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精神分析

雨やだな。気が重い。頭も重い。だるい。どんよりする。という文字が目に入ってくる朝。私も今日の雨は憂鬱。

後ろめたいことがあるときにしがちな振る舞いについて話していた。隠しておきたいことなんてすぐにバレるのにね、と笑った。相手の気持ちがわからないからどうしていいかわからなくてパターン化しちゃうのかな。色々工夫してるつもりなのかもしれないけどなんでそれでどうにかなると思えるのかな。ほとんどこっち頼みなんだろうから知らないふりしてるけど子供じゃないんだからさ。自分が後ろめたいだけなのに防衛的になられるとこっちが悪いことしてる気分だよね。この前さ、うちの子が嘘ついたの。すぐわかっちゃうんだけどね、こっちには。しばらく知らないふりしててあげたんだけどこれはちょっとというところで言ったんだよね。そしたらすごい怒ってぶってきてさ。ママのためにせっかく隠しておいてあげたのにくらいなこと言って。えー、かわいい。そういうのは小さいうちだよね。こっちは大人だからもううんざりなんだけど私もマゾっぽいところがあるからさ。わかる。ペアの問題だよね。

こういう会話もパターンがあるからいくらでも思いつくし実際にあるわけだけど当人たちはそれぞれ辛いわけでそれをこうして話すことで少しだけ生き延びる。毎日はその連続。今日は特にだるいかもだけどそれぞれ少しずつ生き延びよう。

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精神分析

子供

寒い一日だった。反射的で心ない言葉には心が寒くなる。意図も聞かず勝手な解釈をしてはねつけたくなるときは自分で自分を守らねばならないくらい余裕のないとき。そんなに余裕がないなら休めばいいのにというのは外側からの意見で余裕があると色々考えなくてはいけないことに気づいてそれはそれで嫌な人もいる。薬で眠ってようやく自分の余裕のなさに気づく余裕ができる場合もある。余裕をもつって難しい。

子供に育てられる、というけど子供がいると一番大変なのは自分の都合より相手の都合を優先しないと実際に危険が生じることだと思う。自分の食べ物、自分の睡眠、自分の身体、自分の時間、それまである程度コントロールできていた自分の色々が否応なく奪われたり侵食されたりしていく。もちろんそれは子供のニードへの反応だし、子供にも奪う意図などないけれど気持ちはめちゃくちゃでどろどろになって疲れ切って半分以上発狂したりする。それすらかなり我慢しながらだけれど。ケアの文脈は狂気の文脈でもある。これを体験したからこうなる、というわけではないけれど自分を差し出しながら自分として生きていこうと奮闘する毎日は大変すぎる。たくさんの支えがあればいいと思う。

小児科医で精神分析家のウィニコットは”Mature adults bring vitality to that which is ancient, old and orthodox, by recreating it after destroying it.”というようなことをいった。原著が見当たらずメモしかないけど”the family and emotional maturity”という論文において。まさに子育てを通じて成熟していく大人の体験そのものといえるかもしれない。

ウィニコットは最初の妻との間にも二番目の妻との間にも子供がいなかった。死ぬ間際まで続けた臨床が同じように巻き込まれる体験として子育てと重なる部分はあったかもしれないがウィニコットの場合、何かをしないこと、しなかったことの方へ注意をむけていると思う。

ウィニコットが1968年、NY精神分析協会で行った講演は翌年のIPAジャーナルに掲載された。『遊ぶことと現実』に収められた「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」がそれである。

すでに晩年を迎えたウィニコットのこの講演はアメリカの精神分析家に受け入れられなかったという。ウィニコットはこの論文で「対象と関係すること」という概念と密接に関連する「対象の使用 use of an object」という概念を俎上にのせた。

ウィニコットはそれまでの豊富な精神分析体験から解釈を待つことの意義を強調し、「答えをもっているのは患者であり、患者だけである」という原則のもと「分析家を使用する患者の能力」を見出した。

当時NYの精神分析コミュニティには通じなかったかもしれないが全員が全員そうというわけでもなかっただろう。私は今になってウィニコットのいいたかったことがわかる気がしている、と一気に論文の中身を省いて書きたくなるがもう遅い、時間が。夜中だ。どうかみなさんの夢がなにかしらの仕事をしてくれますように。少し楽に目覚められますうに。