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写真から

徒然に写真を撮るのが好きだ。あまりこだわらず適当にシャッターを切る。スマホだからシャッターを切るとは言わないか。

コミュニケーションを自分からたった人が外では自分からコミュニケーションしましょうと誘っている。コミュニケーション様式という言葉がよくわからないがしたい人としたいというのは普通かもしれないし常に次に開かれておきたいということかもしれない。そういう価値を自分に見出せる人は強い。断たれたほうはすでに言葉を使う気力を奪われ思考停止にさせられ知らないものと繋がるのが怖くなっているので体験する世界にはもっとずれが生じる。私はそういう人とたくさん会ってきているのでそのメカニズムには馴染みがある。累積的な傷つきから逃れるためにはまずは距離を取ることが大切だが、今の時代、これが本当に難しい。体験からもよくわかる。

家をなくした女性をさらに殴り殺すような人もいる。コミュニケーションなどしたこともない相手を。力ある人はますます強く、言葉足らずな人はますます孤独になっていく。そういう現実に対して実際に何かをしてくれるわけではないのだね、力ある人たちは、口では他人のことを「じゃあ何ができるんだ」とかいうわりに、とかいったら即座に返ってくる言葉もまた達者に部分をあげつらい追い詰める戦いの言葉ばかりで修復へと向かうはずもない。「こちらから言わせれば」と思ったとしても痛みを知っている人はそれ以上巻き込まれてはいけない。自分を傷つけそうな人たちの気持ちなど、という彼らにはみえない、あるいはみたくない人たちの方へ向き直さねば。彼らはいう。「人生何が起きるかわからない。そういうものだ。」と。それだって笑えないが笑うしかない。「自分で作り上げた王国から何か言われても」などといってはいけない。「王様は裸だ」といっていいのは子供だけだけど彼らのこころにそういう子供は住み着いていない。いくつになっても自分の成長が大事ともいえる。それでもこれからも彼らは口ではいいことをいうだろう。そしてまた味方を増やしていくだろう。お金にもなるだろう。そういう乖離に傷つけられてきたわけだがそれはそれ。この溝は埋まらないしコミュニケーションをたたれたらそんな機会もない。うまくできている。こういうのを戦いの言葉でいうならなんていう?彼らは反射的に答えるだろう。私は答えない。これは戦いだったっけ。昨日も書いたけどそこに戻る。

最近の写真展は写真撮影が許可されている場所が多いのだが、それって「写り込み」「多重性」についての考察を促すよね、ということを考えていたのだが笹塚のバス停でひとりの女性が殺された事件の写真に影響された。悲しいことがいつもよりずっと少しですむ今日でありますように。

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唖然としたとしても

ギターがキュイーンっていってそんなパンチはないけど激しく歌うバンドの曲を流しっぱなしにしている。ずっとハードロックに浸っていた日々はいつからか遠くへいってしまった。こうやって聞く分にはどこかしら熱くなりそうな気もするが熱いのはコーヒーのせい。

耐え難く理不尽と感じるのは親密な関係においてだけ(社会の理不尽はデフォルト)というより仕事では「親密さ」そのものが学会のテーマになるくらいその定義は曖昧なのでここでは家族とか恋人とか相手の人生のことも考えながら継続的に築いていく関係くらいな感じで書く。あれ?こう書いてみると理不尽だと思ったけどそもそも親密な関係ではなかったということ?とか思ったり。自分の定義づけによってなにかに気づくのはそこに内的な対話がない場合独りよがり。そう思いたいからでしょう、となる。でも一応私は精神分析のおかげで常に対話状況にあると思うのでそう思いたい自分に気づくことくらいはできていると思う。え?そもそも親密な関係ではなかったってこと?となるとさらに深部を突き刺された感じになる。もうこれ以上えぐれる厚みも残っていないくらいなのにさらに。皮膚みたいな表層はまだその奥を想定できるから希望があるか、と一瞬思ったけど、表面でバチバチ跳ね返していたら結局コミュニケーションにはならないからそもそも心が揺れ動くような関係を持ちにくいかな。内側に入れたくないわけだから。それだったらさっきみたいに「あれ?」とか「え?」とかならないでしょう。そういうのってまさかコミュニケーションの成り立つような親密さが成立していなかったなんて、という唖然さだと思うから。絶望的な気持ちで消えてしまいたくなったとしてもいずれムクっと起きあがろう。私たちは生活しなくてはならない、ならないというわけではないけれどあなたが生きてきた歴史を大切にしてくれる人がたまたまその人ではなかっただけだからそんなたまたまのために何か捨ててしまうのはやめよう。向こうは何事もなかったかのように動けているのに自分だけこうして動けないまま過ぎていく時間が本当に辛くて悔しくてやりきれないと思うかもしれないけど時間はなんにしても有限なので起き上がれるまでのどん底にどうにか耐えたいね。ポカンとしたり号泣してはシーンとしたり、自分の状態をじっと観察したりしながら。

土居健郎のいう「甘え」って大事なんだなと改めて思う。欠損を外から補うことは不可能。どんなに本を読んでもどんなに講義を聞いてもそんなもので埋めれば埋めるほど自分の傷つきにも相手の傷つきにも鈍感で頑丈な自分ができるだけかもしれない。そんな風になってはいけないような気がする、私は。

今日はどんな自分でいられるでしょうね。コントロールはできないとしてもこれまでと大きく変わることもないはずなので無理せずなんとか過ごしましょう。

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精神分析

グッドイナフで

蝉がジージーずっと元気。早朝、洗濯物を干しながらなんか蝉って世界をのっぺりした感じにするよね、と思った。いつもの森で鳥はまだ眠っていたみたいだけど流石にこの時間になると元気いっぱい。さっきからずっと同じリズムでピッピピーってないてるけどなんだい?というか私も誰にも通じない言葉であなたに話聞いてもらいたいことがあるよ。

ウィニコット (1971)は「心理療法は遊びの領域、つまり患者と治療者の遊びの領域が重なり合うところで行われる」と述べ、オグデン (2006)は「分析家と被分析者が「共有された」(しかし個人的に体験された)無意識的構築物の「漂い」(Freud 1923)を感じ取るところの、もの想いの状態を育むための努力」が重要であるとした。これらは精神分析が相互性に基づいた間主体的な場の生成によって展開することを前提としている。

実際の治療はこの前提を作り出すところか始まるといってもよいだろう。サリヴァンがいう共人間的有効妥当性確認(consensual validation)にいたる過程がまず必要と言い換えてもいい。

治療のみならずお互いが前提を共有することのなんと難しいことよ。治療と普段のコミュニケーションは状況がだいぶ異なるけどプライベートでもコミュニケーションは常に悩みの種。見て見ぬふりをして、なんとなく何も感じていないふりをすることもしばしば。「私だったらこうする」「私だったら絶対しない」ということはあるけどそれは私の前提であって二人の前提ではないことの方が多い。お互い大切なものは違うし、大切にする仕方が違う、だからといって想いあっていないわけではない。ただその出し方は違う。ずればかりだ。そこに攻撃性を含む場合だってある。でもそれだって人間関係では当たり前のこと。通じない、通じさせたくない、隠しておきたい、お互いの自由を守りつつお互いを悲しませたり寂しくさせたりしないことは多分不可能なんだ。我慢して悲しんででも寂しくて泣いて怒ってぶつけてまた辛い状況になってそれでも乗り越えられたら乗り越えてあるいはいずれ回復するまで壊れていく。できたら壊れない方向へお互いが最大限の努力をできることを願うけどそれも相当不可能なこと。私たちは委ねる形ではなく歪んだ形で自分の欲望を実現しようとする動物だと思うんだ。

治療状況はこの不可能と思える努力をお互いがかなりの程度やり遂げられる設定になっている。時間と場所を守り金銭のやり取りをする。設定をかたくすることで関係に生じる曖昧さに有限性を持ちこみ仮の形を与える。出典をメモするのを忘れたが北山修は言葉の曖昧な使用に着目し、「何かをはっきりと言うことは常に選択であり、同時に別の何かを言わないことでもあるが、曖昧化obscurationは、日本語に必要な基本的レトリックであるとして、それを「置いておく」ことの重要性を述べた。日常生活では関係が近くなればなるほどこの「置いておく」ことができない現実がくっついてくるが、治療状況はそれがかなりの程度可能なほどにいろんな要素が持ち込まれない設定になっている。錯覚を可能にするにも条件が必要だ。空想の余地を与えること。それは隠されていることがあからさまになりやすい現実では難しい。

現実の難しさを考えれば考えるほど治療の枠組みがいかに重要であるかが見えてくる。欲望を飼いならす、ということが精神分析では言われるがそれも程度の問題だ。私からしたらグッドイナフな程度に、というしかない。悲しんだり寂しがったり怒ったり、そういう感情を相手が持っていることに気づいたり、そういう能力を持つことでさらに苦痛だったりするわけだけどそれらをなくしたら人間ではなくなってしまう。だからグッドイナフで。あえて見るなの禁止を破ることもなかろう。そこは悲劇の発生の場でもあるのだから。

今日もひどく暑くなるらしい。まずは無事に過ごそう。