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精神分析

瓜番

夜、オンラインで「瓜番」という季語を使った句について話しあった。

夏の季語だ。

たかが4音のこの季語だが、17音のうち4音と考えると全体の約3分の1なので、その影響は大きいことが容易に想像がつくだろう。俳句は季語の選び方、置き方がとても重要なのだ。

俳句には「一物仕立て(いちぶつじたて)」という言葉があり、これはそのままひとつの題材だけで一句作ることを言う。一方「取り合わせ」「配合」とは季語のほかにもうひとつの材料を用いて作ることである。この時取り合わせた二物に飛躍が大きいと「二物衝撃」といって読む側につよいインパクトを与える。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

などがそれである。万緑といえばこの句というくらいの有名句である。見渡す限りの緑と赤ちゃんの小さな白い歯。今、歯と葉を誤変換したがここにも繋がりがあったか。

生後半年を過ぎて表情も豊かになり、さかんに声をあげて何かを伝えようとする子どもの口元に見えはじめた白いもの。最初に生えるのは下の前歯だ。生命とはなんと不思議で素晴らしいものか、と感じる瞬間が切り取られているようである。

「生命力」という言葉を使わなくてもその瞬間を切り取るだけでそれが伝わる。赤ちゃんに対しては特にそういう発見が多い。その細やかな視線は赤ちゃんが生きるために必要なもので小さな変化は赤ちゃんにとっては大きな変化だ。季語が17音に占める存在感と同様に。

私たちは本当はそんな変化の積み重ねで生きている。「こんなことして何が変わるの」「もうここまできたら変わらない」と思うとき、私たちは変化に気づくゆとりがなく、あまり元気がないときかもしれない。

瓜番というのは、瓜の熟す頃、夜盗みにくる者を防ぐための番人で、小屋の中で番をする。昔は瓜が夏の代表的な食品で上等のものだったので、こうしたことが行われた、と平井照敏編『新歳時記』に書いてある。

大事なもの、重要なもの、代表的なもの、どれも移ろいやすいかもしれない。でも俳句が伝えるように私たちはただ生きているだけでかなりの部分、いやむしろ、生きていることそれ自体がかなり大事なんだと、私は思っている。