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精神分析

Juicy by 土居健郎

いただいたメロン、とっても美味しかった。ジューシー。土居健郎が藤山直樹の最初の本『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(2003、岩崎学術出版社)の序文で使った言葉だ。

「英語にジューシ(Juicy)という形容詞があるが、彼の書く文章がまさにそれである。」

この本が出た夏、私ははじめて藤山直樹先生の単発のグループに出た。そこでこの本を購入した(たしか著者割)。一緒だったみんなとはその後も精神分析を学び合う関係でありすでに精神分析家になった人もいるし別の道を選択した方もいる。

私は土居健郎のことは土居先生と呼ぶほど身近ではなく、パトリック・ケースメント(うろ覚えだが)が来日してケースカンファレンスがあったときに発言する土居健郎をみてその迫力に圧倒された。土居健郎が亡くなったときのことは相田信男先生がどこかに書かれていたし、先生方からもお聞きした。土居健郎の著作も一人でもセミナーでも多く読んできたしいろんな人から話も聞いた。みなさん、なにかしら土居先生とのイキイキしたエピソードを持っていて土居先生はオープンな人なんだなあ、あんなど迫力なのに、と思っていた。藤山先生がケース理解に関してなにか大切なことを伝えてくださったあと「って土居健郎がいってた」というのもいつも面白かった。いまや私も訓練中とはいえ臨床家としては教える立場になったので「って土居健郎がいってたって藤山先生がいってた」と言ってみたりすることもある。それに「ような気がする、がいっていないかもしれない」とか曖昧なことを言ったりもする。伝達とは不確かなものだ、というか先生方の考えにだって変遷がある。「前はそんなこと言ってなかったじゃん」ということだって普通にある。というかそれが普通だ。

それにしても『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』はいい本だ。フロイトとの対話が基盤にあり、オグデンの考えに強い影響を受けながら一人の精神分析家と患者たちひとりひとりのパーソナルな出来事がまさにイキイキと書かれている。土居健郎はこれをジューシ(Juicy)と表現したんだな。私はものすごくパーソナルな精神分析というものを普遍的なものとして記述するって転移、逆転移を軸に展開する世界をこうやって描写することなんだ、と思い「これを読む先生の患者さんはみなさんご自身のことかと思うかもしれない」とお伝えしたことがある。先生は「そうかもしれないね」と笑っていた。どこにいっても相手を変えて反復を繰り返す私たちのこころは身体を借りて今日も誰かとの間に自分を見出しては否認するだろう。とりわけ分析に通う患者はそれとの距離に敏感だ。自分のこころなのになぜこんなにも遠くにおいてしまいたいのか。自分で自分のことを嫌う。そんなような表現は日常的でよく聞きもする。「自分のことが好きになれない」とか。でも精神分析は好きとか嫌いとか対人レベルの何かではなく自分にもどうにもならない快と不快という原初的なセクシュアリティのレベルで生じる情動と衝動を扱う治療だ。そこには砂漠もあれば泥沼もある。オアシスは空想でならありそうだ。土居健郎が藤山直樹の本の序文で「精神分析という営みにはどのような陥穽が潜み、またそれがどのような醍醐味をもたらすものであるか」と書いているが非常に際どいモノだと思う。

今日はどんな1日になるだろう。あまり聞かない音を立ててバイクが通り過ぎた。御殿場のお菓子屋さんの抹茶パウンドが美味しかった。たくさんの主語があるね、世界には。どうぞ良い1日をお過ごしください。