舌が痛い。朝からしょっぱいものを食べたからか。
PCに向かうと自動でアップデートされていたようで立ち上がるのに時間がかかった。しかもこれはアップデート時は毎回なのだが立ち上がってアセクスビリティに関する選択の画面が出ると凍ってしまう。「今はしない」だっけな。選択肢が出るけどクリックがきかない。で、毎回再起動する。するともうその画面はでず「問題が発生したため」どうこうという画面が出てその部分へのクリックもきかず「〜秒後」に再起動します、というのを待つことになる。そしてようやく起動。このプロセスってもう何度も経験してるのだけどどうにかなっちゃうから問題にしたことがない。数年前の年末年始、高野山へ旅したときは確か原稿締切が近いのに全然進んでいなくて仕方なくPC持ち歩いていたらフリーズ。外は雪。この子(PC)はフリーズ。私だってフリーズしかけたがもうこの歳になるといろんなことに驚かなくなる。歳のせいではないかもしれないがとにもかくにも自分にはどうにもできないことはどうにもできないのだ。何かできる状態に持っていくしかない。宿坊での早朝の朝勤行の床の冷たさに比べたらなんでもないわ、と思いつつ雪のなかを散歩した。今だったら気楽に旅できていただけラッキーだったわ、っていうことになるね。1月2日に一番早く予約が取れた銀座のアップルストアに持っていき理由わからず回収。数日後、中身が新しくなって戻ってきた。原稿は間に合った。
鳥が賑やかになってきた。SNSにも鳥の声をあげている人がいる。画面に鳥はいないけど高く響くかわいい鳴き声がそこから聞こえる。私も今窓の外に鳥を感じるだけでその姿は見えていない。生まれつき目が見えない人は鳥の姿をどんな風に想像するのだろう。私は私が見えているのと近い形に想像しているのではないかと想像する。彼らが音から空間をつかむ姿を見ているとそんな気がするけど違うかもしれない。どの程度を「近い」というかという話でもあるがそういう意味でも私はやっぱり近いような気がする。今度聞いてみたい。
昨日、千葉雅也さんのnoteを読んでいてホテルというのは出来事の宝庫だなと思った。現実にあることもないことも起きる。殺人、密会、乱交、ドラッグなどなどの現場になったり別の時代への入口になったりする。映画や精神分析状況を思い出している。
ビジネスホテルはコンパクトで過剰も余剰もないが千葉さんの記事に出てくるようなホテルにはある。さらに鏡、固定電話、湯沸かし器、エレベーターといったホテルに必ずある物たちも別の時空を現実的、想像的に体験するには十分な力を持っている。同じ姿をしたドアがずらっと並び中では何が起きているかわからない。その羅列は反復でもあり三面鏡の前に立たされたような感覚にもなる。少し時空が歪んだかのように過去と今が錯綜する。インターネット以前も以降も知る千葉さんや私の世代はある程度歴史を持つホテルがもつような空間とネット上、つまり平面が持つ奥行きという空間の両方に引き裂かされながら生きてきた世代だ。
疎外によって「私」が発生する鏡像段階、去勢による言語の発生の段階(精神分析の用語を使用する場合)、私たちの世代は身体で関わり合う対人状況と記号から立ち上がる触れえぬイメージの時代の比重が変化する移行期を生きてきた。「戦争を知らない子供たち」という歌を思い出す。私は千葉さんのnoteを読みながら、私が今以上に歳をとってある程度ラグジュアリーなホテルでくつろぎながらその時代にはすでに気持ち悪がられているかもしれない身体に悪そうなソースがかかったステーキとかを食べているのをこれからの世代が見たら不気味だろうなと思った。想像上のホテルの鏡的な場所に映った老いた自分を見たような気がした。フロイは『不気味なもの』のなかで不気味なものを「慣れ親しんだ–内密なものが抑圧をこうむったのちに回帰したものである」としながらそれだけではないという含みをもたせた。そこには触れえぬもの、疎外状況があるのだろうと私は思う。
千葉さんのような語り部が必要なのはそういうわけだろう。アイデンティティなんて言葉はいずれ使われなくなる気がする。自分を語る見知らぬ他者が連続しない場所に複数存在するような時代に誰の声でどうやって自分の輪郭を確かめていくのだろう。触れられ抱えられ声や身体感覚を頼りにそうしてきたこの身体が断片化したり流出し拡散していく状態はもはやエリクソンのいう「危機」でもなくなるだろう。
本当はnoteの内容を具体的に書きながら共有したいが有料記事なのでぼんやりしたことを書いた。千葉さんのしていることも私が考えていることも結構重たいと思う。でもこの世代としてやれるならやっておくべきことというのはあると思うのでとりあえず続けよう。
今日は土曜日。いいこともありますように。