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精神分析

チグハグとかゴチャとか。

昭和初期からやっている老舗の商品だけを引き継いで営んでいるカフェに連れていってもらった。想像していた外観と全く違った。白を基調とした洋風のお部屋で和のものをいただくという感じ。これが友人の家とかだったらそんなチグハグな感じを受けないと思うのだが店だとなんだかチグハグしていて面白かった。家はもっと雑多に色々あるものね。チグハグするほどひとつひとつが際立たないのが生活っぽさというのかもね。ごちゃっとせざるをえない。今だって目も動かさず視界に入るものだけみてもごちゃっとしてる。名刺とかお香とか取り替えたばかりの電池とかユースキンとか髪ゴムとか。所ジョージのガレージみたいなところはごちゃっとしているけど統一感がある。ああいうゴチャもある。チグハグは会話にも使う。ゴチャやグチャはあまり使わないでしょう。臨床の言語には使うけど。私がここに書く文章はチグハグもゴチャもあると思う。グチャはあまりないかな。とか書いているけど「ゴチャ」はさっき私が自分で使った言葉でチグハグと同じ水準で使う言葉ではないな。「ごちゃごちゃしてる」とかいうならともかくね。こういうズレ感はいっぱいありますよね。面白い。「ズレ感」って比較的新しい用語?というかさっき「昭和初期」って書いたときも思ったけど私の「比較的新しい」は平成初期だったりする場合もあるからな。私にとって「昭和初期」もそれなりに昔だけど、自分も昭和を10年以上過ごしていて明治、大正に生まれた人とも出会ったりしてきたわけで、平成とか令和の新しさの方が際立ってしまうのよね、自分の中で。それにしてもこうやって指が動くままに書いていると言葉を意識が後から追う感じになってその変さに気づきはするのだけど、いや気づかない時もあるけど、まあいいかとなるね。精神分析では週4、5回、分析家のそばに横になって(横に横になってと書くと変な感じかも)自由連想をするわけだけどこれはね、とても難しいよ。「自由ってなんて不自由!」と実感するのが自由連想だから。でも「そう感じたらそういえばいいんだよね」ということをそういうインパクトから学ぶのも自由連想。何年もかけてようやく力の抜けた感じが出てくるのだけど性格はあまり変わらないかもしれないけど力抜けていると色々楽にはなりますよね。週一、対面の心理療法でもそういうことは起きて身体化もなくなったりするけど精神分析の場合はなんか言語の構造が変わる感じがある。途中、身体化が激しくなったりだいぶおかしな状態になることもあるけど。私はなったし結構みんななると思う。外身はなんとか保っていても内側は嵐、しかしそれは精神分析家との間で生じつつそこにおさめられる、密な設定はそのためだからなんとかなるという感じ。なんとかならない局面を作るのも人との関わりだけどそれをなんとなするのも人との関わりだから分散と凝集は両方大切。なんだってどっちかってことはないからいろんな人がいろんなことをしているわけでどっちかに強く向かうとしたらそれはそれなりのリスクがあるのかもしれないね。時間と偶然性に多くを委ねる精神分析はハイリスクなのかな。でも生活するってほとんどそういうことだからむしろ生活療法では、とも思う。世界に目を向けると精神分析もあまりにそれぞれで驚くけどそれのどれを大きな流れにしていくかというのは政治的な話でもあるから色々難しい。いろいろ難しいけど今週も無事に金曜日まできた。無事ではないが今こうしていられる範囲では無事。みなさんもどうぞご無事で。お元気で。

そうだ。この前、メモ的に書いていたフロストの詩とそれを読むオグデンのことをほとんど更新されていないメインのブログに書いた。結局メモのままだけど載せてしまった。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生