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精神分析 精神分析、本

予報、グループ、逆転移

朝焼けがきれい。久しぶりに見られた。先週は晴れ予報がいつのまにか雨予報に変わりお布団干したのにという方もいたらしい。辛いよねえ。私は怖いからお布団は自分がいるときしか干さない。もちろん失敗済みだから。予報ってこれだけ毎日積み重ねられていることなのに難しいのね。昨日のお昼も関東で地震もあった。午前中の初回面接グループを終えて、みなさん送り出してすぐ。ドンってきたからびっくりした。お花をいけた細いガラスの花瓶は動じていなかったけど長く伸びた観葉植物がゆらゆらしていた。地震も予測が難しい。熊だってなんだってそう。わからないことの方がずっとずっと多いのに人の心を決めつける人が多いのはなぜかしら。これだけの数いたら単にひとりひとり違うというよりみんな変わっていく。日々違う、相手によっても体調によっても状況によっても。

昨日の初回面接グループもとても勉強になった。事例で具体的に初回面接を検討したあと、30分間、今日事例から学んだことを話し合うのだけど、今回話題になったのは中立性。初回なのになぜそれが保たれないときがあるかという話はしょっちゅうしているのだけど、今回は私がMichel Neyrautの逆転移の概念を紹介したりした。ミシェル・ネイローでいいのかな、読み方。どこかで誰かがYouTubeとかで引用しているだろうからその発音を後で確認しよう。Société psychanalytique de Paris(SPP)の会員らしい。ネイローは「逆転移が転移に先行する」として、分析家が社会的・性的・思想的あらゆる属性を超越した絶対的他者ではありえない、といった。そしてそれでもそうであるふりをしなければならない、と。前者は当たり前といえば当たり前。後者は単なる役割としてという意味ではないだろう。ネイローは『Le transfert』(1974)以来一貫して「精神分析的思考pensée psychanalytiqueそのものが抵抗である」と言っているらしい。と同時に「要求としての逆転移(contre-transfert comme demande)」ということも。応答ではないということだろう。


多分この辺について詳しく書いてあるのがNeyraut, M. (1988) Les destins du transfert: problèmes méthodologiques. Revue française de psychanalyse 52:815-828だと目星をつけているのだが。Le transfert : étude psychanalytiqueもに読みたい。 

週末、何も書き物が進まなかった。もうだめだー。仕方ない。おとりあえず良い1日にしよう。

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精神分析 言葉

話す、離す、引き伸ばす

今日も空が薄い。また雨かな。今降っていないみたいだけど。昨日はこれから晴れてくるのかなと明るくなりつつある空を見ながら用事を済ませて出てきたときには雨が降っていた。iphoneで天気予報を確認したら予報から晴れマークが消えて雨マークになっていた。銀行に振り込みに先に行けばよかった、と思ったが、東京は歩いて銀行に行けるからいいよなあ、と思ったり、でも実家にいるときはどんな近くても車だったな。

根室で震度5弱。寒い地域の夜中の地震。続いて起きることがありませんように。自然災害に対してはこう祈るしかないが、人に対しては祈るしかないような事態はできるだけ起きない方がいい。熊のことだってそう。政治なんてもっとそうなはず。でも一番論理的であることが難しいのも一番祈りが届かないのも私たち人間なのかもしれない。論破とかいったところで物言わせなくしてるだけでしょう。それは論理的であることとは違うと思う。

人が人を裁く、ということについてももっと考えていかないと危ないと思う。絶対に声を上げなくてはいけないことはたしかにある。その場合、できるだけ声を上げる人を孤立させてはいけないわけだけど、絶対に声を上げなくてはいけないことほど言葉にしにくいことだったりするから難しい。その人がその人の言葉で語れるようにまずできることは時間と場所の確保だろうとは思うけど。SNSでまるでそれがすべて正しいかのような情報がたくさん流れてくるが、それは個別に向けたものではないのでどんな著名人がいったことだとしても自分のことだと思ってはいけない。そういう情報を心の栄養にできている場合はいいが、心に圧力がかかっているときは情報を情報として自分から引き離すことが難しくなっていることが多いからインプットでどうにかしようとするとかえって混乱することもある。カウンセリングで患者さんたちはいろんな本や検索したことの話をしてくれるけど、自分がなんでその本を手に取ったか、どうしてそれを検索したか、とかの話にその人のニーズが現れているように思うので、守られた場所でそれについてはなされることの意義は計り知れない。その場合も理由が大事なわけではなくてあれこれ話すこと自体で自分の中の「そうしたい自分」みたいなのを離れたところから見てみるとちょっと違う景色が見えるかもね、くらいだけど。欲望のお話。「話す」は「離す」であると北山修はじめ、心に関わる人はよくいうが、そのためには実際の時間と場所を準備することも大事だし、まずは遅延という時間を取り戻すことが大事だと思う。誰かに責任を問うということは自分が誰かを裁く権利とどう関わるかということでもあるので、とにかく時間の効果に意識的でありたい。誤りだろうが断片だろうがものすごいスピードで発信され、拡散される時代に正義などなさそうなものだが、自分は間違っていない、という信念のもとそういうことは平然となされ、それを受ける側がどうなろうと当然の報いくらいに思われたりする恐ろしい時代。できるだけ時間を引き延ばし、ゆっくり話される言葉を私は大事にしたい。衝動性の背景にもそれは流れていると思える場合に。

先日、マイナンバーカードの更新が必要で手続きして取りに行ったけど同じ書類内で「個人番号カード」と「マイナンバーカード」の両方が自由に使われているのだけど、これわかりにくい人いないのかな。同じでしょ、同じだよね?と思ってしまった。早くも生活の当たり前みたいになったマイナンバーカードだけど私は全然慣れていない。手続きも私より明らかに高齢と思われる方が担当してくれたけど流れ作業というか、言われるがままにやってれば交付はされるのだけどこんなに考えないで進められる作業で個人情報が管理されているんんだな、と思い、途中、自分のほうのスピードを落としてみた。結果はマイナンバーの交付がされるというだけで何も変わらないのだけど、担当の方もきちんと名乗ってはじめてくれたわけだし、私は私の個人情報を大事にしたいのでお願いしますという気持ちをこめた、というのは後付けだが、このスピードは良くない気がする、というときは自分の方を緩めるというのは悪くないと思う。時間引き伸ばし作戦。相手をイライラさせたり次の人を待たせたりというのもあると思うけど、ロサンゼルスのスーパーでは後ろに列ができてもレジの人はおしゃべりをしていたし(それがいいと思っているわけではなく)、実家のほうの郵便局では顔見れば今日何しにきたかをわかってもらえたし(わかってもらうことが大事なわけではなく)、遅延させることで思考のスペースを取り戻すって感じか。

こんなことを書いていないで書くべきものを書かなくてはいけない。こちらは締切までに書けそうにないが遅延したら次の機会は一年後。出せなかったら出せなかったで仕方ないけどあと6日。粘れるかなあ。今週末は休みがないからまとまった時間も取れないがまとまった時間があると遊びに行きたくなってしまうから活かすこともできない。とりあえずそれぞれがんばりましょう。雨、少し降ってる、東京。このくらいで強くなりませんように。

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お菓子 テレビ

地震、政治、焼きまんじゅう

双葉町と浪江町で震度3。朝のバタバタで気づかなかった。2011年、東日本大震災で被災地へいかなかったら福島の町はこんな身近ではなかった。余震が続くなかの被災地訪問だったが、被災したみなさんの揺れに対する反応にとても切なくなった。うまく眠れないという悩みを抱えて受診する人が多いようにリラックスすることはただでさえ難しい。震災は震度が一番大きかった時間で終わるわけではなくむしろそこから始まる。それはその後のものすごい長い時間に影響してくる。能登のように地震で生き残り、大雨で亡くなった人もいる。亡くなられた方はもちろん、さっきまでいた人を目の前から、腕の中から失う体験は、これからの時間だけでなく、今ここの時間、それぞれが生きてきた時間にも遡って影響を与える。影響の中身は様々に違いないが、地震がトリガーとなって前景化する記憶はそれがなかったら出会わなかったものかもしれない。トラウマやPTSDという言葉を使う以前にそれぞれの体験を現場からのものとして忘れずにいたい。被災地の地名を見るたび、聞くたびに私に駆け巡る景色も言葉をなくすものだった。一緒に支援に入れてくださったみなさんの健康も祈る。

今朝の東京も寒い。カーテンを開けなくても薄いグレーの空とわかる。一応開けて確認したけどやっぱり思ったとおりの空色だった。

高市内閣に対する若い世代の支持率が高いそうだが、身近な若者たちの様子からもそれは感じる。わかりやすく自分とは関係ないと思わせてくれるからかもしれない。震災もそうだが、私たちの多くは当事者になる以前に当事者意識を持つことはしない。どうにかしてくれる「感じ」というのにお任せして、何かやってくれる「イメージ」で自分の不安を防衛する。それが一般的だろう。だから曖昧な「感じ」や「イメージ」が本来何であるかを探る行為(勉強)が必要だし、政治は自分たちを代表しているだけで、自分が気に入らないものや人を排除してくれる機関ではない。人は自分の理解を思い込みと思いたくないし、何か大きなものがそれに賛同してくれる「気がする」という感触を得られればなおさらそれを変えようとしない。すぐには変わらない困難に対しては時間をすすめるのを早めることは逆効果だが、大胆に何かを打ち出すやり方の方が魅力的に見えるということもあるのだろう。異なる他者と生きざるを得ない人間の知恵は、他者との間においても自分だけの時間を確保できる心から生じると思うが、「自分だけ」が他者の排除と結びついていたらそれはかえって囚われている状態で自分をなくしている状態だろう。ナルシシズムがあたかも自分の思い通りの世界を構築しているようでその内実が空虚であるように。

今朝なh、群馬の名物焼きまんじゅうの味をマフィンとして焼き上げたMOO-FACTORYの「焼きまんじゅうマフィン」。

”マフィン生地には群馬県中之条町の「こうじや徳茂醸造鋪」より仕入れた、麹から作った甘酒を仕込むこだわり。味付けには前橋市朝日町の焼きまんじゅう老舗「たなかや」の秘伝の味噌ダレが使われています。 ”

とのこと。ウェブサイトはこちら。焼きまんじゅうといえば「たなかや」というイメージはたしかにあるが「たなかやよりこっち」という店をおすすめしてくる前橋市民もいてローカルフードならではのこだわりを感じられて面白い。ほかほかを味噌だれの香りで味わうとても素朴な焼きまんじゅうだが、こうやって形を変えて受け継がれていく強さをもっていたんだな。郷土の力。

それにしても寒い。やらねばならないことばかりなのに本当にどうしたものか。とりあえず取り組もう。良い一日でありますように。

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読書

地震、エッカーマン『ゲーテとの対話』

起きたらすぐそばでカラスの大きな声がした。その声に起こされたのかもしれない。外はまだ少し爽やかっぽいけど空気の入れ替えだけしてまた窓を閉めた。バタバタ家事をしていたら期待通り紅茶がちょうどいい温度になっていた。

鹿児島県トカラ列島近海の地震、大丈夫なのだろうか。十島村・悪石島というところ。写真を見るととてもきれい。そうだろうなあ。希望者は離島して避難されたらしい。ものすごい数の地震が起きているらしいが昨晩は眠れたのだろうか。実際の被害も不安も広まらないように具体的な対応が早急に入りますように。

昨日、水木しげるの「姑娘」のことを書いた。水木しげるが戦地に持っていった愛読者がエッカーマンの『ゲーテとの対話』。ほぼ暗記していたという話もゲーテに対するエッカーマンみたいと思う。私がゲーテという名前をはじめてみたのはこの本かもしれない。実家で書名に惹かれたのが最初。一番古い翻訳だったのかも。きちんと読んだのはずっと後。高校生になって自分で『若きウェルテルの悩み』とか買うようになっても(こういう行動が若い)この書名はなんとなくいつも浮かんでいた。ウェルテルは高橋義孝訳。フロイトに最初に出会ったのも高橋義孝訳。よくみていた名前だからこれは覚えている。

今週末、関西で行われる精神分析的心理療法フォーラムで登壇するシンポジウム(?)のお題が「精神分析とアートの交わり」で古い本を色々漁ったからゲーテのこともこうして書いているわけだけど、高橋義孝訳のフロイトの芸術論は一冊にまとまっていてKindleで読めるのも便利。

ゲーテという名前は『ゲーテとの対話』以前に耳からは聞いているのだけど「シラーの骸骨」という言葉の方が強烈に残っている。今思えばゲーテがシラーの骸骨を前にして書いた(絵も描いたのかな)という「シラーの骸骨に寄す」のことを話していたのだろうけどゲーテという名前が私にはあまり残らなかったらしい。聞き流していただけの言葉が断片的に強烈な印象を放つのはさすがゲーテということになるのかもしれない。

『ゲーテとの対話』も普通に考えれば作者はゲーテではないのに著者であるエッカーマンという名前が記憶に残っていなかった。この本は本当にいい。大好き。水木しげるが戦地にまで持っていくのがよくわかる。

エッカーマンはやたらといろんな人に助けてもらえる人というか、その認識をきちんともちつつ、かつ内省的で、多分実直で前向きないい人だったんだと思う。いい人、というのもどうかと思うがこの本を読んでいると「貴方様がこうして残してくれたゲーテの言葉、私にもグッときます、ありがとうございます。」という気持ちになるからね。

エッカーマンは詩作をがんばるなかで帯を書いてもらう文化はまだなかったか、なんだったか推薦文か何かをお願いするためにゲーテに連絡をとった彼はゲーテに大層気に入られてしまう。というかゲーテってこういうとこある、と思ってしまったりもするけど。エッカーマンもゲーテのこと以外考えられないという様子で細やかに観察しつつゲーテの言葉に胸打たれつつ自分の気持ちにも目を向けつつ綴られるこの対話本、本当に面白いし読みやすいしゲーテの名言だらけ。これはゲーテ70代、エッカーマン30代の対話だけど、ゲーテの『イタリア紀行』で30代のゲーテの言葉を知るとエッカーマンが人としてのゲーテに惚れこむのもよくわかる。世の中にはいろんな紀行文があるけどこの本の文章は特別に面白い。

エッカーマンが拾ってくれたゲーテの名言を引用しようかと思ったけどやることがあるんだった。機会を見つけてぜひお読みになって。言葉も内容もいい本って楽しいから。

良い一日をお過ごしください。