昨晩、オフィスを出るときに日めくりをめくってきた。
今日は8日だったか、と。
書類とかには7月8日って書いたのだから知っていたに違いないけど日めくりをめくる時に思う「8日か」の意味は違う。
「もう7月かぁ」と思いませんでしたか、8日前頃。そういう感じ。日めくりをめくることは過ぎていく時間に一旦切れ目をいれる儀式なのです(私には)。
昨日の日めくりの俳句。
重信忌墓は心の中にあり 高橋龍
7月8日は高柳重信の忌日だ。「俳句を多行形式で書くことを開拓実践、独自の俳句評論を展開、すぐれた時評眼をもった俳人でした」と日めくりには書いてある。
墓は心の中にあり、どういうことだろう。誰の墓だろう。自分の?大切な誰かの?高橋龍は高柳重信に師事した。
私は生誕何周年より没後何年の方が好きだ。昨年は土居健郎が死んで10年、ということで土居の本を少しずつ読み直した。直接的に指導を受けたことがない私にとって土居先生の墓は彼の言葉だ。私は彼の言葉を彼に師事した先生方から間接的に受け取ってきた。先生方の中で土居先生は生きている。墓は心の中にあり、というのはそういうことかもしれない。先生方は土居先生と生きた時間を心で弔い続けており、私はそこでの対話を聞かせてもらっているのかもしれない。
今年出版された『日本の最終講義』という錚々たる顔ぶれが集められたこの本にも土居先生がいる。「人間理解の方法――「わかる」と「わからない」」という題の講義だ。医学でも精神分析でも哲学でも心理学でも「方法」は常に問い直される。講義という方法での最後を終える先生方にとって最終講義は一区切り。土居先生はシェークスピア『お気に召すまま』を引用して講義を終えられた。この世はすべて舞台。自分も東京大学という舞台から降りる、と。「いい医者になってください」と。
私たちは心の中に誰かの死を抱え込んで生きている。きっと私たちが命をつなぐ無意識的な方法がそれなのだろう。弔うことは対話すること。私は小倉先生から「育て直し」という言葉を知り、精神分析によって「生き直す」という言葉を実感している。
墓は心の中にあり。今日は7月9日。雨。今夜、日めくりをめくる時、私は何を思うのだろう。警戒が続く地域の皆さんのご無事をお祈りします。