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ナルシシズムとかソレール講義とか。

凍らせておいた葡萄が美味しくなくて悲しい。果物をたくさんいただいたから少しだけ凍らせたのだけど残念。上手な冷凍保存のしかたをネットで学んだのだけど少し傷んだとしても冷蔵庫で保存しておけばよかったな。七月後半は氷やアイスを食べることが増えた。鎌倉に住んでいる人に連れていってもらった老舗の甘味処のアイスが美味しかったな。おなかが強ければかき氷をチョイスしたかったけど全然こっちも正解だった。

今週は火曜日に熊本の地震があって気持ちがどんどん落ち込んでいく一方、毎週、毎日の仕事をいつも通りいろんな気持ちになりながらこなした。私の仕事はものすごく個別性が高いが長年たくさんの人と密に会い続けていると「人間って」という普遍的な部分に気づいたりもする。一番は人間はいかに人を信頼することが難しいかということで、ナルシシズムを個人の病理として捉えていない私はこの仕事を通じて社会の問題としてのナルシシズムを考えていく必要があるのだろう。

先日、コレット・ソレールの本を読んでいたついでに、別のソレールの本も読んでいた。気持ちが落ち着かないときはなんとなく手元にある本を再読することが多い。Kindleでダラダラ読んでいたのはコレット・ソレールの講義録Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter: A Lacanian PerspectiveのChapter 6 4th February 2015。前に少し訳を載せた気がする。少しラカンを齧っている程度の私にも読めるラカン入門。先日ウィニコットの「ピグル」の読解で紹介したソレールのWhat Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Studyのなかのhysteria and femininityで書かれていることの要約もこの日の講義では使われていて、ラカンがよく引用した有名なヒステリー患者が素材として用いられているので共有できるし、こっちに焦点を当てるとこういうことがいえるのかという発見にもなる。ソレールは倒錯を「一般化」しているものとして捉えており、その辺の議論がこの本にあったかどうか忘れたが、ラカン派の文脈では特に重要なことだと思う。この章ではファルスをどう捉えるかという議論が展開されている。たとえば以下の部分とかラカン派ではベーシックな議論なのだろうけど私には結構面白いことがはじまるぞ、という感じがする。

“二つの欠如(Two lacks)

結局のところ、存在の欠如(manque à être)は、享楽の欠如(manque à jouir)とは同じではありません。これはまったく異なる事柄です。フロイトがファルスや去勢について語るとき、彼にとってそれは当初から性的享楽の器官であり、その器官、すなわち性的享楽に対して向けられた脅威を意味していました。それでは、ラカンは何を根拠に、ファルスを一方では存在の欠如のシニフィアンとし、他方では享楽の欠如のシニフィアンとしたのでしょうか。”

という感じで続く箇所。私はものすごく曖昧な「自己」よりも「主体」という言葉を使うけど「主体」という言葉も定義するのは大変難しい。かといって「あいだ」とか「関係」とかいう言葉がちょうどよく機能してくるかというとそうでもない。自分ってなにかしらね、「私」なんているのかしら、という常に感じる思いから六月の学術大会ではパネルを立てたが、これに関してはそもそもこういう問題意識を共有していないとなかなか難しかったと思う。精神分析もどこか「本当の自己」みたいなものを目指しがちだろうから。

今日は土曜日。今日から8月。暑さにめげず元気に過ごせたらいいですね。無理せず大事に過ごしましょう。

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コレット・ソレールを読んだり。

早朝、賑やかに鳴いていた鳥たちは5時半を過ぎた頃にはもう遠くへいってしまったようだった。今朝は重たい空の色だが気温的には凌ぎやすい。昨日もだいぶ過ごしやすかったが、夕方首元に浴びた西日には本当に焼かれた感じがした。

以前、フランス、ラカン派の精神分析家、コレット・ソレール(C.Soler)の『情動と精神分析 ラカンが情動について語ったこと』(福村出版)の書評を書いた。そのときにソレールの別の本も読んだが、整理しないまま放置していた。別の文書を探すときにソレールのWhat Lacan Said About Womenのメモが出てきた。「9 An Infantile Neurosis」ではウィニコットのピグルが取り上げられているのでそこだけはきちんと訳しておこうと思った痕跡がある。それほどインパクトのある章でもないが、ラカン派の考えがベースにありつつ、ラカン派なのに、と感じる部分も確認でき、ソレール独自の臨床感覚による修正がそこには加わったのだろうと思われた。

たとえばラカン派らしいところをざっと訳すとこんな感じ。

>>子どもはまた、解釈する者(interpreter)であり、謎を読み解く者(decipherer)でもあるからである。そのような存在になるためには、子どもs/heはまず言語の構造のなかへ入らなければならない。そして、シニフィアンとシニフィアンとのあいだの間隔(interval)が主体を十分に穿ち、そのことによって主体自身が解釈を求める存在となるのである。ここで決定的なのは、〈他者〉の謎との出会いである。その謎が完全に埋め尽くされないかぎり、子どもは誰もが、〈他者〉──とりわけ母親──の語ること(dire)について、自分自身の読みを打ち立てようと努める。私たちは、ごく幼い子どもでさえ、〈他者〉が言ったこと(dits)だけではなく、その沈黙や矛盾、嘘、つまりその言説のあらゆる裂け目に細心の注意を払っていることを知っている。もちろん、それは子どもの存在そのものに関わる問題だからである。子どもが解き明かそうとしているのは、自らがどのようにしてこの世に生まれたのかという秘密であり、さらに、自らの性の秘密でもある。こうして、解釈する者は再び解釈される者として現れる。そして、その人が行うあらゆる解釈の秘密は、この解釈の結び目(knot of interpretations)のうちに存しているのである。このことを踏まえると、ラカンが「ジェニー・オーブリーへの二つの覚書」の最後で言及している施設症候群(institutionalization syndrome)において、子どもに何が欠けているのかが理解できる。子どもの生命維持に必要な要求needは、比較的匿名的な世話によって満たすことができる。しかし、ラカンのいう「特別に向けられた関心(particularized interest)」が欠けているために、子どもは解釈する〈他者〉を失うだけでなく、自らが解釈すべき他者をも失ってしまう。その結果、子どもは匿名ではない欲望のなかで、自らの存在を成立させることができなくなるのである。

というようなところはラカン派らしい記述だし、そうですよね、という箇所でもあるが簡単に納得してはいけない部分でもあるだろう。

そしてソレールらしいのはこの辺かな、というところをざっと訳す。

>>幼児神経症を探すということは、まず何よりも、「去勢コンプレックスを探す」ということである。周知のように、去勢コンプレックスとは複雑な構造をもつものであり、単に身体の切断や損傷のイメージが存在することに還元されるものではない。それは、去勢不安という中心的な情動をめぐる一つの精巧な構成であり、フロイトが幼児神経症と呼んだものと実質的に重なり合っている。この点について私は、ミシェル・シルヴェストルの見解に従いたい。すなわち、幼児神経症と成人神経症とは、同質的でも対称的でもない、という見解である。彼が述べているように、成人神経症は解決されることがない。というのも、それは性関係において不可能なものを補う働きを担っているからである。それに対して、幼児神経症は、狂気に陥ることのないあらゆる主体にとって、ほとんど必然的に通過しなければならない過程である。そして、そのような精神病ではない主体の一人ひとりについて、私たちはその痕跡だけでなく、その解決の仕方をも見出すことができる。それを必然的な通過点と呼ぶことは、同時に、それが一つの発達段階であることを意味している。今日では、私たちはもはや「発達(development)」という言葉をあまり用いない。しかし、結局のところ、時間的な推移(diachrony)もあれば、典型的な段階も、やはり存在するのである。

いや、ここは「発達」に対する眼差しをフーンと思った箇所でこっちの方がそれっぽいかな。

>>去勢コンプレックスとは、母親のファルス的欠如との出会いに対する子どもの応答である。というのも、去勢は主体の側に直接刻み込まれるものではないからである。去勢が主体に作用するのは、まず〈他者〉──ここでは母親──の欠如が現実のものとなり、その欠如に応える対象とは何なのか、という問いが立ち現れることによって初めて可能になる。そこで私は、去勢コンプレックスに苦しめられていた一人の少女、すなわちウィニコットの『ピグル』を取り上げることにした。この症例では、私の関心は分析家であるウィニコット自身よりも、むしろ小さな被分析者であるピグルのほうに向けられている。というのも、私にはウィニコットは、少しばかり彼女のあとを追っているように思われるからである。

いや、ここもソレールっぽいというよりラカン派っぽいという感じか。理解はできるのだけどなんかいまいちインパクトがないような感触があり、当時もダラダラ読んでしまったのだろう。もっときちんと読めば手応えのある記述にも出会えるかもしれないが。という感じで読みなおしていた。ウィニコットの「ピグル」が取り上げられていることだけでも新鮮ではある。

昨晩、夜遅くに作った茄子とひき肉のおかずがいい匂いだけどこれが残ったまま出かけるのは嫌だな。この部屋、カーテン閉め切って出かけてもものすごく暑くなるからせっかくのいい匂いが気持ち悪い匂いになっちゃう。しっかり換気してから出かけるとしましょう。良い一日になりますように。

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能登を思い出したり、昨年やったことをまとめたり。

能登半島地震から2年。元日の羽田空港で知らない人たちの「地震だって」というざわめきで知ったあの日、心がざわざわした。ものすごい被害だった。行ってみたかった輪島の朝市も全焼した。その年の8月はまだ通行止めも多かっため、行ける範囲でとりあえず羽咋まで行った。森崎和江が『能登早春紀行』で降り立った駅だ。釣り帰りなのか発泡スチロールの箱を抱えたままお喋りしつづける男性を私たちに気づいた老齢の駅員さんが穏やかに制し、レンタサイクルの手続きをのんびりしてくれた。千里浜は今日はどうかな、風が強いと通行止めになるけど、昔は〜、と色々教えてくれた。旅の醍醐味はこういう会話。その次の年は七尾と和倉温泉へ。いまだ手付かずか、あるいは解体を待つしかない大きな建物に圧倒されながらたくさん歩き、観光自体が何かの手助けになるのならと思った。が、そう思わなくても能登の自然や伝統ある祭りなどからもらったエネルギーは大きく、とても楽しんだ。経由地となる金沢も何度行っても満足しかないし、今度こそ珠洲、輪島まで足を伸ばし、関わりながの追悼を続けていきたいと思う。仲代達矢はもういないが能登演劇堂での無名塾の公演も見たい。七尾線の車窓には田園風景がずっと続く。空がきれいに映りこむ水田を眺めているうちに時間の流れが変わる。能登の時間は止まったままのところもあるのだと思う。時間をかけるべきところでもそんな余裕はないという場合も多いと思う。いろんな矛盾を抱えながら、それでも生活していかなければならない状況に思いを馳せる。どうか良い一年になりますように。

年末年始を旅先で過ごした。初詣の混雑のため、予定していた帰りのバスが運休していたことに気づいて少し慌てた。バス停に貼ってある運休のお知らせは強風でひっくりかえっていた。結局、予定よりもずっと早く空港に到着してしまった。すると名前を呼ばれた。空港で呼び出しを受けるのははじめてだ。学校で呼び出しを受けたときだって放送ではなかった。なんてことはない。乗るはずだった遅い時間の便がさらに遅れる予定で、もしよければ早い時間の便に変更できるがどうするかという話だった。ラッキーだった。飛行機に乗るはずだった時間よりずっと早く東京に着いた。東京に着くともうすっかりお正月気分は抜けていて、なんだかそれもつまらないなと思ったが、元日はさすがの東京も暗いな、という感じられたのはよかった。

今日は雲が多い。東京は雪の予報なのか。旅先の寒さは耐えられても東京の寒さは苦手。

2025年もほぼ臨床しかしていなかった。隙間時間でいくつか書き物をさせてもらった。今年もそんな感じかな。時間があるからまとめておこう。

まず書評が二つ。

斎藤環著『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)
ーー臨床心理学 第25巻第2号 性暴力(金剛出版)

コレット・ソレール著『情動と精神分析 ラカンが情動について語ったこと」 松本卓也,河野一紀,ニコラ・タジャン 訳(福村出版)ーー精神分析研究 第69巻第4号(岩崎学術出版社)

エッセイがひとつ。

2024年のThe IPA Asia-Pacific Conference in SydneyのIPSO panelでの発表を加筆修正したもの→The Journal of The Japan Psychoanalytic Society Vol.7 Essay ”Being polyphonic”

討論原稿がひとつ。

The Journal of The Japan Psychoanalytic Society 第14回大会大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」にて討論→機関紙Vol.13に掲載

口頭発表は色々。

日本精神分析協会学術大会でパネル企画して発表したり、演題出したり、精神分析学会で精神分析実践の話をしたり。

ウィニコット・フォーラムの発表原稿を文章化したものは随分前に校正もしたがどうなっているのかわからない。すでに遠い記憶。コレット・ソレールの書評が載った『精神分析研究』も届いたばかりだが一度校正の機会があったにも関わらずすぐに変な文章を見つけてしまった。あーあ。ラカン派に関しては書評を書いたあとの方が勉強量が多いが仕方ない。なんでもその時点でできることをやるのみ。

あとの仕事はひたすら自分のオフィスでのルーティン。臨床を軸にケースセミナーとReading Freudと仲間内の事例検討会や読書会。その繰り返し。

対外的なものは今年も協会のジャーナルに載せられたらいいけど査読待ち。ほぼ確定しているのはAPCソウルでの発表、協会の学術大会での発表、書き物は子供の心理療法の本の一章。今年は子供の心理療法のことを別のどこかで発表してもいいかも、と書きながら思った。幼児から高校生まで、たくさんの人との経験からの学びを残しておきたい気もする。締切のある原稿はすでに提出しているが、すでに間違いを見つけたので今日はその修正をしてからでかけよう。

お休みが終わってしまうのは悲しいから今日もいっぱいお散歩しよう。どうぞ良い一日を。

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コレット・ソレールの本など。

毎日、起きるとカーテンの向こうに月を探す。月の位置で大体の時間がわかる。昨晩、少し本読もうかな、と机の前に座ったけど読もうとしている本がラカン派の本だったせいか、ページを開いただけでボケーっと腑抜けていた。このままウトウトするのは目に見えていたので温めておいたお布団に潜りこんであっという間に寝た。遅い夕食が消化されていない感じが気持ち悪かったけど変な格好で寝てしまうより安全だった。

昼間もラカン派分析家のコレット・ソレール(Colette Soler)の 『What Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Study 』を読んでいたらぐったりした。フランス語でなく英訳だけど。ある程度ラカン派の言葉に慣れてきたとはいえ、これ賞をとってるんだよね、これラカンに馴染みがないと結構読むの大変だよね、と難儀した。部分的、あるいは表面的には理解できるけど。ソレールはフロイトを独自の仕方で超えていくラカンを女性の側から掘り下げている。pas-toute、La femme n’existe pas.で表現される女性(ファルス享楽ではないJouissance Autreとともに)として女性に例外的な位置を与えたラカンの考えを我々はどこまで押し進めることができているだろうか、というのがソレールの問い。精神分析家の言説を変えるにはフランス精神分析、特にラカン派の勉強が欠かせないことはわかった、という段階の私には困難が多いが勉強しましょう。そうしましょう。

今朝はかわいいイチゴかな。ベリー系の焼き菓子とお茶。ほっこりしました。BGMは挟間美帆のLive LIfe This Day.挟間美帆の仕事も素晴らしい。どうぞ良い一日を。