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短編

傘のいらない雨だったのが帰る頃には結構降ってきた。本屋さんに寄ってから帰ると人と別れ細長い本屋の自動ドアを入って真っ直ぐ歩いた。話題の文庫が置いてある棚をぐるっと回った。小川洋子『ことり』(朝日文庫)がまだ平積みされていた。通じないことの切なさ悲しさに溢れたストーリーだった。

今、またこの本についてばーっと書いたがあまりに陳腐な言葉の羅列のように思えて消した。私はあまりに人間的、だ。「小父さん」のように鳥のさえずりに静かに寄り添える人間ではない。この物語の最後にこちらが悲しくなってきてしまう人が出てくるのだが私の言葉はそっちのあまりに人間的な人の方に近いのかもしれない。

長編を読む時間がないので短編を買った。雨上がりの紫陽花みたいな可愛くてきれいな表紙の文庫本が目に入った。新井素子さんが編んでる!これにしようとすぐ決めた。

コロナ前、ほとんど出られない句会に出たとき新井素子さんがご夫妻でいらしてくれた。とっても嬉しくて飲み会の席ではお隣でお話もできたし一緒に写真も撮ってもらった。句会では下の名前で呼び合っているので新井さんも「素子さん」。「素子さん」と呼びながらお話ができる日がくるとは。素子さんは気さくで明るくて超ユーモアがあって、とまた陳腐な言葉しか出てこないがどこに触れても楽しい遊びにしてくれるような懐の深い人だった。もっと好きになった。

購入したのは新井素子編『ショートショートドロップス』(角川文庫)、星新一感があってすでに良い。というか執筆陣の豪華さよ。私は新井さんが「まえがき」で書いているように「あとがき」から読むタイプなのだが「あとがき」を読みはじめて「あ、これは読んでからだな」と思った。そして本来のはじまりの地である「まえがき」に戻ると新井さんはやはり面白いのだった。数えきれないほどのぬいぐるみとお話ししながら生活しているっておっしゃっていたし対話調の文章に素子さんとの楽しいおしゃべりを思い返した。

この短編集は確かに「ドロップス」のよう。だから表紙もこれなのね。そういえばさっきこの表紙って、と思ってカバーをペロッとめくってみたら「カバーイラスト三好愛」って書いてあった。私、この人の絵が大好き。今出ている『怪談未満』(柏書房)もほしくて、昨日別の本屋さんでちょっと立ち読んだばかり。まずはこっちが我が家に来てくれました。私が買ったのだけど。

短編なので短いものをさらに短く、しかも足りない語彙で説明するのは野暮なので一言で書くけど短編は余韻も短くていいですね。グッときてもパッと次へ。敬愛する村田沙耶香さんの短編は相変わらずファンタジック(と思っちゃう)でピュアな筆致で淡々と書かれていたけど読み終わって素に戻ると得体の知れない恐ろしさにゾワっとした。村田作品にいつも感じる余韻。ふー。

短編しか読む余裕がないとかいいながら短編を何冊も読んでたら時間あるんじゃんという話だが隙間時間ならそれなりにあるの。でもパッと切り替える必要があるの。そういう人には短編はお勧め。この新井素子編『ショートショートドロップス』(角川文庫)もぜひ候補に。

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言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。