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精神分析

フロイト読書会、秩父土産、語尾

今年度最後のフロイト読書会Reading Freudを終えました。来年度メンバーも募集中。音読で丁寧に読んでいく機会はなかなか持てないと思うのでぜひ。音読で通読したあとはフロイトが生きた歴史、政治、家庭、理論を絡めながら解説を加えつつ精神分析のはじまりを振り返ります。おそらく精神分析の印象はだいぶ変わると思います。メンバーの皆さんからは単なる理論や読み物ではなく「難しいけど奥行きを感じられるようになって楽しい」など嬉しい感想をいただいています。ご案内はオフィスのウェブサイトブログ「精神分析という遊び」をご覧ください。ご参加お待ちしております。

秩父のお土産をもらいました。秩父は東京からもワンデイトリップで気楽に行ける素敵なところです。今みたいにきれいになる前に泊まりで行ったことがあるのですが駅前のホテルがとてもとても怖かったのを覚えています。今はなくなってしまいました。それはそれで気になります。これまで全国の安いホテルに色々と泊まってきましたが秩父は最も思い出に残っているホテルのひとつです。あとは萩と田辺のホテルでしょうか。最近だと中津川かな。これらは全く異なる理由で心に残っています。そういえば中津川は安くなかったです。かなりネガティブな意味で心に残っちゃったから残念ですが勉強になりました。素敵な居酒屋と老舗和菓子屋さんたちに癒されたので無問題ですが。そうそう、お土産は「秩福かりんとう」「長瀞ポテトチップス 鮎の燻製風味」「源作印・赤」、あととても素敵な水羊羹。どこのって書いてあったか。いただくときにきっとまた書くでしょう。ちなみに埼玉県秩父市のイメージキャラクターは「ポテくまくん」。「秩福かりんとう」のパッケージにもいます。かわいいです。にしても秩父に限らずだと思いますが山は花粉が凄まじいようですよ。ついにきてしまいましたね。

それにしても眠いです。春ですものね。今日は移動が長いからそこで眠れそうですが寝過ごすのも怖いですよね。でも怖いと思ってれば起きられるでしょうか。今ふと「〜ですかね」といって「かね、なんていわない」と指摘されたことを懐かしく思い出しました。たしかに、という文脈だったので恥ずかしくも思ったのですが語尾になにをもってくるかは大切ですね、たしかに。印象がだいぶ変わると思うのです。生身の人の言葉は生き物なのでその人の生活と切り離すことはできませんし興味深いです。さて、いきますね。またここで。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

漫画、フロイト、オグデン

昨晩は大正ロマン関連を色々チェック。旅に出るから。袴で街をそぞろ歩きしたい。今朝は吉田戦車『伝染るんです。』をパラパラ。少しずつ積み上げられた本と論文の整理をせねばと単に別の場所に移動させるようなことをしているときに見つけてしまった。ちっこい文庫。『はいからさんが通る』ではなくこっちを見つけてしまった。これ帯もつけっぱなしにしてたんだ。1巻「読んだらキケン!』2巻『不条理来襲』3巻『枠組み破壊』4巻『爆発的伝染力』5巻『非常識の完結』。『伝染るんです。』なんだから4巻のはどうかな。まあ大きなお世話かな。今こんなことしてる場合じゃいないんだよー(泣)。でも面白いよー。それにしても部屋がひどいことになっている。

Reading Freudも事例検討グループも始まったからインプットを増やしていかないとなのに別のことばかり調べてしまう。英語論文とか最近ちょっとしか読んでないからめちゃくちゃ読むの遅くなってるし。そんな賢いわけではないのだから真面目にやらないとなのにね。あー、吉田戦車とか大和和紀天才。フロイトと同じくらい読むべきものたちと思う。

一応、私が読書会でいつも言っているフロイトの書き方に意識を向けることについて話すためにオグデンの2002年の論文を再読したのであげておこう。これはオグデンの単著に入っていただろうか。訳されていないけど誰かが編集している本に入っていることは知っているけど書名を忘れてしまった。漫画読んでないでこちらをチェックしないとね。

Ogden, T. H. (2002) A New Reading of the Origins of Object-Relations Theory. International Journal of Psychoanalysis 83:767-782

The author presents a reading of Freud’s ‘Mourning and melancholia’ ということでフロイト全集14の『喪とメランコリー』をオグデンが再読。この論文は対象関係論のはじまりと言われている論文。これは十川幸司訳の『メタサイコロジー論』にも収録されているからそっちで読むといいかも。フロイトが短期間で一気に書き上げたというメタサイコロジー論文の中でも最重要。

オグデンが重要と考えるのはvoice。太字は私が太くしました。

the way he was thinking/writing in this watershed paper.

オグデンはのちに‘object-relations theory’(対象関係論)と呼ばれる心の改訂モデルの背景にあるフロイトの考えを以下に要約。

(1) the idea that the unconscious is organised to a significant degree around stable internal object relations between paired split-off parts of the ego

(2) the notion that psychic pain may be defended against by means of the replacement of an external object relationship by an unconscious, fantasied internal object relationship

(3) the idea that pathological bonds of love mixed with hate are among the strongest ties that bind internal objects to one another in a state of mutual captivity

(4) the notion that the psychopathology of internal object relations often involves the use of omnipotent thinking to a degree that cuts off the dialogue between the unconscious internal object world and the world of actual experience with real external objects

(5) the idea that ambivalence in relations between unconscious internal objects involves not only the conflict of love and hate, but also the conflict between the wish to continue to be alive in one’s object relationships and the wish to be at one with one’s dead internal objects.

要約だけだとまあそれもそうかという感じかも。症例の話がないとということで興味のある方は本文も読んでみてください。

ちなみにオグデンは下に書くフロイトの論文の終わりの部分を引用して患者の実際の生活に根ざしていないと精神分析もthe self-imprisoned melancholic who survives in a timeless, deathless (and yet deadened and deadening) internal object worldと変わらないよ、ということでこの論文を閉じています。

Freud closes the paper with a voice of genuine humility, breaking off his enquiry mid-thought:

—But here once again, it will be well to call a halt and to postpone any further explanation of mania … As we already know, the interdependence of the complicated problems of the mind forces us to break off every enquiry it is completed—till the outcome of some other enquiry can come to its assistance .

オグデンは少しだけ省略してしまっているので十川訳の方からこの部分を引用しておきます。
「しかし、ここでは再び立ち止まり、まずは身体的苦痛、それからその苦痛と類似した心的な苦痛の持つ経済論的な性質への新たな理解が得られるまで、マニーについてのさらなる解明は延期するのが適切だろう。周知のように、錯綜した心的な問題は相互に関連しているため、他の研究成果を役立てられるようになるまで、このような研究は不完全なまま中断せざるをえないのである。」

これぞフロイトの書き方という感じがする。フロイトには常に次へ継続するための中断がある。実際、ここに書かれたことは継続的に探究され別の論文に書かれています。フロイトを読み始めるとこうやって読み続けることが必要になってしまうことをみんな無意識的に知っていて敬遠してしまうのかな。ここに書いてあることがよく掴めなくてもまた出てくるから大丈夫、ということを私はよく言うけど。精神分析みたいな心の探求は時間がかかってしまうのですよ、反復につぐ反復を扱うから。まずは反復を認識するところから時間がかかるし。うーん。体験と結びつくと多分かなり読みやすくなるのだけど読むために体験するわけではないしね。精神分析を体験するのはフロイト全集を買うよりもお金もかかるしそう簡単におすすめできるものでもないし。うーん。悩ましいですね。とりあえず読んでいきましょう。

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精神分析、本

フロイトを読む


noteで一番読まれている記事。みなさんがフロイトに関心があるのなら嬉しい。精神分析のアップデートの基本作業が「フロイトを読む」だと思うから。

以下はなんとなく書いたnote引用。

「フロイトを読む」という試みは世界中でいろんな方法で行われている。

私がフロイトと出会ったのは随分前で、子供の頃から「夢判断」(今は「夢解釈」と訳されている)は知っていた。自分で読みこなしていたわけではなく、大人が引用する部分を耳で聞いていたわけだが、夢には無意識的な意味があるということは、子供の私にもごく自然に、なんの違和感もなく受け入れられていた。私に限らず、夢の意味を考えるということはクラスでもテレビでも本でも普通に行われていたことで、「無意識」は現在の精神分析がその用語を使用する以上に生活に浸透していたのだろう。

あえて取り上げると物議を醸すというのは精神分析臨床ではそうなのであり、有るというならエヴィデンスを示せ、というのは、愛情でもなんでも多分そうなのである。そしてそれが不可能であることも大抵の人は承知しているはずで、だから切なくて苦しいのに、精神分析はいまだに厳しい批判に晒されている。でもフロイトの意思を継ぐ者はその人だけのこころが可視化するのは生活においてであることを知っている。

またもや適当なようだけどそんな気がするな、私の体験では。

月一回、私の小さなオフィスでReading Freudという会を行っている。少人数で1パラグラフずつ声に出して読み、区切りのいいところで止め、話し合い、なんとなくまとまりを得て、また読み進める。この方法はとても有意義で、声のトーンやスピード、フロイトの書き言葉との向き合い方はわからなさに持ちこたえようとするその人なりの仕方をあらわしているようでもある。

随分前に、小寺記念精神分析財団という、精神分析及び精神分析的心理療法の知識的なことを学べる財団主催の臨床講読ワークショップというセミナーでフロイトを系統立てて読むようになった。このセミナーは毎月一回、平日夜の3時間、フロイト論文を一本、それと関連する現代の論文を2、3本読むというものだった。

このセミナーは私がやっている小さな読書会と違って20人ほどが参加していて、毎回担当を決めて、レジメを作り、この時間内でそれをもとに議論をするという形だった。日本の精神分析家の福本修先生が論文の選択と解説をしてくださり、数年間でかなりの数の論文を読むことができた。フロイトを中心とした現代の精神分析家のマッピングが自分なりにできたのはとてもよかった。

キノドスの『フロイトを読む』(福本修監訳、岩崎学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b195942.html)はこのセミナーのメンバーが訳したものである。私が参加する以前のメンバーなので私は翻訳に参加していないが、この本はフロイトを読むときのお供として活用すると精神分析概念を歴史的に学ぶことができ、何年にも渡って加筆するフロイトの思考の流れを追いやすくなる。

サンドラーの『患者と分析者』(北山修、藤山直樹監訳、誠信書房http://www.seishinshobo.co.jp/book/b87911.html)のような教科書もコンパクトに重要概念とその歴史、現代的な意義がわかってとてもおすすめだが、まずは「フロイトを読む」、精神分析に関わるときの基本の作業はこれだろう。

とか書いているが、私は読んでもすぐ忘れてしまう。もうずっとそうなので、読んだときのインパクトが大事、精神分析ならなおさら内容よりインパクトが大事、だってそれは無意識が揺すぶられた証拠だから(言い訳かも)、と思って読んでは忘れる、をそのつもりなくり返している。


私たちのReading Freudで現在読んでいるのはウルフマン症例、「ある幼児神経症者の病歴より」である。使用しているのは『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』だ(藤山直樹監訳、岩崎学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b341286.html)。

1910年にフロイトが出会ったロシア人貴族である男性。この患者がみた夢から「ウルフマン」と名づけられた。あまりに有名で、関連文献もたくさんでているこの症例論文、当然私も何度か読んでいる。そしていつも通り忘れていた。

ひとりひとりが全く異なる声で、1パラグラフずつ読んでいた。私は読まれ方で喚起された疑問などをぼんやり考えながら聞いていた。その日はちょっと眠くて「夢」という言葉が出てくるたびにうんうんと夢見がちになっているのを感じた。

章で区切って、とりあえず書いてあることの理解を手助けしながら意見を聞いていたら、なんだかこれまであまり感じたことのない感慨に耽ってしまった。

宗教からして、言葉からして、身分からして、とにもかくにもいろんなことが違いすぎる。病歴も大変すぎる。方言だって理解できない私が、まるで違う環境を生きてきた彼の体験を追体験することは到底できそうにない。

なのになぜだろう。話をしているうちにやはり私たち(私だけではないと思う)はこの症例に身近さを感じてしまう、視覚像を共有したような気がしてしまう、普遍的な情緒を、こころの動きを捉えてしまう。少なくともそんなときがある。それはフロイトの思考に導かれているからだ、逸脱も含めて。どうやら私の感慨は、精神分析がもつ普遍性に対するこれまでとは異なる水準の気づきだったらしい。知らんけど、といいたいけど。

この多神教の国、日本においても精神分析が生き残っているのは、この普遍性ゆえに違いない。この普遍性は確実に、私(たち)が精神分析臨床に持っている信を支えている。たぶん。

以前も書いたが、フロイトの著作の翻訳に完全なものがありえず、それが夢解釈と同様に多義的で、精神分析と同様に終わりのない作業であることから示唆されるように、精神分析がもつ普遍性というのは関わり続けることで生じる変容可能性であり、身体の死を超えてなお生き残るなにかなのではないだろうか。

夢見がちでこんな感慨に耽っただけかもしれないが新鮮な体験だった。