが嫌だった。意地悪をされているみたいだった」というのが別れた理由だった。

「意地悪」について考える。それぞれがそれぞれの場面でいろんな口調で「意地悪」とか「ひどい」とかいう言葉を使う。排出について。「あの本は誰々と誰々の子どもみたいなものだからね」「どうせ排泄物なんだから好きに言葉にすればいいんだよ」。いろんな水準の排出について。うーん。カラスは意地悪ではない、と思う。人間だって意地悪をしたくてしているのではない、と思いたい。うーん。排出と消化と取り入れ。誰かを都合よく利用するのではないあり方って案外難しいかも?自分だけはそんなことしない、なんてことはないだろうから。まあ、とりあえず今日もはじめましょう。何があってもなくてもとりあえず。

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散歩 読書

新宿中央公園、白州正子、散歩

いいお天気。今日もずっと晴れるかな。週末、オフィスの近くの新宿中央公園はとても混んでいた。ちびっこ広場には何組の親子がいたのだろう。新しい滑り台も子供たちに埋もれていた。大人たちは話しながら遊びながらぼんやりしながら長時間ほとんど立ちっぱなしだろう。子供たちを見守るのも休日の大仕事。大変だ。大混雑のちびっ子広場をパンキッシュな大きな人の後をくっついていくことで無事に抜けフットサルコートを右手に前からくる犬や人を避けながら歩いた。桜色はほとんど見かけなくなりいろんな色のチューリップが咲き誇っていた。チューリップは花びらが大きいから存在感があるけど目線は随分下の方だ。空に伸びる大きな木の新緑の眩しさや都庁の高さに気を取られていたらすぐそばで咲き並ぶチューリップに気がつくのが遅れた。いつもはひとりずつ座れるベンチもカップルや親子とや友達同士か他人同士でいっぱい。春の週末はみんなアクティブで賑やか。子供たちもチューリップみたいだな。新学期だね、クラス替えとかどうだったかな。とりあえず1週間がんばろ。

今日もすこしお散歩する時間がある。最近は読書よりも作家について調べたりゆかりの地を歩くことが多い。暖かくなって身体が動くようになったから。関節の痛みもよくなると嬉しいけど動いているうちはまあいいかとも思う。

私が開院時から長く勤めてきた町田市鶴川のクリニックは4月から大きく耐性が変わった。まだ週2通っていた頃は長いお昼休みにいろんなところを散歩した。駅の両側は川沿いも駅ビル側もすぐに上り坂になるがお花や木々を楽しみながら歩いていると小道に突然小さなカフェが現れたりして楽しい。住宅街に美味しいパン屋さんもある。

鶴川には白洲次郎(1902-1985)と正子(1910ー1998)夫妻が昭和18(1943)年から住んでいた「武相荘」がある。この季節もきっと美しいだろう。駅から遠いのと入場料が高いのが残念だけど丁寧に作られ保存されてきたお庭や陶器や家具に囲まれてしばしそこの住人としてゆったり時の流れを味わう贅沢を時々なするのもいい。

正子は永田町生まれで自伝を読むと自分の足でよく動く人だなという印象を受ける。その足取りについていく散歩をするのもいいかもしれない。正子は裕福な家に生まれ自伝を読んでも「うわあ、とってもお金持ちだなあ」と思うのだが両親が付き合っている人物が財閥の人たちだったりするから本人は貧乏な家に生まれたと思いこんでいたというのだから子供の世界というのは面白い。永田町あたりは今はなんだかあんな感じで人の生活を感じにくいが戦前は美しい桜並木のある屋敷町だったという。誰かがこうして書き残してくれているおかげでその土地が最初からこうではなかったと知ることができる。無機質だったり荒地だったりみえる空間に自然や人々の暮らしを見ることができる。さっき書いたように白州正子の文章は彼女が実際に自分の足を使っている感じがよくわかるのでやっぱりついていってみようかな。それにしてもこの前も何かで書いたけど太田道灌ってどこにでもいる印象がある。江戸城作ってるのだから私の行動範囲からしたら当たり前なのかもしれないけど他の県でもよく見かけるからなんか「あーまた会ったね」みたいな気分になる。なんで正子から道灌を思い出したのか。永田町の日枝神社繋がりですね。

自分に見えるものなんてとてもわずかだけどいろんなふうにいろんな人やものに助けてもらいながらなんとかやっていきましょ。まずは今日のお昼までとかちょっとあそこまでとか区切ったりしながらベイビーステップで。

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文京区

東京はいいお天気。昨日は降ったり止んだりだったのですよ。久しぶりに都営三田線と南北線に乗った。新宿区のオフィス以外は主に文京区にいました。

春日駅前の文京シビックセンターの展望室で街を一望してから動きたかったけどワクチン接種会場になっていたのでした。高崎市役所だっけな、どこかの展望室に行ったときも展望レストランが会場になっていたので半分側からしかみられなかったことあったな。都庁の展望室も北側のはワクチン接種会場ですよね。まさか展望室をこういうふうに利用する日がくるとは誰も思っていなかっただろうけど。展望室は屋内だけど広場を開いておくというのは大切なことですよね。新宿ごはんプラス と 認定NPO法人もやいは共催で都庁前でお弁当の提供とか相談会とかしてたりするし。colaboの活動の場も奪われないといい。

文京区は樋口一葉ゆかりの地でもあって、本郷菊坂あたりには少女時代を過ごした法眞寺、旧居跡の井戸、貧しくなって頻繁に利用した旧伊勢谷質店とかがある。東大のそばの道を入っていく本郷菊坂へ向かう菊坂通りは菊富士ホテルというのがあったところで多くの文豪が利用したことで有名。歩きながら街灯の柱に書いてある文豪たちの紹介文を読むのも楽しい。この前調べていた石川啄木が亡くなったのも親友の金田一京助が住んでいたのもこの辺。根津・千駄木エリアにも色々ある。夏目漱石旧居跡は「猫の家」ということで猫が二匹いました。日本医科大学のそばです。森鴎外記念館や根津神社つつじまつりにいきたかったのだけど時間もなく雨にも降られまた今度ということに。行ってみたいお店もたくさん見つかったからまたいこう。大好きな小石川植物園もいつもは茗荷谷からいくのだけど今度は白山からいくのもいいなとか地理も少しわかった。よき散歩だった。

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フクロウ、焼き鳥

ベランダ側の大きな窓を少し開けた。まだ少し寒い。ベランダ用のサンダルが隅っこの方に吹き飛ばされていた。昨日の嵐に備えるのを忘れていたよ。すまんね。

Instagramで絶対に欲しいフクロウを見つけた。でも売り物ではないみたい。悲しい。旅先でもフクロウには必ず目が止まり吟味するけど絶対に欲しいとまで思うものにはなかなか出会えない。実際にみたら少しイメージ違うかもしれないかもしれないけどこれは欲しいなあ。金沢か。金沢はこの週末手作りのお店や飲食店が集まってとても素敵なイベントをやるみたい。金沢大好き。はじめて行ったとき和菓子の充実ぶりに天国かと思った。これまでの旅で一番歩き回ったのは金沢かも。一番美味しかったのも金沢かも。絶対もう一度食べたい焼き鳥屋の親子丼も金沢だし。どこも混んでて偶然入った小さな小さなお店だったけどびっくりするくらい美味しかった。今度は夜に呑みにいこう。旅に出ると焼き鳥さんにいくことも多い。そうそう、愛媛の今治市はタオルだけではなくて「今治焼き鳥」というのがあって焼き鳥といっても串に刺して炭火で焼くのではなくて鉄板で焼いてくれるの。そのときは「五味鳥」という有名な店に行った。台風がすぐそばにきていたのだけど街はまだ静かで、店は空いていて翌日の飛行機飛ぶかなと心配しながら美味しくいただいた。その後、一度閉店したらしいのだけどまた場所を変えて開店したみたい。夜の街に雰囲気たっぷりの赤い看板が印象的だったけどそれも同じかしら。

朝から呑み屋のことを書いている。外では鳥たちが元気。朝日もきれい。昨晩は壊れた傘で濡れながら歩いている人も多かったけどすごい風でしたね。大丈夫でしたか?やっと週末ですね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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読書

春の嵐、土地

昨晩から風が強い。今日は春の嵐とのこと。暖かいだけいいが雨も降るかもなのかな。レインコートを持っていこうかな。でもどこにあるんだっけ。

先日、代官山蔦屋書店で行われた「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ/『スティーブ&ボニー』刊行記念 安東量子×竹内公太×山本貴光」というイベントの中で安東量子さんがハンフォードは最初から荒地だったわけではない。先住民などかつては人が住む土地だったのだ、というようなことを話していた。私が高橋ゆきさんのノンフィクションを好きなのも扱われる事件がその土地と大きく関係しているからだが、その土地の歴史を知ることはそこで生じた出来事の見方を変えるように思う。昨日のブログでも土地の名前を並べ立てた。

ウィキペディアでは「ハンフォード・サイト」はこう説明されている。

‘‘ハンフォード・サイト(the Hanford Site)はアメリカ合衆国ワシントン州東南部にある核施設群で、原子爆弾を開発するマンハッタン計画においてプルトニウムの精製が行われた場所である。その後の冷戦期間にも精製作業は続けられた。現在は稼働していないが、一部の原子力専門家から「アメリカで最も有毒な場所」「(事故が)起きるのを待っている、地下のチェルノブイリ」と言われるほど、米国で最大級の放射性廃棄物問題を抱えており、除染作業が続けられている 。””

また「これまでの歴史」として

““ここはコロンビア川、スネーク川、ヤキマ川の合流点に当たり、伝統的にインディアンの諸種族が出会う地点であった。1860年代に、ヨーロッパ人・アメリカ人が入植を始め、リッチランドなどの町が作られた。””

と書かれている。そうなんだね。ここで作られた「ファットマン」がもたらした被害は数字にできる範囲では「死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km2、全焼全壊計約1万2,900棟」だという。これもウィキペディアから。

色々なことが思い浮かび繋がっていき暗澹たる気持ちになる。想像するとはそういうことなのだろうと思うし、この暗澹たる気持ちがどこからきているのか自分に問うことでせめてそれに持ち堪えるということが大切なように思う。

昨日読んでいた『RiCE』という雑誌でイタリアンのシェフが引用していたネイティブアメリカンが大事にしているという言葉を思い出す。

““土地のことは七世代先のことを考えよ””

その土地やそこで生きた人々や起きた出来事に対してどのくらいの過去や未来を想像できるだろうか。そうするなかで問い直される現在を自分はどう過ごしていくべきか、べきというのはないとしてしてもどうしていきたいか。すぐに忘れたり忘れられたりすることに「まただ」と感じながら想起される事柄を今度こそ大切にできるだろうか。自分のことも疑わしいが意識的に疑ったところで起きることは起きるだろう。疑うよりも立ち止まること。情報ばかりスピードが速い世界で自分なりに立ち止まること。今日も一日。春の嵐に足元とか傘とか取られてしまわないように気をつけて過ごしましょうね。

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読書

八戸、福島、神保町、渋谷など

今朝は「八戸港のお茶時間」を。日比谷OKUROJIにある青森県八戸圏域のアンテナショップ8base(エイトベース)で素敵なイカの絵に惹かれて書いました。オンラインショップで見ると黒っぽいイカの絵だけど今のパッケージの方が薄茶色で良い気がする。最近はお菓子はみんなバラで買えるから色々試すことができていいですよね。中身はイカの形をしたパイ。「イカスミ入りのクレームダマンドをパイ生地で包んで焼き上げました」とのこと。クレームダマンドってアーモンドクリーム。うん、たしかに。イカスミの味はよくわからなかったけど、そもそもイカスミの味って「黒い、しょっぱい」とか拙い説明しかできない気がする。そんなことないですね。わたくしの語彙力の問題でござるな、きっと。

「わたくし」と書いて今、東京都現代美術館で行われている志賀理江子×竹内公太「さばかれえぬ私(わたくし)へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」に行かないとなと思いました。竹内さんの作品はこれまでもどこかでみているのですが、先日、代官山蔦屋書店で行われた安東量子さんのご著書『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)刊行記念イベントでお名前を目にして改めてチェックしてみました。ちなみにその日のイベントのテーマは「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ」、ゲストは安東さんと同じ福島県いわき市に住む(移住されたそうです)アーティスト竹内公太さん、司会進行は『スティーブ&ボニー』に帯文を寄せられた山本貴光さんでした。短い感想はツイートした通り。たくさん思うことがあったけど安東さんがご著書に書かれた体験や竹内さんが実際の大きさで再現しようと試みた「風船爆弾」のことを立体的にイメージすることができました。竹内さんの作品は風船爆弾と実寸大のインスタレーションということなので体感もできそう。「地面のためいき」という作品だそうです。

昨晩はクラウドファンディングに参加していた堀切克洋さん編集の『神保町に銀漢亭があったころ』(北辰社)も届きました。俳人の伊藤伊那男さん(銀漢俳句会主宰)が脱サラして開店した神保町の居酒屋「銀漢亭」、私も一度だけ行ったことがあります。穏やかで楽しい時間を過ごすことができました。吉田類とも鉢合わせたかったな。コロナ禍で休業したまま閉店したこの店で出会い、語らい、句会をするなどしてきたみなさん130名による寄稿を銀漢同人の堀切克洋さんが編みあげ、味のあるカバーイラストも素敵な一冊となりました。とても早いお仕事でこの本自体がまだあったかい(だけではないかもしれないけど)思い出の数々を語らうきっかけとなりそうな賑やかな一冊です。

渋谷センター街入口の大盛堂書店にも寄ることができました。『つけびの村』『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(どちらも小学館新書)どちらもとても面白かった高橋ユキさんのノンフィクション本選書フェアに行きたいなと思っていたのです。選書リストをみたら桶川ストーカー殺人事件とか佐世保小六女児同級生殺害事件の本は読んだことがあったけどどれもこれも読みたくなるものばかり。時間がないから慌ててパラパラしたけど迷ってしまって結局、小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』(幻冬舎アウトロー文庫)、永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)を購入。まずは『冷酷』の方を読んでいますがこういう取材って本当にエネルギーがいるというかすり減るというか大変そうです。著者の小野一光さんと高橋ユキさんの対談も載っていてこういう取材はこういうところに留意するのかなど勉強にもなりました。人間って、私って、私たちって、とぼんやりしてきてしまいますね、こういう事件のノンフィクション本を読むと。うーん。

今日は木曜日。なんとかやっていきましょう。

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俳句

石川啄木って

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

石川啄木

ひとしごとして石川啄木のことを書いていたら寝てしまった。寝よう。

起きた。コーヒー&羊羹。昨日は八つ橋をいただいたのでそっちにしようかと思ったけど可愛いオレンジ色っぽい羊羹にした。羊羹って自分では買わないけどいろんな羊羹があるんだね。美味しい。

句会で毎回お題を出すのだけどこの前私が出すことになってなんとなく「啄木忌」にしたの。学生の頃、友達の函館のご実家に遊びに行ったときに友人の父親がドライブに連れて行ってくれてその時に立待岬にある啄木のお墓を教えてくれた。函館を満喫した旅だった。イカもさばいたし。イカ釣り船はすごく酔うからやめときなと言われてやめた。多分そのときのことがどこかで心に残っていたんだと思う。でも実際俳句を作ろうとしたら私啄木のことそれ以外何も知らないのでは、と気づき色々調べてみたわけです。そしてあーこの人は結構ダメな人だなあと思ってしまった。色々あったのはわかる。でも全ての人に色々はある。なぜこうなっちゃうの、ということが多すぎないか、啄木。そして父。女たちのことは彼らの行動を受けてどう行動したかという描写の方が多いのでよくわからないが、啄木に関してはもうちょっと考えて行動しようよ、というエピソードにあんぐりした。樋口一葉と同じで20代で亡くなっていることを思うと若さのせいもあるだろうし才能があり過ぎたからからというのもあるかもしれない。そうかもしれないが、若くても若くなくても才能があってもなくてもそれはそうなるという予測は大抵の人はつくからやらないんだと思うよ、ということをやり過ぎているように思うよ、啄木。でも友達や周りの人に恵まれたみたい。若山牧水が啄木の臨終間際の様子を書いている文章を読んで泣いてしまった。金田一京助もその間際までそばにいたのだものね。看取ってくれる人がいるのはせめてよかったと思うけどそこには父もいたんだよね。そして妻(啄木の母)をなくしたばかりなのに子まで失うとは、という和歌を読んだという。これも若山牧水の文章に書いてあったのかな。調べたばかりなのにどこに何が書いてあったか忘れてしまったけどそういうエピソードを学びました。

だから俳句の歳時記とかで「啄木忌」の例句はこういう感じなんだなあと納得した。

便所より青空見えて啄木忌 寺山修司

うつうつと夜汽車にありぬ啄木忌 藤田湘子

など。

啄木忌は4月13日。その日は盛岡にある啄木記念館は無料だそうです。盛岡を旅したときに行けばよかった。盛岡駅からバスで15分って書いてあったかな。その前に俳句を作りながら啄木をしのぶことにします。

今日は水曜日。なんとなく疲れを自覚しはじめる曜日ですね。みなさんもどうぞご無事で。ご安全に。

写真はこの本より引用。

『情報の歴史21–象形文字から仮想現実まで』

監修:松岡正剛監修

編著:編集工学研究所&イシス編集学校

発行者:編集工学研究所

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コミュニケーション 散歩

カフェとかで

早朝、海外から届いたメールにほっこり。普通の目で見たら昨日は何も進まなかったけどveryスモールステップの目で見たら「そういえばこれをやった」ということをひとつ思い出した。ほっこり効果。暖房をつけると白桃烏龍を飲む前に暖まった。白桃烏龍を飲んだらあっつくなった。朝の気温が上がってきたんだね。

午前中、時間があった日にのんびり散歩をした。道端のかわいい看板に惹かれて入ったカフェがとても素敵だった。隣のカップルはバスで砧公園にいくと言っていた。砧公園は世田谷美術館があるところだけどとても広いし大きな桜の木も何本もあって本当に素敵。この前行ったけど藤原新也の展覧会がもうとっくに終わっていたことに驚いた。私が行ったのは一月はじめだったか、忘れてしまったけどもうあれからこんなに時間が過ぎたのか。

そうそう、砧公園を出て高級住宅街をしばらく歩くとひっそりと社会福祉法人が運営しているカフェがある。私が行ったときはダウン症の方が配膳をしてくれた。「彼の練習のためにお時間いいですか」ととても優しい声の女性に聞かれた。素朴でのんびりした時間を過ごしたけど他のテーブルにコーヒーをおこうとした彼がソーサーを持つ手がどうしても斜めになってしまい「危ない危ない」と言われながらお客さんたちに手伝ってもらっているのをみながら彼が運びやすいカップはどんなのかなあなど考えていた。そういえばお散歩途中に寄ったかわいいカフェのカップとソーサーはとってもおしゃれだったけど色が違うこともあって「これセットなんだよね」と思わず確認してしまった。不器用な私にはよくあることなんだけどこの日もカップの持ち手に指を入れるときに大きくユラってなっておー危なかったーとなった。私に持ちやすいカップ&ソーサーってどんなのだろう。

さあ、今日も長い。みんなはどうかな。それぞれのペースを模索しながら無理せずやれるといいですね。鳥たちは今日もマイペースだなあ。実はそうでもないのかなあ。ではまた。

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精神分析

樋口一葉の記念館へ行った

月曜日。朝イチで速達を出しにいくこと。ひとつ苦手な仕事を終えた。眠い。

台東区立一葉記念館へ行った。場所は『たけくらべ』の舞台となった龍泉寺町、現在の地名は台東区竜泉。日比谷線入谷駅から歩いたがウェブサイトにはお隣の三ノ輪駅の方が最寄りとある。日比谷、入谷は韻が同じなので何度か聞き返した。樋口一葉を取り巻く人々の中でも韻が同じ人がいてそれも何度か聞き返した。一葉には歌塾「萩の舎」で出会った伊藤夏子という友達がいた。一葉の本名は「奈津」だが和歌の筆名は「夏子」だったようで周りには「伊なっちゃん」「樋なっちゃん」と呼び分けられていたというエピソードもよかった。「萩の舎」に入った頃の二人はまだ15歳くらい。一葉は24歳でなくなったのでそれから10年ほどしか生きられなかったがその間に書かれた作品の多さにも驚くし、一葉が体験した苦労にも驚いた。これについては昨年、中央公論新社から伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』という面白い本がでた。装画は丹下京子さん。句友でもある京子さんのイラストはユーモラスでほのぼのしててとても好き。

今一葉記念館では企画展「樋口一葉と和歌 ―かなの美―」が開催されており「萩の舎」で一葉が交流した人たちの和歌も見ることができる。私には自力で読みとることができないくずし字だがとってもきれいな字でどの短冊も美しく文字も絵画と同じように楽しめるものだなあと思った。一葉の記念碑もある記念館の前の公園はソメイヨシノがチラチラと散っていてご老人が犬に盛んに話しかけているのを耳にしながら写真をとった。iphoneだからなのかもしれないが写真が光で白っぽくなることが増えた。季節が進んでいるなあと思った。素敵な時期に行けてよかった。

その後の小さな句会では司会をしてくださった方がなぜか突然告知タイムをもうけてくれたことでその方もびっくりのお知らせをふたつも聞くことができた。句友のみなさんは賞をとったりしてもあまり自分から発信されないけどこうしてみんなで驚いたり喜びあう機会があってよかった。

いろんなことがあるけれど素敵なこともありますように。新しい1週間もなんとかやっていきましょう。

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精神分析

地獄、花曇

熱田の宮まんじゅうは何にでも合う。今日は大好きな白桃烏龍と。

なんでまた自分だけ子供になって散々嘘ついてる相手にいい子いい子してもらってるわけ、本当に毎回毎回よくそういうことできるよねといえばそういう人だからああいうことが起きたんでしょと嗜められる。

いろんなことは矛盾しているようで矛盾してないんだよ。こっちの矛盾はあっちでは矛盾ではない。投げやりな謝罪はいつのまにか「あんなに謝ったのにいつまでいってるの?自分だけが傷ついたと思ってんの?馬鹿じゃないの?」くらいに変わってるもんだよ。何が起きても「お互い様」ってやつ。人がたくさんいるってそういうことじゃん・・・。

そうなの?だから毎日「地獄だな」と思っちゃうのか。地獄知らないのにしっくりくるのはあれは人間の世界をかなり正確に切り取ってるからか。本当の裁きの場に持ち込む負担はものすごいから避けたいとしてもどうしても仮の裁きの場がほしくなるだろうしね。でも地獄ではなぜか裁かれるのはそこに出向いちゃった方だからずーっと煮たり焼いたりされながら死なずに生きることを求められて「でも大丈夫、神様がいるよ」みたいなノリに半笑いしながら疲れた心身を委ねることもありうるよね。自分の罪も抱えながらずっと絶望してればそうなるか・・・。半分死んでるような状態がこれからもずっと続くのか。本当に辛い。

ということを素直に言える相手がいるとしたらそれはやっぱり人がたくさんいるってそういうことなんだなと思えるかもしれない。でもいえない人はどうだろう。人を壊すのは孤立だという人は多い。人間誰しもひとりとはいえ「本当にひとりだ」と感じる出来事が起きない限りそれは日々の色々に紛れてそんな際立ってこない。じわじわと忍び寄るその感覚を自分でかき消し誰かの心身を傷つけてでも「そんなはずはない」と思い込もうとする機制も人は持ってる。自分で自分を欺く。本当に矛盾だ。そしてそれは矛盾ではない。地獄でケアを語ることだって可能だ。殺した相手のうめき声を聞きながら次なる相手の相談にのっていた事件もあった。「そんなことする人に見えなかった」と聞くとき「だったらどんな人だったら」と思う。戦争をしているのも同じ人間だ。なんだって自分とは無関係ではない。無関係だと思えるとしたらたまたまそう思える環境にいたということではないだろうか。そこには被害と加害という単純な言葉では捉えられない犠牲も献身も愛も憎しみもある。今日もぐちゃぐちゃの気持ちを抱えながら「日曜日なのに」と文句を言いながら(あるいは言われながら)自分ではどうにもならない「これ」をどうやり過ごそうか。自分ではどうにもならないのだから願うのみか。祈るのみか。

昨年、九品仏でみた紅葉が見事だった。総門を入ってすぐの閻魔堂にはそれなりに人がいた。あの辺は桜もきれいかもしれない。閻魔堂、地獄を安全に外在化させている場所といえるだろうか。あるかどうかわからないものを外在化というのは変だけどこころだってそういうものだろう。私はあの日門に近づくにつれ見えてきた紅葉に一瞬強い苦痛を忘れた。人がたくさんいる世界にはたくさんの人工物も自然もある。どうにかこうにかやっていこうとする人ができるだけ安全にそれらに守ってもらえたらいいなと思う。

今日は花曇。良い一日を。

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散歩 読書

「あー」

4月1日になってしまった。昨日終わるはずのことが何も進んでいない、ということは・・あー。もう毎日「あー」だよ。いってるだけでなにも進まないじゃんね。人には原稿催促とかしてるのに。いけない。

昨日、夕方オフィスのそばを歩いていたら途中の駐車場でお財布(たぶん)をポーンっと空高く投げた人がいた。「たかっ!」と思って横目で見ながら通り過ぎるとその人はそれを上手に受け取って何事もなかったかのように車へ入っていった。大人になってもやるんだねえ。そんな気分になったんだねえ。どんな気分だったんだろ。駐車場でお金払ったあとについやってしまう癖とかなのかな。私は長らく何かを空高く投げてないな。子供たちと遊ぶときはやるけど。小学校からの帰り道、給食袋とか投げながらみんなで帰った気がする。あれ投げやすいもんね。その人を見ながら小学生のときたまたま目に入った手頃なサイズの石をそれがドブ川とかに落ちちゃうまで蹴りながら帰ったことも思い出した。

今朝は東海道土産の「宮まんじゅう」をいただきます。これスタバのナッツのクッキーと味が似てるの(と私は思うの)。熱田は古称が「宮」で熱田神宮の門前町、東海道五十三次の宿場町。東海道をずーっと歩き続けている人からのお土産。箱に書いてあるのは廣重の浮世絵。夜の馬追い神事なんだけど最初見たとき、何かの戦いかと思っちゃった。美味しいですよ、コーヒーとも合います。スタバでも和菓子出せばいいのにね。おー、熱田にスタバある!「ミュープラット神宮前店」。私なら店舗限定でコラボするな。あとひつまぶしの何かとかと。昔、熱田に行ったときに蓬莱軒というひつまぶしのお店へいって待ち時間に熱田神宮を散歩した。そのあとも学会で名古屋に行ったときに行ったなあ。そのときは名古屋に住んでる友人ご家族にも美味しいものご馳走してもらったんだ、そういえば。いろんな土地の食べ物をその土地でいただくって贅沢ね。冬は南へ、夏は北へ、春は真ん中らへんと日本全国旅してきたけどまだまだ全然知らない食べ物がたくさん、ということはわかってる。お仕事がんばって備えなくては。胃腸も丈夫にしなくては。これは無理だな。でも大丈夫。昔からだから不調の時の対処に慣れているのですね。合う薬を持ち歩くとか。あとはどのくらいそれが対処すべき不調かもわかるようになってるかな。わからないときもあるけど。

3月は高橋ユキさんの『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う 』(小学館)の文庫版が出てすぐ買って読んだけど(特製しおりも素敵ですよ)、そこで取材中の高橋さんがおなか痛くなっちゃう場面があるのですよ。あそことても共感した。私も以前はいろんな現場を回ってたからはじめての場所でそうなるとほんと困りますよね。緊張とかもあるのかしらね、と思うけど。この本は本当に面白いですよ。高橋さんもいっていたけど誰にも共感できない。理解しようとすればするほど謎が増えていく。人間をきちんと捉えようとしてその単体ではなく出来事を含めながら追っていくとこういう感じになるんだなあと臨床家としての実感とも相俟って何度もパラパラしてしまう一冊になりました。おすすめ。

しまった。熱田神宮の門前、ということでベルクソンの門前にたったぞ、ということを書こうと昨年たくさんでたベルクソンの本とかイベントのあれこれに思い巡らしていたのに全然ベルクソンのこと書いていないじゃないか。いつものこととはいえここまで一言も触れてないとは(見返した)。あー。毎日「あー」ではじまる朝なのです。4月もきっと色々ありますね。あーとかうーとか言いながらなんとかやれますように。どうぞお身体は優先的にお大事に。