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お菓子

おしゃべり、おやつ、小豆島

まだ雨が残ってる。と書いてメールの返信をしていないことを思い出した。した。

今日も長いな。資料もサクッと作らねば。

隙間時間をめいっぱい使うため走った。私に合わせてこっちまできてもらった。おしゃべりは楽しい。成城石井のモーモーチャーチャーがおやつ。おいしいよ。ずっとモーモーチャーチーだと思っていた。成城石井のしょっぱい系だと「カレーおせんべい」と「オリーブオリーブあられ」とか「まめごろう」もおすすめ。「まめごろう」は甘いか。

小豆島のマルキン醤油記念館を思い出した。なんでだろと思ったけどオリーブ繋がりか。小豆島は本当にオリーブの島だった。そしてオリーブオイルが本当に美味しい。高いから島では楽しんだけどお土産は提携しているイタリア産のを買ってきてしまった。お醤油も有名なんだよね。マルキン醤油のミニサイズもお土産にしたなあ。工場見学みたいな感じで楽しかった。「二十四の瞳映画村」からどこへ行ったときだったかどこかへ行ったとき渡し舟で行った。電話をしたら年配の男性が舟でお迎えにきてくれた。タクシーみたい。私は田舎育ちだからタクシーは拾うものではなくて呼ぶものなのでそう思った。今もあるのかな。おじいさん、元気かな。もうかなり前だけど17年以内ではある。クリニックにお土産を持っていったから。あそこは開業してそのくらい。あ、でも、と今クリニック内のスタッフがやめたり入ってきたりを思い出して、あの人がいたということは、と記憶が蘇ってきた。でもわからないや。何年に何県へ行ったという紙をチェック。香川は2007年。一回じゃないはずだけど書いてないな。2007年、お醤油をあげたあの人はそこにもういたかなあ。まあ、そんなわけで小さな船でどんぶらこどんぶらこ、よりは早かったけど海なし県育ちだと水辺の交通に馴染みがないからワクワクした。小豆島は地域によって表情が全然違って小道もすごく面白い。歩きでも自転車でも練り歩いた(練り回った?)。一番印象的だったバス停がある、とそのバス停を思い出したけどあれ鹿児島だったかも、と思って記憶をひっこめた。旅の記憶をもっと正確にもっておけたらいいのに。

おしゃべりして感じたことを書こうと思ったのにオリーブから小豆島へ飛んでしまった。まあいいか。本を売る仕方、教えるということ、「美意識」という言葉が心に残った。

時間切れだー。週の真ん中、なんとか乗り切りましょう。

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精神分析

更新、吟のカカオ、コミュニケート

もうひとつのブログ「精神分析という遊び」にオフィスのウェブサイトを更新したことをUPした。ややこしや、かな。ややこしやってご存知かしら。野村萬斎の「まちがいの狂言」。昔薪能のチケットに当選して行ったことがあるのだけど能より狂言に射抜かれてしまった。よくわからずとも面白がれるものなのかよくわからないから面白いのかわからないけど「にほんごであそぼ」で取り上げられるくらいだから前言語と言語の間の遊びであるよね、きっと。精神分析と同じね。

まだ降っていますね。今日は昼間だけでいいからやんでほしいな。ちょっと特別なことがあるから。

今朝もCafe du Jardin。今朝は福生の地酒使用「吟のカカオ」。大吟醸酒が使われてるって。大丈夫かしら。仕事になるかしら。すごくしっとり。すごく濃厚。すごく美味しい。めちゃめちゃ濃いブラウニーって感じ。袋から出す時にしっとりすぎて少し手についたけど全部引き出すしたら薄いフィルムでそっと保護されていた。このお店は「金のカカオ」というお菓子が有名ならしいからそれの日本酒バージョンなのね。それにしても名前で遊んでるわね。面白い。そういえば昨日のアメリカン・カステラの袋にきちんと「福生基地前通り」って書いてあった。基地に対しては思うところあるけどそこで暮らす人たちのこともそこそこ知っている。この仕事を長くしていると本当に色々な暮らしを知ることになるので自分の体験に基づくもの以外は言及を控えることになる。私がファシリテーターをしている初回面接を検討する小グループでも「誰にもいえないこと」「言いにくいこと」がどういう風に現れるか頻繁に話題になる。聞けば聞くほど聞けないことが出てきたりその場では言葉にできて安心した風になってもそこを出た途端「言わなければよかった」「言うべきではなかった」という声が湧き上がってきたりする場合だってある。精神分析的治療は抑圧、否認されていた意味の意識化のために言葉を使うのではない。臨床現場にいれば言葉がさらなる混乱を導く場面に圧倒される体験は必ず訪れる。なのでその暴力性を認識せざるをえない。ごく一般的な本の一言にいつまでも苦しめられたりする場合だってある。「場合だってある」というのが大切。精神分析は言葉そのものを手段とする治療であるために常にその力と使用については特に議論がなされている領域だろう。イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは晩年「交流しないこと」の価値を見出した。その論文が載っている彼の二冊目の論文集The Maturational Processes and the Facilitating Environment(1965)は昨年『成熟過程と促進的環境』という新訳かつ全訳がでた。この論文の題は「コミュニケートすることとコミュニケートしないこと:いくつかの対極の研究へ」(1963)と訳されている。以前の翻訳では「交流することと交流しないこと」と訳されていたが確かにこの言葉が持つ安易な方向性には注意が必要なのかもしれない。訳者の意図を知っているわけではないが。どこかに書いてあったかな。

日本精神分析協会候補生の会のニュースレターがようやく完成しそう。私は駄文量産はできるのだが細かいパソコン操作が苦手なのでここをいじるとこっちも崩れるみたいな事態にすぐにうんざりしてしまう。それでもなんとかなりそう。まだなってないけど。見通しが立っただけでも安心。今朝も早くから仕事だ。合間の予定を楽しみになんとかしよう。みんなにもこれがあるから少しがんばれるみたいなことがあるといいな。蝕まれながら取り戻す、毎日そんな感じだよね。そうでもないかな。とりあえずそれぞれの始め方で今日も一日。

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精神分析

使う、間違う、ほどよくする

なんで築山殿までと言ったら妻だからと即答された。そうなのかな。女の使われ方って奥が深い。今も変わっていないのだろうけど。貸していた僕のマリさんの『常識のない喫茶店』(柏書房)が返ってきた。装丁のかわいさ以上に素敵な本だった。こういう本を書くのは大変だろう。静かに見守ってくれる人があってこそ。

今年度に入っていくつめの間違いだか今日もスケジュール管理を間違ってしまった。そういえばもう何年も使っていないアドレスの方にメールが届いていた。不思議だ。今のアドレスでやりとりしていたはずの人から。不思議だ。とか言っていないで返信しましょう。相当不思議だけどなくはないなという理由も思い浮かぶ。面白い。そのプロバイダの別のサービスを利用しているからサービス自体は残していたけど転送されてこなかった懐かしいメールとかもあるのかな。今回は転送されてきてよかった。

カーテンをシャッと開ける音が聞こえた。外ではずーっと雨の音。部屋の中が本当にちょうどいい気温で気持ちよく眠れた。ゴロゴロしながら雨の音をずっと聞いていたけど少し窓を開けた。少し寒くてすぐに閉めた。短い睡眠時間が日常になってしまったけど仕事が減るわけではない。食べる機会は増えるけど。今日は福生の洋菓子屋さん「カフェ・ドゥ・ジャルダン」のお菓子をいただきます。まずはアメリカンカステラから。なぜこのお店の名前で?福生には基地があるからかな。星条旗モチーフの透明なかわいい袋に収まったカステラ。おお。ふわふわ。ざらめが結構ざらめで甘味と食感のいいアクセントになっている。ポロポロさせながらオレンジアールグレイと一緒にいただきました。毎日お菓子天国。いろんな土地のお菓子をいただくのは楽しいですね。

人と一緒に本屋さんにいくのも楽しい。前に暮田真名さんと本屋さんで本を眺めながら読まされた本のことを聞いた。興味深かった。本にまつわる思い出って今はあまり本を読まないという人にもあると思うんだよね。学校があるから。私は学校にまともにいくようになったのは大人になってからだけどスクールカウンセラーとかで現場を知ると学校ってある程度の強制力がある場としては大事だなと思うようになった。ウィニコットのgood enoughと同じでなかなか難しいけど。年度始めに教科書が配られると国語と道徳の本だけはすぐに全部読んだ。今はこんな人のも載せちゃうんだとか余計な情報が邪魔するときもあるけど当時は著者名とか全く気にせずとにかく読んでいた。内容はほとんど覚えていないけどなんだったんだろう、あれは。

今日は新しい施設へ。時間とか間違ってないかすごく心配。何度も確認してメモとったのにそのメモが間違っていた、ほんと自分アテにならない、ということが覚えていられるすごく狭い範囲でも数回。まあ中身がんばりましょう。新しいところはまず知るところから。色々教えていただきながらやりましょう。その前に足元に気をつけましょう。また一週間、なんとかやっていきましょう。「しょう」が多くなるときはなんかちょっと疲れているときかも。とりあえず一歩一歩。

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精神分析

gift、カフェ、林芙美子記念館

“gift for you”とシンプルに書かれた小さな紙袋にウキウキ。マカダミアナッツのクッキーとアーモンドあられが入っていましたー。もう少ししたらコーヒーか紅茶を淹れよう。我が家は今紅茶も豊富。コーヒーの味はよっぽど特徴がなければあまり違いがわからないのだけど紅茶は全然違うからあれこれ楽しい。もう何ヶ月前になるのか早朝から作業をしていたカフェが突然休みになりいつの間にか閉店した。最初はコロナが出ちゃったのかな、大変だなと思っていたのだけど結局理由はわからないまま何もなくなってしまった。そしてそこには何事もなかったかのようにチェーンのカフェが入った。老若男女が集うカフェだったけど今は若者ばかり。いろんなことが起きるカフェで迷惑だなと思うこともあったけどお店の人たちも自由だったしいかにも地域のカフェって感じだったのにな。飲み物も頼まず電源だけ使っている若者は誰にも何も言われずやりたいことをやっていたな。何ってドライヤー使って友達の髪をセットしてた。流石に不衛生だし非常識だろ、と離れた席から眺めた。あ、でもこれコロナ前。コロナで非常識はマスクを外すことみたいな感じになっちゃったしなんだかな。時が経つのは早い、というかなんだかな。

先日、サクッと林芙美子記念館へ行ってきた。オフィスは初台だから大江戸線中井駅は近い。まずお庭が素敵で感動した。芙美子は竹が好きだったそうで玄関へ続く道は竹がたくさんすっと空へ伸びてサワサワとザワザワの間くらいの音を立てていた。低く飛ぶようになった飛行機がうるさかったのが残念。芙美子が生きている頃はもっとたくさんの竹がお庭にあったんだって。ボランティアガイドさんが色々教えてくださった。四方竹というのも教えてもらった。これ断面が四角いの。外から触ってもちょっと違いがわかる。この竹は秋が旬なんだって。つまり秋に生えてくるってことだよね。とらないとすぐ大きくなって食べられなくなっちゃうものね。今はスーパーでも売ってるみたい。筍は毎年小動物みたいなままの採れたてをいただくしそんなに大量に食べるものでもないから食べ物としてはそんなに魅力を感じたことないけど植物としてはとても好き。竹林の間を通るときに感じる風に特別感。いい。ところで竹って木?「植物」というのは木も草も花もみんな含む上位の界?分類がわからないけど木と草の間みたいな植物だよね、竹は。

林芙美子が死ぬまでの十年間だっけな、早すぎる晩年を過ごしたこの家は本当におしゃれ。芙美子自身が建築を熱心に勉強して様々なこだわりを形にした実際に風通しがとてもいい(ここもこだわったみたい)作りで玄関と書斎が特に素敵だった。あと冷蔵庫が電気でびっくり。自分の生活しやすさに合わせた家を自らの手でデザインして合理的でおしゃれに仕上げた芙美子すごい。友達が中井に住んでいる頃にお泊まりしてその翌日に行ったことがあったけどその時もこんなに「うわあ、おしゃれ」って思ったっけ。宮大工に建ててもらったとのことで木の選び方も見せ方も工夫を感じたなあ。すごく素敵だった。当時も音がうるさいという理由で仕事部屋(書斎)は奥の静かな方にしたみたい(逆に客間が一番うるさいところっていってた気がする)だけど今こんな近い空を飛行機が飛んでいる中にいたらなんていうかな、芙美子さん。飛行機か・・・。女の従軍作家として戦争のあらゆる側面(主に金か)に巻き込まれたであろう芙美子にとっては飛行機の音はただうるさいだけではないかもしれない。『放浪記』が売れて印税ではじめてパリへ行ったときは飛行機ではなくシベリア鉄道だった。森まゆみが『女三人のシベリア鉄道』という本で芙美子のあとを追っている。森まゆみはこの前鴎外記念館で流されていた映像にも出てきてた、そういえば。ふみこつながりでいえば昨年、芙美子と同じ1903年生まれの金子文子「何が私をこうさせたか」を全文収録し、さらに調書、獄中歌集も収めた本を読んだ。「何が私をこうさせたか」に林芙美子が書評を寄せているそうだがそれも探せばどこかで読めるのかもしれない。1931年、読売新聞らしい。

お、そろそろNHK俳句の時間だ。見るだけテレビ体操の後。紅茶を淹れよう。芙美子が朝はここで冷酒を飲んだというお部屋も素敵だった。私も窓を開けたまま飲もう、紅茶を。みなさんも普通に水分補給してバテないようにお過ごしくださいね。

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精神分析

搾取、嘘、みんな同じ空の下

さて搾取する人が嘘を吐き続ける場を与える社会で生きていく術を模索する一日が今日も始まりました。ずるいよね。そういう人がケアとか格差とか哲学とか内省モードちらつかせつつ上手に語る。言ってることとやってることまるで違うのに拡散されるのは表面だから大丈夫、バレない。軽薄に「サイコー」といってくれるオトモダチやパートナーはたくさんいる。そんな社会で今日も生きていく。格差なんて広がるばかり。ハラスメントも差別も終わるはずない。

家庭をかえりみなかった父親みたいになりたくない、と家庭をかえりみず嘘を吐き続ける。というか父親になっていないので嘘はついていない。いっておけばいい世界で生き残れるほどの知識を身につけてきた。人の心と体を弄び実際の傷をつけても責任を取らなくていい理由を説明してくれる知識だっていくらでも引き出せる。それらを惜しみなく披露することで家庭の外側に同質集団を作る努力も欠かさない。今やいつでも書いていい場も得た。自分と似たような人が集うプラットフォームでは「賢人」扱いしてもらえる。これまでしてきたこと?10年くらいしたら昔自分「も」こんなことをしてしまった、と誰かの黒歴史にのっかって吐露する材料になるんじゃないかな。そしたらいつもと同じ人がいいねをくれるでしょ。相手にとって時効なんてない?そんなことはどうでもいい。もう自分の世界にはいないのだから。わかってくれる人がわかってくれればいい。俺は俺を面白がってくれる人のために書く、喋る、そういう場を与えてくれる人がいなくなったとしてもTwitterのスペースだってyou tubeだって使いこなしている。しんどいしんどい言いながら一生懸命やってきたんだからある程度のことは仕方なくない?それに自分は嘘をついているつもりなどないし、傷つけた覚えもない。数年後に謝るかもしれないけどいまのところそんな覚えはない。自分だっていろんな人に場を与えてきたし寂しい女たちには家族よりも時間を割いて優しくしてきた。気に入ればついていくし二人になればすぐに触ったりもしたけど面倒なことにならなかった。面倒なことになるのは相手が悪いか運が悪いかやり方がまずいんだよ。馬鹿はちょっと圧かけて黙らせればいいし使えなくなっても最後に褒めとけばいいんだよ、女なんて。やってることなんて言ったり書いたりしなきゃいいんだから。

みたいな人いっぱいいる。生々しい情緒が動かされそうになれば知識で逃げる。あるいは素早く被害者になりすまし脅すように圧をかけ黙らせる。そういう人と同じ空の下で今日も生きていくのです。そういう人にならないようにしながら。不快さと痛みにどうしようもなくなりながら。苦しいですね。孤独ですね。辛いですね。これも現実だから仕方ない。でも別の現実もあるからそっちも忘れないようにしないと。なんでもかんでも連続したものとして考える必要なんかない。あったことはあったこと。なかったことはなかったこと。そういうシンプルな事実に常に立ち戻る。爆発するならほぼ絶対に変わらない相手に対してだけでなくそういう人に場を与えている社会にも。そっちも変わらない可能性高いけど人の数が多ければ誰かしら味方はいるかもしれないから。こんな負担負わなくても生きられる社会じゃないなんて嫌だけど見て見ぬ振りしてきれいごと振りまく人なるのも嫌じゃないですか。そんなにたくさん本を読んでそんなにたくさんの知識があるのにやってることはこれですか。なんのための読書?なんのための勉強?自分にとって不快な自分から遠く離れるためだけの?多分そうなんだと思う。

今日もいいお天気。昨日くらいがちょうどいいけど暑くなっていくのかなあ。体調崩さないでいきたいですね。私はユウカメロンをいただきます。

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精神分析

メロン、フロイト、ティナ

ユウカメロンというのを送ってもらった。漢字だと優香みたい。柔らかくて包丁が気持ちよく入った。メロンはだいたいそうだっけ。久しぶりに食べたわん。メロンは晩夏の季語。

新婚のすべて未知数メロン切る  品川鈴子

本当ね。相手のことも自分のこともわからないのにましてやこれから起きることなんて。

昨晩はフロイト読書会だった。みんな疲れていた。私も帰宅するまでは疲れていたけどバタバタと家のことしたりしていたら回復したので元気に参加。でもアドバイザーとしてはいまいちだったな、自分。『ヒステリー研究』を読んでいるのだけど臨床での言葉の使用について考えてしまってそれこそ言葉の使用を間違った。修正したけどぼんやりしていたのかも。元気になったつもりだったんだけどな。

最近、フロイディアン・スリップなのか、間違いが多すぎる。昨日も「これであっていますか」と確認のメールがきた。あってない・・・。これまで一度も間違えたことのない慣れ親しんだ数字を8は9へ、2は3へ、とひとつずつずらしていた。やばいだろー、と思いつつエレベーターにのってオフィスへ向かった。部屋番号あってるよね、と確認して鍵を入れる。前にエレベーターには誰ものっていなかったのに下の階に止まってしまったことがあり何も考えずに降りた私はそのまま下の階の同じ位置にある部屋のドアの鍵穴に鍵を挿したのだ。あかない!すごく焦った。当たり前じゃ。まあ、これは最近というより開業して間もなくの話。今思えば自分でエレベーターの階のボタンを押し間違えていたのだろう。というか今までそう思っていなかった、というか何も考えていなかった。やばい。

昨晩ぼんやりしたのはフロイトの書いていることがみんなの質問などで『心理学草案』から繋がってきて「この人なんでこんなこと考えることができたの」ということに驚いて深く追うようにしてしまい「平等に漂う注意」を維持できなかった。興奮量の移動という観点から考えるとヒステリーと強迫神経症の分類はシンプル。その量から質的なものを生み出すいうかその量に関与する質的なものとは何か、フロイトは観察を続ける。その著作を読めばわかるようにフロイトの観察は「マジかよ」というくらい細かくこれはこれこれこうでそれはこれこれこうなのでこういうふうに違っているわけで、だったらこっちはどうかというと、とどこまでも違いを観察しながら自分の言っていることの正当性を高めていく。そこまで人間の目でみられたらあんなことも書けちゃうのかもしれないけどそれ普通の人間じゃないっすよ、教授、みたいな感じでついていかないとポカンとしてしまうこともある。なんかフロイトを「教授」っていうのって坂本龍一を呼んでいるような感覚になる。

ティナ・ターナーが死んだ。私にとっては坂本龍一が死んだ時よりずっとショックだった。高校の時からかな、ずっとその歌声に心地よく圧倒されてきた。沈むな、リズムにのれ、踊れと言われているような写真ばかり流れてきた。かっこいい人だった。今日もティナを聞きながら普通に過ごそう。みんな死んでいく。だからちゃんととかだからもっととかは不自然だと思う。みんな死んでいくのだから事実と現実に基づく。音やリズムに自然にノル。思い浮かんだら言葉にする。過去を捨てない。ロックってなかったことにしないための音楽でしょ。ごまかさないためのリズムでしょ。ということでそれぞれそれぞれ。

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自己開示、正当防衛、ライフハック

まだ暗い時間から長文を書いた。公にはしないものを。何歳になっても傷つきや後悔を公に自己開示する形でしか体験しようとしない人がいる。したほうがいいとかでは全くない。本当に悲しんだり、本当に後悔したり、「本当に〜」とつくものは公に語れないことの方がずっと多い。そういう部分に誰かを介入させたとたん嘘っぽくなる。逆にそうなってしまうくらいに言葉にできない体験をしてきたのかもしれないという仮説もたつ。SNSが自分の言いたいことだけを垂れ流し見せたい自分を上手に見せられる人たちの活躍の場になり何回でも人をうちのめすことができる場になった。「そんなつもりはなかった」「自分のこと言われてると思ったんですか」といくらでもごまかしの言葉を使う。そういうのも「正当防衛」というらしいが散々嘘をつきながら人の心と体を弄び実際の傷をつけておいて自分が責められそうになるとこっちが「正当防衛」のためにそんなこと言ってるだけだ、みたいなまるで嘘つき呼ばわり。その人を知っている人に話しても「クズだな。すげえな。」で終わり。そりゃそうだ。利害関係は大事だ。「見て、聞いて」を叶えてほしかった相手は大抵の場合もういない。その不在を体験できず承認を求める。なかったことにできるならなんだってする。誰を傷つけても構わない。まだまだ傷ついている子供なんだ。かわいそうだからとそばにいるうちにいつの間にか性愛が入りこみ都合よく大人になったり子供になったりする。私たちは愚かだ。自分の立場が弱くなると被害を主張し、事実を持ち出せば「後悔してます」と怒り含みの言葉で人を黙らせコミュニケーションを回避する。それでも驚くべき軽薄さを維持したまま自分の失敗は失敗のまま女や男や「仲間」を利用し続けることをやめられない。本当に厄介だなと思うのは軽薄で言葉巧みな人は表面的な人気を得やすいのであまり上手に言葉にできない人がいつも見下され黙らされてばかりなこと。それこそ「クズだな。すげえな。ひでえな。」と思ってしまう。自分の傷つきや症状は主張するくせにその人たちほど上手に立ち回れない傷や症状や「障害」といわれる状態を抱えている人たちに対してはものすごく差別的で排他的だったりするのでうんざりすることもある。そういう人の一部にライフハックという言葉をよく使う人がいた。なんの共感性もなく彼らを見下し私を見下すので「それもライフハックなのだろう」と言ったらプチ切れされた。人を怒らせること、それを自分に照らし返されることへの恐れも深刻だ。心理療法過程ではこんなような心の状態は必然的に現れる。実は誰にでもある心の状態だから。ただそれを行動にしてしまうのはとてもまずいことだろう。本来はこういうことは公に垂れ流すことで自分を含む誰かの傷を広げるものではない。なので秘密を守ってもらえる場所が必要になる。話し合いができる関係を築きつつ言葉にしていくこと。その関係を作るのも言葉だからその時点で痛みは避けられないし専門家だからといって無条件に信頼できるはずもない。普通よりは知識とスキルと経験がありその仕事に関する倫理規定に基づいて仕事をしているということを信頼してもらうほかない。世界はひどいことで溢れてる。戦争だって起きている。それでもなぜか生き残っている。不思議だよね。何がなくともそういうことになっているのであればなんとか今日も一日過ごせそうだろうか。今日もいいお天気みたい。私は昨日から池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞出版)を読み始めた。親が送ってくれた。読んでいる途中から止まらないと言っていた。持ち歩くには分厚いがたしかに読み始めると気になってしまう。持っていこうかな。それぞれなんとかやっていけますように。またね。

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精神分析

思春期、トレーニング、レイ・アナリスト問題

いいお天気。洗濯物をベランダへ。風ひとつない。全然揺れない。光がいっぱい。昨日の保育園の帰り道、区の先生と色々話す合間にいちいち「寒い寒い」といいあった。向かいの家の屋根はまだ濡れて光ってる。コーヒー飲むと暑い。と書いたのは何度目だろう。今朝も足柄の洋菓子屋さんのお菓子。フルーツパウンド。コーヒーにぴったり。足柄に住んでいた子と一緒に合格発表を見にいったなあ。若いときはそういう部分の親代わりみたいなこと結構していた。このときもそんなやりにくいことを私がやるのかと思ったけど結果が残念だったからこそ一緒にいられてよかった。長い付き合いの子だったけどあんなふうに感謝されたのははじめてだったな。今はオフィスやクリニックで思春期の子供たちが大きくなっていく時間を共にしている。大人になってから会う人とはまるで異なるインパクトを持つ彼らの言語や身ぶりに圧倒されたり笑いあったりこういう豊かさをみんな持っているはずなのだろう、本来は。ないものはないし見えていないものをあるはずと想定することは安易にはできないが密な作業を継続的にしていくことで出会う言葉や気持ちはそれまでと全く異なるものだったりする。「これこれこうするとこういうことが起きますよ」という意味ではこういうことが起きるのが精神分析的治療なのだけどこれは他人からみたわかりやすい「良さ」には繋がっていない場合も多いのでなかなか難しいところ。適応はよくなることがほとんどだけど適応は目的ではない。自分の不快さにとどまることを誰かと共にいながらその共にいてくれる誰かに侵襲されながらそれを反復に組み込んでその誰かをもそこに巻き込みながら共にそれを体験しその中で二人とも生き残る。結構な作業なのでトレーニングは必須だ。共倒れするわけにはいかない。そう、精神分析のトレーニングのことを調べていた。今回はラカンがSPP(パリ精神分析協会)の分裂によりラガーシュ一派としてSFP(フランス精神分析協会)の訓練分析家になりセミネールをはじめるまでのところをIPA(国際精神分析協会)の様子と関連させて調べていたが、精神分析のトレーニングはこうやって常に物議を醸すものなので結局いつも何度も調べ直すことになる。それは私自身のアイデンティティと関わるのだから必然的にそうなる。

1910年に設立されたIPAに所属する分析家が増えるにつれて制度化は求められ国際規格の訓練の義務化が動き出した。1925年バート=ホンブルクBad Homburgでのコングレスでのことだ。IPAの歴史はIPAのウェブサイト、HISTORY OF THE IPAで読める。現在はEitingon, French and Uruguayanの3つのmodelがIPAのトレーニングの基盤をなす。ちなみにこれは地理的な区分ではない。この前史、つまり1925年バート=ホンブルク以前のトレーニングを巡る状況とバート=ホンブルグ以降、Eitingonが主導したトレーニング委員会(International Training Board (のちのITC)が成した仕事をレイ・アナリストの問題と絡めて論じたSchröter, M. (2002) Max Eitingon and the Struggle to Establish an International Standard for Psychoanalytic Training (1925-1929). が非常に参考になった(IPAジャーナル83:875-893)。こんな感じ↓で動き出したらしい。

A new chapter in the history of psychoanalytic training began in 1925 at the Homburg Congress with a ‘Preliminary discussion of the question of analytical training’, convened by Eitingon. This led to the Congress decision that all the branch societies should elect a training committee and that the committees should combine to form an ‘International Training Commission’, to act as the ‘central organ’ of the IPA for all questions relating to psychoanalytic instruction (Int. J. Psycho-Anal., 1926, p. 141).

ただこのこのPreliminary discussion予備討論やcentral organ中央機関の設立がいつ、誰によって構想されたかは明確ではないとのこと。草案から今に至るまでさまざまな経緯があるわけでラカンはフランスでその影響をうけたわけだ。

ちなみにレイ・アナリスト問題というのは常に重要で以前から何度か「素人分析の問題」が収められた『フロイト全集19』の月報で國分功一郎さんが書かれた文章を紹介してきた。今はブログでは読めなくなっているようだが昨年出版された十川幸司 、藤山直樹 編著『精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』(金剛出版)の第1章でより詳しく國分さんの考えを知ることができる。この本は精神分析家の藤山直樹先生と十川幸司先生が主宰する小寺記念精神分析研究財団の学際的ワークショップ「精神分析の知のリンクに向けて」を書籍化したもので第二回「『素人分析の問題』をめぐって」は第1章「素人分析の問題」で論じられているのでぜひ。

今日はイレギュラーな用事がある日。まだ少し風がひんやりだけど暑くなるかな。気温差に対応できないけど体調崩さないようにしたいですね。週の真ん中。なんとかなんとか一歩ずつ。

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雨、お菓子、ラカン

鳥ってまとまって鳴いたと思ったらすぐに遠くにいってしまう。南側の大きな窓から外をみたら向かいの家の屋根が濡れていた。窓を少し開けたら薄く濡れた屋根に水滴が跳ねているのが見えた。少しだけ降っているのね。この時期は雨は降るものと思っておいた方がいいね。梅雨がくる。

私は群馬育ちで伊香保温泉とかグリーン牧場とか(これは私の中ではセット。今だったらここに原美術館ARCが加わる)身近なんだけど温泉といえば温泉饅頭。伊香保だったら清芳亭の湯の花饅頭。うちはこれ一択でした。饅頭屋さんにも色々あって、と落語みたいな話をしたくなるのだけどとりあえず今は神奈川県足柄郡の温泉土産クッキーをいただいています。あと同じく足柄土産レーズンサンド。レーズンサンドというものがございます。これもいろんな土地のいろんな店がありまして、と落語的雑談がしたいのだけどあとで誰かとしませう。

週末は久しぶりにフランス精神分析に触れた。立木康介さんにいただいた『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(講談社選書メチエ)は最近読んだけど。あれもラカンの基本的な概念がわかりやすく取り上げられているのだけどフランスの精神分析家の論文を読むにはもっと基盤を勉強しないとダメだなと思ってちょっとずつまたラカンを読み始めた。私の持っている岩波書店のセミネール(これとか)はきれいなまま時を過ごしてきてるから途中のページでもパタンって開くくらいに読み込みたいですね、死ぬまでには。『精神分析の四基本概念』上・下は文庫で読めます。「四基本概念」って言い方、少し変だと思うのだけどそんなことない?

セミナーでも確認があったけどラカン派精神分析は診断カテゴリーを神経症、精神病、倒錯の3つに分けていて、神経症と精神病の違いは雑にいえば了解可能か不可能か、抑圧か排除か(本当になかったことにできてしまうのかどうか、対象がいるかいないか、備給の話、つまりナルシシズムとか転移の話)、空想か妄想か(外的現実の認識と象徴化の話)など。全部フロイトが基盤。ラカンの鏡像段階は有名だけどラカンは自我を鏡像的なもの、つまり想像的なものと捉えていてその起源を他者というかイメージにおいている。この時点で「現実」から引き離される。言葉が重要なのはその不在を埋めようとするから。言葉がいつも嘘っぽいのはそのせいというか現実に直接触れる言葉というものはないからなんだよね、みたいな理解でいいのだろうか。とにもかくにも同じ用語を使っていてもそれが意味するところ、しないところが異なるので勉強しないとなあと思った。でも以前よりもラカンを読むのはずっと楽でそれはフロイトをたくさん読んできたからだと思うんだな。とりあえずフロイトに戻らないことにはというのがラカンだもんね。今回はアンドレ・グリーンのウィニコットへのオマージュ論文だったからどうしてもウィニコットを読むということ自体も振り返らざるをえなかったな。フロイトを読むのとウィニコットを読むのはまるで違う。ウィニコットも「鏡」の役割を重視して有名な論文もあるけどラカンとは違うこと言ってるし大雑把に「にてるーおなじー」となりがちな私は気をつけないと色々見落とす。子供と遊ぶときはいいんだけどね。子供のざっくり把握能力ってすごいから。大人になるってなんだかね。でも言葉にばかり緻密で読み方とか書き方とか教えているにも関わらず全く幼児的な大人もいるから言葉だけの問題では全くないね。それにしても大雑把な把握は俳句とかに生かすべきだわ、と今思った。俳句は不在を言葉で埋めようとしない文芸だと思いませんか。精神分析も本来そうだと思うのだけど不在を実感するためにどうしても言葉が必要になってくるから難しいんだよね、きっと。俳句も難しいけど俳句でごはん食べてないからなあ。気楽だ。

今日は事務的な失敗で時間割かれないようにしないと。いつもやるべきことをやる前の準備段階で失敗や間違いをおかしてスタート地点に立つ頃には1日が終わってることが多いから。いつもこれでは本当に困るけど老眼も進んでるし明らかに認知能力が落ちてきているのを感じるからせめて丁寧にやりましょう。もう「そういうことあるよね」とかいうレベルではないもの。まあ色々大変だけど今日もなんとかとりあえず1日を。

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ホクホク、句会色々、孤心

今朝は新しいお菓子がやってきた。温泉のクッキーとかカステラとか。嬉しいな。

句会でホクホクして一日を終えようとしたらまた自分の間違いに気づいてしまいすぐにメール。はあ。本当にね。よくやってきてるな、こんなんで。どうにかなるといいのだけど。

こんなんでもなんとかなってきてるのは助けが多いから。いつも個人にも環境に助けられている。カラスが鳴いてる。どうしたのかな。どうもしなくても鳴くか。カメラオフのzoom句会でかわいい声が聞こえてマイクマークに赤い斜線が入る。「寝たはずの子が起きちゃって」「ちょっと子どもが」と小さい子どもがいると親は大変だ。最初からカメラオフにしておくのはいい設定だと思う。昨日は知っている子どもの声が聞こえた。もうすぐお誕生日だね。また遊ぼう。一緒に絵本も読もう。コロナ以前に私が立ち上げた句会は投句と選評だけ書き込みあう会。管理は持ち回りの当番制。その後「談話室」でやりとりすることもあるけど基本的には選評で対話している感じ。「夏雲システム」というオンライン句会のためのシステムを使わせていただいているがシステムのおかげで俳句を続けられている人も多いのではないだろうか。開発、運営を一人で担ってくださっている野良古さんには本当に感謝感謝である。私たちの小さな句会にも結社の枠をこえてひとり、またひとりと人が増えてきた。コロナ前は月1回対面で集まっていた句会はオンラインに切り替えて主宰不在のまま継続してきた。私は一度抜けさせてもらったけど再開。この句会はまだオンラインだけど吟行の企画が増えてきた。参加はできないけど吟行先と句会場所を聞くだけでも楽しい。私が出ている句会はやさしいというか普通に思いやりのある人ばかりで穏やかで言葉を大切にするホクホクした時間を過ごせるから新しい方もすぐになじめると思う。俳句は「座の文学」と呼ばれるけど大岡信が『うたげと孤心』(岩波文庫)で書いたように孤心を生きるものでもある。大岡信はこう書いた。

“それらの詩人たちとは、柿本人麻呂、菅原道真、紀貫之、藤原俊成・定家、松尾芭蕉、与謝蕪村、岡倉天心、正岡子規、夏目漱石、窪田空穂、高浜虚子、萩原朔太郎その他である。これらの詩人たちは、私の考えでは一人残らず「うたげ」の中で「孤心」を生き、 「孤心」の中で一人「うたげ」を主宰し演じることに長じていた詩人たちにほかならなかった。(中略)

 この人たちも皆、悩み多き自己分裂の生を生きたのだと思うことによって、私は少なからず励まされてきたと思っている。”

借り物の言葉ばかりで支持をあつめている人は孤心ではなく孤独だけどそれもずーっと続ければ虚構にはみえず無事に孤独を防衛できたりする。ある人が書いた言葉がそれを引用したある嘘つきな人の言葉として賞賛されているのをみたことがある。虚構のための搾取、と変に納得したけど悲しかった。「孤心」を生きるというのは自分の有限性を生きることでもある。精神分析は自分の言葉で話したい、と自分自身と向き合おうとする。それを自分自身に求める人は多くないが誰かの言葉や身体を食い物にしないための一つの方法ではある。

さあ、お菓子。食べるならこっち。もうだいぶ明るい。新しい一週間をどうにかこうにか始めましょう。

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精神分析

テレビ、マクドゥーガル、軽薄さ

朝早くからテレビをつけてみた。大体の人が寝ているような時間に静かにであっても会話をしている姿をみてるとなんか奇妙な感じがする。みんなが寝ている時間ならひとりになれるから、と眠らない人たちもいるわけだから本来コミュニケーションの時間ではないのでしょうね。早朝だと普段は聞こえない電車の音も聞こえる。私はオンラインのセミナーも苦手でコロナ禍ではそういう勉強サボりまくりだったわけだけど関係があるんだと思う。自然を感じながら何かすることが子供の頃からずっと当たり前なんだと思う。授業中もずーっと外を見てたし。夜遅い読書会でみんながすごく疲れているのをみると自然でいいなあと思う。もう長い付き合いだからそういうのを取り繕う人もいないし変に興奮しないためにはフロイトを読むくらいがちょうどいいね、夜は。興奮そのものについて論理的に考えられる学問だしね。昨晩はこれもずっとやってるフェミニズムやセクシュアリティに関する本を読む会でジョイス・マクドゥーガルのTHE MANY FACES OF EROSを少人数で読んだ。関西の人と始めた会でこれはコロナ前からオンライン。今回はセクシュアリティに関する主訴を持つ患者をたくさんみてきたマクドゥーガルが珍しく事例を出さずにneosexualityという考えを提案する短めの章だった。この精神分析家が何を考えてこの本を書いていたのかがだいぶわかってきたかもしれない。臨床現場で出会うセクシュアリティの多様なあり方と現れ方を精神分析が得意とする「倒錯」という言葉を再考しながら記述する仕方はそんなに論理的ではなかったけどあまりの多様さに圧倒されながら臨床をしていたらこういう風にしか書けないかもしれない。色々話し合ったあとはそれぞれのみものをとってきてあれこれおしゃべりした。いろんな内緒話もできるし議論に載せる前の本音も色々話し合える大切な時間。みんな忙しいから2ヶ月に1回とかだけど。家では家での時間も大切だしね。リビングからつけぱなっしのテレビの音が聞こえる。NHK短歌かな。このあとテレビ体操があってそのあとNHK俳句。いつも見るのを忘れがちだけど今日は大丈夫そう。朝のうちにひとつ資料作っておかねば。こちらはなかなか気が重いけどはじめたものはやらねばな。軽薄さって責任をとる気がない、あるいはとれないことの表現だと思っているけどそういうのをひとつのエンタメのように楽しめる立場の人は気楽でいいなと思ってしまう。そのせいで蔑ろにされる性や生活があることなんて想像しなくていいんだもの。軽薄さがナルシシズムに基づく敵意の防衛でその空虚さはこちらが感じることになっているような関係性の場合、なかったことにされる、いなかったことにされる体験をたくさんすることになるのでこっちもおかしくなってきていつの間にかこっち「が」おかしいみたいになるから痛みに持ち堪えながらできるだけ正確に観察できたらいいね。マクドゥーガルを見習お。テレビ体操がはじまった。いつもみているうちに終わってしまうやつ。姿勢と呼吸がしっかり意識されているきれいな動きに見とれながらピアノの音にのってると終わっちゃうのよね。そんなこんなでも健康に気をつけて過ごしましょうね。どうぞよい日曜日を。

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精神分析

テレビ、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』

鳥たち元気。少しずつ明るくなってきた。さっき間近で高い声で鳥が鳴いて去っていった。

昨晩、ごはんを食べながらNHKの「スイッチインタビュー」と「超多様性トークショーなれそめ」を見た。二週連続みた。テレビは地震が起きたらつけるし日曜朝のNHK俳句をたまにみたりはするがほとんどみなくなった。近所の居酒屋がコロナ禍ではじめたテイクアウトを美味しくいただきつつ画面の中の会話を聞いていた。会話によって引き出されるゲストの体験や想いに笑ったり涙ぐんだりした。エンターテイメントだな、テレビ。人に歴史あり。カップルに、家族に歴史あり。

昨日から隙間時間はセルジュ・ティスロン『家族の秘密』(白水社)を読んでいる。訳者は精神科医の阿部又一郎さん。カミーユ・エマニュエル著『跳ね返りとトラウマーーそばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子訳)の校正に関わり柏書房のnoteで書評も書いていたのを読んだばかりだ。この『家族の秘密』もトラウマに関する本と言っていいだろう。精神科医であり精神分析家でもあるティスロンが家族の秘密を主にフランス精神分析にけるトラウマ理論とごく基本的な精神分析概念をシンプルに用いながら一般向けの概説書として仕上げた一冊らしく読みやすい。日本語版序文もティスロンによるもので2016年の日本・フランス合作の深田晃司監督の映画『淵に立つ』を取り上げ「秘密という牢獄」を家族という単位で描写した場合の一例を書いているがこれだけで重たい。精神分析は父、母、子供という三角関係を根源的な形とした秘密と傷に関わる学問であり治療法だ。秘密と思っていたのは実は身内だけですでに周知であり拡散されているような現代において秘密を「真理」ではなく「コミュニケーション」と対立するものとしてそのメカニズムを再考することはたしかに今まさに求められていることなのかもしれず「トラウマ」という言葉を安易に用いないことにも繋がるかもしれない、などとと思いながら読んでいる。

今日も色々大変だ。隙間時間に読むべき本はこれではないが届いたから読んでしまった。まずはやるべきことを、と毎日思いながら思うだけで日々が過ぎる。大変だなあ。自分のせいだけど。

今朝はなんだか寒い。気温がそんなに低いわけではなさそうだけど極度に寒がりな私は暑い日以外はほとんど寒さを感じているような気がする。この前も友達の中で一番厚着だったし。本当に三者三様の服装で体感温度の個人差が面白かった。ああ、窓の向こうのグレーの空をみながら梅雨も近いということに気づいてしまった。憂鬱。まあ、とりあえず今日を。みなさんもどうぞご無事で。お身体にお気をつけて。

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精神分析

アナログ、グリーン、ウィニコット

なにがなにやらはらへりへりはら。いやお腹空いてないけど。AIとかなんとかいう前にPCだってこうやってひたすらフォーマットに書き込むくらいしかできないのにこれからやってけるのかな。直接人と関わる仕事ばかりしてきたのもそれしかできないからだね。はあ。調子良く原稿を集めたまでは良かったけど編集作業で切り貼りするだけで肩が凝りました。

昨日書いたAndré Greenの論文、ざっと読んだ。私の英語力のせいで全く別の意味にとったりしていないとしたらとても良い論文だった。まあ多少間違って理解していたとしても全体的にいい論文だった。私が日々格闘しているわからなさにとどまるためのヒントを与えてくれた。

論文はこれ。“The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott”

やっぱりウィニコットが絡んでいると安心するのかな。基盤って大事だな。

アナログ人間の私には本当にそうだな!と思う文章もあった。まぁ、アナログの意味違うけどやはりフロイトのこの辺も追わねば。

“However, Freud had the courage to write, ‘Without metapsychological speculation and theorizing—I had almost said “phantasying”—we shall not get another step forward’ (1937a, p. 225). We cannot accept that our theories are fantasies. The best solution would be to accept that they are not the expression of scientific truth but an approximation to it, its analogue. Then there is no harm in constructing a myth of origins, provided we know that it can only be a myth.”

精神分析の世界では多分世界を離散的なものと捉えている分析家と連続性ありきで捉えている分析家の両方がいると思う。私は離散的なものとして捉えているしフロイト、ウィニコット、グリーンもそうなんじゃないかと思っている。時間についてどのような認識を持つかで治療者のありようは変わってくると思うのでその辺の議論ができたらいいな。

精神分析の目的は結局はこれ、とグリーンが書いているわけではないけどウィニコットを引用してこう書いている。

“Perhaps analysis only aims at the patient’s capacity to be alone (in the presence of the analyst), but in a solitude peopled by play (Winnicott, 1958).”

The capacity to be alone (WINNICOTT, D. W. 1958,1965)の引用ですね。邦訳は『完訳 成熟過程と促進的環境 情緒発達理論の研究』(岩崎学術出版社)の「第一部 発達に関する論文」の「2.一人でいられる能力」。

そういえば週末までにもう一本読まないとなのでは。がーん。もう週末じゃないか。どうしよう。とりあえず今日の分をやらねば。もー。

お寺の鐘がボーンってなった。

持っておきたいウィニコットの本
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精神分析

精神分析の論文を読んでいる。

週末に向けてせっせと英語の論文を読まないとなのに読み始めると寝てしまう。面白くないわけではなくて英語だから。最近、老眼が進んで楽に読めないのに加えて英語を読むスピードはものすごく遅くなった。サボッテタカラナ。あー、珈琲飲むと暑いー。

読んでいるのはフランスの精神分析家アンドレ・グリーン。エピグラフはW.ブレイクとボルヘスの虎。これら本当にたくさん引用されるんだねえ。昨年はアメリカの精神分析家オグデンが詩を読むこと、あるいは詩のように読むことをどうしてそんなに大切にするのかに興味があったからアメリカ詩、イギリス詩を結構読んだけどブレイクのTigerはどの本にも出てきてた。朗読も結構きいた。イギリスの精神分析家ブリトンは『信念と想像:精神分析のこころの探究』でブレイクを引用しつつ結構紙面を割いていたと思うからそれも再読したいね。新装版も出たしね、と思って今調べたら2016年だった。あったあった。2章割いてる。

13 ミルトンの破壊的自己愛者,あるいはブレイクの本当の自己?
14 ウィリアム・ブレイクと知的自己愛

というかグリーンに戻らねば。読んでいるのは精神分析状況での患者の変化よりも分析家の変化の方に着目した論文。

the way that the patient enacts it and makes the analyst experience it. For, all things considered, there is change only to the extent that the analyst is able to understand such change and to report it.

これ大事。

あ、読み耽ってしまった。このペースで読まねば。

今朝はバターシュガーじゃない、「シュガーバターの木」のたっぷりショコラサンド「横綱」。このパサパサ感はコーヒーとよくあうけどなぜに「横綱」って名前にしたのかね。私さっき「紙面を割く」って書くのも「ページを割く」の方がいいかと思いながらもそのまま書いちゃったけどそんな感じ?

今日はすごく鳥の声が澄んでて響く。空がスッキリきれいだから?今日もすごい光。暑くなりそう。毎日「マジでふざけんな」と思うことに囚われつつどう行動していくかを模索しているのは相変わらずだけどやることはやっていかないとね。もうすぐ家賃の請求もくるし。なぜか引き落としじゃないから毎月毎月無事に払えることに感謝できるのは良いこと。がんばって論文読もう。精神分析実践ありきという態度を私は維持したいし。あるものはある、起きたことは起きた、ないものはない、なかったことにすんな(マジでふざけんな案件はこうしてちょこちょこ入り込んでくる)、「不在」という表現には期待が込められているといったのはグリーンだったと思う。グリーンはネガティブという表現を使う。そういえば十川先生の『思想』での連載はどうなったんだっけ。あれこそネガティブの話でグリーンとも関連づいてるわけだよね、と今思い出した。とりあえず取りかかりましょう。今日も暑さにバテない工夫してえっちらおっちらやりますかね。はあ、すでにバテている感じね、これだと。みなさんもどうぞお大事に。

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精神分析

ムクドリ、にせもの、来し方

南側の大きな窓をスーッと開けたら涼しい風がスーッと入ってきた。よく滑る窓なので早朝は少し気をつけて開ける。今日はすごくすごく暑くなると聞いたからその前の風を感じておきたかった。コーヒーを飲むと暑くなるのはどの季節も同じだけど窓を開けっぱなしにできるのはいいね。

この前駅へ向かってたら大きな犬のいる家の植木から黒い鳥が飛び出してきた。オレンジ色の足と嘴。ムクドリ。鶴川から帰るときによくみるやつ。まずその声に驚きそっちを見上げたときの数に驚きそれらが飛び立つときの真っ黒ぶりに驚くやつ。駅前の大きな木をねぐらにしている彼らは夕方になるとその辺りにどんどんどんどん集まってきて何かいっている。多分みんな毎日のようにこの光景を見ているのだけどつい見上げちゃうくらいのインパクトがある。自然に対しては気づかないことはあっても飽きることはない。朝、小さな木から飛び出してきたムクドリのオレンジの部分は目をひいた。だからムクドリだとわかった。でも夕方駅前に集結する彼らのことは真っ黒っていってしまう。そうにしか見えてなかった。

昨日、鶴見俊輔を読んでいると書いたが『不定形の思想』もいいけどと『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』(河出文庫)に途中で変えた。島崎藤村を読んでいたはずなのに。この中に「キラーニーの湖──アイルランド」という題の文章があってそれが好き。トマス・ムーア(Thomas Moore 1779-1852)作詞の庭の千草」(原題はThe Last Rose of Summer)の思い出とこの曲のまがいもの性について。時間がないから引用だけしておく。日本国内旅するだけでもいろんなまがいものやにせものと出会うが鶴見俊輔が「忘れたくない」という想いはよくわかる気がする。

「トマス・ムーア原作、明治日本人翻案の「庭の千草」もそのひとつである。それらは、今は洗いだされたアイルランド文化の古型から見て、にせものだろう。

にせものをこえて、別のアイルランドへの道を見出せるのは、いつの日か。だが私は、にせものによってそだてられたものを忘れたくない。」

自らの来し方を振り返り、と書いて「来し方」って言い方はなんか膨らみがあっていいなと思った。ライルが『心の概念』の最初の方で「外的」「内的」という対比は比喩であるといっていたと思う。あの本は心の病理を描写することの難しさを教えてくれる。古田徹也さんのウィトゲンシュタインの本や日常言語学に関する本はここ数年、読みやすいものがたくさん出てるからそれらと一緒にライルを読むのもいいかもしれない。あの本は分厚いから挫折している人も多いみたいだし英語で読んだ方がわかりやすいという人もいたけどそれは英語で正確に読める人のお話。

さてまだ今朝やっておくべきことが終わってないのだった。がんばろー。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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精神分析

藤村のいろはがるた、鶴見俊輔

まだ暗いうちから島崎藤村を読んでいた。つもりだったがいつのまにか鶴見俊輔を読んでいた。いつのまにか川の名前が変わっていたみたいな感じで無意識に流されるままに本を読んでいることがあるが私にとってこの二人は「かるた」つながりだからそこで自然とそうなったのだろう。

このブログはwordpressで書いている、といっても仕組みがよくわからないまま書き込んでいるが、もっと早い時間にこうして書こうとPCに入っているwordpressのアプリ(PCでもアプリっていうのか)を立ち上げたら立ち上がらない。Expired nonce.って出てきてしまう。なのでしばらく放っておいた。なんで今こうして書けるようになったのだっけ。なんか適当になにかしたらnew postという選択肢が出てきたからそれを選んだらこの画面が立ち上がった。また同じことが起きたときに困るが困るのは自分だからまあいいかとなる。雑文ブログは雑談みたいなものなので残しておく必要も特にない。

というわけで島崎藤村、鶴見俊輔を読みながら感じていたことをもう思い出せない。すぐにどこかへ流されていってしまう。

島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で描いた木曽福島の関所の隣の高瀬家(こちらは『家』の舞台)で藤村のあれこれについてご親族の方から教えていただいたことはすでに書いた。そこで藤村のいろはがるたを知ったのだ。この内容が力が抜けていてとても面白かった。藤村記念館で販売していたから買えばよかったのだが案内してくださった高瀬家の方の特に強い思いいれがあるわけでもないよく知らないのだけどこんなのもあったみたいみたいな語りがいい感じでまあいいかと思わせたのかもしれない。買おうと思えばどこかで手に入るだろうというのもあったかもしれない。

なんだか眠くなってきてしまった。外はすっかり明るい。今日は晴れなの?なんだか暑くなりそうな光。

藤村のいろはがるたは馬籠のところどころで小さな街灯にデザインされていた。絵は岡本一平。岡本太郎のお父さん。鶴見俊輔はこのかるたを高く評価した。鶴見俊輔は「かるた」という論考で「概念」という言葉をきらい、その底にある「折り重なっている絵札」としてそれを描き出した。昨年、鶴見俊輔生誕100年ということでいろんな本が出たので興味のある方は「かるた」のはいっている本を読んでみてね。私が数時間前に再読していたのは『不定形の思想』(河出文庫)。奈良美智の装画が目を惹く文庫です。2022年は島崎藤村生誕150年でもあったね。

頭がぼんやり。眠気がきたり去ったりしてる。今日もなんとかやりましょー。

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精神分析

誰かといながらひとりでいること

よく降りますね。ちょうど小降りになったときやちょうどの止み間に外にいられることもあってそんなに傘使っている感じがないのだけど今日はきちんとさすことになるのかな。保育園の子どもたちもお散歩行けないね。私が巡回する園は園庭がないところが多いからお散歩行けないと結構狭い場所にずっといることになって大変。雨に限らずコロナ禍も本当に大変だった。

長友夫妻に4人目のお子さんが誕生されたのですね。すごい。子供がいる人といない人のリアリティというのはまるで違う。どっちがどうとか、どっちだからどう、ということではなく子供がいるとかいないか、誰かと一緒に暮らしているかどうかはその人を理解するときの変数として大切。時間の使い方ひとつとってもそう。家に誰がいたとしても自分のしたいようにしているようにみえる人もいるけどそれだってその誰かがいるかいないかで気持ちのありようは全く異なる。妻に平然と嘘ついている人でも家にいてもほとんどオンラインの世界にいる人でも「家には妻がいるから」とかいう場合もあるでしょ。そういうときに「え、全然関わってないじゃん。堂々と嘘ついてんじゃん」「そんな負担なら離婚すればいいじゃん」と思うかもしれない。でもそんな単純なものではない、誰かと実際に一緒にいるということは。物理的に離れることでの負担軽減は本当に大事だけど。他人の生活には平気で侵入してひどいことしたりする人でも自分の時間を脅かされることには耐えがたくて、でもナルシシズムを満たしてくれる対象は常に必要だからせっせと社交していつもしんどいしんどいいっている人もいるでしょう。「嫌われたくない」と言いながら疲れ切ってしまう場合もある。スプリットという防衛機制できれいに葛藤をなかったことにする場合もあるけどその負担は相手が負うことになる。その人が楽なら、とみるか、「あなたは楽だろけどそれでまいっている人がいる」とみるか、これも関係によって同じ事態に対してであっても言うことは変わる。人間は一人では生きていけないので現実の人間との間には色々起きてしまう。そういうのが現実。痛み分けとかいっても痛みにも色々あるし。ウィニコットの「ふたりでいながらひとりでいること」の困難。誰かといることで生じる圧に対してどういう態度をとっているかを考えだすとまた「人間って」「私って」となるけど考えざるをえない。辛いことですね。

そしてついに木曽路のお菓子が尽きてしまいました。辛いことです。でもまたお菓子をいただきました。嬉しい。毎日「やっちまった」が多くて自分に嫌気がさすけど助けられる。色々めげつつもめげすぎない程度にチャージしつつがんばれたらいいですね。それでは足元やお身体にお気をつけたてお過ごしください。

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仕事 俳句

ミーティング、「ブラック・サバス」、俳句

雨の音がしなくなった。耳をすます。やっぱりしない。あ、するかな。鳥がさっきピチューピチューピチューって高い声で鳴いてたけどみんなも早起き。

昨日はとても重要なミーティングがあった。ここまでくるのに一年かかった。が、まだ続く。代表者のひとりとして動いていることは最後まで丁寧に。女3人でやってるけど結構楽しい。住んでいる地域もバラバラだからリアルで会ったこともなく小さな子供たちを抱えながらのミーティングも毎回さくさくせざるをえない。でもこの仕事だからお互いのことを手早く知ることに慣れているのかもしれない。この一年でお互いに色々あったこともなんとなく知りつつなんとなく近況報告しつつ。もちろん親密になるというのとはまた別だし「運動」の先頭に共に立つというのは緊張感も伴うものだけど違いを丁寧に補い合うこと自体楽しい。考えや見方が違うからこそ共にやる意味がある。そうか、私たちは「違う」ということに慣れているのがいいのかもしれないな。この仕事は「いろんな人がいる」と実感しつづける仕事だから。障害や病気を持つ人たちと長く関わってきているから何か考えるときにその人たちの生活が常に頭にある。違和感のあるものと共に生きざるを得ない人たちの話をたくさん聞いているとこっちも「なんでそこそんな簡単に根拠なく進めちゃうわけ」みたいなことに敏感になる。臨床は患者さんやクライエントと協力してやるものだから。「ケア」という言葉は当てはまらないように感じるな。お互いにハードだよね、思いもかけないことがたくさん起きるから。本当はそんなことは日々起きてるんだけど人間の処理能力ってすごいから大体のことはパターンに組み込めて違和感少なくできてしまう。密になるとそこが崩れる。だからハード。でもそこに転機も面白さもあるんだと思う。私は今回東京に住みいろんな意味で恵まれている立場だからこそやっておいた方がいいだろうと彼らと協力体制を組んだけどすごく勉強にもなっている。かなりの程度「普通」に生活できている人がやっておいた方がいいだろうということはたくさんあるし育てる仕事をしている責任もあるからいってることとやってることの差異を少なくしていきたい。

その大事なミーティングの前に大急ぎで俳句を作り速達で投函した。ネット句会の締切にも間に合った。いつもギリギリだけど俳句はいい、短くて。15日締切の分も作らねば。明日か。

さっきニュースで見たんだけどイギリスでヘビメタバレエ「ブラック・サバス」の公演があるんだって。オジー・オズボーンもOKしたと。見たい。日本でもやってくれないかな。私の青春時代を支えてくれたミュージシャンたちはもうかなりの歳だ。私だって残された時間の方を意識するわけだ。

今日は私がマネージしている臨床家のみなさんとのグループ。グループでの作業はそれまでの自分の見え方や感じ方を揺さぶるけれど正解があるわけでもないからせめて自分がいってることやってることの確認をしておきたいね、常に戻れるポイントを作っておくことは責任ある作業には必須だと思うし。私も勉強しよう。そして鳥や花もみにいこう。新宿中央公園とか明治神宮がお散歩範囲のオフィスでよかった。昨日私の写真を見て「似てる!」と送ってくれた動画に「私のは明治神宮」と返したらそこも明治神宮だった。似てるどころか同じではないか!とびっくりした。森で見上げる空の形はすごい。森が作る空の形というのかな。明治神宮はお花はあまりないけど蛇イチゴの小さな実がなっててかわいい。それも昨日俳句にした。

はあ、昨日はまたもや句友たちが賞をとったり嬉しいニュースもあったしよかったなあ。がんばっている人たちがきちんと評価されるってそのがんばりを知っている周りの人にも幸せをもたらすね。本人がすっごく喜んでるのも楽しい気持ちになるし。昨晩はたくさんの「おめでとう」「嬉しい」が流れてきた。もちろん私も送った。前に小さな句会を長く維持していくには駄句を出す人も必要なのではという話になった。私は駄句出し係みたいな感じだけど存在意義は十分感じる。評価にこだわるほど真剣にコミットしていないことはよくないのかもしれないけれどいろんな人が同じことしてるのって面白い。いろんな句に触れているとたまにいい句もできちゃうしね。なんでもやり続けてみるもんだ、変な無理をしない範囲で。無理自体はどうしても生じてしまうのだけどそれが過剰じゃないことが大事だよね。

ということで今日も無理なく良い一日をお過ごしください。

明治神宮
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お菓子

宇都宮土産とかいつものお菓子とか

深夜にも早朝にも原稿が届いた。みんな仕事しすぎでは。でも素敵な文章をありがとうございます。あああ。ここからがまだ長いけどもう5月も13日か。困った。が、とりあえず今日を。大切な会議もあるし。なんとか無事に終わってほしい。

さて今朝は宇都宮のお土産「とちおとめバウム」。ちっこいまるたみたいなバウムクーヘンがしっかりチョコに包まれていて中にはとちおとめのクリーム。10こ入りでホワイトチョコとスウィートチョコ5個ずつ。とっても美味しいの。私も栃木へいったらこれをみんなに買ってこよう。うちには餃子も買おう。ホワイトチョコ自体をあまり好きじゃない人からホワイトチョコ味の方は追加でもらったのでいっぱいあったんだけどすぐになくなっちゃうね。なんのための個舗装かってね。バウムクーヘンはホールだと賞味期限までに食べきれないから買えないなあ、とか思ってたけどそんなことない気がしてきた。でも最近はどこも個包装があるか。近江八幡のクラブハリエで焼き立てバームクーヘン食べたなあ。近江八幡ってすごくいいところで、と宇都宮から心が離れてしまった。いけない。宇都宮からきたお菓子をいただいのだから。

群馬県民にとって宇都宮は身近なんだけど最後に行ったのはいつかな。友達のうちへ行ったり後輩の結婚式へ行ったり普通に遊びに行ったりしたけど。私が行ったときって駅前の広場にいくつも餃子屋さんが出ていてみんな並んだりしてたけど今もそういうのやってるのかな。私は量を食べられないから普通にお店で食べたけど昔池袋のナンジャタウンで餃子の食べ比べができてそこのは何度か行った。今もやってるのかな。いろんなことが昔になっていくねえ。早く記憶から消えてほしいことほど薄まりもしないでずっと苦しかったりするのにね。食べ物のお土産とか「消えもの」って言い方するけど大事な発想だと思う。

おみやげをくれた人が宇都宮に行く前に餃子像を見るのが楽しみといっててそんなのあるのか!と調べたらすごく笑ってしまった。「言わないで!聞きたいけど、でも言わないで!」というから画像を見せることも説明することもしないでひとりでウケてたんだけど送られてきた写真を見るとそれはそれでまた全然印象が違った。いろんなこと思いつく人がいるもんだ。私も会いたい、餃子像。

こんな毎日お菓子ばかり食べてたら肌が荒れてきてしまった。ローソンとセブンイレブンのお菓子はもうほとんど試してしまった。セブンイレブンのあんみつは定番としてずっとあってほしいな。ファミマはあまり行かないけど宇治抹茶のティラミスは甘い甘い言いながらふわふわとしっとりが美味しくて全部食べちゃったな。ローソンは最近だとさくさくバターパイサンドとあんバターサンドが美味しかった。あ、肌荒れしてるのにまたお菓子のことばかり思い浮かべてしまった。

あ!投句締切、今夜の分だけじゃないことを今思い出してしまった。15日までのが二つもある。しかもひとつは必着。もう間に合わないではないか。欠詠だけはしないようにというのが目標だったのに。明日なら直接持っていけるからそうするかなあ。東京ってこういうことができてしまうからすごい。とかいってないでまずは俳句を作らねば。鳥たちよ、俳句になっておくれ。

鳥雲に隠岐の駄菓子のなつかしき 加藤楸邨

これは春の句だけど鳥とお菓子でこんな句作れちゃうのすごい。私は毎日こんなたくさんのお菓子や景色と出会っているのにダメダメだな。こんな駄文ではなく素敵に切り取って残していけたらいいのにね。

今日の暦生活はみつ豆だ!きれい。キラキラしてる。夏は透き通るお菓子を楽しむのもいいですね。お菓子好きじゃない人も別のものやことに支えられて一日なんとかやれますように。良い週末を。

草いちご
宇都宮土産
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読書

寝不足、鳥、魚

寝不足、というと普通はあまり寝てなくて眠い、きつい、辛いというところまで含むのだと思うのだけど私の場合の寝不足は単なる記録のようになっている。眠れないとかでもないし。朝から夜遅くまで仕事していれば疲れはするけど仕事自体にリズムがあるから楽なんだろうね。そのあとにさらにミーティングや読書会があるとさすがにぐったりだけどミーティングは相手にもよる。そりゃそうか。体力とか雑談力とかもう少し生かした方が健康に良さそう。雑談力は単に相手に無理させている可能性もあるからともかく体力に関しては時間ができたら友人の卓球部(なのかな)に入りたいな。

今週は愛鳥週間ということでいろんな鳥のグッズとか画像に出会えて楽しい。もう名前忘れちゃったけどとてもきれいな色の鳥のイラストをあげている人がいて私もこういう鳥に会いたいな、どこにいるんだろう、と思っていたら「私もよくみます」「可愛いですよね」みたいなコメントがついていてその鳥は私が知らないだけで意外とメジャーらしいということがわかったりする。毎日鳥と動物と花とお菓子ばかりチェックしているけどそういう時間は素敵な時間だから睡眠と同じくらいの効果があると思う。この前さかなクンの本『一魚一会』を読んだけど素人でもこうやって時間を忘れてしまうのだからあれだけおさかな大好きのさかなクンがああなるのはごく自然だよなあ。とてもいい本だった。学びとか愛とかって殊更そんな言葉使わなくても伝わるんだな。優しい世界はそう感じることができる人あってこそでその人たちの使う言葉がそういう感受性を育ててくれるのかも。前に竹芝のイベントと和歌山のとれとれ市場のイベントでさかなクンをみたことがある。どちらも偶然だったけどめちゃくちゃ説明がうまくてすごく魅力的だった。和歌山にいたさかなクンはその少し前まで東京で仕事をしていたらしくその移動の速さに驚くツイートがたくさんあるのをあとから見た。大変だ。でも本当に貴重なお仕事をしてくれてるんだなあ。すごい。

あー、こうやってサラサラ書けるのはいいねー。仕事のことは言葉にならないことばかりだし考えあぐねるにも考えること自体が難しかったりする。言葉にならないところで何か考え続けている感じ。特殊な注意状態。こうやって書いているときも特に何も考えていないけど極めて意識的でこれは精神分析でいう自由連想ではないんだな。自由連想は全然自由じゃないもの。「思い浮かんだことを全て話す」というのはこういうのとは違う。フロイトの教示の仕方がまずいとしたらどういうふうにここで患者にやってもらう作業を伝えたらいいのかなあ。

洗濯物できた。今日も長いぞ。がんばろー。

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精神分析

地震、漫画、お菓子

早朝の地震、大丈夫でしたか。千葉での地震、続きますね。早朝だと無理やり起こされたみたいになるしお疲れの人もおられるかもしれないですね。どうかお大事になさってください。

最近、SNSで同じ漫画が何度も流れてくるのだけど、最近ではないのかもしれないけど、出てくる部分だけ見るにストーリーの枠組みは三角関係とか浮気とか単純で普遍的なのだけどそれぞれの登場人物の視点ごとのバージョンがあるのね。あの漫画を提供している会社の縛りなのかな、そういう形式をとるって。想像力とかむしろいらないみたいな世界?人が二人以上いたらそりゃそれぞれは色々思うわけだけどその思いってお互いに影響されてぐちゃっとしてすぐにありがちなストーリーから外れるよね、実際は。ストーリーに閉じ込めるためには先に文字情報を与えてしまった方がいいのかもしれないけどどうやって読まれてほしいのかなあといつも思ってたんだ。

人が二人以上いたらぐちゃっとするのよ、どうしても。だから精神分析は転移逆転移を重要視するの。何かをこうすれば理解できるなんて方法はない。人はそんな簡単じゃない。でも想像力の欠如によって愛と憎しみが全く混同して捉えられてしまうとしたら「普通」と言われるものについて何かで学べるといいかもしれない。良質な文学を読むのもいいかもしれない。高橋ユキさんの本とかノンフィクションもとてもいいがあのぐちゃっとした行き場のない想いに囚われる現実と触れるのは困難もあるかもしれない。普通に思いやりのある人がそばにいつづけてくれる人が一番いいかもしれないけど「普通って何」ということばかりにこだわってしまったらそこからも学べない。難しいね、人間は。

さて、今朝のお菓子は中津川の老舗「すや」の「木曽路」。しっかりした生地に硬めの餡がぎっしり。桧笠モチーフなのね。妻籠宿や馬籠宿でも売ってたし被っている人もいた。私たちもその場しのぎの帽子を買ったけど桧笠を被ってもよかったかもしれない。

GW明けにどこかいくといろんなところのお菓子が集結してて楽しい。昨日は忙しくてとりあえず一番上に置いてあった箱のものをいただいたのだけどうさぎ!これ大好き。鳥取県米子市の定番土産「因幡の白うさぎ」。とっても美味しいし可愛いし好き。前にも書いたけど、ちょっとうさぎの耳が微妙よね。でもこれだけ白餡?黄身餡?をしっかりつめるにはふわっとしたうさぎじゃない方がいいもんね。しっかりした個包装に守られているし今回も美味しゅうございました。ありがとう。私も今度お茶会するから美味しいお菓子集めておこう。

またお菓子のこと書いちゃったよ。毎日色々あるけどせめて自然災害が起きませんように。みんなが無事でありますように。本当に願うしかないことばかりだけどやれることやろう。他人に巻き込まれながら自分を立ち上げていく、その中でやれることを見出していく、という作業を一緒に、私の場合は。

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スイカ、珈琲、馬籠宿

まずはスイカをパクッ。美味しい。水分!食べると感じるね、足りなさを。朝はカフェイン、昼は水、夕方は色々、夜はアルコール、どれも少量ずつ、みたいな感じだから健康的な水分の摂り方ではないのよね。お水をいっぱい飲んだ方がいいっていうでしょ。2リットルとか。ちょっとずつ頑張ろうと思っても今度はお腹壊したりしちゃうし保育園みたいにお茶を飲む時間とか管理してもらわらないとダメなのかしらね。でも自分だってそういうことやってきてもらって育ってきたわけでしょう。小さいときから逸脱気味だからみんなと同じにできなかったのかしらね。とかいってももうどう考えても残りの人生の方が少ないのだから改善よりも維持ね。これをやった方がいいとわかっちゃいるが私にできるのはこのくらいってことで。仕事も全然はかどらないし色々ダメダメだけどやれてるっちゃやれてるから無理なく生きましょう、ってなるね、結局。

さあ、コーヒーを飲みましょう。スイカとコーヒーって食べ合わせ?飲み合わせ?が悪いんでしょ。少し時間おけばの少しが数分ではただでさえ消化の悪い私の身体には意味がないのだろうけど一応別々に食べたり飲んだり。消化のこと考えなくても味的にも合わないもんね。合うなあ、って思う人もいるのかもしれないけど。今朝のコーヒーはちょっと特別。飯能の「OH!!!~発酵、健康、食の魔法!!!~」で買った天覧山珈琲、ビターブレンド。「!」の多い名前だけど広くてのんびり発酵食品食べたり買えたりする道の駅のような施設です。地ビールも飲める。発酵ものということで「ご飯がススム」コロッケもあります。ご一緒にどーぞー。天覧山ハイキングコースはこの施設の横を入っていく感じ。施設自体もかわいいお花に囲まれていて楽しいよ。お菓子は木曽福島の芳香堂で買ったそば饅頭。そばと栗が郷土自慢ね、信濃、木曽は。そば饅頭は素朴な味でおいしい。

こんな呑気に実況してるけど昨晩も何もしないまま朝になってしまった。今から仕事始まるまでにやらなくては。もう随分光が強いけど鳥の声があんまり聞こえない気がする。もうどこかへ行ってしまったの?早いね。今日のお天気は?昨日と同じようなお天気になるみたい。まだ少し肌寒いですよね。

中津川の馬籠宿は水車で発電して街灯をつけたりしてるところもあるのだけどその大きな水車の横に小さくておしゃれな珈琲屋さんがあったの。恵那に向かうバスまで時間があったから寄ってみた。暑い日だったけど私は店内でカプチーノ。店内はカウンターとテーブル席で8人くらい座れたかな。ちょうどコーヒータイムだったのかあっという間に狭い店内が並ぶ人でいっぱいに。外国の人も多かったなあ、今回の旅。何回か道を聞かれたけど私がお会いしたのはフランス語を話す人たちだった。

渋くてかっこいいお二人がやっているその珈琲屋さん、並んでいる人に氷が作れなくなってしまったと伝えていた。それを聞いてその後に並んでいた人も一気にいなくなって店内は再び静か。暖かいのもおいしいよー、と小さな声で呟いていると暖かいのを求めているお客さんは無事にお持ち帰り。いい香りがいっぱいの店内、小さなドアから店員さんのひとりがしっかりしたカゴを手に出てきた。店のガラスのドアを出て坂道を駆け上がっていく。凄すぎる。ここ多分馬籠で一番急な坂道だよ。私より年上に見えたけどすごく軽やか。これ一気に上まで行けちゃうのかなと目で追っているとあっという間に見えなくなった。すごい。すると今度はどうやって降りてくるのかを想像してしまう。絶対走って降りてくるに違いないけど氷はどこで手に入れるのかしら。氷屋さんあったかな。この宿場町なら使われる氷の量もすごいだろうからきっとあるんだよね。でも多分そばのカフェから借りるんだと思うな、など話しながら待っているとその人の姿が見えた。こっちが興奮した。おもたそうなカゴを右手に顔を少しだけ歪めて駆け降りてくる。戻ってきた。こっちが感動した。あまり息があがってない。すごい。こういう土地で働くには体力と繋がりが大事なのね、と感心。また商いについて考えさせられたよ。

さあ、私も商いをがんばらねば。とりあえず昨日やるはずだったことを・・・。馬籠宿のみなさんはGWが終わってのんびりした宿場の日常に戻ってるのかな。そういう時期にもまた行きたいな。次の休みまで遠いなあ。とりあえずがんばろうね。またね。

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散歩

神代植物公園

神代植物公園に行きたい。5月いっぱいバラフェスタをやっているそう。先月行ったときはまだ緑の方が多かったバラ園があの見事な色と香りに満たされていると思うとうっとり。宮殿のお庭みたいなバラ園なのだ。

私が通っていた白百合女子大学も森の美しい大学だった。最寄駅が京王線仙川駅、住所は調布市仙川緑ヶ丘にありお隣のつつじヶ丘駅は身近だった。不登校の子どもの家庭教師にも通っていた。先日久しぶりに降りたつつじヶ丘はすっかり便利な街になっていてびっくりした。私の大好きなスーパーオオゼキが駅前に!なんと羨ましい。神代植物公園にはつつじヶ丘駅からも調布駅からもバスでいける。中央線なら三鷹や吉祥寺からバスで。両親が東京にきたときにみんなで行ったのがはじめてだったか。今は身近な場所も当時は全て目新しかった。

昨年秋に行った時は映画のセットのように落ち葉がふわふわに敷き詰められていて小さな子どもが埋もれながらもたくましくそれらを空へまき散らしていた。そのときは調布からバスで行き深大寺へ先に寄った。蕎麦屋「湧水」で少し呑んで深大寺を散策して句碑を写真に撮り、山側というのかな、土の道を通り深大寺門から入った。雑木林を抜けると景色が開けた。お城が現れたかのようにものすごい数のバラが咲く庭が広がり、その向こうに大きな温室があった。そばによるとものすごい香り。芳しいとはこのこと。

次に行ったのは今年の春だ。つつじが満開だった。新緑の美しさにも目を奪われた。遠くから「なんだあの木は!」と思って近づくとどの木かわからなくなってしまうような森を散策もした。そのときはつつじヶ丘駅からバスで直接神代植物公園へ向かい正門から入った。名前の札を立ててくれている木々や花々が多いのは植物園の素敵なところだけど私は無知すぎるので全ての木々に書いておいてほしいくらいだけどいいかげんパンパスグラスは覚えたし今回は「ハンカチの木」が満開だったのでそれも覚えた。バラ園はどうなっているのだろうと思って向かったらあの場所には緑が広がっているだけだった。あれ?たしかにまだバラの季節ではないので当たり前なのだがあの景色を勝手に心の中に広げていたので少しびっくりしてしまった。その代わり、藤が満開でバラが美しい季節には気づかなかったよく整備された藤棚の通路は陽射しを受けてキラキラしていた。藤棚のそばにはふじ園があり、藤にもいろんな種類があることを知った。

あのとき少し咲き始めていたバラが今は満開なのか。行きたい。紫陽花も咲き始めているだろう。花や木々の名前を調べる時間が増えた。佐久間一行ファンに佐久間さんが出ている「道草さんぽ」というNHKの番組を教わりテキストも買った。先生役の多田多恵子さんがとても素敵で散歩をするときにますますキョロキョロするようになってしまった。牧野富太郎の本も実家にあったから子どもの頃から眺めていた。主にスケッチを。「月刊MOE6月号」は牧野富太郎特集ということで久しぶりに買った。牧野植物園のクリアファイルもついていた。旅に出れば植物園にもいくし山道も歩く。もう少し彼らについて詳しくなったら水や鳥や動物や土地の歴史をもっと知ることができるかもしれない。先日歩いた木曽路はドブ川がたくさん流れていた。ドブ川と呼ぶには水がきれいだったが何よりその水量に驚いた。多分水の流れに合わせて建てられた家の玄関の高さなども「どうして?」と思うことが多かった。これも宿題。

とても苦しくてどうしようもないときはとりあえず自然を意識できる場所へ出向く。いろんな驚きをくれるから。一瞬であっても辛い記憶を別のものに置き換える。鬱っぽくて活字を読むことができないときもただ佇めるし鳥の声がうなだれ沈みがちな姿勢を少し上向きにしてくれる。注意を空に向けてくれるから。

今日もじっと引きこもっていたい人も身近な自然に少し助けてもらえますように。何も考えず委ねるなら人よりそっちの方がいい、というときもあるでしょう。

みなさん、どうぞご無事で。良いこともありますように。

ハンカチノキ

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精神分析、本

國分功一郎さんゲストのイベントへ行った。

今日も雨。昨晩帰宅する時間には小雨だったけどまた本格的に降っていそう。寒いし。寒さをもっと強く意識してしまう前に早朝から諸々済ませた。

7日(日)夜は「グリーフと哲学の夜 傷は癒えるのか、癒されるのか、癒すのか 」という國分功一郎さんゲストのイベントへ行ってきた。國分功一郎weekひと区切り。主催は「グリ哲2023プロジェクト」ということで袰岩奈々さん、森幸子さんを中心に普段から何か一緒に活動されているグループの企画という印象だったけど詳細はわからない。東北、関西、九州からこのためにいらした方々もあって同窓会的雰囲気もあった。お隣は関西の読書会グループの皆さんだったらしく國分さんの本はこれよりこれがいいなどなどとても盛り上がっていらした。みんなすごく楽しみにしていたみたい。もちろん私も。場所は国分寺のカフェスロー。昨年、川柳の暮田真名さんたちのイベントをしたカフェかと思っていたら違った。あちらは反対側の出口の胡桃堂。中央線は三鷹までしか馴染みがないからたまにいくと駅の中からキョロキョロしっぱなし。胡桃堂にいくのも迷ったけど駅の反対側のカフェスローにいくのも迷った。1、2分は結構自信満々に迷った。でもここを渡ったら変わるはずの町名が変わらない。迷うのもいつものことだから「こっちのはず」という予測ではなく「迷うはず」という予測に基づいてすぐ引き返した。予測モデルの話が今回ありました。熊谷晋一郎の当事者研究を参照したお話が多かったからね。さて、19時開演、18時半開場の予定が18時開場に早まったにも関わらず18時半少し前に無事に到着したときにはすでにたくさんの人がワイワイガヤガヤ。手作りイベント感があってよかった。私より年上の皆さんが多かったように見えた。質問もその場で紙に書いて集める形式だったけどたくさん出ていたし、國分さんが答えるというよりは考えこむ國分さんと一緒にみんな考えこんでまた書くみたいな感じもよかった。記憶と感情の話をするときに國分さんはフロイトの快原理を引用していた。國分さんと千葉雅也さんは精神分析理論を十分に咀嚼している哲学者なので聞きやすいし考えやすいのだけど哲学者はここでこうやってこれを持ち出すのかとかは新鮮だった。傷と痛みについて考え言葉にすること自体にどうしても攻撃性が含まれやすいことに國分さんがとても自覚的で慎重だったのも印象的だった。「サリエンシー」を導入の用語としながらそれの使えなさ、使用の難しさについて開かれていくプロセスも興味深かった。ちなみに熊谷晋一郎さんはもう「サリエンシー」という言葉は使っておらずどんどん考えも言葉も進化させているとのこと。お二人の『責任の生成 中動態と当事者研究』(新曜社)は必読でこうして痛みを伴いながら考えることをさせてくれる本だった。言葉にできない重苦しいような息苦しいような感覚が自然に大切にされる双方向的で対話的な時間は貴重。帰り道、そばを歩いていた人たちの会話が聞こえてきたがそれぞれに國分さんを通じてじっと考えさせられた様子で共感した。とても久しぶりに國分さんとお話できたしなんだか安心した。

さてさて今朝も木曽路の和菓子が甘さ控えめでおいしいです。熱いお茶と一緒に。みなさんも体調崩さないようにお気をつけてお過ごしください。

国分寺駅南口

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「実験」

時折強い風の音がする。嫌だな。雨がひどくならなければいいけど。

これが全部実験だったら嫌だな。実際そうだったのかもしれない。人体実験。向こうはこちらを使い、こちらはそれにのった。契約書のない契約。新しい環境に適応するためにがんばっているのを支えられたらと思った。居場所を失っているように見えた。使ってもらえる時間を作るために着々と仕事をした。自分の疲れは会えば自然とひっこんだ。「がんばれがんばれ」と大きな背中を小さくポンポンとした夏のことも覚えている。どうなってしまうんだろう、と感じながら、それまで経験したことのない不安と喜びと不気味さを感じながら。結局、実験にはならなかった。人をコントロールなどできないのだから当たり前だ。実験だと思えば少しは楽になるのかなと思っただけ。なるはずなかった。責任をとる必要のない肉体関係が想定されているらしいことを気づいていたけどまさか本当にそんな、というのはきれいごとで、そのまさかのこの人に人のこころなんてあるのだろうかと疑い、いつも不安を打ち消しながら過ごした。これは実験なんだから。最初から契約なんてないのだから。言葉なんて通じないのだから。自分を人間だと思うから苦しい。犬みたいに扱われたので「犬みたい」というと「似たようなもんだ」と言われた。上手に飼い主を愛せないとすぐ次のペットがほしくなっちゃう飼い主と一緒にいるためにはどうしたらいいのか。目的がすでに不毛すぎるが狂い始めたこころはそれに気づけない。言葉で主張したら悪意にとられる。理解が遅くても意地悪と思われる。怖い。ご機嫌でいてもらうために無理を重ねた。でも無理だった。もっとお手軽に利用できる幼くて依存的な相手ができたことにはすぐに気づいた。「○○パートナーです!」の「!」の軽薄さ。うんざりしつつも愛したが何も指摘されたくなかったその人はこちらをコントロールするために言葉を使い始めた。嘘をつかずに隠し事を続けているのだから後ろめたかったのだろう。言葉で言いくるめるのは得意技だ。地道にかけられてきた圧力の正体を見た気がした。やはりハラスメントやDVの構図を持っている人だった。それでも、それでも、と思ってしまう。ここで追い縋ってはならない。とりあえず逃げないと。相当なダメージに機能しにくくなっているこころを感じながらこれまでの言動と出来事を記録した。その人の親兄弟、今の家族に対する態度の幼稚さも裏付けとなった。それでも人間は愚かだ。傷が深くなって回復が遅れるだけなのにそんな人のことを考え続けることで時間を無駄にしてしまう。「実験」とかいって。愚かだ。

ああ、湧き上がる猛烈な怒りをこの風みたいに一気に振りかざせる形にできたらいいのに。怒りを言葉に置き換えられてもそれは鬱の始まり。深まるばかりの悲しみに動けなくなる。いつまでこんな地獄が続くのだろう。

などということをブコウスキーや川井俊夫さんみたいな荒々しさで書けたらいいのに。

雨はやまないらしい。窓を打つ音が聞こえる。風がないと雨音は静かだ鳥が一気に近づいてきて離れた。鋭い鳴き声。

GWは國分功一郎weekと書いたがひとまず今日でひと段落。インスタに何冊か読んだ本をあげた。読むべき本が溜まっている。私が國分さんを知りその運動と思考を追うきっかけとなった東京都小平市の都道328号線建設計画の是非を問う住民投票。あれから10年となるのに合わせ、今日の午後、小平では玉川上水周辺の環境保全を考えるシンポジウム「小平の玉川上水の自然が危ない」が行われるという。市民団体「みどりのつながり市民会議」共同代表で市議でもある水口和恵さんが「住民投票十周年に改めて328号線計画を考える」、麻布大いのちの博物館名誉学芸員の高槻成紀さんが「小平の自然の豊かさと道路による分断の影響」と題して講演すると東京新聞に書いてあった。ここに名前は上がっていないが國分さんも少しお話をされるという。後日配信もされるらしいのでそちらもチェックしたい。

いつも通り眠れないまま朝を迎えてしまった人もいるかもしれない。起き上がれないなら起きたままでという人もいるかもしれない。それでも、それでも、とやっていくのかな、今日も。とりあえず委ねてみようか、というか疲れ切ってそれしかできないかもしれない。どうか今日もご無事で。先のことはわからない。ただそれだけを忘れずに。

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木曽路

宇多田ヒカルに起こされてしまった。せっかく夢を見ていたのに。夢を中断する大音量。実際には大ではなかったのかもしれないが中断に十分な音量だった。といっても稲葉浩志と恋に落ちるとか気持ち悪いハラスメント作家が同じくらい気持ち悪い目に遭うとか起きそうもないことは夢の中でも起きていなかったと思うし他愛もない日常を共に過ごす誰かと他愛もない会話をしているような夢だったのだろう。あっという間に忘れてしまったので夢はいまだに夢の中。

「木曽路はすべて山の中である」

島崎藤村のいう通りだった。これだけ多くの種類の緑と豊かな水に囲まれて過ごすこともないだろう。奈良井宿や妻籠宿、恵那だったらあまり歩けなくなってしまった、でもまだ歩きたい、旅をしたい年寄りを連れてこられるかもしれない。馬籠宿は坂がきつい。私は街道歩きが趣味の人と行ったので妻籠から馬籠までは中山道を歩いた。3時間弱だったか。少し坂がきつい箇所もあるがそれで足を止めるほどではなく所々で休憩できるベンチがある。途中の滝では少し水飛沫を感じられるところまで近づきゴーッという水音をしばらく聞いた。岩場の平らなところでは何か食べたり肩を寄せ合って滝を見上げている人もいた。晴れの予報と山道というほどではないコースという情報に甘えてトレッキングシューズではなく薄底のランニングシューズで行ってしまった。石と湧水のところだけは後悔した。足を守ってくれるはずの靴のせいで慎重になるのはよくない。面倒がらずに二足持っていけばよかった。陽射しは強かったが山の中は涼しかった。普段は耳にしない鳴き声もたくさん聞いた。すぐそばですごく大きな蛙の声が聞こえた。土の色と湧水の光に隠されてしまっているのか珍しい鳴き声に思わず足を止めたカップルと一緒に結構長く鳴き声のする方を見つめたが見つけることができなかった。

旅とは全く関係なく島崎藤村のことを話したばかりだったせいか藤村の親族が教えてくれた藤村の話や記念館の資料がなおさら興味深かった。木曽福島には藤村の姉の嫁ぎ先があり今も高瀬家資料館として子孫によって維持されているのだ。「家」の舞台になった場所である。ちなみに記念館は馬籠宿、藤村が生まれた家の跡地にある。誰が何を話し何が話されず何が残り何が残されないのかということを明智で大正時代の新聞や広告、映像などを見ながら、恵那で大井ダム建設に尽力した福澤桃介について知りながら、地元の人と話しながら考えていた。

もう準備せねば。仕事仕事。しばらく我が家は和菓子天国。木曽路の宿場町は金沢に次ぐ和菓子屋さんの充実ぶり。駅から歩ける範囲にあるからそれぞれの店の個包装のをひとつずつ買ってはベンチを探してお茶と一緒にいただき、食べられないのはバッグに溜めてきた。いっぱい食べたはずなのにいっぱい持ち帰ってこられた。どこのお店もひとつずつしか買わないのにいろんな話をしてくれたり丁寧に対応してくださった。開業してから旅は商いについて学ぶ機会にもなっている。結構シビアな商売を女一人でやっていくこと、もちろん多彩な繋がりに支えられているとはいえなかなか大変なこともあるので個人で商いを営みながら生活をする人たちから力をもらうことは多い。

そうだ、國分功一郎さんがご自身も運動されていた住民投票に関するシンポジウムについてツイートしていた。あれから10年、小平の自然を分断する道路計画が動き出しそうだという。自然の力を目の当たりにするたびにやはりこれは大きな問題なのだと思わざるをえない。本来なら住民の方々がしてきたことを国がやるべきだっただろうに。

なんだか今日はあまりに言葉にならないことが多すぎるな、と書きながら感じる。ここはサラサラと出てくる部分だけさらうように書いているけどその浅さと沈殿していくものの対比を重たく感じる。大井ダムの水深もどんどん浅くなっているらしい。掘っても掘っても溜まっていく。人間って、私って、といつも以上に感じる。とりあえず今日も過ごそう。みんなも元気で。

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精神分析

出会い、仕事

たまたま入った店でなんとなくの会話がはじまる。私はどこへ行っても話しかけられやすい。小さいからだろうと思う。おかげで思いもよらなかった話を聞かせてもらえたりする。ある程度まで受身的に聞くが興味の程度によっては取材態勢に入ることもある。旅に出れば不思議なこと、意外なことがたくさんある。聞かされるまま聞くのも面白いし自分からきいていくのも面白い。

「老舗でね、手広くやってきたわけではないけど地元の人はみんな知ってる。でも先代が病気になって休まなくてはいけなくなってしまって」とお話を聞いたのは酒造会社の人。長く酒造りに関わってきた人のリクルートに成功し店は残ることになったという。たまたま通りがかった小さな倉庫で試飲させてもらった開けたてのお酒はラベルもかっこよくまだ発泡酒のような味わいもあり海外にも日本酒の良さを知ってもらいたいという願いがあるそうだ。様々な緑に囲まれ柔らかな湧き水に恵まれたこの土地のこのおいしさ。説得力があった。移住してまでそこを継ぐ決心をするにはそれなりの勝算が必要だろう。東京でもいずれと話して倉庫を出ると車から夫婦らしき人が降りてきた。背中で聞いたやりとりはそこがすでにその土地に根付いてることを感じさせた。

それにしても話を聞かせてくれたその人は誰だったのだろう。土地の説明がとても魅力的だった。先代の若い親族だろうか。話を聞きながら関係性を掴めることも多いがそのときはわからなかった。

昼に入った蕎麦屋の人とは掛け合いが楽しかった。早めの時間だったがすでに蕎麦が足りないから20分ほどかかるという。全く問題ないので入ってキョロキョロしていたがその人の仕切りのうまさに感動した。そして絶妙に押しが強い。つい相方みたいな反応をしてしまった。みんなで笑った。地元のご老人の居場所にもなっているらしく一度出て行ったのにすぐ戻ってきて話し出す常連っぽい方に「今日はお客さん多いから今度聞く」という。が、通じない、というよりその方には伝えたいことがあるらしい。その場だけ聞いてるとなんのことか全くわからなかったが「わかった、〇〇さんに伝えておけばいいのね」といいその方はニコニコウンウンと頷いてでていった。

駅で荷物を預ってもらったがそこの人も蕎麦屋の人とよく似ていた。押しが強い。そして教示が的確。

直接的に人を相手にする仕事は瞬間の手続きの連続だ。頭で考える時間などないことの方が多い。彼らはそれぞれ達人だった。

その土地で仕事を得たり続けたりしていくことがどれだけ大変かはわからないが決して気楽ではないだろう。選択肢も多くはなさそうだ。でも少なくとも彼らは相手を個人としてきちんとみていた。障害のある人への関わりを見てもそう思った。

今日はどんな人と出会うのだろう。出会っても出会わなくてもいい一日になったらいい。みんなも。

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散歩 精神分析

富士山

富士山が見える駅には「晴れているとこちらから富士山がみえます」とか書かれていることが多い。こちらは晴れていてもあちらがという場合もあるしお空事情は色々だから見えない時もあるし「こんな隙間からこんなきれいに!」と意外な場所から意外な富士山を発見することもある。「富士見」と名付けられた場所にも「昔はここからきれいに富士山が見えました」と書いてあったりする。もちろん今でもきれいにみえる富士見ヶ丘とか富士見台とか富士見町ととかもある。かろうじて富士山が見えるポイントに人々がたまっていることもある。富士山すごい。

春を巻き戻したような土地で桜やハナミズキや藤と出会い直した。毎年季節が進むのが早くなっているように感じる。

今朝は早朝から散歩へ。行ってきます。

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精神分析

GW

鳥の声がじゅわって聞こえる。重なって鳴いてる。今日もあったかそう?昨日は朝寒い!となったけど「暑くないの?」と言われた。十分あったかい格好してた。なんかパソコンの調子が悪いなあ。候補生の会のニュースレターの基盤はできたけどここからなのに。でも原稿もたくさん集まって読み応えあるものができそう。投句の締切は今日か。あー。集める方はできても出す方はダメね。あー。こうして書いていくとやらねばならないのにやっていないことに気づいてしまう。提出期限過ぎてたりして。あとで確認しましょう。これはすぐ書き終わるからね。

1日の終わりにみる動画があるのだけど毎日それがUPされるかどうかはわからないの。それはそれで楽しみだけどUPされてないとやっぱり残念。でもまた明日、と思う。

お笑いのライブに行った。これは私にとってすごく非日常。句友たちはお笑いにすっごく詳しくて私のお笑い情報はほぼ彼らのツイートから成り立っている。芸人さんってただでさえ変わった名前つけてたりするじゃない?それを略されたりするといよいよそれは物?人?というところからになっちゃうけど一度ライブにいくと一気に身近になるね。コロナ前にみたもう顔の筋肉が崩壊するような笑いはなかったけどほんわかしつつすごいリズムのいいショートコントですごい!と思った。また行きたいなー。お笑いは夜遅くまでやってたりするよね、たしか。寄席も行きたい。

今日から連休ですね。みんなはどうやって過ごしますか。はじめての何かをする人もいるかもしれないかな。はじめての場所にいく人は多いかもしれないですね。それが近場でも遠方でも良い出会いや発見があったら嬉しいかもね。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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精神分析

GW,國分功一郎week

GWは國分功一郎weeeek。隙間時間は全部國分さんの本を読むぞ、久しぶりに、と思ったけど『スピノザ 読む人の肖像』(岩波文庫、2022)に苦戦したばかりだった。全部は見られていないけど「國分功一郎の哲学研究室」も購読しているのだった。毎回動画とテキストの二本立て。映像と言葉、見ると読む体験の両方。見て、読んだ範囲では全て面白かったし心動かされた。國分さんの話は巻き戻して(ネット上では巻き戻してとは言わないか)何度も聴きたくなる。早送りも倍速もできない話し方。すごく音や映像にもこだわってその道のプロから教えてもらったり本を読んだりしたとおっしゃっていた。そんなに仕事してるのにこっちもなんてそりゃ体調も崩すよ、という徹底ぶり。たしかに最初に見たとき「おー」と思った。これは新しいなと。You tubeではないのがとてもいいと思った。國分さんはずっと同じテーマを具体的な問題とともに追い続けながらいつも新しい哲学の表現を模索している。こういう実践がまた理論に影響を及ぼすのだろうね。

國分さんの新刊はコロナ禍で行われた東大での2つの講義を収めた本。『目的への抵抗ーシリーズ哲学講和』(新潮社、2023)。すぐに忘れる、すぐになかったことにする、すぐに経験を知的なものへと変換してしまう私たちだから今すぐに読んでおきたい。経験が近いうちにあれこれあった日々を何度も体験し直しそこから考えていく必要がある。

今ちょと眠ってしまった。友達とイベントへいく夢を短時間ながらみていた。夢の中でも「ここで食べられるお菓子」みたいなお菓子のことをスタッフの方に教えてもらい隣にいた人たちにも聞いたばかりのことをもらった地図付きで教えている夢だった。横浜の方のイメージだったな。いつもの自分じゃん。しかし不思議な階段だったな。

そういえば國分さんはデカルトのことがものすごく好きなんだね。『スピノザ 読む人の肖像』とその元になってる博士論文『スピノザの方法』を読みながら思った。國分さんの講義を受けているときはドゥルーズ、スピノザのことは頭に残ったけどデカルトは残っていなかった。國分さんはその時点での考えに至るまでの思考の流れを丁寧に話してくれるから絶対出てきているはずなのに。

國分さんは実践を大切にしてくれる(精神分析実践のことも)哲学者でご自身も本当に大きな実践をされてきた。私が國分さんのことを知った道路問題についてはこちらの本にまとめられている。『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎、2013)。私が理事をしていたNPOで國分さんをお呼びしてお話聞いたとき、私ははじめてその地域(千葉県松戸市)も似たような問題を抱えていたことを知った。それまでずっと一緒に活動してきた地域のことなのに聞いたことがなかった。こうして許可なく自分たちの私有財産が侵害される怒りややるせなさについて語る機会があってよかった。民主主義的な決定とは何か。そこに本当にプロセスなんてあっただろうかなど『近代政治哲学 ー自然・主権・行政』(筑摩書房、2015)と合わせて読むのがおすすめです。

ということで久々にお会いしたい國分さんのご著書からまずは、ということでなんとなく書いてみました。もう西の窓も明るい。大きな窓の方はどうかな。チョコは部屋に置きっぱなし。まだ溶ける季節ではない。塩山の和菓子と洋菓子風和菓子の2種類を半分ずついただくことにしましょう。明日からまた連休ですね。まとめてお休みをお取りの方もそうでない方もどうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

消費、礼、花すること

紅茶美味しい。とってもいい香り。東の窓は明るくなってきたけど西の前はまだね。鳥は明るい方から鳴き始めるのね。暗くなったら寝て明るくなったら起きる。ここが明るすぎない街でよかった。

中島隆博先生がマルクス・ガブリエルと対談した本のなかで、なんていう本だっけ。そう『全体主義の克服』。調べました。集英社新書から2020年夏にでた本。すでにパンデミックについても語られていました。この期間、コロナとは関係なく亡くなった知人が数人いるけど「関係なく」なんて簡単にいえないのかもしれない。そうだ、中島隆博先生がその本の中で「花」について語っているところがあるの。どこだろう。あった。思ったより後半194ページ。全251ページの本なの。中島先生がそこで「中国語の「花」は動詞でもあり、何かを消費するという意味があります。中国語の「花時間」は時間を消費するという意味になります。」と書いているの。下北沢にVoleur de Fleur「花泥棒」という喫茶店があるのだけど時間泥棒という意味でもとれるね。私が下北沢に通っていた頃からずーっとあるんじゃないかな、あの喫茶店。素敵な名前で全然悪い意味とは思わないけどこの「花」に含まれる「消費」はその言葉のイメージ通り基本的には悪い意味なんだって。でもアリストテレス哲学が提示する「エネルゲイア」(現実活動態、「キーネーシス(運動)」と対比されるもの)というのは種子から開花へのプロセスで「エネルゲイアの状態になる花は、結果的に実を結ぶことがあるにせよ、定められた目的のために咲いているわけではありません」。理由も根拠も目的もなし。でも咲く。そして朽ちる。消費ってなんだろう。倫理的な消費ってありうるかしら。中島先生は倫理と弱い規範である「礼」を結びつける。「人間的に花すること(human flowering)」ってどんなだろう。状況依存的なもの、つまり偶然的な出来事を受け入れていくプロセスと理解しているけど。常にあるのは結果ではなくプロセスだとも。國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』の中で「消費」と「浪費」を区別したよね。GWは國分功一郎×柄谷行人読書週間として色々読んでる。柄谷行人の新著『力と交換様式』(岩波書店)をしばらく前にもらったからそれを読もうと思っていたのだけど見当たらなくて。どこへ置いたのかな。まあいいかと國分さんが取り上げていた柄谷の昔の本を読んだりしていた。それでパンデミックのこととか気候変動のこととか空とか花とか法則性とか複数性についてバラバラと思い浮かんでとりあえず思い浮かんで残っているものがホワホワとつながって中島先生の言葉を思い出したのね、多分。

チューリップで有名な公園へ行った。すでに花は咲き終え切り取られていたけどとてもたくさんの茎と葉が残っていて色はわからないけどそこにあったであろう景色を想像させてくれた。チューリップのあとにはたくさんのポピー、ネモフィラ、シロツメクサ、それらを取り囲むいろんな緑の木々、春から夏へ少しずつ季節は動いてる。春とか夏とか名付けること自体も大事だったんだよね、きっと。どうするのかな、私たち。どうなるのかな、私たち。國分さんや中島先生の本を読むと無自覚でいないことで体験される切迫感も感じるけどそれを否認せずそこにいつづける仕方も教わっているような気分になるんだ。今日は月曜日。5月になっちゃった。どうぞご無事で。お元気で。