ユウカメロンというのを送ってもらった。漢字だと優香みたい。柔らかくて包丁が気持ちよく入った。メロンはだいたいそうだっけ。久しぶりに食べたわん。メロンは晩夏の季語。
新婚のすべて未知数メロン切る 品川鈴子
本当ね。相手のことも自分のこともわからないのにましてやこれから起きることなんて。
昨晩はフロイト読書会だった。みんな疲れていた。私も帰宅するまでは疲れていたけどバタバタと家のことしたりしていたら回復したので元気に参加。でもアドバイザーとしてはいまいちだったな、自分。『ヒステリー研究』を読んでいるのだけど臨床での言葉の使用について考えてしまってそれこそ言葉の使用を間違った。修正したけどぼんやりしていたのかも。元気になったつもりだったんだけどな。
最近、フロイディアン・スリップなのか、間違いが多すぎる。昨日も「これであっていますか」と確認のメールがきた。あってない・・・。これまで一度も間違えたことのない慣れ親しんだ数字を8は9へ、2は3へ、とひとつずつずらしていた。やばいだろー、と思いつつエレベーターにのってオフィスへ向かった。部屋番号あってるよね、と確認して鍵を入れる。前にエレベーターには誰ものっていなかったのに下の階に止まってしまったことがあり何も考えずに降りた私はそのまま下の階の同じ位置にある部屋のドアの鍵穴に鍵を挿したのだ。あかない!すごく焦った。当たり前じゃ。まあ、これは最近というより開業して間もなくの話。今思えば自分でエレベーターの階のボタンを押し間違えていたのだろう。というか今までそう思っていなかった、というか何も考えていなかった。やばい。
昨晩ぼんやりしたのはフロイトの書いていることがみんなの質問などで『心理学草案』から繋がってきて「この人なんでこんなこと考えることができたの」ということに驚いて深く追うようにしてしまい「平等に漂う注意」を維持できなかった。興奮量の移動という観点から考えるとヒステリーと強迫神経症の分類はシンプル。その量から質的なものを生み出すいうかその量に関与する質的なものとは何か、フロイトは観察を続ける。その著作を読めばわかるようにフロイトの観察は「マジかよ」というくらい細かくこれはこれこれこうでそれはこれこれこうなのでこういうふうに違っているわけで、だったらこっちはどうかというと、とどこまでも違いを観察しながら自分の言っていることの正当性を高めていく。そこまで人間の目でみられたらあんなことも書けちゃうのかもしれないけどそれ普通の人間じゃないっすよ、教授、みたいな感じでついていかないとポカンとしてしまうこともある。なんかフロイトを「教授」っていうのって坂本龍一を呼んでいるような感覚になる。
ティナ・ターナーが死んだ。私にとっては坂本龍一が死んだ時よりずっとショックだった。高校の時からかな、ずっとその歌声に心地よく圧倒されてきた。沈むな、リズムにのれ、踊れと言われているような写真ばかり流れてきた。かっこいい人だった。今日もティナを聞きながら普通に過ごそう。みんな死んでいく。だからちゃんととかだからもっととかは不自然だと思う。みんな死んでいくのだから事実と現実に基づく。音やリズムに自然にノル。思い浮かんだら言葉にする。過去を捨てない。ロックってなかったことにしないための音楽でしょ。ごまかさないためのリズムでしょ。ということでそれぞれそれぞれ。