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読書

白桃烏龍、國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』を読んだ。

白桃烏龍が今朝も美味しい。今我が家にあるお菓子でこれに合うお菓子がない。白桃烏龍と一緒にもらった小さなかわいいドライフルーツは合いそうだけどもったいないからまだ開けたくないし。でも何かちょっとお菓子をと思って小さい葉っぱ型のチョコを食べた。小さくても味はチョコだからなぁ。別々に美味しい。

國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)をようやく読み終えた。政治家であり哲学者であるライプニッツに対するスピノザの政治的嗅覚が描写される冒頭はワクワクする。スピノザという人間がどういう人だったか直接的に書かれているところはどこもワクワク読める、といっても本をオフィスにおいてきてしまったので引用とかしたいけどできない。でも問題はその人となりを形成しているであろう彼の哲学的思考だ。この本は2011年1月に出された國分さんの博士論文を元にした本『スピノザの方法』と繋がっている。私はその頃から國分さんの講義を何度か受けているのでなんとなく聞いたことがある言葉もたくさん出てきた。もしその経験がなかったら多分読み終われなかった。そのくらい難解。特に『デカルトの哲学原理』に関する部分は頭がだいぶおかしくなった。國分さんはこういう思考に持ち堪えながら実践も続けている哲学者なんだな。若者たちを惹きこむアニキ的魅力に溢れているし、地域の声を驚きと共感を持って聞く聴力もすごい。これらは私が理事をしていたNPOにきていただいたことがあってその時に思ったことなんだけど國分さんの聞く力は聴覚から違うのではと思うくらいすごいですよ。哲学者としての激しさも人間らしくて怒りを具体的な実践に生かしていく様もすごいのはみなさんご存知の通り。その人の頭の中はこんな複雑なあれこれを何年も何年も巡らしているわけでしょ、すごすぎる。國分さんもライプニッツやスピノザと同じく政治家でもある哲学者なのね。実践って本当に大変なことだと思う。読むだけならもっと楽しかったり面白かったりする哲学に関する本はたくさんあるけれど、言ってることとやってることがあまりに違うと「誰にだって事情はある」と思うしかないし、やってることがあまりに心ないと「語るだけなら心などね」と思う、しかない。もちろんそれが自分に関わることだったらそんな悠長なことは言ってられない。そういうときに國分さんみたいに実践する哲学者のあり方と思考は勇気をくれる。國分さんは『スピノザの方法』のあとがきで

「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのか考えねばならないと思っている。

と書いた。それを実践しているのがこの“読む人スピノザ”を読む國分さんと一緒に読んで、考えることをさせてくれる『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)なんだと思う。とても大変な本だけど新書で持ち歩きやすいしとりあえず読み進めて読み終えてまた読んでを繰り返していると馴染んでくる。私はこの本は立ち止まってしまうことが多くて苦労したけど頭がおかしくなる感じは「誰かと一緒にいる」ってこういうことが起きるってことだよなと日々の仕事における感触と同じで読み進める動機になった。現実は厳しい。「誰かと一緒」に心が伴ってしまうことに耐えきれないと本の部分的な引用ばかりして上手になかったこと、みなかったことにしてしまう場合もあるけどそういう都合のいい使い方はできないこの本は実践に必要な思考の練習の場を提供してくれているという意味でも貴重。私は苦労したけどみなさんはどんな体験をなさるでしょう。興味のある方は読んでみて。一緒に考えていきましょ。

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趣味

とりあえず

今回は投句しないことにした。いつもは「投句することに意義がある」と大慌てで作った10句を速達で送っていたけれど。

と書き出してみたけれど保育園にいかなければ。そこにいけばどうにかなる。「きちゃえば全然元気なんです」登校しぶりの子どもの状態か。私は学校にもいかずバイトばかりしていたし「きちゃえば元気」な子どもの状態はわかるようでわからない。

とりあえず動かねば。

(何時間たったかな)

とりあえず動くことに成功し、いってしまえば仕事きっちり(したと思う。子どもたちかわいい。先生方がんばっておられる。)、今日は昼間に時間をとりやすい月曜日ではないかと神保町へ。

目的は大学時代からの友人のやたみほさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展「アミエとキリエ」。場所は神保町の大きめの通りに面したブックハウスカフェ。子どもの本の専門店、ということでぐるっと見わたすだけでも楽しい気持ちになりました。小さなギャラリー的スペースもいちいち魅力的。今度じっくりめぐりたい。突然の訪問にも関わらずやたさんもちょうどカフェにいらして近況報告。この前、時間があいたときに「今ならいける!」といつもと違う電車に乗ったはいいが神谷町と間違っており結局いけなかった。でもそのときはやたさんもこられない日だったからラッキー。同じくやた作品ファンの店長さんもいらしてお話できました。イロキリエ作家、松本奈緒美さんの作品(特に鳥!)もとても素敵でみんな連れて帰りたいと思ったのですがすでに売約済の赤いシールが。でも私もお気に入りの鳥さんと出会えました。展示の期間が終わったらお引き取りするの。楽しみです。大きな本屋さんのとても小さなスペースに手作りのぬくもりというか、超絶不器用の私には信じがたい技術と労力があふれていてほんとすごいと改めて思いました。超絶器用といえばやたさん、松本さんはもちろん、山本貴光さんや國分功一郎さんが紹介している『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)を思い出しますね。最近読み始めました。久しぶりに漫画を読むのと老眼が進んでいて読みづらいなと思っていたのですが、とても面白い。山本さんは『世界を変えた書物』(著:山本貴光 編:橋本麻里)の紀伊國屋書店新宿本店限定特典のリーフレットのなかで「もしもその科学の知識や技術がなかったら・・・・・・」というところでこの漫画に触れておられます。このリーフレット自体もとてもおすすめ。「思いやりってなに?」という方にもぜひ手に入れていただきたい。山本さんの文章自体にそれを感じられると思う。國分さんの最近のお仕事『スピノザ 読む人の肖像』『國分功一郎の哲学研究室』にも丁寧に地道に長く関わっていくことの価値を教えてもらっているしみなさんに感謝。「とりあえず」の毎日でもなんとかね、と思えますように。この後もがんばりましょう。

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精神分析 精神分析、本

11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社