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精神分析

心ない人、心と経済、夏のお花

寝たり起きたり。寝違えたわけではないというか、仕事中に急に寝違えたような首の痛みがきてそれからずっと痛くてそれでうまく眠れないみたい。暑いというのもあるね。

心ない人についてずっと考えている。性的な加害性を持つ心ない人(自分の加害性は相手に押し付けるような心はあったりする)が信田さよ子や小川公代を引用して暴力やケアについて被害者の味方みたいな立場を維持しているのをみると心ないというよりもあなたの心はどうなっちゃってるのと怖くなる。でもこれも外からはわからない。信田さよ子だって相談に来なければ助けることはできないからSNSとかで発信してくれていると思うのだけどSNSの言葉ってこうやって都合よく利用されることもしばしば。

「私はそんなことされてないしむしろ優しくされてるしそういうのは個人的なことだと思う」という人も多い。もちろん個人的なことですよね。でもそれを個人的なこととして片付ける個人が多いという意味では社会的なことですよね。個人的なこととかいっている人が「フェミとは距離とってまーす」(こういう軽薄さを伴う場合が多い)とか「ひどいことしてくるのは大抵女」とか雑な分類で何かいってたりするのもよくあること。都合がいい言葉の選択。

ペットが子供代わりみたいな関係がペットが死んで変わることもある。というよりペットが死んだらペットによって繋がれていた関係だったとわかる、みたいなことはペットがいなくても起きる。たいていの関係には媒介がある。利害とかも媒介となりうる。いつの間にか死んだペットを自分の寂しさの象徴として利用していたり。モーニングワークはそういうものではないし、二者関係によって第三者を慈しんでいたならその第三者を喪失したら二者関係がワークの基盤になるが相手を想う心があまり育っていない人は自分の痛みや葛藤を抱えることがすでに難しく快を維持する二者関係以外はしんどいからどこかへ追いやってただただスッキリしたい。商魂逞しい場合、ネタ化、商品化によってさらに誰かの痛みや孤独を強めたりする。「黒歴史」として書いて売っていることもあるだろう。「こういう現実を生きるために」という本だって書いてしまうかもしれない。その場合「なかったことにするために」が正確な題名だと思うけど。

こういう現実を生きるために何にお金を使うかはもっと大切に考えないとだな。貧しい時代なんだもの。心と経済の繋がりを具体的な体験と離れない形で考えて行けたらいいですね。

今日は友達がくれたクラブハリエのちっちゃいバウムをいただきました。とってもかわいいし美味しかったです。お花もいただきました。夏のお花、明るくて大好きです。

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精神分析

ラジオ、かつしかけいた、7月へ

Good morning. It’s five o’clock, from the J-WAVE Singin’ Clock♪

ってずーっと変わらないよね。学生時代はひたすらJーWAVEだった。今も聞くと当時の人たちがたくさん喋っててみなさん親になったりしてるのね。ずーっと声だけ聞いてるからCMとか別の場所で聞くと「あ、J-WAVEの人だ」と思ったり、J-WAVE主催のライブに行ったり、台本というのかな、そういうのを書くバイトに応募しようとしたりしたなあ。どうして書かなかったのか。きっといつも通り怠惰のせい。

ラジオのこと書きながらも頭は別のことも考えていてさっきはまんが家、イラストレーターのかつしかけいたさん @ktsksketch「路草」で連載していた『東東京区区』の単行本第1巻発売楽しみだな、とか思っていた。連載冒頭の作品紹介を引用させていただきます。

「自分が生まれ育った「東東京」は、まだまだ知らないことばかり……。偶然知り合った年齢も性別もルーツも〝まちまち 〟な三人が、「東東京」の街を探検・散策し、その新たな魅力や今まで知らなかった場所、気付かなかったことを見つけ出していく地元発見冒険譚 。 」

面白そうでしょう。東東京、いわゆる「下町」ですよね。墨田区はスクールカウンセラーをしていた学校はなくなってしまったけどその頃の繋がりで今でも幼稚園に仕事にいくし、江戸川区の病院でも長く働いていた。その頃にかなり歩いていろんな駅やバスを利用してみたりしていた。精神病院の朝は早かった。患者さんたちも早朝から並んでいたし近所の公園でもよく見かけた。NPOで市川(総武線)や市川真間(京成線)北国分(北総線)も身近だった。前に江戸川区の病院で仕事したあと歩いてみようと思ったら江戸川に橋がない!結局市川橋まで歩いて夜のミーティングというか飲み会に行ったのでした。この漫画はインドネシア人の父と日本人の母をもつサラさんがエチオピア出身のセラムちゃんのお母さんが営むエチオピア料理店@立石に入るところから。地図を手に道に迷っているうちに春太くんと出会うよ。東京出身の人ほど東京タワーに行かないというのをよく聞くけどここは下町。スカイツリーがそういう場所。スカイツリーの完成は2012年。押上の友達の家でカレーパーティーをしたときにはまだできていなかった。そっちの方にいくたび、押上の街がどんどん変わっていく様子を聞いたのを思い出す。

わたしはかつしかけいたさんのイラストや写真も好き。街をこんな風に切り取れるのはその全体を知っているからなのかな。単行本はAmazonでも予約が始まっているそう。私は本屋さんで買うけどチェックしてみてくださいね。お散歩好きの人には特におすすめ。

ジャークチキンって言葉がラジオから流れてきた。最初に聞いたのはいつだろう。「邪悪チキン」って悪い顔をした鳥さんを思い浮かべたでしょ、最初はみんなも。そんなことない?フェス飯の話か。そういう季節だねえ。私はまだコロナ警戒中だから空いてるフェスがあるなら行きたい。適当に踊ったり歌ったりしたい。歌と踊りといえば今Netflixで「ヘアスプレー」配信中。すごく元気でるミュージカル映画です。昼間は外出たくないけど夜、花火したり外で遊びたいね。松戸の花火屋さんを思い出した。江戸川でやったなあ。懐かしい。今年も浴衣着よう。受け継がれてきたものも大切にしないとね。楽しいことばかり考えてるけど外に出るのは憂鬱ね。暑そうだもの。まあ、今日も一日なんとかやりましょう。週末は7月!

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鳥、言葉、同時

鳥たちが蝉みたいに一斉になくのをどう表現したらいいのかなと思いながら楽しく聞いていた。少し資料に目を通したり、流れてきた政治家の演説を少し聞いている間に鳥たちはどこかへいってしまったらしく今外はとても静かだ。

いろんな音が聞こえるがさっきまで道路の方に感じていた人の気配ももうない。カラスは時折通り過ぎるし。車が走り去る音も聞こえる。でもまだまだ朝の音だ。

パソコンがフリーズしてしまったので再起動かけた。私たちも寝て起きて再起動。立ち上がりの遅い自分を棚上げして文句言っちゃいけないよなあ、と立ち上がりの遅いパソコンの画面を眺める。でも私の立ち上がりが遅いからきみたちみたいな人、人じゃなくて何?もの?機械に助けてもらっているわけだから早く立ち上がって、とも思う。どっちにしても待つしかないが。

のんびりとだが立ち上がったのでこうしている。こんなことしている場合でもないが動きたくない。どうしましょう。今日もいろんな人と会って私は主に聞く方で一緒に考えて一緒に言葉にしていく作業をする。そういうときは言葉の意味以外、言葉が発せられる行為そのものをぼんやり観察している。精神分析ではそのときの自分の発話などの行為とそこで生じている逆転移も同時に観察している。決まった目的のために、たとえば何か特定のことを伝達するために言葉を使う場ではないので彼らは彼らの文法のままに言葉を使い思考し発話する。いろんなことが同時に起きていて表層に浮かんでくるものを発話し続けている彼ら自身も戸惑いながらだ。こんなことが言いたかったわけじゃないんだけど、とか思わず言っちゃったけど、とか「けど」「でも」「だって」など自分の中で整合性を保つ努力をしながら浮かんだことをそのまま言葉にしようとしてはその困難と不可能に直面する。自由連想ってこんな感じ、ということを書きたかったわけではなかったのだけど指にまかせていたらそうなったのだから書きたかったのだろう、といろんなことは事後的、というのも精神分析の特徴で抵抗や批判にあうところだ。でもそういうもんじゃないのかな。あとからいくら正確に文字にしたところでなんの意味もないということはよくあること、というかそこにはなんらかの反復を見出すことはできるから重要は重要なんだけどその人の転移とか抵抗とかセクシュアルだったりアグレッシブだったりする空想とかそいう諸々は精神分析のルールにそって現れてくるものだからその方法では扱えないんだな。フロイトの技法論集も参照。

いろんな鳥たちが一斉にいろんな鳴き声でいろんな風に鳴いている感じなのかもね、私たちの言葉も。身体と欲動と言葉。いろんなことに順番はないしどっちかということもない。分けられないまま同時に起きてることに身をひたす。まだ風が気持ちいいです。どうぞ良い1日を。

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精神分析

Juicy by 土居健郎

いただいたメロン、とっても美味しかった。ジューシー。土居健郎が藤山直樹の最初の本『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(2003、岩崎学術出版社)の序文で使った言葉だ。

「英語にジューシ(Juicy)という形容詞があるが、彼の書く文章がまさにそれである。」

この本が出た夏、私ははじめて藤山直樹先生の単発のグループに出た。そこでこの本を購入した(たしか著者割)。一緒だったみんなとはその後も精神分析を学び合う関係でありすでに精神分析家になった人もいるし別の道を選択した方もいる。

私は土居健郎のことは土居先生と呼ぶほど身近ではなく、パトリック・ケースメント(うろ覚えだが)が来日してケースカンファレンスがあったときに発言する土居健郎をみてその迫力に圧倒された。土居健郎が亡くなったときのことは相田信男先生がどこかに書かれていたし、先生方からもお聞きした。土居健郎の著作も一人でもセミナーでも多く読んできたしいろんな人から話も聞いた。みなさん、なにかしら土居先生とのイキイキしたエピソードを持っていて土居先生はオープンな人なんだなあ、あんなど迫力なのに、と思っていた。藤山先生がケース理解に関してなにか大切なことを伝えてくださったあと「って土居健郎がいってた」というのもいつも面白かった。いまや私も訓練中とはいえ臨床家としては教える立場になったので「って土居健郎がいってたって藤山先生がいってた」と言ってみたりすることもある。それに「ような気がする、がいっていないかもしれない」とか曖昧なことを言ったりもする。伝達とは不確かなものだ、というか先生方の考えにだって変遷がある。「前はそんなこと言ってなかったじゃん」ということだって普通にある。というかそれが普通だ。

それにしても『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』はいい本だ。フロイトとの対話が基盤にあり、オグデンの考えに強い影響を受けながら一人の精神分析家と患者たちひとりひとりのパーソナルな出来事がまさにイキイキと書かれている。土居健郎はこれをジューシ(Juicy)と表現したんだな。私はものすごくパーソナルな精神分析というものを普遍的なものとして記述するって転移、逆転移を軸に展開する世界をこうやって描写することなんだ、と思い「これを読む先生の患者さんはみなさんご自身のことかと思うかもしれない」とお伝えしたことがある。先生は「そうかもしれないね」と笑っていた。どこにいっても相手を変えて反復を繰り返す私たちのこころは身体を借りて今日も誰かとの間に自分を見出しては否認するだろう。とりわけ分析に通う患者はそれとの距離に敏感だ。自分のこころなのになぜこんなにも遠くにおいてしまいたいのか。自分で自分のことを嫌う。そんなような表現は日常的でよく聞きもする。「自分のことが好きになれない」とか。でも精神分析は好きとか嫌いとか対人レベルの何かではなく自分にもどうにもならない快と不快という原初的なセクシュアリティのレベルで生じる情動と衝動を扱う治療だ。そこには砂漠もあれば泥沼もある。オアシスは空想でならありそうだ。土居健郎が藤山直樹の本の序文で「精神分析という営みにはどのような陥穽が潜み、またそれがどのような醍醐味をもたらすものであるか」と書いているが非常に際どいモノだと思う。

今日はどんな1日になるだろう。あまり聞かない音を立ててバイクが通り過ぎた。御殿場のお菓子屋さんの抹茶パウンドが美味しかった。たくさんの主語があるね、世界には。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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精神分析

思いやり

さっきまですごく賑やかだった鳥たちの声が少なく、遠くなった。もうお出かけですか。早いね。私も今日はいつもより早く出よう。昨日バタバタ急いでてやるべきことを残してきてしまった。今日もバタバタだから朝のうちにやっておかねばまたすぐ1日が終わってしまう。

子供のいない夫婦の夫側が妻と妻以外のパートナーにどういう優劣をつけがちかということについて話しながら書いていた。子供という絶対にお世話が必要な相手がいる場合は実際はなんのお世話もしていなくとも時間的にも気持ち的にもそれなりに拘束されるので別。誰かを大切にする仕方って人それぞれだけど葛藤なく分けて考えていること自体に優劣が発生しているよね、という話。「葛藤なく」が大事。本人なりの葛藤とかはちょっと別。行動と状況から推測。ほとんど葛藤する必要のない状況が多いから、そういう人の場合。色々話しながら考えていくとやっぱり子供やお世話のニードがある相手がいるかいないか、いなくてもそういう相手の存在というものをリアルに考えざるを得ない状況にあるかないかで相手のことを思うこころ、一言でいえば思いやりというものが求められる状況は異なるから何をどう問題にしていくかは変わってくるよね、という話。公私混同しながらダラダラ時間使えてしまうような関係でももちろん思いやりはあったほうがいいけどなくてもそういう相手がいる場合と比べたら深刻にはならない場合の方が多いでしょう。周りを巻き込むこともあまりないし。都合よく離れる理由が最初からたくさんあるから。もちろん一番身近な人がそういう思いやりを大事にする人だったらものすごい負担をかけるだろうけど。障害や病気はもちろん、子供や高齢者のケアについて考えるときにそういう切迫感にどれだけ浸されているかは重要なんだな。「子育てしかしてなくて」と申し訳なさそうに女に言わせる社会はそういう切迫感に耐えられず自分なりの葛藤に留まっている人たちの思いやりのなさから生じているといってもいいかも、これは男女限らずだけど。でも今はまだいくら形整えても結局無意識的に男頼みにならざるをえないのが自然な状態なわけだから女は現実的に相当な状況にならないとこういうこと考えるの抵抗あるかもね。今も具体的な人のことがたくさん思い浮かんでいるのだけど引き続きやっていこう。また話そう。

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再会

西側の窓を開けた。鳥の声が直接入ってきた。窓の外で溜まり込んでいたような風も。気持ちいい。書き出すと眠気がくる。コーヒーを淹れた。詩を書く友達の手作りパウンドケーキも切ってきた。ラジオからは多分テクノ。昔テクノを勉強しにドイツに行った教え子がいたがなぜドイツだったのか。小さな頃から大変な想いをしていた。テクノにはまってからがすごかった。今思えばあまり年齢も変わらなかった。いつも穏やかに微笑みながらそばにいて少しだけ面白いことをたまにいう人だった。今もその人の話をたまにすることがある。どうしてるんだろうね、とその人を思い出す私たちはなんとなく笑ってしまう。そういう人だった。

隙間時間に出かけた。本当によく笑った。出会ってから30年。連絡をとるとき少しドキドキしたんだ、というとすぐに共感してもらえた。やりとりを続けてきた友だちもいるが卒業以来はじめて会う人もいた。会えばすぐにわかる程度に見かけも変わっていないことに安堵して笑い、震災やコロナだけでなく様々な出来事をそれぞれが生き延びてきたことをみんなでねぎらいあった。小さな大学で毎日のように顔を合わせていた日々を卒業したあと、それぞれが過ごしてきた日々を聞きながらふと交わされるやりとりが当時と変わらずそれにもびっくりしあった。外からみたらだいぶ変わったに違いないけどね、と笑いつつ。入学後間もなく同じ時間、同じ車内でそんなことが起きていたのか、とはじめて知ったのもすごく可笑しかった。私は長生きしそうとか言われながら同窓会幹事にさせられたわりになんの仕事もしてこなかったけどみんなのおかげで今回とてもいい形で再会を果たせた。とりあえずというかなによりもみんな生きていてよかった、という一方で身近で亡くなった人の話をしたりもした。そういう体験が増えてくる年齢でもある。廃部寸前の弱小バドミントン部が数年後優勝を果たすチームになっていたのにも驚いた。私が部長のときは相手チームが私たちに向けるやや見下したイメージ通りのかわいいユニフォームで、しかしそこそこ粘る、が楽しむための戦略だった。強豪相手に意外と粘るから悔しくて泣いてた人もいた。イメージで人を馬鹿にしちゃいけないね、というメッセージは伝わる人には伝わったんじゃないか。

優しくたくましいみんなの日々が今日も豊かでありますように。それぞれの毎日が大切にされる社会でありますように。今朝はNHK俳句、斉藤志歩さん。鑑賞がよすぎて毎回感動しちゃう。楽しみ!

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 お菓子

余裕のなさとか

缶がガラガラと大量に落とされる音を聞いて目が覚めた。多分大量のレモンサワーの缶がプラスチックの箱の中に投げ込まれたのだろう。ベランダから覗こうかと思ったが外に出られる格好ではなかったのでやめた。でもまあ起こされたついでにと着替えて裸足で靴を履き外へ出た。風が弱い。もう少し吹いてくれていいのに。通りにはすでに誰もいなかった。箱の中は予想通りレモンサワーの缶で底は見えなくなっていたがいつもみたいに溢れんばかりではなかった。スーパーの3円のビニール袋を傾けて発泡酒とビールテイスト飲料の缶をガラガラと箱に落とした。レモンサワーが見えなくなった。ビニール袋に一本がくっついて落ちてくれないので手で剥がして置いた。ほとんど乗らない私のマウンテンバイクもどきにかけた傘がまだ少し濡れている気がしてわかりづらい平面のボタンを押し込んでサドルに立てかけた。薄い日陰ができた。まだ光が弱い。今日も曇り空だろうか。キッチンに戻ると一本だけ缶が置いてあった。捨て忘れた。朝そこに立った時に「これも捨てなくちゃ」と思ったのにな。

さて今日は教えてもらたチーズケーキのお店に寄りたいのだけど移動時間を考えると余裕がなさそうだ。うーん。でもキャロットケーキが届く予定もある、そういえば。以前散歩コースに美味しいキャロットケーキを出してくれるお店があった。人気のある店だったが遠くへ移転してしまった。移転先は結構田舎で車がないといけない。相変わらず地元の人に愛されているらしく売切の毎日らしい。よかった。キャロットケーキは見た目もとってもかわいい。見かけると思わず寄っていってしまう。こんがりした茶色にクリームチーズの白。この前も外から覗いたパン屋さんにキャロットケーキを見かけて思わず寄っていってしまった。そこのは断面が正方形ですごくきれいな地層みたいだった。惚れ惚れした。でもかなり大きい。一人分のカットみたいなんだけど。うーん。なんかもったいないから誰かといるときにしようと泣く泣く諦めた。その日から通りかかるたびに「今日はあるかな」とガラスの向こうを探してしまう。あると嬉しくなる。ないと「これからかな」「もう売り切れちゃったのかな」と思う。そしてチャンスがある日に限って余裕がないか忘れてしまうかする。美味しいものがそこかしこにあるからな。

あら。大きな声がして赤ちゃんが泣き出した。大丈夫かしら。この辺、また赤ちゃんが生まれてたんだ。しばらく聞こえてなかったんだけど。赤ちゃんの泣き声もどんどん変わる。保育園の子どもたちも元気かな。土曜保育はいつもと違うおもちゃで遊べるかもしれないね。みんな色々あるだろうけど元気に育つんだよ。

昨日、不買運動について一瞬考えた。人物と作品は関係ないと私は思っているがそう思えない関係があることも知っている。作品によって名を成した人に心も体も弄ばれ仕事もままならず収入も減った人がその人がいろんな種類のパートナーに囲まれて平然と次の作品に向かっていることを知ったらまた日常の行為とかけ離れたよくみれば軽薄なだけの作品(と関連した諸々)に金が入って相手を利用する資源や機会を増やすのかと不買運動に乗り出すことは十分にある。ただ、サークル的関係は解体しない方向で動くから運動と呼べるほどの大きな動きにはならないだろうし多くの女もそこに巻き込まれているわけだからシスターフッドなんてまるで感じられずまた絶望と孤独に陥るだけけかもしれない。それでも「声をあげる」としたらそれは決して黙らない相手に「こんな状態でもまだ生きてるよ」ということを知らせたいからかもしれない。でもそれだって軽薄に知性を活用して人を騙しながら誰かと嘘っぽい幸福な関係を築いている人は自分がしたことまで知的に面白がって距離をとれてしまうのですでに切り捨てられている可能性が高いかもしれない。毎日、高橋ユキさんのツイートでいろんな事件を知るのだけどああいう犯罪とこういう搾取って量と程度以外でどうわけていくわけ、とそこに連続性を見出しながらもそれが法的に罪ではなければ罪ではないという事実に戦う気力すらなくなることだってある。罪悪感を感じない人でも法的に「罪」というレッテルを貼られたら罪人になるわけだけどそれはレッテルでしかないし反転可能な場合もあるから難しい。むしろ法的には被害者とされる人の方が孤独で小さな抵抗を試みるたびに罪悪感に苦しんでいたりもする。都合よく使われ言葉を限定され身体は発散の場所にされ我慢は労われるどころか言葉にしなかったことを「どこに書いてあるんですか」と責められたり。「傷つく」という言葉を簡単に考えたりいろんな側面から検証しないとと検証もせず言っているだけの人はこういう目にあったことがない幸運の持ち主かもしれない。そんな余裕ないことっていっぱいあるんだけど。仕事をしないと生活が維持できないから怒りや気持ち悪さや理不尽に学ぶしかないとどうにかこうにか切り替えようとしてもすごく時間も気力も奪われてどうにもできない体験ってしたことある人って多いと思うんだけどだからといって他人は他人。そういうときだけ割り切れる。誰だって自分のことが一番大事で気持ちよくいたいものね。意味とか価値とか考える余裕もなくそういう目に遭い、それでも生きているという事実に応じていくしかない状態で自分のことも誰のことも殺めず生きていくためにはどうしたらいいのだろうと苦しい夜を過ごす人たちはどうすればいいのでしょうね。言葉で追い詰め身体を傷つける人に限って「そうしないためには」とか他人事のように言ったり書いたりしはじめるからせめてそういうときはすかさず「あのときのあれはなんだったんだろう」と呟くくらいはしておくとかね。不買運動も小さな抵抗。小さな抵抗は小さな祈り。届かずとも自分が生きていくために、と思えばいいのかしらね。

今朝はローゼンハイムのバウムクーヘンと紅茶でした。外はいつの間にか日差しでいっぱい。難しいことだらけだけど今日も一日、なんとかかんとか。

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お菓子 精神分析、本

Netflix、フロイト読書会、お菓子

早朝からNetflix三昧してしまった。「その女、ジルバ」とか「クィア・アイ」とか。「クイア・アイ」相変わらずいいわ。この上品なハイテンションも好きだしみんなすごくよく相手の話を聞くしいうべきことをはっきりいうところも好き。ポジティブになるって一人じゃできないもんね。大事にされて真剣に考えてもらえることは時にうざいし拒否したい気持ちの方が大きくなることもしばしばだけど変わらなければという人には欠かせない関わりになる。クィア・アイはそれぞれの専門性を生かしたチームでやってるのもすごくいい。変化のためにはいろんな方向からの支えを準備していくことが大切になる。前もってではなくて同時進行で。前もっては難しい。何が起きるかは誰にもわからないから。でもパターンというのはあるから積み重ねられてきた歴史は大切。だから勉強も必要なのね。友達も大切。積み重ねといえば何年も続けているフロイト読書会、フロイト全集を最初から読んできて主要論文は2巡目、3巡目になるわけだけどみんなの読み方がすごく変わってきた気がする。こうなるとみなさん優秀だから私は教わることの方が増える。「それは精神分析でなくても理解可能」という範囲での対人関係的な読み方ではなくなってきて、自分の枠組みを壊して広げた感じ。強烈なわからなさの中で持ちこたえてるとこういうことが自然に生じる。多分みんなはまだ「わからないわからないわからない」の中にいるような気持ちでいると思うけど。わからないはそりゃそうでしょう。わかるというのがどんな状態なのかと聞かれたらわからないでしょ。だからわかるわからないの軸はとりあえずなくしてその場にとどまることでいいんじゃないかな。人間関係だってひどい人はいっぱいいるけど心ある人もいっぱいいるから判断は速すぎない方がいいかもね。違和感は大切にした方がいいけど。

今朝は相変わらず長野のお土産の「栗のガトーショコラ」でした。なめらかな生地で小さくてきれいで美味しかった!

今日も雨?今はくもり。このまま降らないといいね。傘持ち歩くとなくしちゃうもの(そういう人多いでしょ?)。それでは今日もご無理なく。余裕なくすと悪循環始まっちゃうからいろんなこと受け止めつつも真に受けすぎず距離取りすぎずゆらりゆらりやれたらいいかもね。わからないけどね。

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精神分析、本

早朝『ヒステリー研究』を読んでいた

深夜と明け方の間くらいからスズメが鳴いていた。夏至を過ぎても日の出はまだ早い。「日が短くなったなあ」と感じる日は本当にいつの間にか訪れる。毎日毎日空の変化を感じていたとしても。なつかれくさかるる、あやめはなさく、はんげしょうず・・・と唱えていたとしても。あ、薬の飲み忘れに気づいた。何か唱えるって大事かもしれない。

空から少し暗い色が抜けてきたのをみてフロイト『ヒステリー研究』を読んでいた。新しくした遠近両用のメガネが合わず本を読むのに一苦労、ということで前のメガネを使っている。またメガネ屋さんにいくのに時間作るの辛いな。さてフロイトとブロイアーの共著でありながらその対立点が明確になった『ヒステリー研究』。岩波版だと『フロイト全集2』。1は失語症論。3は心理学草稿。4、5は『夢解釈』。『夢解釈』を精神分析の始まりとすることが多いけどそのエッセンスはその前夜に全て、といえるくらい出揃っている、と思えるほどその後も長く検討が続けられる論点が提示されている。フロイトとブロイアーは二人とも臨床医であったがヒステリーに性的要因を見出すフロイトにブロイアーはつきあいきれなかったようだ。というより実際にアンナ・Oの治療をしていたのはブロイアーであって、強烈に性的な感情を向けてくる患者といたらそこで生じる混乱や衝動に対処することにいっぱいいっぱいになってしまい理論的考察をする余裕などないというのが臨床的リアリティであるようには思う。ましてやそれを性的なものとして捉えるのはかなり勇気が必要なのではないだろうか。今、精神分析を実践する私たちだって性的なものに対する態度は様々な否認と抵抗と共にありその捉え方や表現に決まったものがあるわけではない。性的なものは言葉にすればするほど混乱を生じさせるようなところがあるし。ということを学ばせてくれる本でもあるのだ、これは。精神分析における「重層決定」「情動」という言葉の登場もこの本の理論的部分と言われている。もちろんこれらの言葉自体は他の分野でもすでに使われていた。今読んでいるフランス精神分析の本は「情動」に関する考察でまるごと一冊という感じだし何年経っても謎なのに重要という概念は結構あるものだ。

もうこんな時間。準備準備。今日は再び雨が降りそう?こっちはまだ降っていません。少し涼しいのは助かりますね。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

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夏至、衣更、コンポ

朝の風が涼しい。夏至ですね。太陽は一番高いところへ。今日から昼間が少しずつ短くなっていく。体感とは違うけどその事実を知っていると毎年この日がとても寂しい。私の場合、朝の仕事、昼の仕事、夜の仕事があるわけではないけれど「日が長くなりましたね」「夏至ですね」と天候のお話をするのは朝とか昼間にくる人たち。「よく降りますね」ももしかしたらそうかもしれない。夜ってあまりお天気の話しなくないですか?「昨日の雨は大変だった」とか少し前の話をすることはあっても。そんなことないかしら。

衣更、「ころもがえ、ころもがへ」と読むけどこれは初夏の季語ですね。私はここ何年も衣更は少しずつ少しずつ。5月が特にそうだと思うのだけどまだ厚手の上着を来たくなったり半袖でも大丈夫そうな日があったりする。半袖を着て上着を羽織ろうかな、くらいの日に夏服が入っているタンスからその日着る服と似たような数枚をもってきてさすがにもうこれは着ないかなという厚手の冬服をそのスペースに置く。その繰り返しをしているうちにいつの間にかその季節仕様の服がそばにくる仕組み。ずっとしまわれっぱなしの服もあるけどね。つい同じのばかり着ちゃうから。

コロナ禍でオンラインの仕事ができるようにその初期に一気に整えた。その後も少しずつ仕事と生活のバランスを考えながら部屋を変えているが先日、西側の大きな窓に向いたこの大きなテーブルはここでなくてもいいのではないか、と急に力仕事をはじめた。うちの場合、動かさねばならないのはほとんど本なのでいろんなところに本を積み上げ直し部屋のほぼ真ん中にどーんと机を置いてみた。景色が全く変わった。大きな本棚にスペースも見つけた。懐かしい写真たてと写真も。どうしてもっと早くこうしなかったのかしら。でももし最初がこうだったら数年経ってこの前までそうだった場所に移動して「どうしてもっと」とか言っていたかもしれないものね。

三段ボックスの組み立てに苦戦しているときにたいして使っていなかったコンポ(という言い方自体懐かしい)でラジオを聞いていた。東京に来てから結構長くテレビもなかったしずっとラジオ生活だった。よい。音楽のサブスクもやめた。コンポのそばに積んであったCDやたくさんのカセットやMD、これら全部この小さなコンポで聞けるのだから、と場所を変えた大きなテーブルにコンポを置きラジオを聞きCDを聞きはじめた。今日はなぜかずっと一枚だけそばに置いておいたSonny Rollins、Way out west。1957年製作、発表。私が買ったのは1991年。

CDの取り出し口の小さなボタンを押して英語教材を取り出しソニー・ロリンズを入れた。すぐにあの音が聞こえてくることを期待していた。CD ReadingがTrack1とかに変わるのを待った。あれ?表示が変わらない。NO DISCとでた。えー、入れたばかりですよ、ともう一度取り出し口のボタンを押して一度取り出してもう一度入れてみた。CD Reading、でまたNO DISC。なんでやねん。でもこういう動作自体なんか慣れてるわ、と思って数回やったあと電源を落とし、またつけた。小さく何かが回転するような音が聞こえた。CD Reading→CD1。やったー。入れ直す、電源を落とす、ってこういう機器の危機に対する基本動作だよね、と思った。

昨晩は仕事後も会議があったから今日の資料を作る余裕がなかったのにまたどうでもいいことを書いてしまった。資料作りの方を日課にすべきかしら。でもきっと無理。こういう頭空っぽにして手作業する時間が必要なの。ああ。間に合うかな。がんばろう。夏至だよ、一年に数回しか言わないから言っておこう。今日は昨日より涼しい風が入ってくるけど夏至です。みなさんもどうぞお元気でお過ごしくださいね。

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お菓子 精神分析、本

お菓子、Webちくま、メタ

今週は信州のお土産で朝を過ごしています。昨日のはnoteに載せてしまったけど「ヌーベル梅林堂」の「くるみやまびこ」ハーフ。アンガディーネ(伸ばすって知らなかった)みたいなお菓子でとても美味しいのだけどウェブサイト見てびっくり!7年間保存できる「くるみやまびこロングライフ」バージョンもある。信州だから登山用の非常食にもと。すごい。私の想像ではロングライフバージョンは少し乾いた味がしてる。それにしても「7年」というのはどういう基準から算定されたのかしら。すごい。今日はお土産さんのSHINSHU BLACK TEA COOKIE & CREAM 信州 紅茶のミルククリームサンドクッキー。これ美味しい。ザクザクした生地と紅茶のクリーム。なんだか懐かしい味がする。

いちいち動きを止めるような衝動が生じるけどそこそこのスピードで進まなくてはいけない。みんな他人を利用しながら生きているということに痛みを感じつつ自分がそうしている仕方を確認しつつ。とどまるには自分をメタで見ていくしかない。

本が助けになる人にはWebちくまのこんな連載もいいと思う。堀越英美さん(@fmfm_nknk)の新連載「あなたの悩み、世界文学でお答えします。」。面白かった。

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3127

私はジェインみたいになれない、「強火と弱火を自在に操る」なんて、という人もいるでしょう。というか大抵の人はそうでしょう。でもその物語を読んでいるときは少なからず主人公に同一化するわけで実際にそうなれるかどうかよりもひとときでも違う自分になれる自分を発見することの方が大事なのかも。だって「私にはできない」でも「私なんてどうせ」という言葉でも相手になってみようとした結果の言葉でしょう。相手の立場になってみる方法なのね、読書は。最初から拒否的になることだって生じるでしょうけどそれはそれ。自分の気持ちが自分の想定とは異なる方向に動く予感を感じるだけで苦しくなる場合だってある。それもそれ。そういう心の状態にひどく傷つけられる場合もあるけどそういう心は傷つくことをしたくないのだから心を動かせる側がメタを目指したほうがいい。弱者だから傷つく、苦しむ、という場合もあるけれど強者(大抵変化を嫌う人)の脆弱さの投影を引き受けている側面も大きいと思う。だから憎みつつもそれに覆われてしまわないことが大切なのでしょう、ジェインのように。でもこれはやはり文学でのお話。それはそれはひどい結末のお話も「単なるお話」と思うこともできるね。物語に入ってみて出てきてなにかを思うとき、それは入る前よりも自分を客観視できる状態なんじゃないかな。すぐにそうできなくなってしまうかもしれないけど。実際の人間と関わるっていうのは大変だ。でも人がいる限り、人でいる限りしかたないからプチメタ大事かもね。ヘビメタみたい。また言葉遊びに入ってしまうからこの辺にしとこう。プチコントロール。明日は夏至。寂しいな。とはいえ暑さに気をつけて過ごしましょう。

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さくらんぼ、風、鳥

山形からさくらんぼが届いた。二つに仕切られた箱にぎっしり。ツヤツヤ。キラキラ。さくらんぼは「桜桃の実」という季語でもある。「きごさい歳時記」によると「セイヨウミザクラは、明治以降日本へ導入された後、主に山形県で海外品種をもとに育種が行われ、日本の代表品種である「佐藤錦」や「紅秀峰」等の品種が作出された。」とのこと。その山形県からやってきたさくらんぼ♫音符みたい。かわいい。まずは「常温で」と教えてもらった。たしかに!冷やしたあととは全然違う甘味。そうね、果物って冷やさないで食べるときのそのままの味が格別だよね、忘れとったわ。保存の場合、カルピス漬けにして凍らせるのも美味しいと聞いたのだけど保存するまでもなくあっという間になくなってしまいそう。でも大切にいただきたいし。でも1秒でも新鮮なうちにいただきたいし。ああ、美味しいものを美味しくいただくにはいろんな葛藤があるのね。

さっき南側のベランダにでたら風がとても涼しかった。東の空がピンクがかってマーブル状になっていてとてもきれい。部屋に入ったらまたむっとした空気。全部窓開けてるのにさっきの涼しい風はどこ?今は西の窓からすごく静かに涼しい風が入ってくる。もうちょっと気づかれるように入ってきてもいいんだよ。目隠しで中途半端に開けているブラインドがカタカタいうけどそれも季節の音だから大丈夫。気にせず吹いて、でも強すぎず。なんて人間はわがままなのかしら。いう通りにしてもらえないって知ってるからいろんなこと言えてしまう。言う通り思った通りにしてもらえないから嫌になって何も言わなくなってしまう人もいるけどそれは人間同士のお話。人間って難しいというより時折めんどくさい。自然と暮らすことも本来はとても大変なことで次世代、またその次の世代とすごく先を見越して共存の道を探る必要があるのでしょうね。今元気に鳴いている鳥たちもそこに森があるって証拠だもの。空はなくならない?鳥が飛ばない空ってある?南極にも北極にも鳥はいるのね(調べた。大体渡り鳥だって。)ペンギンも鳥だよね。面白いよね、ペンギンって。ずーっとみていられる、というか生き物ってみてて飽きない。だからこの仕事してるのかな。

昨日はじめてお喋りした人たちのことを思い出してフフッてなった。ペンギンから思い出したのかな。自分の自由連想を追うのも難しいわね。

最近、フランス語再び、という気持ちが高まってきているけどその前に英語をどうにかせんとね。その前にさくらんぼ♫

Il faut de tout pour faire un monde.

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夢とか快とか

寝たり起きたりしているうちに朝になった。寝苦しかった。除湿もつけていたしちょうどいい感じだったのに。難しい文献を読んで頭がおかしくなっているのかもしれない。今日も暑そう。昨日は特別なお弁当を食べた。塩気に弱い私には少ししょっぱかったけどすごく美味しかった。塩分も大事ですね。そういえばかわいいオリーブオイルとバルサミコ酢もらったんだ。バッグから出しておかねば。いつも持ち歩いてしまうから。バッグ開けるたびに「あ、出すの忘れた」となる。マイドレッシングセットとして持ち歩くならまだしもね。

こんなことしてないで色々片付けないとなあ。ウィーンにも行きたい。フロイトがいたBerggasse 19へ。義務を思い出したら願望で打ち消してしまった。快原理。でも本当に叶わぬ夢にしないようにしたい。

フロイトは「夢はひとつの願望充足である」とその機能を位置付けた。これは「快楽」と結びつけられるかもしれないが、フロイトによる「快」はとりわけ無意識においての「快」は前意識や意識にとっては必ずしも快ではない。フロイトの「快」や「一次過程」(eine andere Lokalität)の彼岸については『快原理の彼岸』とラカンによる発展を追う必要があるが夢がどこからどこへどうやって何をしようとしているのかを考えることは面白い。夢が不在の表象を代理するものとして(ラカンだったら来るべき表象とかいうんだっけ?)なにかしらのスプリットされた主体部分を呼び寄せるものだとしたらウィニコットが「夢を見られない」ことを主訴として精神分析を求めたのはその切迫した不安、あるいは切迫することができない不安に突き動かされてのものだったのかもしれない、など思ったりした。

うーん。そんなこと言っていないで出かける前にお片付けをしましょう。今朝はコーヒー&チヨコレイト。夜はビールが飲みたいな。そんな季節の朝ですよ。どうぞみなさんもご無理なく。

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精神分析

線、差異、チーズ

光が強い!でもまだ朝の光。昨日バス停に向かうとき、強い光とビルやマンションと道路沿いの木々が作り出す暗さというか黒さに強く夏を感じた。建物の間から見上げる海みたいな空は真っ白な雲が数えられる形で浮いてた。こんな綺麗な色の海はあまり見たことがないのにそう思った。道路沿いの植え込みには濃い紫の紫陽花が咲いていた。知らなかった。

いろんな人の話を聞きながら語られている土地を想像し、景色や場面を想像し、それぞれの体験に近づこうとする。どんな感じなのか聞きながら。似顔絵を描いてもらうように。彼らが描写しようとしているものとそれを聞きながら私が描写しているものは異なるだろう。警察官だったらその正確さを要求するだろうが私の仕事は正確さよりどこから線が始まり、どこが強調されるかということを大切にしているように思う。夢を聞く場合も同じだ。断片が部分に、部分が全体に、そしてまた断片に、その動きを繰り返しているうちに見えてくる別の景色こそ「あ、それ、そんな感じ」となることが多い。差異を作り出すことができたらそれは本当に大切な一歩となるように思う。私たちはずれや差異を掻き消す方向を目指しがちだから。

今も頭の中に最近読んだいくつかの戯曲のことが頭にあるがそれについては昨日も今日も書く気がしない。ここでは手が止まってしまうようなこと、手を止める必要があることは書かない。だから大抵似たようなことばかり書くことになるけどこの繰り返しの中で自分が感じる差異に日々助けられているような気もしないでもない、今書きながら思っただけだが。読んだ戯曲には結構考えさせられているのだろう。だから簡単に書けないんだ、きっと。

インスタでブーラッタチーズを果物と豪快に合わせている写真を見た。なんだろうブーラッタチーズって。絶対美味しいに違いないけど楽しそうな名前だね。ブーラッタ♪ブーラッタ♪ってズンチャッチャのリズムでいける。あーいいな。トマト、蜂蜜、生ハム、メロン、あとは美味しいオリーブオイルとかで食べるんでしょ、きっと。素敵素敵。

昔、渋谷のスペイン坂でね、と思い出を書きたくなったけど積まれるばかりの本や資料が目に入っちゃったからやめとく。はあ。暑さに負けずに過ごしましょうね。朝の強い光はだいぶ空全体に馴染んで見かけは穏やかなお天気です、東京。どうぞお元気でお過ごしください。

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精神分析

邪悪道

規則的に鳴く鳥を脳内で真似る。毎日いろんなニュースがあるなあ、と脳内でため息をつく。Netflixで「ミニオンズ」をみた。最高にキュートじゃないか。悪の側があんなだったら能天気でいられるのに。最近善人面した悪人が多すぎるのではないか。むしろそっちが主流なのか。私はすぐに「邪悪」認定されるから善人ヅラしていないらしい。よかった。このままいきたい。「私が邪悪だっていうんですか」と聞かれた。めんどくさいのでとりあえず否定した。そう言われると「そうかもね」と思ってしまうけどめんどくさいからそういうのやめようよ、と思う。「悪いのは自分じゃない、お前が邪悪だ」と悪を押し付けたい人の単純な反転。あなたの周りはそんな単純な善悪でできているんですか。そう思い込んでるからいつもしんどいんじゃないんですか。薄くて浅い関係で毒にも薬にもならないちょっと気の利いたことを呟くのは大得意だものね。単純な「いいね!」をもらいすぎたのかしら。そういう関係は「いいね!」、傷つかなくて。でもそれはそうではない関係で誰かを弄んだり見下したり貶めたりしていい理由にはならないんだよ。そういうことは本からは学べないから知らなかったかもしれないけど。自分の思ってもみなかったことを問われるとイラッとした態度で一生懸命積み重ねてきた本の知識で説明を繰り返すか怪訝そうに首を少し傾けて小さなため息をついて圧をかけて黙らせる。「何その態度、子供?」なんて言おうものならもっとめんどくさくなるので「お勉強」と思ってきちんと耳を傾ける。世間ではそういう人が善人、賢人扱いされて本気度の少ないベタベタダラダラしたサークル的世界で気持ちよさを追求しているのだから、そういう世の中に慣れていかなければ、それが「大人」になるということ、というわけでは全くない。うんざりするが「はいはい、邪悪なのは私ですね。その通りです」ということで正しく邪悪道で精進していきたいものだ。

noteにメモったが、と昨日読んだ戯曲のことを書こうと思ったけどそのエネルギーがない。脳の働きが鈍い。すでに疲れているがなんとかやろう。

note:

日本劇作家協会 戯曲デジタルアーカイブ

青空文庫>91日本文学>912戯曲

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精神分析

鳥、涙、アセスメント

今日は鳥たちが早くからとっても賑やか。いろんな声に耳を傾けているとあっという間に時間が経ってしまう。鳥たちがこうやって毎朝鳴き続けてくれることで気持ちが少し明るくなる。身体の実際の痛みは癒えても謝らないとまずいという気持ちにさせられるほどの言葉の攻撃で受けたダメージには蝕まれ続けている。眠れないまま朝を迎えてしまった人にも彼らの声が届きますように。

SNSで見かけるお店やお花がきれいな場所に行きたいな。早朝散歩を復活させてもいいかもしれない。大学2年生の時だったか、夏に1ヶ月サンディエゴのSDSUに滞在した。朝5時だったか、毎朝みんなでランニングをした。海でもよく遊んだ。全身真っ黒になってしまい先生にこの地域の皮膚癌の発症率データと共に怒られた。最初は食べられなかったカフェテリアの甘いお菓子もいつの間にか食べられるようになった。だだっ広い道路をでっかいスーパーに向かって歩いていると車の中から差別用語を叫ばれた。

鳥たちがどこかへいってしまった。あ、鳩の声はする。くぐもった声で一定時間鳴いてまた黙る。なぜか目がしみて痛い。涙が出る。悲しいのかもしれない。

目の前の人が急に黙る。それまで低い声で落ちついてしゃべっていたのに。一言だしてはつまる。涙が溢れてくる。泣いていたのか。一度涙が溢れてしまうと止まらない。じっと一緒にいる。自分ではどうにもできなくて、とやってくる人たちの緊張の糸が切れる瞬間はいつも突然訪れる。「大変でしたね」という言葉に堰を切ったように泣き出すこともあるが大抵は意外な瞬間に。ずっとひとりでやってきたのか、こんな感情を秘めたまま。そうせざるをえなかったわけには歴史を伴う事情があるのだろう。あるいはそれまでの歴史を断ち切られるような出来事が。まだわからない。本人だってそうだろう。それでも心は動いた。その動きをどう捉えるかがアセスメントのもっとも重要なところだろう。もぐらたたきのもぐらのようにどの出来事に対しても同じように衝動が強まるのか、突然海に投げ出されたかのように自分の涙に溺れそうになるのか、驟雨のように泣き泣き止めば雨など降らなかったかのような、でもさっきまでより明らかにしっとりした連続性をもったストーリーを紡ぐのか。

いつもより広く開けた西側の窓から冷たい風が入ってくる。さっきまでは感じなかったのに。カラスが数羽、大きな声を出し合っている。心はまだ動くだろうか。時折不安になる。

シャワーを浴びて散歩に出て一度帰ってきても仕事に間に合う。まだそんな時間だ。梅雨の晴れ間でもなく曇り空だが雨の降っていない空はこの時期貴重だ。人気のない住宅街でまだ眠っている人をそこかしこに感じながら昨晩と同じように咲いているであろう花々に顔を寄せる。あ、脳内で散歩してしまった。そういうことではない。今日も実在の概念を広めにとっていこう。なんとなくそう思った。

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ゾロ目を待つように。

444だ、と32、33、34と時計が進むのを待った。44444!よし!時計のゾロ目まちはいつから?見逃したってまたいずれくるのに?そうだよ。生きてる限りゾロ目と会うチャンスは失われないのにいつだって見逃すから待つんだよ。

ベケットが死んだのは1989年、1999年だったらややゾロ目。死ぬのをあと10年待っていてくれたら。ややゾロ目のために?ありえない。でも子供のときの私たちのゾロ目待ちにかける情熱は結構なものではなかったか。

1999年は松木邦裕、藤山直樹、十川幸司が精神分析のオフィスを開業した年だ。私は大学院を修了した年だ。なんとかまだ生きてるな、みんな。

突然、友をなくすような体験を何回かしたことがある。理由がなんであれ「どうして」と問い続けることになる突然の喪失の最たるものが死だ。親密でいる間は知らなくてもいいことだって知ってしまえていたのに。どうして、と絶望に打ちひしがれながらでもどこかで理由づけができていたのに。

ああ、ハーブティーで身体が熱い。窓を開けているが風が入ってこない。と書いたら少しだけ風を感じた。意識が風を捉えたのか。多分違う。風を呼び続けその到来を待ち続けなくとも事足りるほどの風はこの土地には吹いている。多分。

幼い頃、雨乞いをする姿を何かの漫画でみた。日照りが作物の、ひいては人の死ももたらすことは容易に理解できた。怖かった。でも子どもの世界では人々に限界が近づく頃に嘘みたいに雨が降った。みんなが空を見上げ手のひらに雨を感じ泣きながら感謝を捧げる、奇跡への。そんな描写だった。『ゲゲゲの鬼太郎』にも「ひでり神」が出てくる。なかなかなダメキャラでキュートなのでチェックされたし。ゲゲゲはなんでカタカナなのかなあ。意味より音、外来感を表しているのか。ひでり神は中国の神話からきてるからどちらかという漢字由来でその漢字が難しいからひらがな+漢字なのかもしれない。

なんでも神の怒りとしてそれを鎮めるためにいろんな工夫をするのもありだがそれはもう奇跡を待つしかない場合ではないか。言葉で通じるうちは声をあげ続けてもいいかもしれない。なんの仕打ちかと考える以前に起きたことをそのまま描写する仕方で。人間界で絶望を与える相手を変えることは奇跡でも起きなければ難しいかもしれないがなんにしたってそんな人と同じ世界を生き延びなければならないのであれば外在化は最小限にしてただ事実を身近な場所で、と思ったりする。見たくないものは見ない、問われたくない問いは悪い問いと認定しそれ以上考えない、あらゆる「正当防衛」に味方してくれる問いを立てられない(決まった問いしか立てられない)相手とだけ一緒にいる、そういう狭さというか基本的に相手を見下した神様的態度は神にもどうにもできないだろうから「あなたからしたらそういう描写になるだろうけど私からしたら」ということを事実と共に淡々と繰り返しなんとなく応答を待つ。問う形にしないのはそういう人からは応答はないと知っているから。応答を待つのはそれとは別の偶然を知っているから、かもしれない。

鳥たちが一気にざわめきだした。次のゾロ目はいつ。6時を回ったらそれはしばらくやってこない。今日も一日なんとかかんとか。

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効果、違和感、『まちがえる脳』

スズメ、カラス、きっとほかにも色々と。おはよー。今朝はハーブティー。ジャンキーなスナックの背で胃がもたれている。目の前に「チョコレート効果CACAO72%」があるけど一体どんな効果が?ほう。カカオポリフェノールがたくさん入っていると。ポリフェノールって何に効果があるんだっけ。ほう。抗酸化作用。この前おなかがすきすぎてなんとなく身体に良さそうというか悪くはなさそうと思って買ったのだけどなんとなく謳い文句で買っているものって多いと思う。普段のお菓子はやたら吟味した挙句いつもと同じものを買ったりするけど。大体チョコならすぐにおなかぺこぺこをおさめてくれるのではと思って買うのにこれ低GIでもある。ということは血糖値をあげたい時には不向きでは。でも一枚食べるだけでも落ち着いたから結局は情報より少しの行動の効果という気がする。今は目の前にあっても食べる気がしないなあ。おなかが気持ち悪い。おなかは気持ちではないからこの言い方は変か。でも言いますよね。違和感というのは気持ちだものね。おなかは気持ちと直接繋がってる感じがする。特に子供の場合。私は小さい頃からおなかいたくなりがちな子供だったけど大人になってもずっとそうだと当時みたいな切なさはほとんど感じない。おなかと気持ちというのは脳と(身体と)心のことでもあると思うけど。櫻井芳雄『まちがえる脳』(2023,岩波書店)は面白かった。「ニューロンの発火」がキーワード。心を脳に属しつつも脳をメタ制御するものと捉えることで互いの可能性を残しておく描写。脳がまちがえるというよりはこちらの意識が追いつかない部分をこちらが間違いとか間違えとか言っているという感じかもしれない。「失敗」とかいうときも結構近いものを感じるなあ。そしてこれからもずっと追いつかないわけでしょ、自分のことなのに。精神分析で「自我」があまりに多種多様な役割を与えられてしまったのはこういうわけか、と思ったりした。なんだか水分が足りないなあ。以前よく通った個人営業のタイ料理屋さんでスイカがデザートだった。小さく切ってあるのに赤と緑と黒の点々。スイカは見た目も本当に可愛い。スイカマニアの友人が鳥取のスイカが一番美味しかったっていってた。名前を忘れてしまったけど。最近フルーツ不足かも。かも、というのは多分そんなことないからなんだけど今不足しているとそんな気持ちになってしまう。あ、もうこんな時間だ。色々やらねば。なんとかやっていきましょう、きついけど。辛いけど。まだ火曜日だけど。

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傘、移動、言葉

雨雨雨。まだ傘を直しにいけていない。姿形が同じビニール傘であってもそれぞれ誰かのもの。シールを貼った私のビニール傘と同じところに入れておくね、と見た目では誰のかわからない透明なビニール傘を傘立てを区切る正方形に一緒にさした。ちょっとしたことなんだ、区別するということは。

カプセルホテルって意外なところにあって意外と高いのね。時期にもよるみたいだけど。ひと区間を移動しながら移動にまつわる話から経済観念の話になってその人らしさみたいなことで笑いあった。同じ職業で同じくらいの稼ぎがあっても移動手段や泊まる場所の選択はそれぞれ。遠方からやってきた人と一緒に移動できる日々がまた訪れたからこんな雑談ができた。

実際に遠い目をしながら聞き流したり大抵の人が遠い目になった話を聞いて驚いたりもした。ものはいいようだなあ、と呆れつつ感心もした。言葉はいろんなことができてしまうから面白くもあるけど大変だなあと思う。他人事ではないが。

「大変でしたね」の一言でいろんなことが通じて笑い合った。言わずともわかる、むしろ言葉にしないほうが終わらせられる。残された時間を費やすべきところに費やしたいという大仰なことを考えているわけではない。自分のやりたいようにしたい人がどんな防衛を使い、どういう攻撃性に突き動かされているかがそれなりにわかる場合はやるべきことだけやるというドライなモードに切り替えるというだけ。ただそうすることにも労力がいるので言葉少なに労い合える関係があるというのはありがたいことだ。

UPするの忘れてうとうとしてしまった。眠たい月曜日。がんばろう。

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『新ハムレット』@PARCO劇場

劇場の前で流れている映像に池田成志がうつって思わず飛び上がって喜んでしまった。携帯やPC上でその画像は何度もみていたのに。映像だったから?多分違う。そのすぐあとに本物と会えるという嬉しさからだろう。長年ファンだと言い続けてきて毎回観劇のために感激感涙してきたがあまりに久しぶりでこんな反応をしてしまうほど好きだったとは自分にびっくりだ。

観たのはPARCO劇場開場50周年記念シリーズ『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~ 』作:太宰治(新潮文庫刊『新ハムレット』より)上演台本・演出:五戸真理枝。最高の席で久しぶりの観劇。そして池田成志。五戸真理枝さんは句友。真理枝さん演出の舞台は二度目。シンプルで想像力を掻き立てられる舞台だった。出演は木村達成、島崎遥香、加藤諒、駒井健介、池田成志、松下由樹、平田満。私は勝手に池田成志が主演だと思い込んでいたが主演は木村達成。私ははじめて知ったが有名な人らしい。止まっていても動いていてもすごい見栄えの良さ!ものすごい長台詞を絶妙にこなし、ラップもうまい!衣装の着こなしもすごかった。これ太宰のハムレットでもシェイクスピアのハムレットでもどっちでもピッタリではないか。偶然隣り合わせた句友は早速ファンになった様子。わかる。が、私は成志。こんなに長く演劇を続けてくれていてありがとう、という気持ち。自由自在な面白さと不気味さにまた会えて嬉しい。原作を読もう読もうと思っているうちに当日になってしまった。新潮文庫の本は劇場ではすでに売り切れと聞いた。そりゃ買いたくなりますよね。ということで帰宅してすぐに検索。青空文庫のがKindleで0円で読めるようになっていた。ありがたい。原作に本当に忠実だったんだなあ。驚いた。心に残った台詞の数々を改めて文字で読むとまた別の、いや別というより舞台と重なり合ってよりシャープさと深みを感じた。上演台本、演出の五戸真理枝さんのお仕事は昨年、オフィスそばの新国立劇場でやっているのを知り当日券でみた『貴婦人の来訪』が私にとっての最初。演劇のお仕事をしているのは知っていたがすごかった。このあと真理枝さんは第30回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞された。斬新な脚本と舞台作り素晴らしかった。達者な役者たちが繰り広げるこの不思議な世界に多くの人が足を運ぶ機会をもてますように。

台詞というか太宰の引用をしたいが時間がない。今日は一日雨かな。結構降っている感じの音だ。移動めんどくさいな。でも行かねば。準備準備。どうぞみなさんも出かける方は足元にお気をつけて。

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対談、仕事、読書

朝から成田悠輔×羽生善治の対談をみた。with連載「成田悠輔と愛すべき非生産性の世界」。羽生さんは本当に面白いなあ。文化をこうやって語れたらとてもいいなあ。精神分析文化も魅力的に語りたいなあ。ほんと苦しいけど「楽しい」と言えると思うし。自分のこと全然知らないという発見はすごい体験だと思うもの。でもまあ私は自分の仕事はほとんど好きだし自分ができない仕事の話も好きだからなんでも楽しいとか大雑把なことしかいえないか。集団へのコンサルテーションとかも楽しいもの。はじめての場所も知らない人との仕事も緊張はするけど楽しい。先日はもうすごく長く関わっている保育園に行ったけど当時はすごく小規模ですごく近しい関係だった先生たちはもうベテランで今はたくさん先生がいる大きな保育園に成長した。ずっと続けているから知らない先生からも「あみさん」と呼ばれているし、そのなかで親しくなって集団でのコンサルテーションが終わったあとに個別でもっとざっくばらんにアイデアを出し合ったり愚痴ったりする時間は苦しいことを話しているのに楽しくみんなで元気になる感じがする。保育は生活そのものだから生々しく気持ちは揺さぶられやすい。それでも相手に細やかに注意をはらい続ける必要がある。その分工夫の余地も多い仕事だ。子供たちの遊ぶ能力は素晴らしいのでそれに助けられながら彼らに余裕を持って関われるように時間や空間の使い方を工夫する。そういう共同作業がとても楽しい。精神分析が一番楽しいのはhere&nowだからだろうなあ。まだ起きてないことを考えてもしかたないし、過去を過去として掘り返しても何も起きない。それに今と過去の自分はそんなに変わらないだろうしこれからもそんなに変わらない。でも今ここでの自分を誰かを鏡としてみておくことはそれまでもそうだったはずのことの見方を変えるしこれからに対して勝手に絶望する根拠を揺さぶると思う。揺さぶられるというのはその余地があるからでしょう。それが負担でコミュニケーションをたつことで自分の世界を維持しようとするのも普通だけどいつも同じような人といたって少なからず揺さぶりは起こるしそこにどれだけの価値をおけるかで精神分析体験に対する態度は変わると思う。週末は精神分析のことばかり、でもないな。すごく楽しみな予定もある。その予定を楽しみにがんばれていた部分もあるのに過ぎてしまったらどうしたらいいのかしら。「たのしかった!」という思いを支えにまたがんばれたらいいな、とまだ過ぎてもいないのにその後を想像してしまった。めっちゃ最悪な気分になるかもしれないじゃんね、という想定をゼロに設定しているわけだけどこれまでの体験からそれは多分ほぼない。もしそうだったとしても「それだけではない」というのがほぼ全てのことにいえるわけだしね。誰にもどこにも出されてこなかったものを聞いたり発見したりする仕事を毎日毎日続けてる。ひそやかに出されて再びひそやかにしまわれるものたち。コンテンツとして消費されないことを大切にする世界にいると気持ちよくコンテンツを生み出すためにいろんな言い訳と排除を繰り返している人たちのことも考えざるをえない。それらは要素としては同時に存在するものだから。というわけで今日も不快。今日も楽しい。どっちもの時間を過ごすのだろう。みんなはどうかな。色々あるけどなんとか過ごしましょう。

ちなみに昨日電車で読んでいたのはカレル・チャペック『いろいろな人たち チャペック・エッセイ集』(平凡社)でした。ユーモアと優しさを感じてほっこりしながら読みました。面白い視点もいっぱい。エッセイ集だから拾い読みできるし移動にもピッタリでした。

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雨、傘、6月

ぼんやり雨の音を聞いているとどんどん時間が過ぎていく。なぜか今日を月曜日のように思ってしまう。昨日からそうだ。月曜日にやり残したことでもあったのだろうか。きっとあるのだろう。何も思い出せないが。

トレーナーを着て眠ったら少し汗ばんだ。明日投句〆切のオンライン句会の兼題の一つは「寝冷」。朝3時くらいに目覚めて汗を感じたのですぐに作った。そして二度寝した。

今こうしている右腕と左腕の間に又吉直樹『人間』の宣伝の紙うちわがある。紙うちわとは言わないか。言うのか?骨がない。ただの厚紙に指をいれる穴が空いているだけ。仰いでみた。親指で穴を軽く抑え残りの4本で反対側を軽く抑えてパタパタ。穴である必要はあるのだろう。気持ちいい。

骨といえば私の傘は骨が多く丈夫。誕生日にもらった。この前も「素敵な傘!蛇の目傘みたい」とお褒めいただいた。本当にかわいいのだ。若いときに台風か何か雨風でビニール傘がやられたついでに指まで傘を開ける金属部分に引っかかって皮がでろんって剥がれて血がいっぱい出た。あれ以来雨風の強い日に傘をさすのが怖い。先日の台風のとき、雨雲レーダーで雨が弱まる時間を狙って移動した。この傘ならちょっと何かあってもいけるのでは、と思い一緒に出てみた。最初の数分は雨も風もなかった。しかし間も無くして雨は弱いが突風がきた。何度か突風をやり過ごした。しまった、と思ったときには遅かった。でもちょうどそこは三角地帯のお地蔵さんが立っているところで傘がベロンと裏返るのを防ぐために押し付けておける壁があった。数秒だろう。突風が傘の丸い内側を突き破るみたいにぐいぐい押した。私は結構な力で開かれっぱなしの傘を壁に押し続けた。ちょっとした戦いが終わると傘の左側の骨が歪んでいた。でもよく持ち堪えてくれた。その翌日もさしたけど一緒にいた人に「台風で傘が歪んじゃって」と話したら歪んだ骨を覗き込んで「全然気づかなかった」と言ってくれた。傘屋さんの傘なので直してもらえる。直しにいいこうね。

毎日毎日モヤモヤする出来事が起きるがひとつひとつにウダウダ言っている暇はない。絶対になかったことになどするつもりのないことに対して「〇〇も××も△△もてめえの食い物じゃねーよ」という言葉も吐いた。文字で。なんかえらく独りよがりだなと思ったことに対しては直接対処した。そうこうしながらどんどん日々が過ぎていく。3月も4月も5月も本当にどうなるんだと思いつつ期限は数日ずつ過ぎててもなんとか色々終わらせた。6月も忙しさに変わりはないけど慌てなくてはいけないものはない、というか苦手な仕事がない。それが一番助かる。

雨だ。移動も多い。気をつけて過ごそう。みなさんも。

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呉明益著『複眼人』を読んでいる。

あれ?鳥の声がしない、と思ったらいつも通りしていた。さっきこの時間には珍しく鳩が随分近くでポッポいったので遠くの音に鈍感になっていたらしい。

今朝のお菓子はリンツのリンドールチョコ(赤)といちごバウムクーヘン(ホワイトチョコ)。どちらも小さくとも美味しい甘さいっぱいでおなかいっぱい。PUKKAのthree gingerというお気に入りのノンカフェインハーブティーをたっぷりマグで一緒に。今日は水分たっぷりとらないといけなそうなお天気ですね。

また早朝から呉明益著『複眼人』を読んでいました。精神分析家ビオンの「複眼視」を思い浮かべタイトルだけで買ってしまったのだけど著者の呉明益は台湾を代表する作家だそうで同世代。1971年生まれ。買ってよかった。久しぶりにスケールの大きい物語に入り込んだ気分。アトレという少年とアリスという女性を中心に幾人もの視点が入れ替わり立ち替わり同じ時間に起きた出来事を映し出す。心情よりも景色を。アトレが生まれた島の諺や言い伝えは美しく巧妙に口減らしを表現する。昨日、この本の紹介をしようとしたが諺や言い伝えを思い出せず身も蓋もない言い方でこの島の慣習を説明してしまった。口承伝承に完全に失敗したが外側からみれば「それは単に」と言いたくなるようなことなのだ。でもそこに生まれそこで生きる人たちにとってそんな剥き出しの表現では深い悲しみや苦しみに持ち堪えることはできないのだろう。最初からとても切なかったが物語は人の力の及ばない自然の大きな動きに絡めとられ喪失を生きるための言語以前の言葉を探すことを促す。もうだいぶ後半だがまだ途中だ。読み進めよう。

毎晩疲れ切って眠るときの記憶がないが朝を迎えればそれなりに回復している。睡眠の力。みんなは眠れただろうか。これから寝る人もいるからもしれない。今日も無事に過ぎますように。わからないことはわからないままに。思ったことは思ったままに。

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雨の朝、フランス語の本、國分さん河合隼雄学芸賞。

降り続く雨。もうすでに少し空が明るい気がする。朝のお菓子を食べるにしてもまだ早すぎる。このPCの向こうは西向きのそこそこ大きな窓がある。雨が降り込まないように少しだけ開けてみる。シャーっと車が雨の中を滑るように向こうへいく音が聞こえる。鳥たちの声も聞こえるがまだ寝ぐらである森の方だ。ピピピと、と書きたいが本当は私の耳にはp音は聞こえていない。鳥たちの囀りを表現することは難しい。そうそうこのPCの向こうというかこの大きな長方形の机のPCの後ろ、西向きの窓との間の隙間に積まれた本の一番上は「お風呂で読むフランス語 会話フレーズ」。もう何年も使っていない。お風呂で読んだことあったっけ。少し埃を被っているが開いてみよう。もう表紙のカバーはどこかへいってしまった。おお、開くなりかわいらしいカラーイラスト。パリジェンヌ式会話術か。だから女の子(子ではないが)ばかりなのか。20歳の時、ケンブリッジの語学学校に6週間通った。14歳のフランス人の女の子と仲良くなった、というか最初はいじられていた。ペーパーテストならそこそこできてしまう日本人のひとりだった私は会話クラスなのに一番上の段階の真ん中のクラスに入ってしまい、なんでこんな英語ペラペラの人たちに留学が必要なんだ・・・というような環境で伝わらないわりに明るいチグハグな日本人だった。同じくらいの背丈のインドネシアの女の子と仲良しでtwinsと呼ばれていた。あれ?sつく?sつけると双子の複数になる?まあ、夢まで英語で見るようになった頃に帰ってきてしまったうえにサボりにサボり30年近く経つのだから日本で身につけたものだってほとんど覚えていない。その後、國分功一郎、千葉雅也に現代思想の門前どころかフランス語入門のきっかけまでもらい、武蔵小山へ通った。その頃に買ったのだろう『お風呂で読むフランス語』。フランス語もすっかり忘れたが超初心者から初心者になったくらいのフランス語で彼女と会話したかった。今思えば彼女も思春期の不安定さがあったのかもしれない。異様なテンションで見えない教室からでも私の名前を呼んではゲラゲラ笑った。あ、西側の空も明るくなってきた。鳥たちも近くなってきた。雨は相変わらず屋根をたたきいろんな音を立てている。当時のクラスの様子が思い浮かんだが彼女は最年少で授業中は静かだった気がする。頭の良さは明らかですぐに一番上の上のクラスへ移動してしまった。クラスが変わったのに私が通りかかればあの大きな声で私の名前を呼び戻って顔を見せるとゲラゲラ笑った。毎晩のようにみんなで遊んでいたが彼女と夜に出かけたことはない。まだ若かったからホームステイだったのかもしれない。私は彼女がかわいかった。拙い英語でいじり返すと少し静かになった。細くて背が高く、挨拶だけはフランス語でほっぺをくっつけあった。私もまだ20歳だったが当時は今より頼り甲斐があったらしく若い(実は同じ年とか年上だったのかもしれないが)女子たちに懐かれた。彼女には懐かれたのかなんなのかよくわからないし私が帰国するときにはもう彼女はいなかったように思う。いつの間にか私を呼ぶ大きな声は聞こえなくなったから。本の一番後ろを見たら2011年6月初版発行。私のは2011年12月発行の第2刷。売れてたから買ったのね、きっと。まさに2011年。國分さんと千葉さんの講義を受け始めた年だ。昨日、國分功一郎さんが河合隼雄学芸賞をとったというツイートをしていた。たまたま画面を見ていたのもあって秒で反応したがすぐに消されてしまった。引用を忘れてしまったらしい。授賞作はもちろん『スピノザ ——読む人の肖像』(岩波書店)。國分さんのご苦労がこうして報われたことはとても喜ばしい。河合隼雄という名前がつくだけでさらに身近に感じるし。サントリー学芸賞の方はなんだか大変そうな話題も見かけたしいろんな賞にいろんなことがあるのだろうけど國分さんの受賞はいつも嬉しい。この本に関しては私もかなり苦労したのでこっちまで報われた。賞を取らなくても読んでよかったと思える一冊ではあったが。苦労ついでにこの文庫の元になった國分さんの博士論文を書籍化した2011年1月発行の『スピノザの方法』まで読めてしまったのだから一貫したものを持っている國分さんの力はすごい。読んだだけでわかっていないが以前よりは読めた感じがしたのだからすごい。うーん、まだお菓子を食べるには早いな。雑誌Penが谷川俊太郎特集を組んでいたので買った。子供の頃からずっと読んでいる詩人の言葉にまたも励まされた。あ、そうだ、資料作るの忘れてた。今日はまだ間に合う。昨晩は疲れ切っていつの間にか眠ってしまったがこうしてダラダラ書けるくらいには回復したらしい。すぐに眠くなりそうだけど。洗濯もしよう。あの子は今もフランスにいるのだろうか。出身がフランスなだけで当時から別の国にいた可能性だってなくはないだろうけどどこへいようと元気でいてくれますように。本当にかわいかった。ありがとね。伝われ〜。

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大和市お菓子、言葉以前、文庫数冊

今朝も早速いろんな鳴き声がしていますよ。おはようございます。今朝のお菓子は南林間への散歩土産、老舗和菓子屋「喜泉」の「泉の森」。イラストもそのままで素敵。「泉」って単体として見るものではないから「〜の泉」とでも書いてない限り通り過ぎているけど意識してみよう。私の知っているイズミさん(苗字の人もなまえの人も)は元気かな。

昨日は同じ和菓子屋さんの「やまと太鼓」をいただきました。黄身あんと栗だっけな。しっとり美味しかった。今日の「泉の森」もしっとり。森は水分たっぷりだものねえ。梅雨だし。とっぷりと水に浸されるような気持ちになりますね。お、今改めてパッケージみたら「大和市の郊外に市民の水の源として知られております「泉の森」公園があります」ですって。そういえばこのお菓子をもらったとき「泉の森っていう公園があって」と聞いた気がする。忘れてました。パッケージといえばまたこの「泉の森」なんだけど硬めのアルミの型に入っていて同じ素材で作った蓋がかぶさってた。なんか「懐かしい!」ってなった。しっとりしたお菓子を守るための素朴な工夫なんだと思うけどふわってかぶせるだけの役目なのに作りは固くしっかりでなんだかいいなあと思いました。

まだ言葉を話す前の子どもたちとお散歩してるとバギーの中からいろんなものを指さす。「葉っぱだねえ」といえば「ぱ」とそれらしき音を出す。和菓子屋さんのショーケースを見つければきれいな色や形に見入ってはこちらを振り向く。「きれいね」「おいしそうね」というと「うんうん」と言わんばかりに首を縦にふってまたお菓子に見入るのを繰り返す。この愛しさ。北山先生が「共視」という言葉で表現した視線の交差。言葉以前と言葉の間。

言葉を喋るようになっても子供と大人の世界はだいぶ違う。村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』がいつの間にか文庫になっていた。この表題作がまさにその世界の違いとそれらの世界を同時に、でもスプリットした形でしか生きられない少女大人の友情を描いていて展開には驚いたけどスカッとした。子供時代に何かを成し遂げて誰に褒められなくてもなんだか「やったぜ」と自分だけ鼻の穴がちょっと膨らんでしまうようなあの感じ。

あと読んでいるのはカーソン・マッカラーズの『マッカラーズ短篇集』(ちくま文庫)。『心は孤独な狩人』っていう小説が有名な作家なんだけどこれがもうね、すごいの。胸が締め付けられる。今回の短編は翻訳が私はあまり好きじゃないかも。まだ途中だけど。

椰月美智子『明日の食卓』も。「母親」が描かれるときそこには父親の不在や暴力も同時に描かれるわけだけどそれを維持する母親の「当たり前の狂気」みたいなものがここには描かれていると思う。

あと角田光代、穂村弘の『異性』(河出文庫)も。これはさらっと読める往復書簡的な本。いっそ対談本の方が面白かったのではとか思わなくもない。一時期、角田光代作品にはまっていたから新奇性をあまり感じないのかも。穂村弘も安定感あるし。安定感あるお二人の本という感じかな。

なんとなくお菓子紹介と本紹介になりましたね、今日は。明日は「ヤマトン緑茶ゴーフレット」をいただきましょう。お茶は好きなお茶ベスト3(ランキングしたことないけど)に入るであろうルピシアの「白桃烏龍 極品」。美味しい水分をとりつつ今日もなんとかやりましょう。夜は雨なの?嫌だなー。いってらっしゃい。いってきます。

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俳句 精神分析、本

句友、一生(という時間)

暗い時間に呟きをコピペして長文にして呟きの方を消した。ここではただ指任せで書いている。空の明るさだけで起きてしまうとまだ早すぎる。トモコスガさんが「オランダの夜10時過ぎが明るすぎ」と写真を載せていた。さっきまでの東京の空と似たような色。でもないか。こっちはなんか黄色がかってる気がする。

週末、句会でたくさんの人と会って楽しかった。みんなは3年ぶりといっていたけど私は句会自体にほとんど出られていないのでもっとぶりかもしれない。新井素子さんがいらした句会ぶり。あの日と同じ服を着ていたことに会場で気づいた。同じ季節だったのだろう。コロナのおかげでと書くのは間違いかもしれないがコロナ禍ゆえに声だけの交流が始まった句友もオンラインのみで交流していた句友もいて「ここでははじめまして」と笑い合った。会えると思っていなかった遠くに住む句友も前日の激しい雨にも負けず現地入りしていてとても嬉しかった。夏の着物でいらした方たちの生地や帯にも見入ってしまった。とても素敵だった。私も自分でちゃっちゃと着付けできれば仕事あと急いで行かねばであっても着物に着替えて行きたいけどそんな日がくるとは思えない。

昨日は同じメンバーで2年目を迎えたスモールグループでの事例検討会でこちらも毎回のことだがとても勉強になった。一応私は指導する側だけど指導というよりファシリテーター役。役割としても学びが大きい。初回面接を検討する月一2時間半の会だが今回も妙木浩之先生の『初回面接入門』(岩崎学術出版社)にすでに書かれていることを実感して笑い合った。笑えるのは何回も読んだはずなのに何もわかっていなかったということに気づくからだ。臨床的な実感は本の中にあるようでない、でもある、ということなのだろう。

そんな日がくるとは思えない、というので思い出した。昨晩スーパーに寄ると私の前に店を出た人が1リットルパックのぶどうジュースとストローを持っているのが見えた。私が一生やらないであろうことをこの人はこれからするのだなあと思った。あの手持ちの雰囲気からしてこのあとおうちで紙パックからストローで直接飲むんでしょ。150mlくらいだったら私もグラスで飲む機会もあるかもしれないがぶどうジュース1リットル、紙パックからストローで、はないなぁ。多分、きっと一生ないな、と思った。誰かはしていても私は一生しないであろうことなんて数えきれない。することよりもしないことの方が多いに決まってる。なのに「一生ないな」と思う対象がこれかよ、という感じもあるが日常の発見というのはそういうものでしょ?いちいち正確に本を読むことからはじめなくても(そんな読書家なのにそれ、みたいなのもあるから)豊かな日常はそこかしこにある。臨床も同じ。

さっきから激しく鳴いている君は誰なのだ?ヨシキリ?昨日はムクドリが二羽茂みにいた。この時期のムクドリはやたら茂みにいるのだけど低いところのほうが美味しいものが多いのかしら。そこにウグイスみたいな鳥もやってきたんだけどホーホケキョって鳴かなかった。あなたはどなた?なめらかな羽に見えた。

友達が主に怒りに共感するメールをくれた。女の辛さを共有できる女友達がいるのはありがたい。彼女とも会いたい。幸いなことに私はコロナで失った人はいなかった。途轍もない苦しみは知ったし人はいつ死ぬかわからないという実感は強くしたけど。今日もいろんな人と会い、話す。主に聞くほうだけど。試行錯誤を続けよう。なんとか持ち堪えよう。「もちこたえる」か。昨晩の大河は悲しかった。おっと、ネットで拾えた歴史の資料を読んでしまった。こういうところが慌てて失敗する原因を作ってるって流石にこの歳になればわかってる。でも治らないな。どうにかなると思ってるからだろうな。ダメね。そんなこんなであっという間に時間が経ってしまう。いや、辛く苦しいときは時間なんてあっという間に経ってほしいかもしれない。そうなるとそれは無理なんだ。辛いね。でもなんとかやろう。そうはしたくない、そうはなりたくない、という気持ちに素直にやっていけたらいいように思う。

今朝のお菓子は以前働いていた神奈川県大和市のおみやげでした!

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読書

お茶、九段下、本

今朝は久順銘茶のティーバッグのシリーズからオレンジのパッケージの桂花美人茶。これ金木犀の香りがついてるのね、ほんのりと。お茶ごとにパッケージの色が違うのだけどどれもとてもきれいで置いておくだけで楽しいし美味しいから好き。

九段下のファミレスへ行ったら「武道館でイベントがあるから90分制で」と言われた。どっちにしてもそんなに長時間いないから大丈夫なんだけど武道館でイベントがない日は時間制限もないのかな。店内には外国の人がたくさんいた。なんのイベントだったのかしら。コロナとは関係なく長らくいってないなあ、武道館。最後に行ったのはいつだろう。aikoのライブかな。違うかな。人が集まれるようになってよかったですね。千鳥ヶ淵の緑がとてもきれいでした。

早朝から窓を全開にしているのだけど風がそんなに入ってこない。穏やか。

最近読んでいた本がそばにあるのだけどバラバラだな。

斎藤志歩『水と茶』(左右社)は句集。斉藤さんの句は情念を感じなくていい。あくまで軽やかにしかし丁寧に面白く日常を切り取る。

五十嵐大『聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は生活史ともいえるかなあ。聴こえない親を持つ、聴こえる子ども、コーダ(CODA)である著者が母からゆっくりと聴き取りをしながらその歴史を知ろうとするプロセス。そこに歴然と存在する差別。先日判決がでた優生保護法について具体的に実感を持って知るためにも多くの人に大切に読まれてほしい。

永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。読書ってどんな行為なんだろう、ということに関心がある人にお勧め。取り上げられている作品もいい。

又吉直樹『月と散文』(KADOKAWA)。10年ぶりのエッセイ集とのこと。常に仮人格と対話しては声を出さないじっとりしたちょっと意地悪な笑いを生み出す書き方は梅雨の読書にピッタリ。

風が入ってきた。洗濯物は外に干した。ノースリーブだとまだ寒い。はあ。がんばらねば。がんばろう。

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精神分析 読書

『言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 ❨中央公論新社❩を読んだ。

二度寝、三度寝。コーヒー飲んでくしゃみがふたつ。雨はまだまだ降っている。どうしましょう。被害が広がりませんように。きっとこのあと何事もなかったかのように晴れるのでしょう。残酷。

言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 著❨中央公論新社❩を読んだ。精神分析における言葉の活用はいつも興味の中心なので言語学に関する本はそれなりに読んでいると思うが難しいのが多いから全然こなせていない。その点、この本は書き方も多分優れていて(私には優劣はわからない)引っかかりなく入ってきた。内容とは関係ないけど私はこの本を発達心理学の本だと思っていた。もちろん今井むつみさんはそれがご専門ということだし、言語は習得のプロセスと切り離せないわけだから発達心理学は常にその背景にあるわけだが、大学が発達心理学専攻で発達心理学の勉強が楽しくていまだに保育園でも仕事をしている私は「今は記号接地問題とかいう概念も扱うんだ。発達心理学もどんどん進化してるんだなあ」と思って嬉しく楽しく読んでいたのだ。なぜそんな発達心理学寄りの気持ちだったかといえば秋田喜美さんを秋田喜代美さんと間違っていたから。私は卒論で幼児に『赤ずきん』を読み聞かせてその感想を聞き取り分析するということをしたのだが参考文献のひとつが読書の心理学を研究されていた秋田喜代美さんの論文だった。今でもきちんと研究しておけばよかったなあと思うほど先行研究も現場(保育園)での調査も楽しかった。そんな誤解のもと『言語の本質』を読んでいて秋田さんはすっかり言語学の人になったのかと思いこみ、発達心理学の広がりに勝手にワクワクしていたわけだ。それはともかく毎日いろんな人の言葉を継続的に聞いているにも関わらず、というかその体験が増えれば増えるほどその人の言葉の習得や私が相手の言葉をキャッチする仕方などへの関心は深まるばかり。「そういう意味で使ってたのか」と聞き手だけでなく話し手自身が驚いてしまうような言葉の使い方使われ方も多いので話を聞く、聞いてもらう、というのは本を読むこととはまるで異なる体験ではある。生きている人を相手にするのだから当たり前だが。だからこそこういう専門的な本を読むことは大切。相手の言葉を大切にするためには忍耐と工夫と内省が必要。そのための支え。なんかすでにすごく売れているらしいのでみんなの基盤にもなってくれるかな。内容について全然書いてないけど「とりあえず読んでみて」というお勧めができてしまう本です。

はあ。雨やまないねえ。すでに被害がでている地域にこれ以上の被害が出ませんように。このあともたくさんのサポートを受け取れますように。どうぞお気をつけて。私たちも気をつけましょう。

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コミュニケーション 短詩

除湿、イベント、コロナ禍

湿気がすごい。除湿を除湿のためだけにつけたがやっぱりちょっと寒くなってすぐに消した。この部屋のエアコンは冷房除湿と衣類除湿とただの除湿がある。もう15年くらい使っているエアコン。リモコンに「エアコン」と書いてあることをさっきはじめて意識した。「あれ?これなんのリモコン?」ってなってしまう人がいるからかな。いないか。「温度」とか「除湿」とかいかにもエアコンらしい文字も書いてあるわけだしね。

昨年8月、東京公認心理師協会の地域活動に応募して松岡宮さんと心理士(師)向けのイベントを行なった。人数が少なかったおかげで本音をゆっくり話せる充実した時間になった。本音かどうかは本人が話してみてから「あー今日はなんか本音を話してしまった気がする」くらいな感じで認識されるものだろうからわからないけどそれがどのくらい建前っぽくないかはこの仕事を長くやっていれば人よりはわかると思っている。今年も松岡さんがお誘い待ってますとメールをくれた。毎日をなんとかやり過ごしている状態だったので自分からなにか企画するという行為自体忘れていた。やるなら夏休みだからそうしたらそろそろ企画出さねばじゃないか。

とまで書いていろいろ家事してきた。ハーブティーもいれてきた。雨の匂いも嫌いじゃないけどいっぱい降ってるとそれどころじゃないしね。

誘われればあっさりやる気が出て「コロナ禍を振り返る」にしようと返信。8月6日(日)10時からの予定。企画書書いたからそれが通れば今年も東京公認心理師協会のイベントになるし、通らなくても私たちのオフィスが主催するイベントということでやればいい。お互い個人で開業しているからそういうところが楽。

コロナ禍はすでに遠いだろうか。マスクをしている人はまだまだ多い。私もしている時間が長い。それでももうこの三年間はすでに遠い感じがしないだろうか。コロナ禍初期、これが過ぎた後のことをここに書いた気がするがこんなに長い期間になるとは思ってもいなかった。私はこの間、人間の本当にいやらしい部分に触れたようなこともあったがこのネット社会ではむしろそういう人がプチインフルエンサーとして信頼を損なわずに生きていけることも知った。理不尽な現実をいろんな書物の言葉を借りて説明できる人は理不尽なことをいくらしても「現実はそういうものだ」といえる強さがある。心身の搾取をしても事件化されなければさせたほうが悪いくらいの勢いで黙らせておしまい。それが現実、現実は理不尽なんですって。実際に身体に触れるような関係での振る舞いは外からは見えないけど外向けの言い方書き方振る舞い方が上手だとなんとでもなる世界があるらしい。コロナゆえの理不尽な出来事も多かった。東京に住んでいること自体が問題にされたことがこれまであっただろうか。昨年の松岡さんとのイベントでは「地域」という境界がいかに恣意的かとピキッとしたという話もした。今年もいろんな実体験を共有できたらと思う。

昨年はその一週間後に川柳作家の暮田真名さんをお迎えしたイベントも行なった。これも参加者に大好評。川柳のおもしろさは教える形式ではなく対面でまずは作ってみるところからなのだろうと思った。その後も暮田さんと親しく話すなかで昨年のイベントは楽しかったなぁ、と言ってくれたのでまたやろうかね、ということになった。日程はこれから。今回はやはり仲良しの蒼海俳句会の千野千佳さんもご一緒にみんなで駄弁ろうかということになっている。先日も伝えること、教えること、売ることにおける美意識というような話をしたのでそんな感じで。

楽しいイベントを楽しく過ごすために着々とやるべきことをこなしていかねば。毎日そう思いながら何も進んでいない。まずい。美味しいものを食べてもこの不味さはどうにもならないけどこれは理不尽でもなんでもない種類のものだから苦しまずにやりましょう。今日は足元気をつけてお過ごしくださいね。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

ペンは剣よりも、焦点を少しずつ、学ぶ

まさにペンは剣よりも強し。別の意味で。暴力よりも暴力的とでもいうのかな。昨日は比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技術であることも学びました。身体を傷つけられずに学べるなら不快さと痛みを引き起こす暴力性はある程度必要ってことかもしれないですね。相手の心も体も弄んで傷つけるような人の表現はそう捉えることは難しいですけど。そうされた人はそういう人の表現に触れるたびに何時間も何日間も苦痛をただ耐える時間を過ごさねばならなかったりするから。いっそのこと、と考える人だっているのはそういう人が黙ることはほとんどないからかもしれません。千葉雅也さんが先日フィルタリングのために「物理的に瞬時に目を閉じる」とツイートしていました。私もやっています。(ミュートしているのに)またか、と思いつつ反射的に目を閉じる、薄く開けて焦点をぼやかしながら画面を閉じるバツ印を探す、また目を閉じる、落ち着くまでその状態に身を委ねる。ペンは剣よりも強し。なのでしょうか。

あっという間に1時間、2時間が過ぎた。まるで何事もなかったかのように家事をし、おしゃべりをしているのは生体防御反応だ。こんな状態になってから長くなってきた。突然の刺激に晒され衝撃を受け続けるなか「まただ」とその衝撃を予測しながら目を開け続けることをするようになった。一方でできるだけ距離をとるようにミュートをした。それでもこのネット社会、軽薄な言葉ほど軽々しく網の目をすり抜けるように現れることがある。瞬間的に目を閉じる。じっと嵐に耐える。そのまま眠ってしまうこともある。生体はうまくできている。生き残るために、適応するために何をするかといえばそこから学ぼうとする。暴露療法のような方法をとりはじめた。恐々目を開ける。焦点を本当に少しずつ合わせながら見てみる。最初は全部は見られない。それでも少し目を開ける時間が増えたことをモチベーションに変える・・みたいな。なんなんでしょう、この努力は。この時間は。と思うでしょう。でも学びは残る。比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技技術なんだなぁ。これが「賢人」の技術かぁ。スプリットされたこころで思考停止のままでいられる技術。自らの被害感と不快感を癒してくれる人は大切よね。遠くへ追いやったそれは今まで通りポイ捨てしてきた対象に処理してもらえばいいのだから。そういうのもテクノロジー。ペンは剣よりも強しをチャットなんちゃらにいれたらこんなお話もできるのかしら。そういうデータならいくらでもあるだろうから。

早い時間にメロンを食べてしまったから寂しい。勝手に一日締め切りを延ばしてしまったものを朝のうちにやらねば。世界には辛いことがたくさん。「癒す」という言葉に対する不快感ってなんなのかしら。今日も学びましょう、と軽々しく言いづらいのはさっき書いたみたいに強い痛みを想定できるから。精神分析もそういう痛みを想定している。本とかでは学べない「知」に向けて友達や家族に支えられてやっていけたらいいけれど。今日も理不尽さにのみこまれつつ生き残る方向でいけたらいいけれど。とりあえずとりあえず、ですね。気のきいたこと何も言えないけどどうぞご無事でお過ごしください。