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精神分析

土居健郎『精神療法と精神分析』第2編第4章「探りあい」

日曜日。東京は曇り。雨も。明日の朝は災害級の大雨が関東でも予想されているらしい。無理なく過ごしましょう。

さて、土居健郎『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)の第1編を読み終えたのだった。第2編は「精神療法の過程」である。全部で6章からなる。最初は「治療の開始」。最初が肝心、というのはどの世界でも変わらない。

さらにその前に、土居は第2編のエピグラフに「不思議の国のアリス」をおいた。

第1編のエピグラフはカロッサ『医者ギオン』の引用だった。


「最高の姿では、医者は芸術家に劣らないほどのものだ。しかし芸術家のように霊威の時を待ったり、自分の対象を選んだりすることはできない。対象が彼を選ぶのであり、時は常に彼をうかがっている。初めから人をことわることは、絶対にできないのだ。やさしい邪念のない感激的な性の人である場合、それから大抵の医者がそうであるように、患者と両人だけで診療に従事する場合、世のあらゆる要求に、汚れた力のあらゆる圧迫に身を曝さなければならないのだ。多くのものが彼の技術ではなく、彼の人間的なものをあてにやってくる。」


土居は、対象が治療者を選ぶのであり、治療者の技術ではなく、人間的なものをあてにやってくる、という言葉に共感したのだろう。そしてその「人間的」とはどういうことかを探求した。


そして第4章のエピグラフは『不思議の国のアリス』 。毛虫にWho are you? 「誰ですか、あなたは」と問われるアリス。「あなたこそ、あなたが誰であるか、先におっしゃるべきだと思います」、とアリスがいうまでになされる「わかる」「わからない」の会話はおなじみだが、土居の文脈でいえばこれこそ治療者と患者の関係で生じることだろう。


土居は「第4章 治療の開始」を「(1)初めの探りあい」という項目から始める。土居は「患者が合意の上で精神療法をうけとることはまれで、多くの場合精神療法に導入する過程が必要となってくる。そしてこの導入過程が、患者はそうと意識しないが、実はすでに精神療法とならねばならない。いいかえれば治療者に関する限り、患者に会ったその瞬間から、精神療法は開始されるのである」と述べる。


毛虫とアリスが出会った瞬間から「探りあい」をはじめ、それが「わからない」ことをめぐってなされていることはとても重要である。

そのあと土居は「精神療法の開始は患者の診断と同時している」(原文ママ。「同時に」かな。)というが、それは「単に患者に病名をつけることをいうのではない」という。土居は「狭義の病歴を越えて、患者の生活一般についても調べる必要がある」としてその内容を書く。「患者の全貌」を知ることがなぜ重要か。土居は言う。「というのはこれらによって患者の病前の人柄がわかるとともに、現在病んではいるがなおかつ存在している健康な面についても、大凡の見当をつけることができるからである」。


それでも土居は「これだけでは精神療法に移行することは不可能である」という。そりゃまたなんで、と読者は思うだろう。

ここで土居が問題にするのが、患者の治療に対する態度・感情である。アリスと毛虫のやりとりを思い浮かべる。土居は「患者自身どう考えているかが探られなければならない」とする。そして治療者自身は「果たして患者を助けることができるか、それにはどうすることが最善であるか」を問わなければならない。この問いは「見立て」の基本だろう。

「探り合い」のあとは「受け取り方」について検討がなされる。はじまりというのは常に大切で、土居がこれを「インテーク」とか「初回面接」とかいわずに「探りあい」と書くのがそこでなされることの大部分を表していると思うが、毛虫とアリスの会話をエピグラフにおいたのがまことに効果的だと思わずにはいられない。北山修も「不思議の国のアリス」を愛しているし、ウィニコットもそう。私も何度かここでアリスのことを書いている。学びは専門書の外にある、というより、外を知らずして学びはない。「あなたは誰」「私は?」という問いが決して閉じることはないということも、土居を通じて学ぶことである。

昨日の空。晴れたり曇ったりだった。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家