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梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。

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精神分析、本

梨とかビオンとか。

この前、果物をたくさんもらった。美味しそうな梨もたくさん入っていてとても嬉しかったが、そのひとつのヘタのところに蜜が溜まりはじめた。二十世紀梨を買ったときに30分くらい前に冷蔵庫に入れて、冷やしすぎないほうが美味しいから、と言われたのを思い出し、一日キッチンに置いておいたらどうやら高温多湿にやられたらしい。猛暑でこういう症状が出る梨が増えているとのこと。難しいな。気候変動、怖い。

精神分析は精神分析で、精神分析家は精神分析家で、個別性は精神分析の内側で発揮されているものだからなあ、とか考えながら本を読んでいた。

たとえば日本の精神分析家に松木邦裕先生がいるけど松木先生といえばビオンみたいな印象が今の人たちにはあるかもしれないけど(少し前は松木先生といえばクラインみたいな印象があった人も多いと思うけど)『パーソナル精神分析事典』(2021、金剛出版)とか読んでいると先生はただ精神分析と生きてきたんだなって思わされる。ビオンだって福本先生が監訳したり訳したりしているビオン全集の自伝とか二人目の妻、フランチェスカによる回顧録とか読むと特定の分析家どうこうではなくて精神分析にワイルドに自分の人生賭けてる感じがして変なお行儀の良さとか変な皮肉っぽさみたいなものがないのがすごくいいし、精神分析ってそういう自由をくれるよね、と思う。ビオンがクラインの分析を受けていたから、とかそういう話はまた全然別の話だと思う。精神分析は「そういうのどうでもよくね?」みたいな領域を増やしていく効果はあると思う。もちろんそうあるにはままならない環境というのもあってビオンはカリフォルニアに行っちゃったし、それでも自分が探しているものがあるんだよ、と朝ドラあんぱんみたいなことを思ったりもする。

誰がどうしたどうされたとか、誰は誰々のどうでとかこうでとかを明確にするのはそれを超えていくためで、いつまでも同じところに留まるためではない。精神分析は自分が変化する必要性、必然性を感じられれば役立つと思うけど誰かを変えたい場合は役立たない。自分の場合も「変わらねば」とかではなくて。

こんなことを思ったのはオグデンを読んで、ビオンを読むと、オグデンの違和感を感じてしまい、なんでかな、と探ることがややきついからなんだけど。ビオンは言われるほどわけわからないことは言っていない。抽象度が高いから難しいだけで。オグデンの最新作はこれまでみたいな事例の説得力がない感じがして、同時に読んでいるビオンに対するオグデンの読解もいまいちピンとこない。なんでなんだろう。難しい。

「私は、分析者が解釈を与えるために必要とされる作業をなしたと信じる権利があるのは、彼が二つの相ー「忍耐」と「安心」ーを経た場合に限る、と考える。」

とビオンが「変形された容器と内容(Container and Contained Transformed)」(1970).Attention and Interpretation: A Scientific Approach to Insight in Psycho-Analysis and Groups,2:106-124で書いている通り、こういう作業にも「忍耐」と「安心」必須。つまりネガティブケイパビリティ。

この論文の日本語訳は、『りぶらりあ選書 精神分析の方法 II〈セブン・サーヴァンツ〉』(法政大学出版局)の第4部 「注意と解釈」「第12章 変形された容器と内容」

あるいは2024年に翻訳された全16巻(著作15冊+索引)からなるThe Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.の第15巻、福本修先生による全訳『ウィルフレッド・ビオン未刊行著作集』の付録C、編者クリス・モーソンによる「破局的変化」と「変形された容器と内容」:比較研究。Appendix B: ‘Catastrophic Change’ and ‘Container and Contained Transformed’: a comparison, by Chris Mawson

この15巻の邦訳も薄いけど内容は濃い。フランチェスカによる付録A 私たちの人生の日々(フランチェスカ・ビオン)
Appendix A: The Days of Our Lives (1994), by Francesca Bionはビオンの人となりと仕事がすっきりと、しかしずっしりと書かれている。

メモになってしまった。

さっき、ベランダに出たら蒸し暑さを残した涼しさ、つまり秋を感じた。ぼんやりしていたら大きな羽音が頭を掠めていった。人生ではなく蝉生に思いを馳せるでもなく慌てて部屋に戻った。屋内の方が蒸し蒸しする。私は今日はやや憂鬱。仕事の合間に歯医者に行くから。嫌だ。怖い。毎回無心になることを心がけるがなかなか難しい。でも仕方ない。歯も大切にしないとね。

良い一日になりますように。