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精神分析

同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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精神分析 精神分析、本

1939年9月23日

1939年9月23日、フロイトが死んだ。その生涯はあまりに有名だ。でも、未公開の資料がいくら公になったところで、フロイトについての本が何冊書かれたところで、彼や彼以降の精神分析家が患者のことを知ったようにフロイトが理解されることはなかった。精神分析の創始者である彼には自己分析という方法しかなかった。

先日、認知行動療法家の先生から本をご紹介いただいた。『認知行動療法という革命』という本だ。原題は、A History of the Behavioral Therapies: Founders’ Personal Historiesなので本当は「行動療法」の第一世代の個人史だが、翻訳は「認知行動療法」となっている。

錚々たる顔ぶれが集まったこの本は、新しい世代の行動療法家が技法ばかりで歴史を重視していないことに対する警鐘から始まるが、精神分析を専門とする私が興味があるのはやはり精神分析に対する彼らの態度である。

「精神分析から行動療法へのパラダイムシフト」という章もあるが、精神分析に対して最も明快な態度を示しているのは「社会的学習理論とセルフエフィカシー ─主流に逆らった取り組み」を書いたアルバート・バンデューラと「認知行動療法の台頭」を書いたアルバート・エリスだろう。特にエリスは精神分析実践をよく知ったうえで書いている。

もっとも精神分析に向けられる批判はいつの時代も実証性のなさなのだが、体験した人にとってはそれ以上にこれを退ける意味や理由があるのだろう。実際、実証性に関してはエリスの時代よりも効果研究が進んで、それなりのデータを持っている。一方、もし、体験が精神分析を遠ざけたとしてもそれも十分にありうることだろうと、精神分析を体験している私も思う。むしろ体験したからこそわかるのだ。

精神分析はそんなに希望にあふれていない、不幸を「ありきたりの不幸」に変えるかも、とフロイトが書いたことからもそれははっきりしている。そんなものをどう信じればいいのか、と言われれば、まあそうだよね、という気にもなる。

でも、私たちはそんな簡単に何かが修復されたり、改善されたり、正しくなったり、美しくなったりする世界に生きているだろうか、とも思う。

他の場所でも書いたが、実際、精神分析は、設定と技法以外は臨床で生じる驚きを説明するには十分ではない。そしてそれは精神分析にとっては当然のことである。無意識を扱うとはそういうことだ。したがって、比較対象にはなりにくい、と私は思う。エリスのように経験してそれを放棄するのもよくわかる。

対象の選択がその人の歴史性を示すように、私たちが何かを選択するということはそれほど意識的なものではない。精神分析を選択する人もいれば、認知行動療法を選択する人もいる。また、患者からみれば、その治療者の技法が何かよりも自分のニードを繊細に受けとってくれることのほうがずっと大切だろう。

フロイトはこの日付に死んだ。私たちはいまだに精神分析が精神分析らしいか、あるいは精神分析と認知行動療法はどちらが効果的か、という議論をしている。先人たちは丈夫な種を蒔いてくれた。改めて感謝したいと思う。

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精神分析

度忘れ

何かを言おうとして口を開いた瞬間にそれがどこかへ行ってしまうことがあります。ありませんか?いわゆる度忘れです。

フロイトは『日常生活の精神病理に向けて』(1901/1904)のなかでこの度忘れに触れています。フロイトとしては、精神分析が想定する「無意識」ってこんなふとしたところに現れるんだよ、ということを一般の人にも知ってほしくて書いたようですが、なにはともあれ、度忘れ、面白い現象です。

度忘れ、言い間違い、読み間違い、書き間違い、どれもよくありませんか?私はしょっちゅうあります。言い間違いとかとても恥ずかしくてどうして言い間違えたかなんてフロイトみたいに考えたくもないときもありますが、勝手に考えてしまうので「きっとあれのせいだ」と気づいたときにはやっぱり恥ずかしくて誰も見てなくても机に突っ伏したりしてしまいます。あーあ、ちょっと本音出ちゃったな、と。これぞ無意識ですね。

フロイトのこの本はとても売れました。この前に出した『夢解釈』がフロイトが思ったよりも売れなかったのに対して、『日常生活の精神病理に向けて』はフロイトの予想を超えて売れたようです。夢も日常ですが、夢解釈なんてちょっとおせっかいだな、とか、自分の夢なんだから自分が一番よくわかってるし、とか思われたのでしょうか。たしかに夢はみんなみるとはいえ、内容が個別的なのに対して、この『日常生活の〜』に出てくる失策行為の例は「わかるわかる、自分にもこんなのあるある」と受け入れやすかったのかもしれません。

それにしてもどうして忘れちゃうのでしょう。頭に浮かんだ瞬間に消えている、と私は感じるけど、もっと細かくみるとたくさんの不思議な現象が一瞬にして起きているのでしょうね。

眠くなってきてしまいました。度忘れどころかいろんなものが遠のいてきました。また、っっっっっっっっっって打ってた。無理せず休みましょう。今度は、いいいいいいって打ってた。いい夢、をって打ちたかったのでしょう。

明日も度忘れや言い間違いがあってもそれなりに良い日でありますように。おやすみなさい。

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俳句 精神分析

「月がきれい」と思いながら帰宅できる日が続いている。とかくと、そう思えない日もあるのか、と思われるかもしれないけど、不思議とそうでもない。ほんとに不思議と。

山を 海を 川を 空を 月を 私たちは嫌ったり憎んだりすることができるのだろうか。私は山育ちだから山に対する怖さと海に対する怖さは質が全く異なる。知っているからこその怖さと未知ゆえの怖さ。しかし知っているといってもごく一部。災害と会えば呆然と立ち尽くすしかない。憎むにはあまりにも知らなすぎる。

一方、私たちは本当に小さなことで誰かを好きになったり嫌いになったり愛したり憎んだりする。自分とよく似た姿の相手は自分とよく似たこころを持っている、という前提があるせいかもしれない。

フロイトは精神分析の創始者だけど、やっぱり怖かったんじゃないかな、両方の意味で、と思うことがある。読んでいると。

こころと自然。昔からあるテーマ。似たような木々が立ち並ぶ山を切り崩すことはその多様性を奪うかもしれない。表面ではなくそのなかをその背後を見ようとすることはとてつもなく侵襲的かもしれない。

最初に何かをしようとする人が背負うであろう大きな何か。フロイトも、地球が回っているといった人も、「神は死んだ」と言った人も、月を目指した人たちも、はじめての子を持つお母さんお父さんも、この世界に出てきた赤ちゃんも、と書いていると先のことを見通すことができない私たちみんなが主語になりうるか、とも思う。積み重ねては振り出しに戻るような、でも最初の最初とはちょっとずつ違うような軌跡を積み重ねる。ひとりひとりがみんな。

今日の香港のニュースにもいろんなことを感じた。「それって誰が決めるんですか」という問いかけも普遍的かもしれない。

こんな何十年も月がきれいと言い続けて、しかもそれは私が生まれるずっと昔から言われ続けていることで、愛でるものがあることの大切さを思った。

墓石に映つてゐるは夏蜜柑 岸本尚毅

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精神分析

ワークする

海外の分析家の文献を読むとき、Obituaryを参考にする。この人誰だろう、と思って調べると結構上位に出てくるのだ。Obituaryとは死亡記事のこと。生涯を通じた略歴が載っているので全体像をつかみやすい。この人ってあの分析家の分析受けてたんだ、この人ともこんなの書いてるんだ、この人の娘さんはお父さんより先に亡くなったんだ、などなど色々思いながら読んで、これから読まんとする論文なりの位置づけをなんとなくしてから読むとちょっと新鮮。読んでいる途中は生きているその人との対話になるし。

でも死ぬって止まっちゃうことなんだなと改めて思う。どんなに名を残しても、フロイトみたいにどんなに私生活が暴かれても、その人が個別に築いていた関係がどのようなものであるかは誰にもわからない。本人にだってわからないだろう。

生きていれば「今の時点」を積み重ねて、その先はわからないことにしておけるけど、死んでしまうとその先を作ることができない、当たり前だけど。

今日は幼い頃に父親を失い、その死を否認することでしか生きられなかった母親とともに生き、こころのなかにカップルを描けず、執筆活動ができなくなった女性の事例が載った英語論文を読んだ。創造性はこころのなかに安全に両性性をすまわせるプロセスと関係している。そしてそれは喪の作業とも関係する。この論文の患者は、分析家とともにその作業をやり通した。その結果、彼女の母親も在りし日の夫を再び胸にすまわせることができた。

長くて苦しい作業。患者とその作業をしていくためには、分析家自身が訓練をやり通す、精神分析ではワークスルーと言うけど、それがとても大切なんだろう。そしてそれ以前にまずは生きながらえること、死亡記事に載せるものなんか何もなくてもそれが基本的に重要だと思う。

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精神分析 精神分析、本

どうして5年日記とか10年日記は続かないのに毎日の日記なら続くのかしら。と思ったけど、日記ですものね。その日のことを記す場所として好きに紙面を割けばいい。その自由度の高さ、気ままにやれる感じがきっとよいのでしょう、私には。紙じゃないけど。

雨が降っています。昨晩より強く土砂降りのような音。レインコートと長靴かな。

フロイトは『夢解釈』が有名でしょうか。以前は『夢判断』と訳されていたけど精神分析ではやっぱり「解釈」かなぁ。

夢は本当に不思議で矛盾する出来事が普通に生じる時間を生きられる唯一の場所です。小学生の頃から「夢占い」とかもしました。フロイト を持ち出すまでもなく。

でも持ち出すと、フロイトには A  Lovely Dream(「素敵な夢」フロイト 全集5『夢解釈2』p12)、「すてきな夢」という題がつけられた夢が登場する。どんな夢だと思いますか。きっといろんな「すてき」を思い浮かべますよね。これ、読むとわかるのだけど夢だけみても特に素敵ではない。「すてきはどこ?」と思って読んでいくと、実はこれゲーテ『ファウスト』からの引用である。「いつか見た夢すてきな夢さ」。

連想のたくましい患者である。精神分析ではフロイトの時代から夢と分析状況は関連づけられている。そして今も私たち臨床家は患者の夢の中に自分たちを見出す。自分の夢の中にも様々な関係が姿を変えて現れる。「現実に起こったことと空想で起こったことは、まずは等価なものとして現れる」。私たちはごくわかりやすそうな夢もみるが「巧妙に仕込まれた夢作業」をすることもある。それは小学生の時代からそうだったように他者との間に置かれると意味をもつ。

当時の可愛いイラスト満載の「心理テスト」とか「夢占い」という本は大抵「A.〇〇の夢をみた人」→「ほかに気になる男の子がいます」とか選択方式で、それを読んで「きゃーっ」と盛り上がるという感じだった。現実的に好きな子が今いないとしても一部あっているような気がしてしまうのは昔から変わらないことである。みんな想像してしまうし、「ちょっと気になる子」は大抵いる。だからちょっと興奮して盛り上がる。ちょうどよい遊びだ。

精神分析は選択肢がない。使うのは「自由連想」である。こちらも想像力を必要とする。が、精神分析という状況で現れる夢は今ここにいる二人の関係だったりするので結構複雑だ。秘め事としての夢だからキャーキャーできていたのにここに置かれてしまう。置かれることで連想は質を変える。その連想がまた夢想に近くなる場合もある。

ひとりの夢がふたりの夢に。精神分析ってそういう場所だ。

出かけるまでに止まないな、この雨。今朝はどんな夢を見て起きただろう。精神分析家のウィニコットは「夢をみられない」ことを主訴に精神分析を受けはじめた。夢という時間と場所を失うことは主訴になりうる。こころの世界が守られること、いつだってそれはとても大切なことに違いない。

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伝言

1990年、小此木啓吾先生の日本精神分析学会第36回大会会長講演「わがフロイト像」から引用です。全文は『精神分析のすすめ』(創元社)で読むことができます。

「むすびのメッセージとして、会員諸氏に次の言葉をお贈りします。『フロイド先生に常に初対面して下さい』この言葉は、古澤平作先生から私が、先生自身が熟読した独文の『精神分析入門』をいただいたときに、先生がその表紙に書いてくださった言葉です。このメッセージを、今度は私からみなさまにお贈りしたいと思います。」

はい。受け取りました。これなら私でも覚えられる。伝言ゲームでもたぶんずっと後ろまで正確に伝わるはず。でも「初対面」というのが大事だからそれが「対面」になっちゃったら残念。意識しておこう。