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涼しい。

昨夜はみんなが傘をさしているなかこのくらいならいいかなと折りたたみ傘を開かないまま歩いていたら駅に着いた。濡れていなかった。深夜、雨脚が強まる音が聞こえた。雷も鳴り始めた。停電になったら嫌だなあ、と懐中電灯を探したがなかった。実家から持ってきた真っ赤な大きいラジオ付き懐中電灯があった。これ間違ったとこをカチってやると大きなサイレンが鳴っちゃうんだよな、と思いながら慎重にライトの電源を探してカチッとした。案の定何もつかなかった。そりゃそうね、と電池カバーを外すと単1が3本。おお、大きな音がするわけだ。最近、電池を取り替える必要がある家電は単3ばかりだったから単1はどこかな、とちょっと探したけど、もう寝ないと、と結局何もせず朝になった。まだ暗いうちに起きてしまったけど停電にはならなかったみたい。雷はそんなにひどくならなかったのかも。起きなかったし。早朝はまだ結構雨が降っていたが明るくなるにつれて雨も止んだ。短くても秋らしさを感じられるのは嬉しい。

今朝は銚子のまちの駅、銚子セレクト市場で買った「ふるさと」の「地球展望館」というお菓子。丸くしたパイナップルが乗った丸いタルトみたいなお菓子。これが地球ってことね、きっと。地球と月ってこと?「地球展望館」って名前、「地球の丸く見える丘展望館」に違いないのだけど(違うのかな)結構大胆に略したなとちょっとおかしかった。第21回菓子博有功金賞だそう。有功金賞というのがあるのね。アールグレイと美味しくいただきました。

昨日はオグデンの最近の二冊、Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic SensibilityとWhat alive meansの自分用訳を少し整理した。結構たまっていた。でもファイルの整理が悪いせいか同じところを訳したものが複数異なるファイルに入っていたり、ちょこちょこ修正したのはどっちだろう、となったりした。うーん。

とりあえず今日をがんばろ。涼しい!

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残暑、オグデン“Coming to Life〜など。

曇り。なんだかまだ蒸し暑い。よく動いてるし体温調節もできてると思うのだけど今年は汗に皮膚が反応しやすくて結構辛い。なんで自分の皮膚から出るものでやられないといかんのだ。しっかりして、と思うがいい子に薬を塗る。めんどくさいねえ。

週末、オンライン投句の締切に向けて、角川の秋の歳時記を電車でパラパラ見ていた。季語「残暑」の例句がいかにもじっとりしてて笑ってしまった。みなさん、さすが。

昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。

オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

似たようなことはすでにこのDestruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’の論文の冒頭にも書いている。こんな感じで。

「この論文ではあまりに多くのことがほのめかされるにとどまっているので、読者はそれを読むだけでなく、書くことにも参与しなければならない。本稿で私が展開するアイデアは、ウィニコットの論文に対する私自身の読むことと書くこと——私がそれをどう理解するか、そしてより重要には、それを用いて私が何を作り出すか——を示すものである。」

とか、その先でも

「それは、母親が「現実であるがゆえに破壊されつつあり、破壊されつつあるがゆえに現実になりつつある」瞬間に、対象が実際に生き残ることが決定的に重要であるという考えである。私は今なお、この言葉を読むと頭がくらくらする。この一対の考えを何とか理解しようとして、多くの時間を費やしてきた。対象が「現実であるがゆえに破壊されつつある」とはどういう意味なのか?ここで人は、ウィニコットの論文を「書く」ほかない。なぜなら、彼は決定的に重要な考えを、説明されることなく、ただほのめかされるだけの極めて捉えがたい形に残しているからである。」

ぶれないオグデン。この論文が面白いのは、オグデンがウィニコットを読む仕方が、理解が、変わってきたこと、その場所を明確にしていること。最初から丁寧に読んでいくことで明らかになっていくウィニコットの言いたいことに豊かな思考とともについていくオグデンは楽しそうだし、それを読む私も楽しい。読むことの楽しみだな。またすぐ忘れてしまわないように今度はメモの保存を工夫せねば。これまでも工夫してきたつもりなのになあ。どうすればいいんだろう。

まあ、今日は火曜日。これは要確認。今週もがんばろう。

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11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社

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オグデンを読み始めた

昨年、邦訳が待ち望まれていた『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳)がようやく出版された。原書名はRediscovering Psychoanalysis ーThinking and Dreaming, Learning and Forgetting。https://kaiin.hanmoto.com/bd/isbn/9784909862211

オグデンのこれまでの著作はRoutledgeのサイトで確認できる。https://www.routledge.com/search?author=Thomas%20H.%20Ogden

『精神分析の再発見』以前に邦訳されたのはおそらく2冊目の著書『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』、4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』、5冊目『もの思いと解釈』、6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』の4冊だと思う。つまり12の著書のうち5冊が邦訳されたことになる。未邦訳のものも翻訳作業は進行中のようでそう遠くないうちに日本語で読めそうでありがたい。

2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊が出た。このシリーズはクライン派の本はすでに何冊も訳されているが、独立学派のものは昨年邦訳がでたハロルド・スチュワートの著作と、そのスチュワートが書いた『バリント入門』くらいだと思う。オグデンの最新刊はComing to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

オグデンは本書でフロイトとクラインに代表される”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ。

この本はこれまでに発表された論文がもとになっているが、私はまずはオグデンがその仕事の初期から行ってきた”creative readings”に注目したい。読むという試みは常に私の関心の中心にある。

オグデンは『精神分析の再発見』においても「第七章 ローワルドを読む―エディプスを着想し直す」(Reading Loewald: Oedipus Reconceived.2006)と「第八章 ハロルド・サールズを読む(Reading Harold Searles.2007)とローワルド、サールズの再読を行っている。

これまで彼が行ってきた精神分析家の論文を再読する試みには

2001 Reading Winnicott.Psychoanal. Q. 70: 299-323.

2002 A new reading of the origins of object-relations theory. Int. J. Psycho-Anal. 83: 767-82.

2004 An introduction to the reading of Bion. Int. J. Psycho-Anal. 85: 285-300.

などがある。

ほかにも詩人フロストの読解などオグデンの”creative readings”、つまり「読む」仕事は精神分析実践において患者の話を聴くことと同義であり、それは夢見ることとつながっている。

オグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”ではウィニコットの1963、1967年の主要論文2本が取り上げられている。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

まだ読み始めたばかりのこの本だが、50年以上前に書かれた論文がなお精神分析におけるムーヴメントにとって重要だというオグデンの考えをワクワクしながら読みたいと思う。

オグデンがウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直し、ウィニコットの”Oh God! May I be alive when I die” (Winnicott, 2016)を引用しているのを読むだけでもうすでに楽しい。

そしてすでにあるオグデンの邦訳が広く読まれ、精神分析がもつ生命力を再発見できたらきっともっと楽しい。

本当ならここでもっとオグデンについて語った方が読書案内になるのかもしれないがここは雑記帳のようなものだからこのあたりで。

そういえば中井久夫『私の日本語雑記」の文庫が出ましたよ。おすすめ!