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精神分析

まとまらず触れられず語られず

何も考えたくないというよりは何も考えられない日々が続いている気がする。仕事は別。相手がそのときどんな感じなのかに注意を向け続けている私の仕事における思考は普段の思考とは違う。こうやって書き始めれば色々考えているらしいので正確には何も考えられていないわけではないのだがいつも考えていたようなことが全く考えられないというか今までどうしてそんなことを考えていたのだろうということを考えたりする。

精神分析では思い浮かんだことを自分の声で通じなかったり言葉にできなかったりしながらもなんとか言葉にし続ける。そういう設定が自由連想だ。私もその設定のなかでこういう状態に何度も何度もぶつかってきている。だから特に不思議でもなんでもないのだが多分いつもよりその状態を強く意識している。本やセミナーでの言葉より人の話し言葉や行為に触れている時間が長いからかもしれない。まとまらないものに身をひたす時間。

先日、小さな見学ツアーに参加した。私たちは 2人で参加した。あとはみんな 1人だった。

車内はシーンとしていた。私たちはガイドさんの説明にへーっと顔を見合わせたりジェスチャーを交わしたり時折短いやりとりをした。何回かバスを降りてそれぞれのペースで散って所定の時間に戻ってくるのを繰り返した。お昼は階段を上って右のお部屋にお弁当を準備してあると言われた。私が一番先に階段をのぼった。あとから来たみんなはキョロキョロしていた。よくわからないままそれらしい部屋に入ってみた。ビニールの風呂敷に何かが入っているのがみえた。開けたらお弁当だったので続いて入ってきたみんなに配った。そういう係の人みたいに思われていたのか受け渡しがやたらスムーズでおもしろかった。あとからきた人も戸惑っている様子だったので渡した。ポットに冷たい麦茶が用意されていてありがたかった。みんながとってもリラックスしているように感じた。スマホもたいしていじらずほとんど言葉も交わしてないのだけどそれぞれがそのツアーを楽しんでいるようだった。色々な場所ですれ違ったり見かけたりするたびにいい表情をしてた。

ウィニコットは孤立と孤独の違いを強調し誰にも触れえない、触れようとしてはいけない、私の理解からしたら語り得る領域に持ち込んではいけないこころの領域を描写した。ある程度の年齢になり孤独をそれなりに通過したあとに達する領域もあるだろう。彼らの静けさと穏やかさが守られていた時間ゆえの表情だったならいいなと思った。

今日もそれぞれ。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生