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精神分析

子供、大人、親子など。

何も設定を変えたりしていないのだけど除湿がちょうどよく効いてくれた。よく眠れた。私の睡眠時間はとても短いけれどこの「よく眠れた」という感覚はなんだか充実していていい。だいぶ疲れていたせいもあるのだろう。

最近、ネットで筋ジスなど進行性の疾患や移植に関するニュースを読むことが多かった。子供の場合、どうしても動きの中心は親になる。病気や医療状況について知ることも大事だが、「家族」というものがなぜ必要だったかということについても考えさせられる。これまで多くの夫婦の馴れ初めや家族の成り立ちを聞いたり、実家を出たりいろんな形式の結婚をしたりする人生のプロセスに立ち会ったりしてきたが「子供」という存在が人の移動にどう影響していくかということは常に考えている気がする。長年保育園でたくさんの子どもたちを見続けていれば小さな彼らの移動能力に限りがあるだけではなく、彼らがいかに大人の都合で簡単に移動させられるかということもよくわかっている。コロナ禍では特に過酷だった。多くの子供が転園、転居を余儀なくされた。もちろんこれらは大人にとっても大きな決断を必要とした。子供がいる場合とそうでない場合、周りの大人たちの動きはどう異なるだろうか。身体的な動きでさえお互いの心身の状態に影響を受ける状況で生き延びるためには大人と子供はセットとして存在する必要がある。その始まりやプロセスに性的なもの、欲動という概念で説明されるものを常に想定しながら考えている私にとって親と子という状況で生じる出来事にそうあるべきものなどというものはないように思える。彼らそれぞれの今を運や運命で語るのも外からは簡単だろう。ただもし彼らの困難に対して何かできることをと考えるならそういう外側からの言葉は慰めになることはあっても具体的な行動には結びつきにくいのではないか。人間に内在するものがどう自分や関係を動かしているかを詳細に吟味し手に届く形が表れてきたときにそれとどう関わるか、それはひとつひとつとても大きな出来事なんだということをせめて覚えておく。そんなことを考えていた。

こういうことはそれこそ吟味して書く必要があることなので別の場所に書くがとりあえず感覚的に書けるところだけ書いた。とりあえず今日も長い。なんとかはじめよう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生