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あれはなんだったんだろう 精神分析

「問題」「事件」「よくあること」とか。

寝不足だけど眠くはない。この場合、寝不足というのはショートスリーパーの人でもこのくらいは寝るんじゃないの?みたいな基準と比較しているだけなので私が眠くないのなら全く構わないのかもしれないが多分どうせきっとこの後すぐ眠くなって移動とかが辛くなりそう。

ここでも何度も使っている表現がある。特定の人をさしているようでそうでもないみたいな書き方も頻繁にしている。昔、私の先生が本を出したときに「この本を読んだ先生の患者さんは皆さんご自身のことだと思うのかも」といったら「そうかもね」と先生は笑った。ものすごくたくさんの人それぞれと膨大な時間を過ごして記録を書き続ける生活をしていれば人のある程度普遍的な部分というのを描写できるようになるので読む側はどこかしらに自分と先生との関係や自分の特徴を見出す。というか人ってなんかどこにでも自分を見出すでしょう。八百万の神と多くの人は抵抗なく共存していて自分の性格とか運勢とか言い当てられちゃったりするわけだし。

私は自分を含めた女が身体と心を傷つけられたと感じた、感じている、感じ続けている場合の状態をいろんなふうに書いているのだけどほんと言葉っていかようにもとれるよな、と思うことがしばしば。たとえばひろゆきみたいな人のことを書くことでひろゆきを問題視するリベラルで無難な「いい人」のことも書いているみたいなことがよく起きていると感じる。そういう重なり合いがセクシュアリティに関する出来事を「問題」としたり「事件ではない」とか「よくあること」としたりすることと関係あると思っている。境界線はどこかしら。巧妙に発信し、巧妙に誤読するというように意識的にやることもできるけど何も考えずに読んだり聞いたりしているのに相手の意図や別の人との受け取りと全く違ったということだって生じる。特定の人のセクシュアリティをひどく傷つけると同時に別の人のセクシュアリティに良きものとして絡んでいく社会的には人気者、なんていくらでも聞いたことがあると思うけどこういうのを実感を持って考えていくと法律の壁や連帯の難しさとかものすごくいろんなことに陰鬱としてくるんだな。社会的に裁かれることもなく平然と賞賛と共感をえる小さい社会でのインフルエンサーでももっと公の偉い人、すごい人でも誰か特定の人のセクシュアルなこころを踏み躙りつづけている可能性というかそういう実態があることを描写し続けることは大切だと思う。

さて、週末は前意識と無意識の間で言葉がどのように変容していくかを考えることになりそう。痛みの多い毎日に防衛一方で過ごすのは自分のこころを殺しているようで辛すぎるけどそうでもしないと外に出ることもできず身を潜めるしかない人もいることに思いを馳せつつ今日も。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

見えないことの扱われ方

山梨銘菓「くろ玉」、かわいいし上品な美味しさだった。

どうしてこの人のやることは支持されてこの人のやることは事件にされたのだろう。行為としてはほとんど同じなのに、と話すことがある。ここでも「あれはなんだったんだろう」シリーズで書いたと思うけど主にセクシュアリティに関することは思弁ではなく具体的に個別的に考える必要があるのでいくらかの加工をしつつ残しておくことが大切だと思う。女の身体が絡む場合はいつという時間の観点も必要だろう。「年齢とか関係ない」とか気楽にいえる人はそれはそれで幸福かもしれないが人の痛みに鈍感でいられているということかもしれない。

友達と話したりnoteに創作をしていると支配や搾取の芽は欲望がある限りそれぞれが持っていると感じる。同じような体験を繰り返すことで前の体験をなかったことにしたり、抑圧を強めることで別の仕方で表現したり、それらの構造を探りつつ目の前の相手との関係で葛藤したり、それぞれのあり方でそれらの現れ方や外からの評価は全く異なると感じる。でも一番感じるのはそれが問題や事件として認識されるかどうかはそれまでの環境が少なからず影響しているということ。環境というよりは構造といった方がいいかもしれない。

SNSにみられるパターン的な共感、同調の行為は自己顕示欲を見知らぬ人に満たしてもらうことを可能にしただけでなく、かわいいと思えなくなったら捨てられてしまうペットのように扱われる人、そう扱う人を増やしたかもしれない。「まさかそんなことをする人とは」というほどにも近くない「良い」部分だけで関わり合える関係における共感、賞賛はそれを受ける人には気持ちよく、そうでない自分、そうでない関係を葛藤的に否認したりしながら様々なネガテイブな気持ちと関わり合う面倒を減らす効果もあるのだろう。ひとりをポイ捨てしても多くの人が変わらず好きでいてくれている、という量の問題。トロッコ問題を意味のない問題設定としていたあの人も自分のこととなるとそんな感じだった。大丈夫、みんながいる、という場合の意味も変わってきているのかもしれない。

二次被害、三次被害という言い方をすることがあるがその言い方ってどうなんだろう。たとえばポイ捨てされた人が傷つき続けるか、回復するかは確かにその相手がその件で社会的にどう判断されるかも関係するだろうし、その人が元々持つ資源や環境やその後のケア的な何かと出会えるかどうかも関係するだろう。一方、二次三次とかでなくただずっと継続して膨らむばかりの傷つきもある。これは何よりもその出来事の終わり方が関係しているのではないかと思う。心身を密に付き合わせるなかで積み重ねてきたものをどう扱われるのかというのはその人の人生を左右するでしょう。周りからは決して見えないことに対してお互いがどう責任をとるのかということでもある。難しいけど今日も生きていかないとね。いかないとってことはないけどなんとかがんばろ。

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精神分析 言葉 読書

言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。