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精神分析

ゾロ目を待つように。

444だ、と32、33、34と時計が進むのを待った。44444!よし!時計のゾロ目まちはいつから?見逃したってまたいずれくるのに?そうだよ。生きてる限りゾロ目と会うチャンスは失われないのにいつだって見逃すから待つんだよ。

ベケットが死んだのは1989年、1999年だったらややゾロ目。死ぬのをあと10年待っていてくれたら。ややゾロ目のために?ありえない。でも子供のときの私たちのゾロ目待ちにかける情熱は結構なものではなかったか。

1999年は松木邦裕、藤山直樹、十川幸司が精神分析のオフィスを開業した年だ。私は大学院を修了した年だ。なんとかまだ生きてるな、みんな。

突然、友をなくすような体験を何回かしたことがある。理由がなんであれ「どうして」と問い続けることになる突然の喪失の最たるものが死だ。親密でいる間は知らなくてもいいことだって知ってしまえていたのに。どうして、と絶望に打ちひしがれながらでもどこかで理由づけができていたのに。

ああ、ハーブティーで身体が熱い。窓を開けているが風が入ってこない。と書いたら少しだけ風を感じた。意識が風を捉えたのか。多分違う。風を呼び続けその到来を待ち続けなくとも事足りるほどの風はこの土地には吹いている。多分。

幼い頃、雨乞いをする姿を何かの漫画でみた。日照りが作物の、ひいては人の死ももたらすことは容易に理解できた。怖かった。でも子どもの世界では人々に限界が近づく頃に嘘みたいに雨が降った。みんなが空を見上げ手のひらに雨を感じ泣きながら感謝を捧げる、奇跡への。そんな描写だった。『ゲゲゲの鬼太郎』にも「ひでり神」が出てくる。なかなかなダメキャラでキュートなのでチェックされたし。ゲゲゲはなんでカタカナなのかなあ。意味より音、外来感を表しているのか。ひでり神は中国の神話からきてるからどちらかという漢字由来でその漢字が難しいからひらがな+漢字なのかもしれない。

なんでも神の怒りとしてそれを鎮めるためにいろんな工夫をするのもありだがそれはもう奇跡を待つしかない場合ではないか。言葉で通じるうちは声をあげ続けてもいいかもしれない。なんの仕打ちかと考える以前に起きたことをそのまま描写する仕方で。人間界で絶望を与える相手を変えることは奇跡でも起きなければ難しいかもしれないがなんにしたってそんな人と同じ世界を生き延びなければならないのであれば外在化は最小限にしてただ事実を身近な場所で、と思ったりする。見たくないものは見ない、問われたくない問いは悪い問いと認定しそれ以上考えない、あらゆる「正当防衛」に味方してくれる問いを立てられない(決まった問いしか立てられない)相手とだけ一緒にいる、そういう狭さというか基本的に相手を見下した神様的態度は神にもどうにもできないだろうから「あなたからしたらそういう描写になるだろうけど私からしたら」ということを事実と共に淡々と繰り返しなんとなく応答を待つ。問う形にしないのはそういう人からは応答はないと知っているから。応答を待つのはそれとは別の偶然を知っているから、かもしれない。

鳥たちが一気にざわめきだした。次のゾロ目はいつ。6時を回ったらそれはしばらくやってこない。今日も一日なんとかかんとか。