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精神分析

自己開示、正当防衛、ライフハック

まだ暗い時間から長文を書いた。公にはしないものを。何歳になっても傷つきや後悔を公に自己開示する形でしか体験しようとしない人がいる。したほうがいいとかでは全くない。本当に悲しんだり、本当に後悔したり、「本当に〜」とつくものは公に語れないことの方がずっと多い。そういう部分に誰かを介入させたとたん嘘っぽくなる。逆にそうなってしまうくらいに言葉にできない体験をしてきたのかもしれないという仮説もたつ。SNSが自分の言いたいことだけを垂れ流し見せたい自分を上手に見せられる人たちの活躍の場になり何回でも人をうちのめすことができる場になった。「そんなつもりはなかった」「自分のこと言われてると思ったんですか」といくらでもごまかしの言葉を使う。そういうのも「正当防衛」というらしいが散々嘘をつきながら人の心と体を弄び実際の傷をつけておいて自分が責められそうになるとこっちが「正当防衛」のためにそんなこと言ってるだけだ、みたいなまるで嘘つき呼ばわり。その人を知っている人に話しても「クズだな。すげえな。」で終わり。そりゃそうだ。利害関係は大事だ。「見て、聞いて」を叶えてほしかった相手は大抵の場合もういない。その不在を体験できず承認を求める。なかったことにできるならなんだってする。誰を傷つけても構わない。まだまだ傷ついている子供なんだ。かわいそうだからとそばにいるうちにいつの間にか性愛が入りこみ都合よく大人になったり子供になったりする。私たちは愚かだ。自分の立場が弱くなると被害を主張し、事実を持ち出せば「後悔してます」と怒り含みの言葉で人を黙らせコミュニケーションを回避する。それでも驚くべき軽薄さを維持したまま自分の失敗は失敗のまま女や男や「仲間」を利用し続けることをやめられない。本当に厄介だなと思うのは軽薄で言葉巧みな人は表面的な人気を得やすいのであまり上手に言葉にできない人がいつも見下され黙らされてばかりなこと。それこそ「クズだな。すげえな。ひでえな。」と思ってしまう。自分の傷つきや症状は主張するくせにその人たちほど上手に立ち回れない傷や症状や「障害」といわれる状態を抱えている人たちに対してはものすごく差別的で排他的だったりするのでうんざりすることもある。そういう人の一部にライフハックという言葉をよく使う人がいた。なんの共感性もなく彼らを見下し私を見下すので「それもライフハックなのだろう」と言ったらプチ切れされた。人を怒らせること、それを自分に照らし返されることへの恐れも深刻だ。心理療法過程ではこんなような心の状態は必然的に現れる。実は誰にでもある心の状態だから。ただそれを行動にしてしまうのはとてもまずいことだろう。本来はこういうことは公に垂れ流すことで自分を含む誰かの傷を広げるものではない。なので秘密を守ってもらえる場所が必要になる。話し合いができる関係を築きつつ言葉にしていくこと。その関係を作るのも言葉だからその時点で痛みは避けられないし専門家だからといって無条件に信頼できるはずもない。普通よりは知識とスキルと経験がありその仕事に関する倫理規定に基づいて仕事をしているということを信頼してもらうほかない。世界はひどいことで溢れてる。戦争だって起きている。それでもなぜか生き残っている。不思議だよね。何がなくともそういうことになっているのであればなんとか今日も一日過ごせそうだろうか。今日もいいお天気みたい。私は昨日から池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞出版)を読み始めた。親が送ってくれた。読んでいる途中から止まらないと言っていた。持ち歩くには分厚いがたしかに読み始めると気になってしまう。持っていこうかな。それぞれなんとかやっていけますように。またね。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生