カテゴリー
精神分析

本とかLechevalier論文とか。

いいお天気。最近の月は昼間にはうっすら東に、帰る頃には一番高いところに。毎日どこかなあと見ているのに意外な場所にいると感じるのはなぜか。見ているようで見ていないもんなんて山ほどあるか。人は見たいものしか見ないし聞きたいものしか聞かない、という話はしょっちゅうしているし、精神分析は自分のそういう部分に出会う営みだからいやーな気分になることもたくさん。でもそういう自分をどうにかするにはどうしても通る道だからつらいよね。

昨日は仕事以外なにかしただろうか。政治のニュースに苛立ったり、アメリカで起きていることを恐れたり心配するのは毎日のことだけど。Kindleにはいっていて既に読んだことのある本を数冊数ページダラダラ読んだか。台湾文学『亡霊の池』とか。韓国の作家の本もそうだけど、家と土地の描写の仕方がすごいなといつも思う。何もない景色、というか登場人物がいる場面がそうである場合はそれが目の前になんともいえない情緒を引き起こす書き方で置かれる。韓国は特に住宅事情によって格差がはっきりわかるから登場人物の言葉の端々に滲むリアルにドーンとなることも多い。一方、そうだなあ、たとえばチョ・ナムジュの『サハマンション』(筑摩書房)はそういうものを全て剥ぎ取ったかのような空間で雑多なものの動きだけが展開するような感じで、なのに、というか、それだけに、というか生々しさがすごい。翻訳の力もあるのか、日本語で読んでいるのにものすごく外国の文学という感じがする。知らない世界がきちんと生々しくそこにある。SF的翻訳文学ではない感じ。すごいことだ。

昨晩はTVerでサンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃんも見て、すごいすごいとたくさん言っててたくさん笑った。博士ちゃんたちは本当にすごい。芦田愛菜もすごい。学ぶ力って聞く力で話す力なんだなというのも実感する。

あとSNSにポストしたけどこっちにもメモしておこう。ケイト・バロウズ編集の『自閉症スペクトラムの臨床』は子どもと大人両方の自閉的側面が事例とともに広く記述されている本でとてもよくて、昨日は序章にしか出てこないBianca Lechevalierの論文を少しチェックした。邦訳だとレケバリエと訳されているけどルシュヴァリエじゃないかなと思った。この人の講演とか音声がないので確認できないのだけどフランスの神経学者としてマーク・ソームズと一緒に書いたものもあるらしいのでたくさん出ているソームズの動画をチェックすればLechevalierの名前も出てくるかもしれない。名前はできるだけそれに近い日本語にしたいと十川幸司先生が言っていた。大事だと思う。この本で参照されている。論文は二本あって、一つは2003 The 7th Annual International Frances Tustin Memorial Prize “Autistic Enclaves in the Dynamics of Adult Psychoanalysis by Bianca Lechevalier-Haim, M.D. of Caen, France。受賞論文もここから読める。最後にクラリッセ・ニコイツキー. Clarisse Nicoïdskiの詩が引用されていてそれがとても硬質で繊細な痛みと混乱を表現していて自閉的な世界の描写は厚みよりもこの感じになってしまうな、と辛かった。

東京は今日はずっと晴れみたい。最近出会った詩たちが描く冷たさに凍えそうだったけどただ春を待つだけではなく冬は冬として、という気もする。良い1日になりますように。

カテゴリー
精神分析

アルフレッド・ロレンツァー論文を読んだり。

寝不足。年末にもらった新潟味ののれん本舗のおせんべいが美味で遅い夜ごはんのあとに食べてしまったが、今朝は意外と胃腸にきていない、かも。あとからくるのかな。怖い。

私はやっぱり黄金揚げが好き。はちみつとお醤油はまさに黄金の組み合わせ。歌舞伎揚げも昔から大好き。あれはざらめとお醤油かな。小さい頃はいつもうちにおせんべいがあった気がするけど、今、自分で買うことはほとんどない。旅先でならあるけど。昔、祖父母の家からその辺に住む人しか使わない細い道を行った先に小さな商店があってそこで祖母がお煎餅を買っていた。ぽたぽた焼きのおいしさを知ったのはそこでだったか。あれは亀田製菓。やはり新潟。米どころの煎餅はおいしいね。そんななか詰め合わせをいただいたので色々試せて楽しい。自分で買わないのは食べ過ぎてしまう心配があるからかも。あまいの食べるとしょっぱいのが食べたくなるし逆もそうなんだから、あまいのとしょっぱいのがマリアージュしてしまっていたら食べちゃうでしょう。困りますね、おいしいというのは。

この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。

ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。

ボルバーはそこでロレンツァーと同世代人のヘルマン・アルゲランダーの紹介をしているが、ロレンツァー自身が、自分とアルゲランダーの考え方の相違にも触れていた。ついでだからフランクフルト学派との関わりも感じさせる文章と一緒にざっと訳すとこんな感じ。

「「物象化的(reifying)」な見方の支配は、過去50年間にわたって、「ヨーロッパ諸科学の危機」(フッサール、1936年)の中核として、またわれわれの日常的盲目性の主要なトポスとして、次第に明らかにされてきた。思考が一般に物象化へと「頽落(fallenness)」していることを考えれば、精神分析的理解の場面的性格の認識が、その完全な開花に至るまでに時間を要したとしても、驚くには当たらない。というのも、それが完全に明示され、精神分析の状況的基盤を反駁の余地なく浮き彫りにしたのは、「転移と逆転移」の相互作用がもつ決定的意義が全面的に理解されるに至ってからだったからである。
この理由からしても、「場面的理解」モデルが、互いにかなり隔たった二つの研究領域において、同時に成立したということは、同様に驚くべきことではない。すなわち、アルゲランダーの臨床分析と、私自身による精神分析的方法の科学・理論・メタ理論に関する探究とである。
もっとも、両者の概念は完全に一致しているわけではない。しかし、この差異は本論の目的にとっては本質的なものではない(最終的には、付加の問題にすぎない)。とはいえ、ここで簡単に触れておくことにしよう。アルゲランダーは、場面的理解を「自我の機能」として捉えている。すなわち、場面的経験を構成するのは自我である、という立場である。これに対して私は、精神分析的知の主体の決定はイドの場面的構造を前提としている。イドは、場面的な関係公式(自然と社会的実践の諸形式との総合として)から生じるものと理解される。」

と。なるほど。ドイツ精神分析における自我心理学との関わりとそこからの転回を追うのも面白そう。たぶん誰かすでに書いてくれていると思うからいずれ探そう。

ついでだからアルゲランダーのこともメモしておく。ボルバーによると「ヘルマン・アルゲランダーは1920年生まれで、医学修業後、内科学の専門医となった。その後、ベルリン精神分析研究所において精神分析の訓練を受け、1950年代に資格を取得した。1959年には、ハイデルベルク大学心身医学講座においてAlexander Mitscherlichとともに勤務、1960年には、ミッチャーリッヒが新たに設立したフランクフルトのSigmund Freud Instituteへと移った。」

と。ここでアルゲランダーとロレンツァーは出会ったのかな。アルゲランダーは2004年逝去。今度のIPA COWAPのレクチャーでDPVの人たちの名前があったけど英語だからなあ。私はひたすら文字になったものを読んでばかり。色々聞けたらいいのにね。

冬の果物
カテゴリー
精神分析

ロレンツァーの場面的理解とか。

今朝もうっすらピンクがかっている時間がない。夜明けは随分早くなったと感じる。

昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。

1960年代のフランクフルトでは、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノによる批判理論を基盤に、社会科学の方法論、科学的客観性、意味の解釈学的理解をめぐる、極めて刺激的で実り多い議論文化が形成されていた。精神分析も理論としてこの議論に含まれていた。
社会科学者と精神分析家の対話は、精神分析理論に豊かな進展をもたらし、その一つがロレンツァーによる新しい精神分析メタ理論構想であった。彼はドイツ精神分析を代表する理論家の一人であり、精神分析的知の形成過程を精密に理解し、精神分析を社会理論の文脈に位置づけることに力を注いだ。

彼の関心は当初から、精神分析的理解の固有性に向けられていた。彼の提唱した「場面的理解」は、論理的理解や心理学的理解の限界を超え、精神分析的認識の対象が本質的に場面性(scenic character)をもつことを明らかにした。
フランクフルトのフロイト研究所で同時代を生きたヘルマン・アルゲランダーは、臨床経験から独自に心的過程の場面性に到達し、ロレンツァーの概念を採用したが、彼はこの機能を自我に帰属させた点で、イドに場面的構造を認めたロレンツァーとは異なっている。

ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。
1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。

という感じ。このあと、三層モデルとか二層のプロセスとかを用いてロレンツァーが解釈学とは異なる場面を理解する学問として精神分析を捉えたみたいなことが書いてある感じ。より巻き込まれる感じが強いってことだと思う。そして多分水平、垂直の二層は環境と関係で言い換えできるかもと思うけど言語以前の形象を記述するのって本当に難しい。ないけどあるんだ、ということをひたするいう感じ。兎にも角にも戦後のドイツ精神分析はフランクフルト学派第一世代との関連で理論化が進んできた感じなのかな。私はハーバーマスしか読んでいないからまとまったものを読まないとだな。あ、場面的理解って私が英訳から訳してしまったのはszenisches Verstehenなんだけど訳者もそのニュアンスを伝える英語がないからとりあえずこうした、みたいなことがどこかに書いてあった気がする。単なる場面ではなくて舞台とか上演とかに関わる単語だって書いてあったかな。忘れてしまった。Bohleberはローレンツァーとアルゲランダーの紹介をしつつ、ドイツの精神分析家としてトラウマの研究を続けている。アルゲランダーの紹介もローレンツァーの紹介と同じ感じの書き方で読みやすかった。今、メモを探す余裕がないので論文名がわからないけど2013年のIPAジャーナル。1960年代以降、ドイツの精神分析が自我心理学と離れていく様子をガダマーの「真理と方法」の影響などから書いていってたと思う。私はガダマーのこれも読んだことがないけど「遊び」について言っているところは別の論文で読んだことがあってウィニコットと似たようなこと言ってるなと思った。記述が似ているだけで違うのだろうけどね、全然。細かく検討しないとみんな似てる、みんな同じ、と言いがち。危険。ただ「わからない」「知らない」「経験したことない」と言えばいいものをちっちゃい同じ探しで括ってく。危険。

衆議院議員選挙のお知らせもきたけどほんと嫌だ。期日前投票も始まった。杉並区長の岸本聡子がこの時期にこういうことをされるとどれだけ困るかをきちんと書いていたがそんな声も届くはずもなし。今がどんな時期か、とか考える力もその気もないから今こうなっているのだし。声の聞けない政治家なんて本当にいらない。口角の上がり下がりとかどうでもいいがそれで読めてしまう内容しか言葉にできないなんてもっとダメだと思う。自分のためだったら誰の時間やお金を使っても構わない、という愚かな権力者イメージそのままの人をリーダーの位置に置いてしまったことで多くの人が迷惑を被っているわけだが、それに賛同する人たちが多いのも事実。誰かに秩序づけてもらわないとたやすく不安になるのが人間で、だから神は必要だったし、今も神的なものが求められることは多い。だからか?それにしても神っていうのも同じ人間の形でイメージできてしまうのが微妙に巧妙だと思う。私たちって同じ人間だと思うと自分がモノ扱いされてもなんか理由があるような気がしてそんなものなのかなって思っちゃったりする。なにかに強く違和感をもつって本当に難しくて、相手がなんらかの点において自分より弱い立場だと認識した場合にしかその違和感を表明できない場合も多いと思う。なんで自分がこんな目にあうわけとか、なんかおかしくない?と思うことはあってもそれを「革命」の動機にするにはそうしない理由がいくらでもでてくるのではないだろうか。もちろんそんなのは個人の自由だけど、と放っておくこともできるわけだけど、そういうことは考えておいたほうがいいのでは、と今の政治状況にあると特に思う。わからないけどさ、精神分析を受ける人は自分のそういう考えられなさをどうにかしたいと思っている人が多い気がする。そのせいで実際に辛い状況であることを自覚するプロセスで精神分析を求めることが多いのではないかな。というか、こちらがそういう状況だと理解するからこそ提案するというのもあるか。まあ、このへんは相互作用なので、まったく個別の出会いと導入のしかたになるだろうけど。理解するとか考えるというのもそれってそういうことじゃなくてということはそれぞれよくあると思う。「もうちょっと考えてから行動しなよ」というより「早い、早い」といっがほうがとりあえず効き目があったりするのと同じで考えろとか勉強しろとかそういう言葉ってすごく曖昧。私がいった考えるはそういうことじゃないとか言い出す不毛さってあるでしょ。言ってもわからないとわかってるくせにわからせようとしてる自分のことも嫌になるしね。嫌になっても止められないし。

なんかダラダラ書いているとキリがないけど仕事の時間。今日は早くも木曜日。東京はいいお天気。梅がきれい。がんばりましょう。

ろうばい
カテゴリー
精神分析

just for a while,ドイツの精神分析家の論文

今日は晴れてる。バタバタして夜明けを覗くのを忘れた。もう1月が終わりそう。先週、やるべきことはほとんど今週に持ち越された。

持ち越されるといえばNetflixで『ザ・ホエール』を見たのだけど「語り手は自らの暗い物語を先送りする」というセリフが何度かでてきた。私がやるべきことを持ち越すのとはだいぶ意味が違って、英語だともっと違う。

because I knew that the author was just trying to save us from his own sad story, just for a while.

メルヴィルの『白鯨』との関連は別にしてもいいセリフだよね。just for a whileがいい。

こういうことをしているから色々持ち越すわけだけど昨日は調べなくてはいけないことを少し調べることはした。

非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読んでいきつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。

「Werner Bohleber博士は、その多大な知的エネルギーの多くを、特定の主題群に注いできた。それらは、個人レベルおよび社会的次元の双方におけるトラウマ、テロリズム、右翼過激主義、反ユダヤ主義、そしてドイツ国民社会主義(ナチズム)の時代という特異な歴史がもたらした帰結である。ドイツの精神分析家として、ボルバー博士は、ナチスの犯罪をめぐるドイツ社会の沈黙、恥、罪責という過去の問題に正面から取り組み、その関心を追究するにあたって、きわめて高い誠実さと勇気を示してきた。彼は、ホロコースト、暴力、過激主義、排外主義についての精神分析的理解に関して、重要な著書および論文を数多く著している。また、子どもの福祉に深い関心を寄せ、思春期、アイデンティティ、第二次世界大戦が子どもの発達に及ぼした世代間的影響についても研究を行ってきた。」

IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは戻ってきたら、あるいは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。

論文の中身について触れる時間がなくなってしまった。とりあえず今日は水曜日。健やかに過ごせたらいいですね。がんばりましょう。

カテゴリー
精神分析

火曜朝

今日も寒そうな空。曇ってる。最近、同じ屋根や電線にいろんな種類の鳥たちがとまってて春だなあと思っていたのに今日は冬だな。

この前、SNSでゲームウォッチの画像が流れてきてとても懐かしかった。あれ、ゲーム&ウォッチなのね。言われてみればそのまんまなんだけど、私はウォッチの機能をほぼ無視していた気がする。スマホで時間確認するみたいな感じで使ったことない。ひたすらゲームを疲れるまでやる、みたいな。うちにはポパイとミッキーのがあった。小6のときかな、東京からの転校生がたしかファミコンを持っていて、やっぱり東京の子はすごいな、という感じでその子の家に集まったりした気がするけど(すべてうろ覚え)私がゲームにはまることはなかった。同じ画面に集中しているのが難しいのだと思う。

コリアンダーを買わねばと思って毎日忘れている。一度に使うのが小さじ1とかだからもうなくなりそうなのにまだでる、という状態。印度カリー子レシピを知ってからターメリック、クミンパウダー、コリアンダー小さじ1ずつのレシピをよく作るようになった。いつも賞味期限を切らしていたスパイスたちを期限内に買い足す生活になるなんて。カリー子さんはタクコ(1:1:1)と覚えて、と書いていた。大体すごく簡単にできるレシピばかりで気に入っているのだけどこの前「理想のカレーまん」レシピを載せててこれはちょっとめんどうだなと思いながら見ていたのだけどすっごく美味しそうだった。コンビニで買うとしたら肉まんだけど寒い日の空腹を熱さをホフホフする幸せで満たしているだけで味にそんなに満足するわけではないから自分で作るのもありだよねえ。カリー子さん、肉ぎっしりを皮で包むのすごく上手。私はこういうの下手だから結局具の少ないまんになってしまうかな。でもやってみるか。

今朝はなんとなくAndré GreenのClinical Thought/POUR INTRODUIRE LA PENSEE CLINIQUEの試し読みを読んでいた。これ英訳がないのに、なぜ英語の題が併記なのだろう。実は英語訳あるのかな。この前ここにも少し訳を載せた
Green, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71. と似たような内容がこの本には載っていそう。「臨床的思考」という用語でその他の思考との違いを明確にしていく感じかな。前提として精神分析の特異性が語られている様子。たとえばこんなところから。

「精神分析家が、分析中の人々を「病者」と呼ぶことは稀である。彼らはそれらの人々を患者、あるいはさらに一般的には被分析者と呼び、自らの実践を過度に医学化することを避けている。精神分析家は、医師が病者を「治療する」のと同じ仕方で、被分析者を「治療」するのではない。この場合、病者は医師の処方を厳格に守り、その指示に従うことを求められる。精神分析においては、この関係が逆転することが知られている。分析はまず、言葉を与えられる被分析者の手に委ねられている。」

などなど。フランスの精神分析家は哲学にも通じているし、それは一体なんなのか、ということを常に批判的に考えている感じがする。理論の歴史に対する敬意があるからこそ自分がやっていることに対しても批判的に内省する。精神分析はそういう姿勢にしっくり沿うものだからまあそうだなという感じはするけど。

今日はゆっくりめのスタートだからのんびりしてしまった。外は晴れてきた。今日は火曜日。いいことありますように。

カテゴリー
精神分析

月曜日

すっかり朝になってしまった。夜とも朝ともいえない時間から冷凍スープ玉の動画とか手品動画とかをぼんやりみたり、うとうとしてとても意味ありそうな夢をみたり。その夢の中で全然落ち着きなく相手をびっくりさせてしまったり。どうして私は視覚刺激にひっぱられやすいのだろう。すぐ動いてそばの人をびっくりさせてしまう。仕事中は大丈夫になったけど。

札幌とNYから雪景色が届いた。札幌は雪景色とかいってられないくらい大変そう。うーん。私は絶対雪国で暮らせないと思うのだが、実際知っている人たちが暮らしているのをみると暮らせないとかいっている場合でもないし、そういうことになったら暮らす以外ないのだから、ないのだからなに、というわけでもないけど知っておくのは大事よね。大学時代の先輩もこの時期、一階部分は埋まると言っていたしな。NYは学校はもちろんいろんなことが中止とのこと。子どもたちが少しの起伏でソリを楽しんでいる様子も送られてきたが、ソリは常備品なのだろうか。あ、でもうちだって全然使わないのに雪かき用の大きいシャベル買ってあってあるからな。アメリカは今本当に危機的な状況だと思うけど子供たちの楽しそうな声をきくと少し安心する。

昨日は事例検討会もミーティングもあり私なりに頭を使って疲れた。先日MacのPagesで訳したアンドレ・グリーンのGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71.をWordファイルにしてOneDriveに保存してからWindowsパソコンで開こうとしたら見当たらず。ほかのファイルも破損しているから開けないとかいう表示がでた。私はこんなに長くMacでOneDriveを使ってきて、なんどか同じ事態になっているのになんとかなってきてしまったことでなにもしてこなかったのだな、とMacとのさよならが近づいてきている今になって反省してちょっと調べたらすぐ対処方法がでてきた。対処方法以前の私のわかってなさの問題という気もしたがとりあえずよかった。このMacがまだ新しかったころにOfficeをインストールしたのだけど相性が悪かったのかフリーズしてばかりでapplestoreでもそういわれるばかりだったのでpagesばかり使ってきてしまったのだ。学会発表とか原稿でWordファイルを求められるときはオフィスにあるWindowsのパソコンに送って手直して出していた。すると文字数が結構変わってしまったりして、常に時間も文字数もぎりぎりで書いているので大慌てということもよくあった。にもかかわらず、と話ですね。Macとはお別れしがたいたけどそういうめんどくさいことがないようにWindowsのパソコンを買ったし、作業はそちらに統一していかないと。

ということでアンドレ・グリーンの論文はみつかって、もう一度きちんと読もうかなと思ったけど文字を追うだけで内容が全然入ってこなかった、昨日は。昨日の朝は元気でやるべきことをやろうとパソコンの前にいたけど初期からの女性の精神分析家のこととか子供と大人両方を話題にしている精神分析家の動画とか本のアブストラクトとか関連の用語調べたりしてしまってあっというまに時間切れになってしまった。自分の興味にそっている場合ではないから、それを広げたり深めたりしていくためにもこの平日の隙間時間にできることをさぼらずにやらねばならない。梅もみにいかねばならない。どんどん景色が変わってしまうからね。雪の地域の人たちもどうぞお気をつけて。心あたたまる景色と出会えたら写真とって送ろう。

また新しい一週間、がんばりましょう。

裏の細い道にかわいい絵が描いてあった。工事用の柵なんだろうけど。
カテゴリー
精神分析

Reading Freudでアンドレ・グリーンを読むなど。

昨晩は「つかれたー」と何度もひとりごちてしまった。今週もあっという間に過ぎた。今朝は夜明けを眺めていたら眠くなってしまい二度寝してNHK俳句を見逃した。最近、全然見ていない。俳句を遠くにしないようにしないと。好きは好きだからね。

昨晩は今年最初のReading Freudだった。今年度はフロイトの『心理学草案(プロジェクト)』(1895)を岩波訳で精読した。読み終えてから関連文献を読んでいるが、最初に精読したときはほぼわからなかったのにそれについて書かれたものを読みながら草案に戻るとなんかわかったような気分になるから不思議だ。内容を理解する、というより「あ、だからあそこでこう書いていたのか」とか「これってあそこに書いてあったことか」と文章が秩序だって立体的になってくる。するとフロイトが多くの読者を想定し、実際に多くの人に読まれた本に書かれていることの源泉を発見した嬉しさを体験できる。フロイトの発見を再発見する楽しみがある作業。

昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。

「(・・・)理論的諸問題に取り組もうとする並外れて大きな努力を示すものであり、しかもフロイトがその後二十年以上にわたって、少しずつ展開・活用していくことになる仮説の大部分が、最初にして一挙に噴出するかたちで姿を現している最初の試みでもある。すなわち、量と質との関係、自由エネルギーと拘束されたエネルギーとの区別、経済論的仮説、満足体験と苦痛体験に関する最初のモデル、自我の最初の素描とその対象との関係、象徴化の役割、一次過程の定義、そして思考の理論――言語および意識との関係において、情動の攪乱的な役割が姿を現すその理論――である。この著作のきわめて大きな利点は、メタサイコロジーのこれらすべての基礎概念を、明確に連関づけて提示している点にある。もちろんそれは、随所に遊びの要素を含む、緩やかな連関ではある。しかしそれでもなお、きわめて重要な連関であることに疑いはない。」

と。まさにそうなのだけどあっさりまとめてくれちゃうもんだわね、とがんばって読んだ私たちは思ったりもする。グリーンのこの本は「情動」という側面から切り取っているという点では偏りはあるが、フロイトを読む際の補助線になる。アンドレ・グリーン=難解、なだけではなく英国対象関係論とフランス精神分析の架け橋になっているくらいだから、フロイトと私たちをこうして繋ぐことだってしてくれるのだ。昨年はグリーンをたくさん読んでたくさん訳してきたがこういう文献との出会いもあって報われている気がする。

さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。

ロベルト・カラッソ『Ka』(1998)の引用からかっこよく始まるこの論文、冒頭だけでも雰囲気は伝わると思うので私が機械翻訳を用いつつ訳したものを載せておく。

「将来、歴史家たちが現在の精神分析の時代を振り返るとき、彼らはこの時期が精神分析的理解の危機を経験していたと結論づけるかもしれない。私たちは、自分たちの学問分野の発展を、他者が擁護する諸理論との関係の中に自らを位置づけることで追っているつもりでいる。しかし実際には、私たちがそれを行えるのは、きわめて近似的で個人的な翻訳を通してにすぎない。とりわけ、それらの著者が自分たちと同じ思想的家系に属していない場合、私たちは、彼らと何とか結びつきを作ろうとする試みとして、そのような翻訳を行っているのである。そして私たちは、しばしば自分たちにとって異質なものの前で、礼儀正しさと敬意を入り混ぜた態度で、一般的な意見交換に参加する。最良の場合でさえ、彼らが推論を構築する基盤の妥当性について、私たちは懐疑的である。というのも、根本的には、私たちはもはや共通の理解の原理を共有していないからである。

フロイトは、ある種のバランスシートを作成するように、精神分析の仮説が公理として見なされるべきなのか、それとも研究の成果として見なされるべきなのかを判断するのは困難であると認めることで、この問題に間接的に言及している(Freud, 1938)。その結果、私たちは一方では交換における過度の緩さと、他方では問いかけをほとんど許さない強硬な姿勢とのあいだで引き裂かれることになる。しかしながら、この状況には利点もあった。それは、最も厳密なものであっても、いかなる科学的方法も、明確に限定された公理や基本概念の集合に基づいてはいない、ということを私たちに認識させた点である。フロイトはすでに1915年にこのことを指摘していた。ここで生じる問いは、私たちの発見がもつ価値に関するものである。

私たちは、共通の臨床実践という領域においてさえ、合意に達することができるという幻想を抱くことはできない。しかも、この境界自体も決定的な助けにはならない。というのも、精神分析の始まり以来、臨床領域はあまりにも大きく変化してきたため、今日ではその統一性を見出したり、その限界について合意したりすることが、かつてよりもはるかに困難になっているからである。さらに、この多様化の進展は、ビオンの用語でいう定義的仮説と、それに関連する理論的・臨床的原因病理論的概念の発展を促してきたが、それらはしばしば互いに乖離している。

この問題を考える上で最も適切なのは、構造と歴史との連関を形成しようとする思考である。ここでいう構造とは、精神を構成する様式と呼びうるものが、安定―不安定の勾配を中心として、収斂・補完、もしくは対立といったかたちで秩序づけられていることを意味する。葛藤の圧力は、それらの内部調整を硬直と解体のあいだで揺り動かす。

一方、歴史とは、時間性の展開、より正確には精神分析が示してきた絡み合った複数の時間性(Green, 2000)を意味する。構造と歴史との関係は、精神分析だけが独占しているわけではないが、この領域では他分野以上に複雑であることが明らかである。」

と続いていく。フヒー。古典を読む意義は伝わる人には伝わっていると思うけど、実践と理論を乖離させないように丁寧に織り込んでいく作業をさまざまな形でしていかないといけない。大変なことだ。がんばれたらいいなー。今日は事例検討会。多分これまでで一番ぎゅっとした話しあいができている会でもう何年も続いている。先日書いた子供の心理療法に関する一章もそこで受けたインパクトのおかげで一気に書けた。そういう相手がいるって本当に大事。若い人たちもいろんな年代、いろんな経験の方と患者のことを自己流ではないやり方で検討できて、検討会が終わる頃にはその人の人生が歴史性を持って立ち上がるような感覚を持てるような場を作っていってほしい。色々文句もぼやきもあるだろうけど、政治と同じで、そこを変えていくのは自分でもある。がんばれたらいいね。

いいお天気!良い日曜日になりますように。

新宿中央公園の梅とパークタワー
カテゴリー
精神分析

オグデンの「自閉」など。

世界のニュースに気持ちが追いつかない。夜明けは今日もきれい。

昨日の朝、論文の手直しを少しした。いくつかの点でもう少し根拠をしっかり提示する必要がある。そのためには素材の方も別の箇所を使用した方がよさそう。結局、全体的な手入れが必要。夜はそういう作業する時間はないので毎朝、少しずつやっていくしかない。関連してオグデンの自閉ー隣接ポジション(autistic-contiguous position)論文を読み直したけど、その後の展開があまりされていないのもさもありなんという気がした。今手元にないのでこの部分が、と正確に引用できないけど、この概念が展開するにはタスティン、メルツァーといった自閉症に関する代表的な論客の言わんとしたことを理解するのはもちろんだし、彼らの使う「自閉」が自閉症だけを指しているわけではなく、誰にでもある心の機制であるという理解が必要である。それ以前に自閉症を含むさまざまな病理のインテンシブな精神分析的治療を体験しておくことは不可欠なわけだ。精神分析の概念はインテンシブな治療である精神分析体験で必然的に生じる患者と分析家の強い情動体験をもとに展開してきている。それが生じない事態を考える場合もそれまでの二人が積み重ねてきたい時間の中で明らかになってきた「生じなさ」に対する強い自覚が起点となる。それは相手に、あるいは二人の関係性にオグデンがいう意味での自閉的な要素を見出すことでもある。今は専門家でない人が「アスペ」とか「自己愛性パーソナリティ」とかカジュアルに使うようになったがそこに含まれる相手を見下した態度は知らないこと、わからなさへの耐性の低さを示しているのだろう。オグデンたちがいう自閉という言葉は決してそういう水準のものではないが、専門家であってもこの言葉で喚起されるイメージの偏りは大きいので、使用しにくい言葉だなとは思う。夢やイメージ以前の感覚的印象の散らばりによって混乱が生じたときに心がとる態勢を臨床素材の描写と共に記述していく難しさったらない。カモフラージュのためではなく、空間以前の表面でなされる反応としての模倣が対象との間でどのように形を変えていくかを記述する語彙を育てられたらと思う。精神分析は自分の中の圧倒的な語彙不足、言葉の誤った使用への気づきに打ちのめされ、それまでの自分の体験に対する見方がガラッと変わる。人は誰でも自分のことを棚に上げて他人のことを色々いっているものなので、ナルシシズムは傷ついても、人より自分という場所からまた始められるのは大事なのでは、と思うが、その苦しみも半端ないので、現代社会に生きる人の特徴を踏まえた上で理論と技法の更新が必要なんだな。常に大仕事という気がする。

今日も寒そう。風邪ひかないように過ごしましょう。

カテゴリー
精神分析

次世代とかお菓子とか。

夜明け。うっすらとしたオレンジがとてもきれい。もうこんな時間なのに広い広い空はゆったり太陽を迎えていく。生き物たちはこの夜明けで季節が進んでいくのを感じとる。次の世代のための準備もする。人間も生き物のはず、なのにね。世代間伝達という言葉が悪い意味でしか使われないわけだ。下の世代が連鎖を断ち切ろうと無理しなくてもいいように上の世代が必要なことを下に引き継ぎながら自由にさせる工夫をしないと。もちろん分離に伴う不安や恐怖でしがみつきだって起きるだろう、お互いに。ひどいことだって言ったり起きたり言われたり色々するだろう。それだって大人の方がすでに場数踏んでるはず。今や当事者より理解できる心の状態のはず。動物たちの子育てに学ぶことは多い。彼らは時間を自分よりずっと大きなものに委ねてるからやることやります、という感じ。人間はなんなんだ。モモの時間どろぼうかよ。自分のことより次の世代のことを考えることは結局自分のためであるという実感をどこかで持つには自分も大きなものに抱えられているという感覚が必要。時間も空間も必要。自分より大きな存在、子供にとってみたらそれは大人。大人が仕事しろよ、と思うことは多い。エディプスの神話だって、大人たち何してくれちゃってんだよ、という話でもあり、臨床場面でも「仕事するのは私たち大人です」となることは多い。大人の中の赤ちゃんの子心はもちろん大事。それが大事にされてこそ、大人の仕事はできる。でもその心で現実を動かせるなんて思っちゃいけないし、そんな体験してはいけないしさせてもいけない。

それにしても今週は寒いね。乾燥もますますひどい。そして花粉。オフィスの床はフローリング。何か敷いてもよかったけどきれいにしやすいからそのままにしている。花粉は見えないけど毎日クイックルしてるから少しはマシかな。ハンドクリームとリップクリームもすぐ使える場所に。届く距離にないと本当に使わない。辛い思いするのは自分なのに。そんなだからかユースキンのhanaハンドクリームをもらった。これはいいね。ベタベタしないからすぐ作業できる。オレンジのぬるっとしたのにも助けられているけどどこか触ってしまうまでの時間を耐えるのが難しい。なのでありがたい。いただきものならきちんと使うはず。今のところこまめに使っているので小さい切り傷とかもできず良い感じ。

徳島で買ってきた我が家用お菓子も随分少なくなってきた。今はどこへいっても個包装でひとつひとつ帰るお菓子が増えているからいろんな銘菓を試すことができる。お正月明けに集まった各方面からのお菓子たちも加わって1月はとても豊かだった。いただいたものだと福田屋さんの「熊本和栗庵 謹製 栗好き」がすごく美味しかった。熊本は和栗の産地でもあるのね。

今日は我が家用土産で買ってきた徳島で一番有名かもしれない「金長まんじゅう」。包みをみれば「あー、見たことある」となる人も多い気がする。天保年間『阿波狸合戦』の金長狸をモチーフにした徳島を代表する銘菓。皮はチョコレートで狸色。徳島県小松島に伝わる民話。この民話、単なる恩返し話とは違って途中から「えー」となってしまったのだけど、やっぱり戦いなんて自分の中だけですればいいのでは、助けを得ながら、と思った。本当に戦ったら他人が傷ついたり死んだりする。しかも「あなたのため」とか言いながら。ダメでしょう、そんなの。主君のため、とか言って裏切りまくって権力者になっていく戦国時代ではないのだから。裏切ってるつもりはなかった、そこには協力もあった、とかそりゃそうだろう、みたいな話はまた別のお話。大河ドラマとかは楽しいですよ、それはもちろん。だからそういう話ではない。あー、難しい。

今日もがんばりましょ。

都庁からパークタワーとオペラシティ

カテゴリー
精神分析

木曜朝

きれいな空。今週はいよいよ寒いけど冬の光をいろんなところで感じる。そういえば道路を敷き詰めていた金色の銀杏の葉がすっかりきれいにされたあともまだまだという様子で輝いていた大きな銀杏の木がすっかり葉っぱを落としていた。いつのまに?自力で落ちたのかしら。いや、落ちるときは力がなくなって落ちるのだろうけど、もういい加減冬支度しなさい、とお掃除ついでに落とされたのかしら。毎日見ていたのにそういう瞬間には出会えないものなのね。北海道はすっかり雪景色なんだよなあ。昨日の朝、あちらで開業している仲間から写真が届いた。公共交通機関が動くかどうか見極めながら早め早めに移動しなくてはいけないから大変そう。SNSで流れてきた羅臼に至っては猛吹雪の写真が流れてきた。住んでいる人にとってはいろんなことがいつものことなんだろうけど色々知ったら「え、そういうときはどうされているんですか」とお聞きしたくなることがたくさんでてくると思う。皆様、どうぞお気をつけて。

毎晩、もう寝ないと、と思っているのにすごく遅くなってしまう。少し前は遅い夕食を食べたらぐったり何もできず眠ってしまっていたのに。今も起きているだけでなにもしていないのだから寝ればいいってわかっちゃいるが。気温の変化とか乾燥とかいろんな環境の変化が身体に影響を与えているのだろうねえ。季節を感じるのはいいが、花粉を感じたりするのは辛いものだ。花粉症は春の季語。

袖口に菊の花粉や我が花粉 池田澄子

いつ使えなくなってもおかしくないと思いながら使い続けてきたMacBookAirがいよいよ動作が遅い。サイトがなかなか開かない。スクロールしても動かない。パソコンも歳をとると反応が鈍くなるのか。昔はこうやってよく待ちぼうけしたなあ。ダイアルアップ接続ってやつ。ダイアルアップ接続ってISDNとは違う?ADSLで「早っ!」ってなって光回線なんてつい最近な気分。今っていろんなことが早い、早すぎる。私が大学生の頃は書き物はワープロだったし、ポケベルやPHSは身内でしか使っていなかった気がする。フロッピーも大きかった。数年前まで高尾に「高尾の湯 ふろッぴィ」というローカルな温泉があった。これはどちらかというと「けろけろけろっぴ」と同じ方向性を持ったネーミングだと思う。いつも以上にどうでもいいことを書いている気がするがどうでもよくもない。「ワープロってなに?」「フロッピーってキャラクター?」とか言われる時代なんだろうから、今は。懐かしむ以前になんかキチンと記録しておいた方がよくないか、となる。公的な記録だって平然となかったことにされる時代でもあるが。

そうだ、なんでこんなこと思ったかって国内でも海外でも買い集めてきたポストカードやレターセットを誰にどう使うか問題について考えていたからだ。封筒があるものは中に紅茶とかコーヒーとかを入れて送るのもいいな、思っている。今、個包装の可愛いのがいっぱい出てるから。ポストカードは突然送るのも変な時代なのかしら。文通文化もなくなったみたいだし。高校生の頃は毎日会う友達と毎日手紙のやりとりをしていた。ルーズリーフとかでだけど。当時からカード類はちょこちょこ買っていたのだからそれでやりとりすればよかったのかもしれない。いろんなことがこんなに早く変わって、使わなくなるものがこんなふうにでてくるなんて知らなかった。せめて人のこころみたいなものはあるとかないとか言っていないで普通に守られていきますように。

いい一日になるといいですね。

白い梅も咲き始めた。
カテゴリー
精神分析

水曜朝

今日もはっきりしない空。起きたら筋肉痛、と思ったがバタバタしているうちに治った。筋力維持のための筋トレは続けている。負荷をかけたスクワットをきれいにできるようになりつつある。低山であればそこそこのスピードで負担なく登れるくらいの筋力は維持している。せめてソウルにいくまでは維持したい。混んでる時期に混んでる場所に行くのは時間がもったいないからとにかく街歩きをしたい。ハングルが読めないから今から紹介されてたアプリに行きたい場所をいれてその辺の駅と通りの名前くらいはなんとなく頭に入れておくつもり。ソウルも素敵な本屋さんが増えてるみたい。有名な図書館もあるし。でも外国だと読めないから長居しないですみそう。そうでもないか。シドニーの本屋さんは雑貨もたくさんでお土産もそこで買うために通った。ああいう子どもも大人も集う大きな本屋さん、東京は少なくなった。私はもっぱら初台の本屋に行くわけだがオペラシティのなかにあるくまざわ書店にいくと地元のおじいちゃんおばあちゃんたちと店員さんの面白いやりとりをよく聞ける。ああいうローカル感はいいところだ。

そういえば東京オペラシティ アートギャラリーでは今日から企画展「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」が始まる。あそこは2階の収蔵品展寺田コレクションもいい。寺田小太郎(1927-2018)さんのおかげでいい作品がたっくさん見られる。私が行くときはだいたいいつもほぼひとりじめ。企画展のほうも平日はそんなに混んでいないことが多いからだいたいゆったり見られる。

この前、SOMPO美術館でみた松本竣介(1912‐1948)は相変わらずとてもよかった。若い頃に地元群馬は桐生市にある大川美術館でみて以来ファン。桐生の人ではなかったのね。どういう歴史を持った人か知らなかった。いや、なんどか展覧会にいっているから知っていたのだろうけどすぐに忘れて桐生の人ってことにしていたのだろう。しかし、若い頃に出会えたのはよかった。峻介は36歳で亡くなっている。こちらの出会いは大川栄二のおかげ。こういうコレクターの存在は大きい。お金を正しく使ってくれている感じがする。今の政治家は芸術的な素養がないのだろう、と思ってしまう。審美眼以前になにかを見る力というか。

こんなことつらつら書いている場合ではない、ということははっきりしていて土居健郎と森田正馬を楽しく読んでいる場合でもなかった、とわかったのだがもーむりーという気持ちにもなっている。が、しかし、私は富豪でもないし、基本給というものもないから自分に力をつけていく以外に稼ぐ方法はないからなあ。がんばらないと。こんなとき富豪や優秀な人たちをうらやましく思う気持ちにもなるが私にコレクターができるほどの眼や商才があるかといえばまったくないし、能力という点ではどの分野においても極めて普通。筋トレならこの年齢を考えればわりと優秀かも、程度なので地道に着実に。とかいって、それもまた難しいから急に変なことしだすわけだけどそれでも少しずつやるしかないものね、と自分で自分を励ましつつ、周りに助けられつつがんばりましょう。

みなさんもよい一日をお過ごしください。

時間によってはとてもすいてるオペラシティ
カテゴリー
精神分析

土居健郎、森田療法など。

透明感のある夜明け。きれい。昨晩はインターネットバンキングの設定などに色々手間取りすごく寝不足。今はなんでもかんでもアプリ使えだし、勝手に紐づいていくし意味がわからない。個人情報って「教えてくれれば管理してあげる」(っていうかできていない事例いっぱいあるでしょ)ではなくて、誰にも言わないでいられる自由を保障されてこその情報じゃん。何年くらい前からだろう。情報は明け透けにして当たり前みたいな雰囲気が出てきたのって。前にもさ、と書き出したらキリがないほどおかしなことを経験しているけどまあよい。この寒いが爽やかな朝に愚痴ってられるか。こんなんじゃ逆に安全が守られているという感覚をもつ方が難しいってことさ。

土居健郎(1920年3月17日 – 2009年7月5日)の「甘え」について発表するので掘り下げていかねばならない。が、なんとなく楽しく読書してしまってそういう体勢に全くならない。土居健郎は平易な言葉で、語りかけるように書くのでつい学問を忘れる。語りかけるようにというのは、一方的ではないということで、土居自身の驚きなど息づかいを感じさせるということである。『土居健郎選集』全8巻の中には難しいものも易しいものも含まれるがどれも読みにくいということはない。その8巻のあとに出版されたのが『甘え・病い・信仰』(創文社)である。これは長崎純心大学キリスト教文化研究所における長崎純心レクチャーズ第3回、1999年10月25日~10月27日の三日間の連続講義を加筆、修正した一冊である。電子版があるので誰でも入手できるし、講義なので質疑応答があるのがいい。ビオンの本なんかだと質問した人はますますわからなさにのまれていくというようなやりとりが見られるが土居はひたすら正直である。相手の考えを問い、対話をする。そしてそこには特に答えはない。ないものはないという感じがいい。自分の考えがあるだけである。「甘え」概念が逆輸入されたわけだぜ、と私はここで思うわけである。わけである、とか書いたが今自分の考えを相当端折って無理やり結論づけたことに自分でも気づいているが、今は時間がない。発表までにはなんとかするつもり。SNSを備忘録代わりに使用しているので昨日ポストした土居健郎が森田療法と精神分析について考えている論文も読んでみてほしい。森田療法の専門家に土居は森田正馬(1874年〈明治7年〉1月18日 – 1938年4月12日)に対して熱い、みたいなことを言ったら、森田を一番読めた人かもしれない、と土居のことを言っていた。そうなのか。その人に森田を読むなら森田自身の著作から入ってしまった方がいいと言われたので土居がその論文で取り上げた一冊も読んでみた。全部ではないが、かなり興味深い実践が書いてあるのでぐんぐん読める。ちょっと今名前を忘れてしまった。神経質の本態みたいな名前の本。技法としても興味深いが森田の時代、森田は神経症をこう考えていたんだな、みたいな面白さにはまる。そしてそれは私たち精神分析家が神経症とアセスメントするときと対して変わらない視点だと思う。ただそれに対する対処は随分独特。と言っても精神分析側から独特と言ったところでどっちがだよ、どっちもかよ、という話ではる。土居は森田療法を説明したうえでそれを精神分析的に考えてみるということをこの論文でやっている。森田には丸井清泰との論争があるが、その後の世代には森田の弟子である高良武久とカレン・ホーナイと交流があったり、土居もその世代との交流があったり、森田療法と精神分析、森田療法と世界との対話を可能にする土壌は地道に耕されていたといえるのだろう。

土居の論文はいくつかの点で興味を引くが、土居が以下のように森田と禅の関係に注目したことは、土居とキリスト教、もしくは土居と精神分析との関係についても何か言わんとしているかのように思えた。

But what is really interesting about the possible connection between the two is the fact that, in spite of the obvious similarity between his thinking and Zen Buddhism, Morita disclaimed any special connection between the two.

にしても、今日もいろいろ大変だ。がんばっていきまっしょい。

カテゴリー
精神分析

身体、「個」として。

まだ真っ暗。この時間は少し明るくなってきていた気がしたのだけど。今日は曇りなのかな。

昨日はお昼過ぎまでNetflix三昧して、そのあとは色々家事したけど他になにもしていない気がする。うとうとしていたのかな。昨日の明け方だったか、起きたらまた手首より先が動きにくくなっていてやばい!となった。もう一方の手で慌ててマッサージしたり、自重で動かしたりしたら治った。横向きに寝て腕の神経を圧迫しがちなのがいけないらしい。前に橈骨神経麻痺と診断されて結構長い期間、右手(腕はOK)を使えなくなったことがあるから同じ感じになると慌ててしまう。その頃にはすでにiPadがあったから記録はできたし、食べることに関しては意欲が高いのでお箸はわりと早く左手で使えるようになった。何が不便だったかというと満員電車。荷物はリュックだからいいけど吊り革や棒(なんていうのかな)を咄嗟に右手でつかむことができない。右利きだから咄嗟に出るのが右手なんだよね。できるだけ体幹で立つぞ、と思っていたけど揺れますよというアナウンスが入って予告通りの揺れに対しても対応できなかった。まあ、これは手が動いているときも同じだけど。体幹は強くなっているはずだから今は少しは違うのかも。筋トレしてても胃腸炎とかでお腹空っぽになると一気に筋力も落ちるし、頭痛がひどいと聞くのも話すのも辛いし、身体って色々補うことはできるけど、できるだけ今ある身体機能は維持したい。少し体調悪いだけでいろんなことも無理しないといけなくなるの辛いものね。今日は両手が使えてよかった。

鳥羽和久『それがやさしさじゃ困る』から、学校の中で「学生たちはいったん個として見られない場になじんでしまうと、むしろ集団の中の一要素として溶け込んだほうが楽で気持ちよくなるという問題についてはあまり語られない」という部分が引用されていた。著者は塾の先生として集団の中でひとりひとりの子どもたちと関わっているからこの書き方になるのだと思う。臨床現場でひとりひとりと時間をかけて語り合っていても集団に溶け込んでいた方が楽という語りはよくある。しかしそれは常にそこに馴染めていない自分を強烈に感じ、それに気づかれないようにしながらであり、ここでは学校という場で「個として見られる」可能性を残しているわけだけど、学校では「必要なときに」という前置きが必要かもしれない。就学以前にその体験をしていない場合、個として見られないことを当たり前としながら、個として見られることを熱烈に求める、という非常にアンビバレントな状態になる。もちろん「適応」が求められる集団においての出方は様々で、「過剰適応」といわれたり「逸脱」とされたり「問題児」扱いされたり「甘えてる」といわれたり関わる人によって様々な表現がされているのだろう。過度に個別の関わりを提供したくなる大人だっているかもしれない。精神分析では「ああ、そういうことを本当は求めていたんだね」ということを理解するプロセスが相手が子供でも大人でも大切で、その理解のプロセスこそが個別のこころとして関わられる体験になる。しかし、さっきも書いたように個として見られることにすでにアンビバレントになっている心は個別の関わりを嫌うのも常なので、それは必要性という観点から言葉を紡いでいく必要がある。何にしても必要性は大事で、それはこちらが勝手に押し付けるものでもないし、本人にだってわからないことだからそこにまた別の難しさが発生する。まあ、終わりのない話だから考え続けるしかない。

今日は月曜日。なんとか頑張りましょ。

カテゴリー
精神分析

挟間美帆&滝千春プロジェクトなど。

外はキラキラ。いいお天気。今日はお出かけ予定だったけどあまり体調良くないからキャンセル。久しぶりに仕事がない日だったのに残念だけどよく休みましょう、ということで今日は一日お掃除したり本読んだりするのでしょう。家にいると色々目につくからね。「葬送のフリーレン」も見ないと。

昨日は武蔵小金井の宮地楽器ホールというところにはじめていった。武蔵小金井は昨年、久しぶりに行ったけど北口しかウロウロしなかった。今回は南口にびっくり。きれい。駅前でなんでも揃う。中央線のこっちの方は駅前が本当いいよね。立川とか国立とかも本当便利。昨日は国立に長く住んでいた現在NY在住の作曲家、挾間美帆 と小金井出身のヴァイオリニスト滝千春のprojectMaNGROVEJapan Tour 2026の初日へ。弦楽四重奏にコントラバスに挟間美帆のピアノ。ちょうど間に合う時間だったから慌ててとって席は最後列だったけど両脇がいなくてゆったりできてよかった。そういえば挟間美帆はピアノを弾くんだね。元々はピアノで大学入ったんだものね。作曲したり指揮したりする姿ばかり見ていたから意外だった。ピアニストのピアノとは違う良さがあった。そして普段は挟間美帆しかフォローしていないがクラシック界の若手トップスターたちもすごかった。挟間美帆の解説もよかったし、確かにこういう曲を普段クラシックをやっている人たちが弾くってどんな感じなんだろうと思った。楽しそうだけど。クラシックとジャズ、音符と言語の壁を超えて(滝さんがプロコフィエフの音楽に感じたこと)こういうチャレンジがなされ、多くの人を集めている場所にいられてよかった。私よりずっと年上の白髪の女性たちが結構たくさん見にきていてお手洗いの列にいる間、今日のコンサートの充実感を語りつつ、「疲れたでしょうねえ」と演者のみなさんを思いやっていたのもなんかよかった。今日知った人たちの活動、今後もチェックしていこう。チラシとか見てるとリサイタルの仕方とか、その試みがいちいち興味深い。音の細かいことは私にはわからないけど積み上げられた技術をもとに新しいチャレンジがなされていくプロセスを追うのは楽しい。

そういえば少し前に電車で「この電車は銀座に行きますか」と聞かれたところからおしゃべりが始まり、自分はいまだにガラケーなんだとかなになににも反対しているとかで世の中の流れに抵抗しているという話を色々された。多分、内容的にはSNSだったらありがちな反応がよくある口調で書かれる類のことだと思うのだけど、実際の会話ってやっぱり全然違う要素を含んでるよね。「あら、そりゃまたどうして」みたいな聞き方を私はしていたわけだが世の中の流れに抵抗する様子を語る仕方がなんだかお茶目でニコニコしてしまった。そのあとその人は隣のご友人みたいな方に「良い方がたくさん」と囁いていて、はじめての東京(とおっしゃっていた)で嫌な思いをしなくてすむのは東京的にもとてもいいことだよ、と思いながらご挨拶してお別れした。私も旅先でいろんな人に助けてもらった思い出がある。遠野に行ったときは小さな居酒屋へ行ったら常連さんたちが一気に動いて席を開けてくれたのだがそのとき店主がいなくて、しばらくして戻ってきた店主が今日は食材的に厳しいということでみんなに残念がられながらさよならしたのだけどなんかそういう面白いことがあるとなんかいいところだな、とその土地への興味も広がるし良い旅にになる。まだデジカメ時代だった頃、宿にカメラを忘れて車で届けてくれるついでに駅まで送ってもらったり、傘を届けてもらったり忘れ物の多さに対しても随分助けてもらった。一度そういうことがあるとそれを思い出して忘れ物チェックができるという良い面もある。

それにしてもいいお天気。暖房いらず。みなさん、それぞれ良い一日を。

カテゴリー
精神分析

「アンチ・アクション」など。

夜明けが早くなった。今朝はぼんやりした空。細い月が昇ってきているはずなのに。でも今日も晴れるらしい。嬉しい。

先日、東京国立近代美術館へ行った。京王新線初台駅は都営新宿線と繋がっているので神保町か九段下まで行って「徒歩15分」、と美術館のサイトには書いてあるけどそんなにかからない。私の場合、帰りは神保町でも九段下でも初台には一本で戻れると思っているせいか、九段下(のほうが新宿寄り)に出るつもりが神保町に出てしまったり、ついでに本屋さんに寄ってしまったりするから急いでいるときは美術館から一番近い地下鉄東西線の竹橋を利用する。竹橋もいつも京橋と間違って混乱するけど。京橋に行ってしまったらアーティゾン美術館に行けばいいか。竹橋は毎日新聞社の本社ビルのパレスサイド・ビルディング直結で、私はこのビルとレストラン街の風情が好き。

さて、東京国立近代美術館の展覧会は豊田市美術館から回ってきた「アンチ・アクションー彼女たち、それぞれの応答と挑戦」。東京のあとはGWにかけて兵庫県立美術館でも開催される。「アンチ・アクション」というのは中嶋泉著『アンチ・アクション─日本戦後絵画と女性画家』(2019)→『アンチ・アクション─日本戦後絵画と女性の画家』(2025年文庫化、増補改訂版、ちくま学芸文庫)の用語だそうだ。「アクション」という語が男性的な意味を持つことからそれに引っ張られて、などの話にも驚いたが、言われてみればアクティブが男性的でパッシブが女性的というイメージで使われてきた歴史はある。しかも日本の画家たちが西洋に「女性的」と見做されていた背景も手伝い、女性たちの作品が切り捨てられていくという、なんともありがちな女利用がされたらしい。日本の芸術が女性的であるならば、それを見下されたと受け取って女性的な部分を本当の女を使ってなかったことにするのではなく、別の言葉でしか表現できない何かに変形するのが芸術家の仕事ではないのでしょうか、と思うし、ここで展示された女性美術家たちの作品を思うとなんとも複雑な気分になった。カッコ付きで書かれた旧姓にもなんだか胸が締め付けられた。私も思わず「え、この人のパートナーってあの人なの!」と思ってしまい、切り捨てられつつも消されなかった理由についても考えてしまった。

 今、SOMPO美術館では開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」が開催されているが、そこでも「アンチ・アクション」で展示された画家、芥川(間所)紗織、福島秀子、宮脇愛子の作品が見られる。芥川(間所)沙織と宮脇愛子は阿部展也(芳文)が下落合に拠点を置いた戦後期に師事したという文脈で登場し、福島秀子は阿部と一緒に仕事をした瀧口修造の「実験工房」の文脈で登場。文脈が変われば印象も変わる。

 SOMPO美術館の展示も好きな作家が多く、新宿、特に下落合はすごいな、と思いながらみた。どちらもゆったり見られて色々感じられてよかった。本当は上野に頻繁に行ったりできたらいいがすぐに行って帰ってできる範囲に美術館があるだけで贅沢だし、ひとついくだけで結構おなかいっぱいになってあとにもひくから。しかし、明るい「よかった!」ではないな。まあ、いろんな複雑なメッセージを複雑なまま受け取る観客でいよう。

今日は土曜日。いい1日になりますように。

SOMPO美術館
カテゴリー
精神分析

ベーグルとか。

夜明けが始まった。月がいる空がすごくきれい。これは三日月とはいわない?三日月の鏡写し?

昨日は、オフィスのある初台にできたベーグル屋さんに行くという今年の目標を達成。今回は売り切れていなかった。ちょっと調べたらインタビューの記事などもあり、代々木八幡の大人気ベーグル店の店長をしておられた方とのこと。代々木八幡は初台から徒歩圏内だがイメージは全く違う、というか知名度からして違う。私のオフィスも西参道という明治神宮の参道に近く、表参道とはだいぶ知名度が違うが、新宿から徒歩圏内でもローカル感を維持できる初台はエライのではないか。とはいえ、そのインタビュー記事ではやはり初台のふどう通りをひなびた商店街と書かれていて、おお、それは間違ってはいないかもしれないし、代々木八幡で華やかに店を営んでいた方がなぜ、という疑問を掻き立てるには十分かもしれないし、今はそれほどネガティブな意味を伴わないとか色々あるのかもしれないが元地元で、その地に店みたいなものを構えた私としてはちょっと悲しかった。実際そうで、それを私は愛しているのだからいいのだが。いいなら書くなよ、と思うかもしれないが、手放しでいいと思えてないから書くんだよ、というやりとりが始まりそうな時代で怖い。いや、そんな空想で怖がってはいけない。でもそんなふどう通りの入り口近くにこんな小さなベーグル屋さんがあるのはとても素敵なこと。いい香りでずしん、もっちもち。穴のないベーグル。スコーンも美味しそうだったし、あんこビスケットもかわいかった。ベーグルは冷凍で2週間保存できるというのでお土産にもいいな、と思った。水木にやっていることが多いのかな。不定休だからご興味のある方はインスタグラムでチェックしてみてください。その側のタイ料理屋さんも美味しいし、地元ならではのごはん屋さんもちょこちょこあるので幡ヶ谷までお散歩しながら色々試してみるのも楽しい。そうだ、製麺所にもいく目標も立てたのだった。こういうすぐできそうな目標もいろんな小さな事情でできなかったりするものだから意識しておかないとですね、私の場合。

昨日、Elizabeth Ann DantoのFreud’s Free Clinics Psychoanalysis and Social Justice, 1918–1938を読んでいた。紹介文の最初はこんな感じ。

「今日、多くの人々は、ジークムント・フロイトを、精神分析的治療を知的・経済的に恵まれた人々のためにのみ提供したエリート主義者として捉えている。しかし、この新しい著作においてエリザベス・アン・ダントは、フロイトと初期精神分析運動について、きわめて異なる像を提示している。ダントは、これまで見過ごされてきた、フロイトおよび他の分析家たちによる強い社会的実践(ソーシャル・アクティヴィズム)と、貧困層・労働者階級を治療することへの献身の歴史を掘り起こす。」

大事な主題ですね。精神分析はほぼ政治、みたいな側面があるので、この本で取り上げられる多くの分析家、特にフロイト、ヴィルヘルム・ライヒ、エリック・エリクソン、カレン・ホーナイ、エーリッヒ・フロム、ヘレーネ・ドイチュの仕事はそういうところからも知っておく必要がある。この貧困の時代に、患者も精神分析家も貧することなく、心の豊かさを最優先にできるような安価の精神分析センターを作れたらいいのにね。その前に精神分析はまだ絶滅していないし、今の時代にもあるんだよ、ということをもっと一般の人に知っていただかないとだけど。こういうブログもちょっとした精神分析運動のつもり、だったはず。地域も大事に、人も大事に、自分も大事に。今日もがんばろう。

塩あんバター。
カテゴリー
精神分析

町田とか鶴川とか。

夜明けの前にすでに月がきれい。朝の月も好き。今年の東京は朝は寒いけど10度を超える日が多い。12月の方が寒かった気がする。この時期にわりと着込まずに出かけられているなんて変な感じ。来週はいよいよ寒くなると聞いた。

町田薬師池公園でもらった「推し植物図鑑」の「冬(12月〜2月)」の推し植物はツバキとロウバイとウメとシモバシラ。うん?シモバシラ?アップで撮るとこんな感じなの!?と思ったら霜柱ではなくてシモバシラというシソ科シモバシラ属のお花だそう。びっくり。すでに蝋梅が咲いているのも見かけたし、梅も続々咲きはじめてるし、椿はずっと咲いている。シモバシラも探してみよう。花言葉は健気だって。

昨晩、塩麹を使って作り置きおかずを作った。ただ揉み込んだだけだけど。腸内環境の改善にもよくて美味しいなら使った方がいいもんね。私、発酵食品好きなんだけどなあ。お菓子のとりすぎがやっぱり負担なのかしら。夕食が遅すぎるのが一番いけない。でも疲れを癒すのもやっぱり食べものだしねえ。むずかし。

そういえば町田薬師池公園って小田急線鶴川駅前のクリニックに勤めていた頃にいろんな患者さんたちのお話に出ていた。地元の方が多かったから私も地名だけは色々知っていて、薬師池公園に行ったときは「へーここかあ」と嬉しかった。そばにある「リス園」の話は聞いたことがない気がする。私は行ってしまったがな。ヒマワリの種を買ってあげればリスと触れ合えるのだけどたくさんのリスが動き回っているなかにいるのはなかなか怖かった。私はみるだけで十分だった。もぐもぐしているところとかかわいいけどやっぱり小動物なりの迫力がある。というような話も聞いたことない。みなさん、元気だろうか。別の精神科クリニックで一緒だった医師が開業することになってカウンセリングルームの立ち上げから長年一緒にやってきたけど、先生が引退されることになって私も一緒にやめた。本当にたくさんの患者さんとお会いして、受付の人たちとはいまだに連絡を取り合う。面接室は窓もないし狭くてコロナのときは換気に苦労したけど、みんな穏やかに現場でできることをやろうというふうに気持ちも仕事の仕方もシフトできた。心理職の仕事は設定も料金もやり方も立ち上げのときからお任せしてくれたので、当時あれこれ考えて実践してきたことが今の開業の仕事の基礎になっていると思う。もちろんたくさん言葉を重ねながらで、相談できる先生だったことがなにより大きかった。今は名前だけ残して全く違う感じになっていると思うけど、穏やかに仕事させていただいて本当に感謝。若い頃は色々大変だったけど、いつのまにか一緒に仕事する人たちに恵まれて小児発達クリニックでも単科精神科病院でも本当にいい体験を積み重ねることができた。お役に立てなかった患者さんもおられると思うし、まだまだ宿題だらけで申し訳ない気持ちもあるけど、いろんな瞬間にいろんな人の言葉や表情を思い出してずっと考え続けることを促してもらっているから地に足をつけて今日もみなさんの言葉を大切に聞けたらと思う。フロイトがいったsimply listenの難しさは実感しているけれど。

昨日、白水社のPR誌「白水社の本棚」が届いていたのでパラパラした。斎藤毅「詩、彷徨いと逸脱」がよかった。時間がないので何がよかったか書かないけど無料だから白水社のウェブサイトでチェックしてみてください。

今日もがんばりましょう。

これじゃよ。
カテゴリー
精神分析

1月14日(水)朝

朝焼け。今朝もそれほど寒くないか。暖房はいるけれど。晴れが続くのは嬉しい。乾燥は辛いし山火事も心配だけど。

風が強いと落ち葉がカラカラ音を立てて転がってきてプラタナスが散る時期はその大きな葉の迫力に圧倒された。初台は甲州街道と並行してまっすぐ伸びる水道道路がプラタナスの通り。ピークを過ぎるとすぐに伐採されてその通りで仕事している人はありがたがっていた。一枚の葉の威力がすごいもんね。粉々になっても道が埋め尽くされちゃうし。今は小さいカラカラしか鳴らせなさそうなさらに水分が抜けた小さな枯葉がかろうじて枝にくっついている。メジロや雀はどこでも遊び場にしてて人間の子供みたい。かわいい。

昨晩、テレビ朝日の「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」のお正月に放送された分を見ながら遅い夕飯を食べた。なんと塩釜の市場で食べ歩き。とっても美味しそうだった!震災後、まだ仮設の建物で営業していた商店や酒屋へいった。塩釜神社の階段はきつかったけどとてもいい神社だった。多賀城跡だったか小高い場所から海の方を眺めていたとき、たまたまそばにいたご夫婦に話しかけられ震災の日の街の状況をお聞きした。当時、東京にお子さんがいた彼らは同じく東京で地震を体験した私たちに「大変だったでしょう」と労ってくれた。その優しい声にうなづくことができたのかできなかったのか覚えていない。大変だったけど街が海にのみこまれるとこも私は見ていないし街の景色がすっかり変わる体験も私はしていない。身近な人たちともすぐに会えた。それでも移動の電車から街を眺めながら涙が止まらなかった。

朝ドラ「ばけばけ」の主人公ふたりが結婚した。日本と西洋のやり方の違いが様々な意外な出来事を連れてきて興味深い。他人と密に暮らすなんてただでさえ大変なのに染みついた文化の違い、さらにその家のやり方も加わったらすり合わせしか方法はない。そして身分とか格とか。やっかいすぎる。先日の前橋市長選挙で小川晶前市長が再選した。群馬のひどい状況を維持したい県知事の行動のエスカレートぶりがひどく、再選して本当によかったと思うが、日本は今の時代もいつの時代も変わる気がない人たちであふれているのかもしれない。ただでさえ女たちを守る環境はよろしくないのに。

「ばけばけ」で主人公おトキちゃんを演じる高石あかりは『グラスハート』でもとても魅力的だった。同じく『グラスハート』でも『10DANCE』もかっこよかった町田啓太をみながらなにかに似ているなあ、と思っていたら『ロード・オブ・ザ・リング』のオーランド・ブルームだな。登場したときのインパクトとか地味さと華やかさを兼ね備えている感じとか。そういえばC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の映画版『ナルニア』が、2026年11月にIMAXシアターで上映後、Netflixで独占配信とのこと。どのシリーズをやるのだろう。とても楽しみ。

5月にソウルにいくのでそろそろ色々準備しないといけないのだろうけどハングルをよめないのは結構大変だな、観光には。もちろん情報はたくさんあるけど。一応、精神分析のカンファレンスでいくのでthe Korean Psychoanalytic Center (KPC, formerly KIPSA)について調べたりした。韓国の精神分析環境も色々大変そうだが、34名の会員、 10人の訓練分析家、65名の候補生と日本の協会より勢いがある。良い影響をうけたい。会長のDr. Sun Ju Chungのインタビューを聞いたりもした。今度のthe 5th IPA Asia Pacific Conference in Seoul にも意欲的。それはそうか。良い影響を受けたい(二度目)。30年ぶりくらいのソウル、楽しみたい。

なんだか頭に浮かんでいたのとは全く違うことをつらつら書いているうちにこんな時間か。困った。今日もがんばろう。

新宿
カテゴリー
精神分析

ウィニコット理論とか。

夜明けの赤がきれい。やっぱり空が変わってきた。どういうことだろう。水分量か。この前、アラスカに行った人の話を聞いた。アラスカの夜明けもまた全然違うらしい。私が紹介されたYoutubeで見たびっくりネイチャー生活が普通に、しかも全部ではなく、されていた。鮭の燻製がすごく美味しかったとかスノーモービルで3日連続オーロラみにいって初日にきれいに見られたとか一本のナイフを何通りにも使うとかどこもかしこも凍るから息を大きく吸うなとかよく聞く話も個別のエピソード絡みだとより面白い。

これはそろそろ、と思って買い替えたパソコン。本当にこれはそろそろなんだな、と今使いながら思う。重たいデータやサイトは開けなくなってきたし、いろんな新しいものには対応していないし、真っ暗画面になることも増えた。もうアンティークとはいえ使い勝手よかったな、MacBookAir。新しいパソコンと比べるとつい最近までこれを持ち歩いていたのが信じられないほど重たく感じるが、うちでもう少し活躍してほしい。無理はさせないから。

昨日は小寺記念精神分析研究財団の『ウィニコットの「治療相談」を読む』のセミナーに出た。10時から17時までだったが、時間の長さより内容の刺激で疲れた。私は普通よりはウィニコットマニアなのですごいマニアの妙木先生の話を聞くと興奮してしまうらしい。妙木先生のウィニコット理解と彼が一番興味を持っている部分は、子どもと大人、両方の治療を積み重ねてきた私にも実践と照らし合わせて納得するし、やっぱりそこだよね、と思いながら聞いていたし、理論と臨床を乖離させずに思考できるからこそ大雑把にできない論点がたくさんで大変刺激的。でも、私は欲動論をどうにかしないことにはウィニコット理論だって生かされないのではないのか、と思っているので、その辺の考え方は大きく違うしウィニコット研究としてそれを考えているわけでもない。私がもっと精神分析の事例を積み重ねたら欲動論に言及しないでも生き残れる精神分析を記述できるのだろうか。欲動論抜きの精神分析ってどんなもんだっけ、という感じがしてしまう。精神分析は母子関係を基盤とした対人関係論ではないはずで、それ以前に理論は経験レベルでなんとなくわかった気になる類のものではないし、それだったら精神分析でなくてもいいんじゃね?と思うことは少なくないので臨床家として探求は続けたい。

ウィニコットがいう環境は単なる他者ではなく自己も他者も生きる場所であって、そこにある現実である。精神分析実践を描写するときにそれを当たり前のものとして描写しないわけにはいかない。むしろ前景に出して強調すべき根拠をくれたのがウィニコットだ。ただ、記述の仕方を誤ると結果的に母の責任を強調することにつながる大雑把な母子関係大事理論になる。普通に読めばそんな単純なことは全く書いていないけど、まとめてしまうとそうなるのもわかる。でももう一回書くけど理論というのは経験レベルで簡単にわかるものではないというか、学問としての精神分析があるから私たちは精神分析家という専門家でいられるわけなので、フロイトに常に戻るのは当然のこととして、それぞれが理論と臨床を丁寧にチェックしていく必要があるのだ。学問として成立しているものから換骨奪胎した自分理論でそれらしい結果を出す場合は自分理論の専門家ではあるし、それはそれで役に立つ人もいるだろうが、それを学問とは言わないのと同じだろう。学問を残すためには専門家が必要なので、専門的であるためには地道にやるしかないのだ、とほとんど自分へのエールとして書いている。

というわけでややこしやなことを昨日もたくさん考えた。出生外傷も移行空間もfalse selfも本来互いに孤立してて別々の存在である自己と他者の「関係」が前提とされての用語。でも、たとえば子宮内で守られていた「孤立」が外界へ出されることで失われることに関して考えてみる。未熟児の場合、初期の世話は保証されるが(もちろん例外はある)、より大きく生まれた赤ちゃんの方が適応を自然に期待されているとしたら、本来の寄るべなさに対するケアは不足するかもしれない。実際に母親がしなくてはならないことや身体の状態はどちらにしても負担が多いだろうけど、発達障害のように最早期には見えにくい器質的な問題を抱えている場合だって「育てやすい」と言われるような状態によって不足が生じる可能性もあるだろう。何の不足か、といえばコミュニケーションを注意深く成立させようとする育てる側の観察力といっていいと思う。ウィニコットの鏡役割、ラカンの鏡像段階とも関連させて考える。セミナーで話を聞きながらなんとなく考えていたのだが、もしそういう誰にでも訪れる不足をfalse selfの起源とするならそれはコミュニカティブであることが前提とされた世界ではコレクトなセルフであり、子宮内で経験済みの孤立したセルフとしては偽りかもしれない。true selfが子宮内にいたときのように生き生きと孤立している状態であるとして、出生によってその場を失って寄るべくなった乳児は孤立の自由を奪われた状態であり、欲動の拘束を必要とする自己になったということもできるかもしれない。私はウィニコットのunintegration,going on being, isolation(not loneliness)などの用語を欲動という力の状態で記述した方が良いように思っているし、その方がウィニコットが原初の攻撃性と言わずに運動性(motility)という用語を使ったことの説明になるのではないか、と思っている。trueとfalseの用語は「本当の自分探し」とか「嘘ついてるような自分」とかの日常的な文脈で使うなら共有されやすいと思うし日常語を使うこと自体は精神分析において初期から重要とされていることではあるけれど、これらって「本当とかそんなもん誰が決めるの」とか「そういう嘘は本当に嘘っていうの」とかややこし議論のもとにもなるので不適切、とは言わないけど記述の仕方にはものすごく注意を払わないと学問的な貢献は難しいだろうと思う。先日、藤山先生の『精神分析の深みへ』にあった分析を営む二人の空間の狭まりについて触れたが、ウィニコットでいえばこれは移行空間の生成が困難な状態といえるだろうし、移行空間がなければ自己の生成プロセスが作動することは難しいのではないか。移行空間の生成を阻むものが戦争だったり、両親の病気だったり、それを愛情剥奪というならその場合の「愛情」って母親のものだけではない。まあ、そういうこととかああいうこととか色々考えていたわけだよ。そういう時間を持てたのはとてもよかった。今日からまたバタバタか。がんばろー。

徳島で買ってきたお菓子「マンマローザ」。かわいいし美味しい。
カテゴリー
精神分析

成人の日か。

きれいな夜明け。寒いな。

今日、成人の日かあ、と言ってしまったけど私は式典も出たことがないし、20歳にそんなに重きを置く子でもなかった(置くべきところは置くべきだった)ので自分のことよりいろんな子供たちのことばかり思い出す。もう18かあ、とか、もう振袖の準備してるのかあ、とか。男子のことはこのタイミングではあまり思い出さない。思い出す男子としたら成人式のヤンキーたち。正しさとかっこよさの基準が独特の子たちはこの儀式で何を変えてくるだろう。20歳になったらお酒、なのだろうけど、お酒は怖いよねえ。この前、鎌倉に行ったあと横浜にいってスーパーで湘南ゴールドのミックスナッツをつまみに買ってしまったけど。私は若いときはすぐに気持ち悪くなってしまったけど今は飲み過ぎない程度なら飲める。でも水分でお腹いっぱいになってしまうとお腹痛くなってしまうし、食べ物の方が好きだから困る。ほどほどって何事も難しいのだ。アルコールは体内の水分は奪ってしまうしねえ。それにしても湘南ゴールドっていつからこんなメジャーなのかしら。湘南ゴールドって爽やかな黄色い文字で書かれたお菓子ももらったりするようになったし。実物も食べてみたいな。

昨日は足利土産でココ・ファームのワインをもらった。私はここを知的障害を持った人たちが働く場所として当事者のご家族から知った。今は日本ワインのひとつとしての方が有名かもしれない。ココ・ファームの前に社会福祉法人「こころみ学園」があるわけだけど。

北関東出身の私からすると(そうでなくてもそうかもしれないが)足利といえば足尾鉱毒事件の田中正造による天皇直訴事件だが、旧宅の資料なども見せてもらったが直訴状を書いたのは幸徳秋水だった。知らなかった。口頭の説明では当日に正造が36ヶ所修正したとのことだったが、あとから調べたら40カ所以上だって。訂正印だらけではないか。そんなに長い文書ではないのに。よく引き受けたな、というか幸徳秋水なら引き受けるか。1901年に直訴で、秋水はその10年後には処刑されてしまうわけで、ほんと怒涛の人生だが、その後の影響を思えば、思えば・・・。うーん。死んでいいことは絶対にないからな。

今日も勉強しておしゃべりして楽しく過ごしましょう。

カテゴリー
精神分析

精神分析の「営み」「空間」「できごと」など。

今朝は杜の色相環の「いろいろナッツのクランチケーキ」と熱い珈琲。八ヶ岳に住む友人が営むケーキ屋さんが年に3回送ってくれる。八ヶ岳の冬景色、素敵でしょうね。生活を営むのはステキさと大変さと。今朝の東京は風の音がすごいです。

「営む」と意識的に使った、というよりこの言葉を書くたびに注意がそこに向くのは藤山直樹『精神分析という営み』(2003、岩崎学術出版社)を読んでからかも。先日読んだと書いた藤山直樹の最新刊『精神分析の深みへ』(2025、金剛出版)の序章はこの最初の単著における「営み」という言葉の使用を掘り下げ、精神分析を「営んでいる」とはどういうことかが書かれている。「営み」は英語にするとどうなのだろう。著者は最初の本をどう英訳しているのだろう。act, activities, make love to,vividly portray,undertakingなど文脈によって使い分けることができるこの単語だが日本語の「営み」が持つ広がりを私も好ましく感じる。

広がりといえば第五章は「パーソナルな回顧」として当時はまだ新しかった「空間」という言葉で頻回の精神分析と週一回のセラピーで起こること、起こりにくいことが検討されている。『精神分析という営み』で書かれた事例が週一回のサイコセラピーであるにも関わらず多くの人に転移の衝撃を想像させたのは、著者自身が精神分析家になったことで、その衝撃に日々身を浸していたからだろう。土居健郎がその文章をJuicyという形容詞で表したのも、著者が「実感」という言葉を頻繁に使っていたのもそういうことではないだろうか。精神分析家に「なる」以前と以降と移行の時間を過ごした著者が空間の広がりよりもそれがなくなってしまったかのような狭まりのなかで体験した夢見が描写された実践的な章で私は好きだ。

著者は「できごと」という言葉を使う分析家という印象も持たれていると思う。第一章では藤山が精神分析実践を「できごと」と呼ぶ理由が「関わり」「交流」と比較して書かれている。とはいえ、いまや「できごと」という言葉もやや使い古した感じがあるのかそれほど違いが強調されているわけではない。むしろそれらが生じる、生じないということはどういうことか、そのための精神分析家の基本的な技法が書かれていると思う。非対称性をあえてそう捉えるものとしているところは密かに新しいのではないかという気がした。私は精神分析における「非対称性」が密かに、というよりかなりあからさまに精神分析における侵襲性に対する批判を示す言葉として使われていることでこの言葉の使用が思考を制限するようなところがあると感じていたので新しく感じたのかもしれない。これらの言葉はどれもプロセスであり、もっとも集合的な言葉が「できごと」だろうし、「それがない、生じない」というネガティブな面も自然に含みこむ言葉ではあるだろう。藤山は「精神分析実践で起きている事実は間主体的事実であり、ふたりの当事者のどちらもその全体を捉えることは原理的にできない(p37)」という。こういう部分を含むにも「できごと」という言葉は使い勝手がいい気がする。

フロイトは『夢解釈』を20年以上かけて改訂しつづけたが、精神分析のこのongoing性は言葉の使用がそのまま実践である精神分析にとっては当然のことでもある。大切にしたい。

外はまだ風の音。気温は高いのだろう。さっきようやく少し寒さを感じて暖房をつけていないことに気づいた。今日も明日も勉強だ。この1週間、バタバタと過ぎてしまったので少し落ち着こう。おやすみの人もそうでない人も良い一日を。

オフィスと反対側の初台駅入口の椿
カテゴリー
精神分析

QOLとか。

今朝も空がとてもきれい。うっすらピンクの広がり方が少し変わってきた気がする。昨日17時頃、オフィスの窓から明治神宮の方を眺めたときもなんか空の色が変わってきたと感じた。

さっき「今朝」を「ケア」と打ち間違えたのだが、高市さん、バリアフリー化は公費でしょう、と彼女のポストを見て思った。そういうところこそ公費でしょう。この前ここに書いた三上晴子の展示に行ったときに感じたことも思い出した。私は知覚が世界を捉える仕方を体験的に広げていく展示が好きで、友人や仕事で会う人など様々な障害を持ちながら生活している人のことを思い出すことも多く、じっくり体験する。豊島や直島の体験型の展示もそうだった。それらの内容が障害者のためにといっていなくても知覚に関わるすべてのものは障害の有無関係なしに私たちの生活や関係に関わるものだし、私の生活だっていまや老眼鏡がないと文字も読めないわけで、自分と世界のズレや他者との知覚の交差が可視化され俯瞰できることはとても有意義。三上晴子の体験型の作品の一部を車椅子の人が体験できないことがどうというわけではない。できないことはできる人が体験して、その差異を埋めていく工夫をしていくことの方が無理やり直接的な体験を提供して安全面を犠牲にするよりいいのは当たり前というかそういう雑な比較をしているわけではない。多くの場所は障害のある人と同伴者一名は割引などの制度を使える。徳島県鳴門市の大塚国際美術館では館内でも車椅子の貸し出しがあって車椅子の方も数人見かけた。あそこは世界の名画が陶板の複製画で見られて触ることもできるので楽しんでいる小さい子もいた。多くの子は寒いのにお外で遊ぶほうを選んでいたが。高市首相には世界との関係を雑に扱う前に身近な人のQOLを高めることが政治の世界に多様な人材を引き入れることにつながることをみせてほしい。亡くなった人を弔うことも大事だが、スピードが必要なのは今せっかく生きているのにその苦労や不便さを知りもしないくせに色々言う人たちと生きていかねばならない人たちが安心して暮らせる施策だろう、なんてことは私が小さい頃から表面上では言われ続けてきたことだと思う。雑といえば、なにかの制限に関して、酒気帯びとかと車椅子利用とかを並べて書くのはどうなのか、と私は思う。安全面の保証ができないという運営側の事情としては同じなのだろうけれどユーザー側からはどうだろう。こういうことを短時間でざっと書いてしまうのも雑かもしれないが、ある程度指まかせにしないと色々考えて結局考えることもやめてしまう場合もあるから。

それにしても休み明けのこの1週間、必要な本をほとんど読めなかった。臨床でうけるインパクトをそう簡単に形ある世界に切り替えることはできないので明日明後日をそういう時間にしよう。いろんな人の話を聞き、体験を聞くことは、自分の聞き方を問われるし、「単に聞く」ことは聴覚だけの仕事ではない。複雑な知覚世界を希望を捨てない人たちと共有していけますように。良い1日になりますように。

新国立劇場「初台アートロフト」の企画舞台衣装展
カテゴリー
精神分析

初台、圏論、うだつ

夜明け。日の出はまだ少し先。きれい。昨晩は星はきれいだったけど月は見えなかった。とても大きくきれいにみえたのは一昨日だったか。日常が始まるとあっというまに時間が過ぎて一日一日と思っていても気づけばもう1月も8日。あ、9日か。なんてことだ。

正月気分はすっかり抜けたが、トランプ政権のベネズエラ攻撃、ミネアポリスの事件に思考停止が続いている気もするし、日本の政権の無思考パフォーマンスに未来を握られている一国民としては思考しないといけないけど暗澹たる思いが先にきてしまうし、変な頭痛とかなり明確な不安にやられている気がする。

オフィスのある初台駅という新宿のお隣なのに京王新線という迷子になりやすい路線の駅周り情報を少し発信しようと初台駅直結の東京オペラシティのNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)でやっている展示のことをポストした。それが息抜きになったかも。オフィスのある初台を地元、実際元地元として大切にしたいし、ICCでやっている三上晴子の展示のことを思って圏論についても少し学べたし。

重力に弱い私は自分の行動がデータとして可視化されるのを目にするだけで酔ってしまうが身体を装置に馴染ませることとか、対象ではなく関係を取り出していく三上晴子の展示は精神分析における視覚、聴覚の使い方とか、障害のある人への身体的関わりを考えさせられる。そこで圏論を学ぼうと思ったわけ(うまく説明できない。よくわかってないから。)。圏論は数学界でもまだ新しいアイデアだと思うけど昨年、加藤文元『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』 (ブルーバックス B 2313)が話題になっていて面白そうと思っていたのだ。

私は高校はバイトに明け暮れていたし勉強の意義がわかったのが大学からだから基礎的な数学からよくわかっていないが、そうはいっても30年以上は楽しく勉強を続けてきているので勉強をすること自体にはいい加減慣れている。読書は小さい頃から慣れているので難しい本も粘れる。しかもこの本に関してはわかりやすい説明の動画もいくつかある。それでも時間がなければ理解できるものもできないよ、というのが今の不満。面白そうなのにファミレスのハンバーグのメニューしか思い出せない。あとミルクボーイの「もなか」ネタ。おなかが空いていると特に。うわっ、めっちゃおもしろい、と理解とともに没頭できる知性がほしいがそんなものはない。だからとりあえず時間をかけたい。祝日も一日セミナーをいれてしまったし、自分の領域で読まねばならないものもたくさんある。あーあ。今度思い出すときには「もなか」のネタの人誰だっけ、とか違う話になってそう。

今朝は徳島県美馬市脇町の川田光栄堂さんのラグビー饅頭。開けたらラグビーボールのデザインでかわいい。シナモンの香りがすでに美味しい。うだつの上がる街並みで有名なうだつのスーパーで買った。年末年始はどこもお休みで街並みは静かにお散歩しただけだったけど、小さな川を越えたところにあるこのキョーエイ脇町ミライズ店は地域交流センターというきれいな建物の一階で、年始を迎える地元の人たちですごく活気があった。地元お菓子コーナーも休憩所もあってそこでは川田光栄堂さんの「脇美人」というお赤飯を包んだお饅頭をペットボトルのお茶といただいた。これも美味しかった。JR穴吹駅からタクシーで約10分。吉野川に面して舟運にも利用されていたとのことだが、そのことは地元の人もあまり知らないけどね、みたいな話をタクシーの運転手さんがしていて「へー」と聞いていたのだけど見れば観光客の私にも「あー、ここは昔は舟を使ってたんだろうなあ」と思わせる壁や地形だったので、運転手さんは何か別のことを言いたかったのかもしれない。吉野川の穴吹と脇町を結び脇町潜水橋の方を通ってくれて渡れたのは嬉しかった。いわゆる沈下橋。四万十川で渡って以来ファン。橋って結構簡単に流されてしまうそうで、色々工夫が重ねられてきたそう。吉野川はとても豊かな川でこれが香川にも流れこめば溜池をいっぱい作らなくてもよかったのかもしれない。香川の地形も独特で割と高い山に囲まれた群馬県生まれにはびっくりな穏やかな地形だったな。

旅のことならいくらでもかけそうだけどもう行かなきゃ。もう行かなきゃ、というとレベッカのLONELY BUTTERFLYを続けて歌ってしまう。

今日は金曜日。がんばろー。

カテゴリー
精神分析

藤山直樹『精神分析の深みへ」を読んだり。

今朝の夜明けもとてもきれいだった。戦争中の国の空はいつも曇っているのだろうか。すごく悲しい。自分がちっぽけであること、特別な力など何もないことを実感できない人生では人を弔うことも次世代を生かすこともできない。なんか眩暈がする。

昨日は藤山直樹『精神分析の深みへ』をようやく買って読んだ。昨年11月の学会のときに買うのを忘れて、ブックファースト新宿にもなくて紀伊國屋で平積みされているのを買った。Amazonで買ってもよかったしKindleの方が安いけど藤山先生のこれまでの「精神分析〜」シリーズ3冊は本で持ってるから揃えたかった。精神分析の実際を知るには一冊目の『精神分析という営み』が圧倒的だけどその「営み」という言葉自体を吟味する仕方とか、自分で言ったこと書いたことに正直な感じが藤山先生の良さなのだと思う。日本の精神分析家は当たり前のようにフロイトに戻り、始める、を繰り返している(つまり回帰か)印象があって、日本語を使用しているという点にも感受性が豊かなのがいい。今や私もフロイトを読むことを日常としているわけで、それは先生方が自然に染み込ませてくれた姿勢なんだと思う。藤山先生は実際に会うとこんなスッキリと落ち着いた文章を書く人とは思えないけど、実際のやりとりでものすごくインパクトを受けたという人は大勢いるわけで、もともと舞台の人でもあるし、落語もやるしアリストテレスのいう「ストーリー」を構成する力に長けているのだと思う。即興かどうかで見せ方が変わるだけで。精神分析自体、基本は即興なわけだけど即興を可能にする基盤はものすごく基本的な作業(訓練)の積み重ねになる。こういう言葉は使っていないけどこの本は精神分析家「になる」ことについても言葉にこだわりながら細やかな吟味がなされている。現在の日本の精神分析をめぐる基本的なトピックを精神分析の本質的な議論を背景に押し付けがましくなく差し出すような、というか個人の思考プロセスが提示されているだけといえばだけだし、そこでいう「個人」に内在する多くの他者との対話に基づく思考であることに自覚的な著者が書く文章はこちらにも自然に入ってくる。「これが書いてない、あれが書いてない」と言いたくなるような状態でなければとても上質な読み物だと思う。びっくりしたのは俳人でもある藤山先生が精神分析のことを書いた俳句は2句だけだということ。あれだけ俳句の話をしているのに。この2句はフロイトという大きな存在と対峙する自分と、ちっぽけな自分が繰り返す仕事に潜む仄暗く匂い立つ花のような質感というセクシュアリティの学問である精神分析がもつ孤独と親密さを私は感じた。というか、この本は精神分析がセクシュアリティの学問であることを事例以外から読み取るには意識的な思考が必要で、俳句という17音の力はやっぱり大きいと思った。俳句、作ろう(という勧めは特にされていない)。

東京はいいお天気。良い1日になりますように。

カテゴリー
精神分析

生涯発達、土居健郎選集2

真っ暗。今朝も月は明るいかな、と少し外に出たら雨?みたい。天気予報は曇のち晴れ。ハテナがつくくらいの雨だから止むのでしょう、きっと。

年末年始はひたすら歩いていたので久々の筋トレもいつも通りこなせた。もっとこうしたらきれいなんだけどな、と自分でわかっていてもできない部分がいつもあるけどどこをどうすればいいかだいぶわかってきただけ成長。生涯発達というのは私が学部生(発達心理学科)のときに流行った言葉のような気がする。お世話になった鈴木忠先生がその後、エリクソンをビオンたちと交差させて本を書いていらした気がする。なんでも「気がする」ばかり。困った困った。

昨日は、土居健郎選集2をパラパラした。愛読書だったが、江口重幸による解説を読んでいなかった。読んだら私が土居について思うことは半分以上書かれていた。まあ、私が考えるようなことは大体他の人がすでに考えているのは自明のこと。問題にしなければならないのはそのプロセス。思考は常にプロセスとセットなので、私は私でなぜそう考えたかということを考えねばならない。ややこしや。

会えばたくさん喋ることがあるのにほぼ年賀状のやりとりしかない人がとても嬉しいことを書いてくれていた。小さな言葉が大きな力になる。そういう効果を私も発揮できたらいいが。

今日は水曜日。とりあえず風邪ひかないように水分補給と暖かさ維持。がんばれるとがんばろう。

カテゴリー
精神分析

春、第九の里、詩学

今朝の夜明けは雲が多いなあ、と反対側の空を見上げると月がとても明るくてびっくり。おはよう。

昨日は仕事始めでなんでもないいつも通りな感じで仕事をしてきたがやはり何かが違う気がする。心身ともにまだ正月気分、というわけでもないけど、昼間、外に出たらとってもいいお天気で鳥たちが賑やかに飛び交っているのが聞こえてなんかもう春ではないか、と思った。そっちのほうを見上げるとあれだけたわわだった柿の木の実が数えるほどになっていた。新宿中央公園の木々もすっかり色が落ちて冬枯やという様子。

きしきしと帯を纏きをり枯るる中  橋本多佳子

こちらは冬景色ね、とダウンを脱ぎながら歩いていたらピンクの梅が!ここの梅は実がなるまでずっと楽しませてくれるのです。

探梅や鞄を持たぬ者同士  櫂未知子

探梅行かないとね。俳句も作らないとね。お正月はいい景色をたくさん見たのだから。

今朝は徳島県鳴門市の道の駅「第九の里」で買った「第九クーヘン」。鳴門市産のさつまいもと徳島県産のはちみつを使った焼き菓子。粉砂糖がきれい。

第一次世界大戦中、徳島県鳴門市大麻町桧につくられた板東俘虜収容所。その「バラッケ」(バラックのドイツ語)を一部移築、復元した物産館で買いました。年末、いろんなところで歌われたであろう「第九」を日本で初めて演奏したのがここにいたドイツ兵俘虜たち。楽器も最初は手作り、プロの音楽家が数人いたことで作られた即席楽団。最初の演奏は1918年6月1日。お隣のドイツ館には当時の収容所の生活、地元の人たちとの交流、それを支えた所長の松江豊寿のことなどを知れるきれいな展示室があります。「そもそもさ・・・」と複雑な気分にはなったけど。戦争はしてはいけない。なんでそれが当たり前にならないんだろう。ドイツ館の前は広場で松江豊寿とベートーヴェンの銅像もあった。最寄駅は坂東駅。小さな無人駅だけどこの日は徳島県一番の大社、阿波國一の宮大麻比古神社に向かう人たちでそこそこ混み合っていました。私が乗ったときは一両の汽車(ディーゼル車)でみんな座れるくらいの人数だったけど車窓から見えた車の列はどこまでも。大渋滞で、バスは前もって運休。「第九の里」からバスで空港に向かう予定だったのに気づくのが遅れた私たちは大慌てで坂東まで戻り徳島駅から空港に向かったのでした。なので「第九の里」の敷地内にある社会運動家の賀川豊彦の記念館は20分くらいしかいられず。いい資料館だったのに。オフィスと同じ京王線の上北沢駅にも松沢資料館があるので今度行ってみよう。賀川豊彦はアインシュタインやガンジー、ロマン・ロランとも会っていた。フロイトと同じじゃん、と思ったけどフロイトはガンジーには会っていないか。「第九の里」に行く前に初詣した大麻比古神社もよかった。参拝の列に少し並んだけど明治神宮とかと比べると普通に参拝できた。境内にはドイツ兵士が作ったドイツ橋も。技術大事。

今年の隙間時間、読始めはポール・リクール「時間と物語」(久米博訳)の訳者あとがき。難しいに違いないから分かりやすそうなところから。アリストテレスの『詩学』が始まりから出てくるのか、と急に身近になった。『詩学』はいくつか邦訳があるけど光文社古典新訳文庫の三浦洋訳は、本の半分が解説になっていてありがたいし読みやすい。「ミメーシス(模倣)」と「固有の快」の間に「ストーリー」があるのだと思うのだけど、難しいこと考えなくてもこの本は読んでるだけでなんか楽しい。難しい芸術論を読むより楽しい。なんでだろう。リクールも楽しく読めるといいな。

ということで今日は火曜日。がんばりましょう。

カテゴリー
Netflix お菓子 精神分析 精神分析、本

仕事始め、徳島、アンナ、グリーン

1月5日(月)。まだ真っ暗です。仕事はじめ。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年も精神分析の古典を大切に、一番新しいジャーナルをウィニコット、オグデン、グリーンの考えを軸に拾い読みしつつ、隙間時間は小説や哲学の本を楽しんでいくことになると思います。読書と運動はどんな短時間でもできるのがいいですね。睡眠もほんの少し寝る、ということができるけど寝入りも寝起きも自分でコントロールするのが少し難しいです。食べるのも欲を抑えるのが本当に大変。今朝のお菓子は所沢の「お菓子の工房エミール」さんの狭山ケーキ。抹茶色のレーズンがはいった小さな焼き菓子です。おいしそう。年末にもらったルピシアの「福づくし」から今日は抹茶黒豆玄米茶と一緒に。あ、両方、抹茶になっちゃった。おいしいに違いないからいいか。うん、おいしい。所沢は昔友達の家にいったことがあるけどそれから下りたことあったっけ、と何度か思ったことあるから多分あるんだと思う。東所沢は角川武蔵野ミュージアムにいくので降りたことがある。あそこ楽しい。今年もいろんな街を歩いたり、いろんなお菓子屋さんを知りたいな。お正月明けはいろんな土地のお菓子が集まるのも楽しみ。

年末年始は徳島県にいたのだけど徳島駅から歩いて10分ちょっとかな、眉山のロープウェー乗り場(阿波おどり会館内)のそばの寺町の一角にある「和田の屋」さんの「滝の焼餅」がとてもおいしかった。お部屋も素敵だった。赤ちゃんや小さい子を連れたご家族は大変そうで思春期の子と母の二人組はとても静かで子供はずっと本を読んでいた。なんの本かなあ、と思った。お母さんがおじいちゃんと話しはじめるとお母さんを小さな手でバンバン叩いて振り向かせようとしていた子は焼き餅はあまり好みではなかったみたいだけど「すぐにこられる場所じゃないんだよ」といわれていてむしろ私が「ほんとそうだな」と思った。大切に味わった。おいしかった!その子もあれこれお母さんの関心を向けつつ食べさせてもらったらおいしそうに全部食べていたからおいしさとは、と思った。保育園にいくと給食の時間は修羅場のときやところがあるのだけどやっぱり「美味しさとは」とよく思ったな、そういえば。今年もたくさん「おいしー!」ってニコニコしたり、ほっぺぽんぽんってできたらいいね。

さて、昨日はNetflixで「令嬢アンナの真実」をみた。大掛かりな詐欺を次々と成功させてきたアンナと女性ジャーナリストの関わりを軸に、娘と父、出産を控える母親の仕事と夫婦と職場、赤ちゃんの時間と若者の時間など永遠のテーマをうまく盛り込んだ実話ベースの話だった。本物のアンナは放映権をNetflixに売り込んだ金でまたもや豪遊していたそうだから人間のそういう部分って変わらない。すごく面白かったし、「ラブ上等」に対するいろんなコメントのことも思い出してちょっと考えてしまったな。

さてアンナをみつつぼんやり“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green がどんな本だったかをチェックしていた。2023年12月にも読んでいた時期があったらしいが全く覚えていない。今回は原書のフランス語版にむけて書かれたペレルバーグの書評Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261をみつけたのでそれも読みつつ目次を確かめつつ、今読むべきところを探ってみた。フロイトの「否定」論文は何度も読むべきものだけど、その「否定」では表せないだけでなく、精神分析実践ならではの心の動きを示すのがグリーンの「ネガティヴ」という概念だと思う。ネガティブはとらえどころがないからネガティブなのであってそれがwork(作業、仕事)できる心かどうかが精神分析プロセスを追うときの大切な指標になる。心とか主体とかあるんだかないんだかみたいなものを想定せざるをえないのはなんらかの動きを感じるということが起きたとき。ふと感じられる主体が現れるとき。時間が動くのとセット。それまで止まっていた時間が。「あれ?どうして今これ思い出したんだろう」「今ふと思い出しのだけど」と不思議そうに現れる気持ちは過去の出来事とつながっている。「あれなんで泣いているんだろう」とかも。過去は単なる時間ではないのだ。情動とくっついて時間として現れる、のでは?時間に関しては今年はベルクソンに加えてポール・リクールを読みましょう。積んであるからね。あとアガンベン。人は生きていること自体が行為になってしまうから色々難しい。さらに言葉も持ってるからややこしい。今年もそんなめんどくさい自分とつきあっていきまっしょい。

今年も、まずは今日、まずは朝起きるところから、と小さな時間を作ってがんばりましょか。どうぞよろしく。

カテゴリー
テレビ 精神分析 精神分析、本

1月4日(日)

早寝早起きができたお正月、素晴らしかった。毎日、軽い山道を含め2万歩前後は歩けたし、お菓子もたくさん集まって幸福。明日から仕事も筋トレもまたがんばれたらいいな。

一方、年末年始は夢で普段の仕事をしていることが多く、精神分析的な意味での夢作業はどうなってんだ、という感じがする、とともに普段の生活が夢見の余裕をなくしている気もする。この辺もどうにか改善しないといけないが、生活に合わせてできることをやっていくほかなさそう。

今朝は5時前に起きたがパソコンの前に座るもぼんやりしてあっとまに時間がたち、ようやくパソコンを開いてネットニュースをみて悲しくなり、ホットカーペットに座り込んだらまたすぐ時間がたち、あっというまに日の出。きれいな夜明けをみられて少し持ち直した。

どうにか目を覚まさなければと休みの間はほとんど飲んでいなかったコーヒーをいれた。お菓子はなににしようかなあ、と賞味期限とか色々確認していたらどれも適しているような気がして大いに迷った。時間があるって素晴らしい。結局、しばらく前にもらった埼玉県ではおなじみの十万石まんじゅうで有名な十万石ふくさやのはにわさぶれを食べた。細長い埴輪の形してるきちんと穏やかな顔してる。かわいい。おいしかった。長野県茅野市にも埴輪のかわいいお菓子があったなあ、と思ったけどあれは土偶か。埴輪と土偶って何が違うんだっけ、と思ったけど実際、埴輪をみたら土偶とは思わないし、逆もしかりだから違っているのはわかる。でもなにが違うのだろう。どっちかというと土偶は繁殖のイメージ、埴輪は死者の弔いのイメージだよね。どうなんだろ。あとで調べてみましょう。

私が長年愛用してきたMacBookAirが色々限界を示してきたのでしかたなくパソコンを買った。とても軽いのはとてもいいがマックのバッテリーはすごかったんだな、と思う。電源なんて持ち歩いてなかったもの。最初は慣れるのに時間がかかるかなと思ったけど意外と大丈夫だった。どうなってんだ、と困ることもあるけど一度解決すればなるほどそういうことかと学べるしなんでも使いながらですね。さっきも突然キーボード使えなくなって困ったばかりだけどMacで調べようと開いたとたんになおった。なんなんだ。

明日からまた朝ドラ「ばけばけ」がはじまる。お正月特番(?)のインタビューもみた。『小泉八雲のおもかげ ばけばけトミー・バストウが巡るアイルランドとニューオーリンズ』も興味深いことが色々あった。移動の多い人生だ。

次に読むアンドレ・グリーンの本をしつこく探していてLa Clinique du négatifはどうかなあと思ったけど英訳もなく、どの論文が入っているかもわからない。André Green Revisited
Representation and the Work of the Negative
Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine
Copyright 2019はグリーンを引用して何か書く場合に非常に参考になりそう。著者はRene Roussillon、Jean-Claude Rolland、Howard B. Levine and Anna Migliozzi、Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky、Fernando Urribarri、Claudio Laks Eizerik, Lucian Falcão and Zelig Liberman、Marie France Brunet、Talya S. Candi and Elias M. da Rocha Barros、Rosine Perelberg 、Francis Baudry。

ペレルバーグのRepetition, Transformations and Après-Coupだけでも読めないかなと思ったけどpepにはなかった。The Controversial Discussions and après-coup(2008)が参考になるかな。

こんなこといっていないで今日は昨日思い出した頼まれ仕事をせねば。表に出ない仕事ばかりで特にお金にもならないけど大事な仕事。役に立てたらいいな。

良い一日になりますように。

カテゴリー
テレビ 精神分析 精神分析、本

1月2日(金)の日記

夜明け。一番好きな色の配分でみられた。

昨日は簡単なハイキングをしてたくさん食べた一日だった。お雑煮もいただいたし久しぶりにグリーンカレーを作った。たけのこは使わず好きな具だけで、ココナッツミルクではなくアーモンドミルクで。全部混ぜてほうっておけばいいからとっても簡単。本場タイのグリーンカレーも食べてみたいというかタイはおすすめされることが多いから行ってみたい。タイ料理屋さんは初台にも小さくておいしいお店があるからとりあえずそこで。今年も行こう。

昨年のM-1グランプリをみながら大笑いしてから、アンドレ・グリーンのネガティブナルシシズムについてのメモを見返したのだけどアンドレ・グリーンはまとめたり、メモで残せるものではないなと思った。ネガティブナルシシズムに関してはヒンシェルウッドとの対比でメモしていたけど、どうしてこんなメモをしたのか自分でもよくわからない。なんの本や論文を読んでこうなったのか。メモ足らず。自分のメモをみるかぎりではグリーンのNegative Narcissism =欲望・愛着・意味への投資(備給)そのものが撤回(脱備給)される運動、ヒンシェルウッドのNegative Narcissism =攻撃性が対象ではなく自己に向けて内在化された状態とあるので、そもそも対象の位置づけが全く異なるということは言えるのだろう。グリーンは徹底して不在と向き合っている。そもそも「対象」という言葉自体、フランス語と英語では随分異なる意味をもつということが『アンドレ・グリーン・レクチャー』にも書いてあったと思う。これは邦訳もあるからまたみてみよう。

グリーンはまとめる対象ではなく読み続けるべき対象だなと思ったのでLIFE NARCISSISM, DEATH NARCISSISM. André Green 著(Andrew Weller 訳)London/New York: Free Association Books, 2001, 262頁も買ってしまおうなあ、どうしようかなあ、と思ったが洋書は高いのでとりあえず買わない。こんなだとPEPに高い入会金を払って読み放題にしたほうがいいのかもしれない。IJPジャーナルだって全然読めていないものも多いけど自分が探求するものに関してはお金かけどきかも。こういうのも全部年齢、つまり残り時間との相談になる。すくなくとも若い頃よりは先の短さはたしかなわけだから。でも先生方にはまだまだ長生きして対話をつづけてほしいな。わがままだが。

今日も軽くハイキングして(熊が冬眠してくれていることを願う)いっぱい食べて勉強して過ごそう。仕事のあれこれはたぶん大丈夫、かな。そのへんの確認もしよう。もう土曜日。Reading Freudから一週間か。いい休みだった。今日は東京は雪の予報ではなくなったみたいだけど当たり前に雪の地域もある。大変なことだ。どうぞお気をつけてお過ごしください。

カテゴリー
仕事 精神分析 精神分析、本

能登を思い出したり、昨年やったことをまとめたり。

能登半島地震から2年。元日の羽田空港で知らない人たちの「地震だって」というざわめきで知ったあの日、心がざわざわした。ものすごい被害だった。行ってみたかった輪島の朝市も全焼した。その年の8月はまだ通行止めも多かっため、行ける範囲でとりあえず羽咋まで行った。森崎和江が『能登早春紀行』で降り立った駅だ。釣り帰りなのか発泡スチロールの箱を抱えたままお喋りしつづける男性を私たちに気づいた老齢の駅員さんが穏やかに制し、レンタサイクルの手続きをのんびりしてくれた。千里浜は今日はどうかな、風が強いと通行止めになるけど、昔は〜、と色々教えてくれた。旅の醍醐味はこういう会話。その次の年は七尾と和倉温泉へ。いまだ手付かずか、あるいは解体を待つしかない大きな建物に圧倒されながらたくさん歩き、観光自体が何かの手助けになるのならと思った。が、そう思わなくても能登の自然や伝統ある祭りなどからもらったエネルギーは大きく、とても楽しんだ。経由地となる金沢も何度行っても満足しかないし、今度こそ珠洲、輪島まで足を伸ばし、関わりながの追悼を続けていきたいと思う。仲代達矢はもういないが能登演劇堂での無名塾の公演も見たい。七尾線の車窓には田園風景がずっと続く。空がきれいに映りこむ水田を眺めているうちに時間の流れが変わる。能登の時間は止まったままのところもあるのだと思う。時間をかけるべきところでもそんな余裕はないという場合も多いと思う。いろんな矛盾を抱えながら、それでも生活していかなければならない状況に思いを馳せる。どうか良い一年になりますように。

年末年始を旅先で過ごした。初詣の混雑のため、予定していた帰りのバスが運休していたことに気づいて少し慌てた。バス停に貼ってある運休のお知らせは強風でひっくりかえっていた。結局、予定よりもずっと早く空港に到着してしまった。すると名前を呼ばれた。空港で呼び出しを受けるのははじめてだ。学校で呼び出しを受けたときだって放送ではなかった。なんてことはない。乗るはずだった遅い時間の便がさらに遅れる予定で、もしよければ早い時間の便に変更できるがどうするかという話だった。ラッキーだった。飛行機に乗るはずだった時間よりずっと早く東京に着いた。東京に着くともうすっかりお正月気分は抜けていて、なんだかそれもつまらないなと思ったが、元日はさすがの東京も暗いな、という感じられたのはよかった。

今日は雲が多い。東京は雪の予報なのか。旅先の寒さは耐えられても東京の寒さは苦手。

2025年もほぼ臨床しかしていなかった。隙間時間でいくつか書き物をさせてもらった。今年もそんな感じかな。時間があるからまとめておこう。

まず書評が二つ。

斎藤環著『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)
ーー臨床心理学 第25巻第2号 性暴力(金剛出版)

コレット・ソレール著『情動と精神分析 ラカンが情動について語ったこと」 松本卓也,河野一紀,ニコラ・タジャン 訳(福村出版)ーー精神分析研究 第69巻第4号(岩崎学術出版社)

エッセイがひとつ。

2024年のThe IPA Asia-Pacific Conference in SydneyのIPSO panelでの発表を加筆修正したもの→The Journal of The Japan Psychoanalytic Society Vol.7 Essay ”Being polyphonic”

討論原稿がひとつ。

The Journal of The Japan Psychoanalytic Society 第14回大会大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」にて討論→機関紙Vol.13に掲載

口頭発表は色々。

日本精神分析協会学術大会でパネル企画して発表したり、演題出したり、精神分析学会で精神分析実践の話をしたり。

ウィニコット・フォーラムの発表原稿を文章化したものは随分前に校正もしたがどうなっているのかわからない。すでに遠い記憶。コレット・ソレールの書評が載った『精神分析研究』も届いたばかりだが一度校正の機会があったにも関わらずすぐに変な文章を見つけてしまった。あーあ。ラカン派に関しては書評を書いたあとの方が勉強量が多いが仕方ない。なんでもその時点でできることをやるのみ。

あとの仕事はひたすら自分のオフィスでのルーティン。臨床を軸にケースセミナーとReading Freudと仲間内の事例検討会や読書会。その繰り返し。

対外的なものは今年も協会のジャーナルに載せられたらいいけど査読待ち。ほぼ確定しているのはAPCソウルでの発表、協会の学術大会での発表、書き物は子供の心理療法の本の一章。今年は子供の心理療法のことを別のどこかで発表してもいいかも、と書きながら思った。幼児から高校生まで、たくさんの人との経験からの学びを残しておきたい気もする。締切のある原稿はすでに提出しているが、すでに間違いを見つけたので今日はその修正をしてからでかけよう。

お休みが終わってしまうのは悲しいから今日もいっぱいお散歩しよう。どうぞ良い一日を。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

2026年元旦

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

年末という実感をまったく持てないまま新年を迎えた。紅白を見終わって寝たが寝たり起きたりの間に分析協会の人たちが夢にでてきた。夢で夢についての文章も読んだ。

年末年始の過ごし方は、子どもの頃とはもちろん違うし、東京が長くなってからも少しずつそれらしい行動や儀式は減ってきた気がする。年をとってからのほうがそういうことをしたい気持ちは強いのだが。旅先でのほうが故郷は思いだしやすく、懐かしい感じで笑いあうことも多い気がする。いろんな世代のいろんな人からいろんな話をききたい。

昨年のReading Freudでも「当時の」「当時は」という話をたくさんしてきた。フロイトが経験してきたフランス精神医学、ドイツ精神医学の違い、ものすごい読書量で様々な先行研究を持ち出すのは創始者として精神分析の正当性を主張するためにほかならないが、そのエネルギー量が精神分析実践をしない人たちにもいまだにものを考えさせていることがそのまま精神分析の魅力だろう。昨日も少し書いたが思考する主体の存在は自明ではない。私たちは常に誰かに巻き込まれ乗っ取られている。もちろんその不自由さはリスクでもありポテンシャルでありチャンスだ。

歴史といえば、ウィニコットの「舌圧子」論文も今の人にはピンと来ないのではないか、当時の舌圧子を知らないから、という話もした。歴史は本当に大事だ。どの人も最初からいくつもの歴史にまきこまれながら新たな歴史を紡ぐ一人になっていく。知らないことに自然に開かれつつ学んでいくこと。焦る必要はないし、大きい声が正しいわけでもない。いろんな人とのつながりのなかで自分を誰よりも大切にできるように。そのためにはどうしても他者が必要であることに素直に、地道に日々を歩むことができますように。

今年もがんばりましょう。