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紫陽花

紫陽花が徐々に存在感を消していくのをなんとなく見守っている。
上手。咲くときも少しずつ色づいていつのまにか景色を変えてしまう。
その変わった景色すらもともとそうでした、みたいな感じだし。

私たちってなにかを指摘されると「生まれつきです」とか「まえからです」とか言いたがると思うのだけど自分とひとだと見え方って違うものですよね。
ひとからしか見えない自分がいる。だから他者が必要、ともいう。
たぶん、危機管理的にも。

昨日、小倉清先生の本について書いたけど、そこに登場する子どもや親ごさんってその時代の日本の現れでもあるんだな、と思った。
小倉先生はそういう背景もきちんと書いてくれている。
ウィニコットも『ピグル』でマザーグースとか共有された母国語、母国の文化を十分に意識して治療過程を描写した。

自分が生まれ育った場所から再びはじめてみること、そこには傷つきの記憶もあたたかな記憶もあると思う。何か一色で気持ちが覆われてしまうときは記憶のなかにグラデーションを探す。紫陽花みたいな微細な違いが自分のこころを彩っている可能性って誰にでもあるような気がする。

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小倉清先生

小倉清という精神科医をご存知だろうか。私の世界では大変有名な1932年和歌山県生まれの子どもの精神科の先生である。俳人の堀本裕樹先生も和歌山県出身、パンダの彩浜ちゃんがいるのも和歌山県、熊野古道はもちろん和歌山県。良いところですよ、とっても。学歴や職歴も大事かもだけどどこで生まれ育ったかって大事よね、と思うのも私の臨床初期には小倉先生のような医師との出会いがあったせいかもしれない。

社会人になったばかりの頃、教育相談室の仲間と小倉先生の勉強会に出ていた。眼光鋭く、というか多分眼鏡の上からこちらを見る目線がしっかりしているだけなんだけど、ニコニコ笑いながらのんびりした態度で本質的なことをついてこられるので結構人数のいたその部屋は割と緊張感が漂っていた。病院内でやっていたので途中小倉先生の患者さんが突然入ってこられてしばらく座っておられたこともあったが、その時の小倉先生の眼差しはとてもあたたかかった。なのでやっぱり勉強会中の先生の目は鋭かったのかも。小倉先生はたくさんの子どもの患者と私たち専門職を育ててこられた。今もこうしてお世話になるとは当時は思い描いてもいなかった。(小倉先生は日本精神分析協会の精神分析家でもあるので、精神分析家候補生である私たちの訓練を支えてくださっている。)

その小倉先生にはすでに著作集が出ている。そこに掲載されている小倉先生が事例提供者で小此木啓吾先生が助言者の事例検討会(『小倉清著作集 別巻1  児童精神科ケース集』に収録)は大変面白い。そういう時代もあったのだな、という感想がまず最初に来るが。小此木先生が亡くなってから17年?土居先生が亡くなって11年。そうそう、7月5日が土居先生の命日だったので「甘えの構造」などをパラパラしてるときにそういえば、と久々に手に取ったのが小倉先生の本だったのでこういうこと書いているのだけど。

その小倉先生は『子どものこころ その成り立ちをたどる』の中で赤ちゃんが自分の身体で遊ぶことの大切さを書いておられる。

「結論からいえば、要するに赤ちゃんはそうやって自分自身を知ろうとしているのである。さまざまな物にふれたりしながら、それらと自分自身との対比の中で自らに眼を向ける。手の指はそれだけのものではなく、自分の一部であるという認識が身について、その上で自分を知ろうとしているのである。 この時期より前では自分と自分でないものの区別ははっきりしていなかったものが、ここにきて、自分自身のものという感覚がよりはっきりしてきて、身体を知ることになる。」

 たくさんの子どもの苦痛や困難、そして成長をみてこられた先生の言葉はこうやって細やかで、赤ちゃんの手や眼、身体の動き全体が連動して外界を発見し、自分となじませていくやり方を教えてくれる。

 若い頃、あの勉強会で緊張を乗り越えてもっと色々教えていただけばよかったかも。当時はまだ自分も社会に出たばかりで赤ちゃんのようだったし。と思うけど結局その後精神分析の世界に入って訓練を続けているわけだから私はいまだに自分の中の赤ちゃんのこころを使って色々考えているのだろう。こんな歳になってもまだお世話されているとは・・。親にとって子どもはいつまでも子ども。少しずつ大人になって親になる。心理面でいえばいつからもいつまでもないだろう。重なり合い、分離しあい、親子はその形式をつなぎ個別のこころを育てあっていく。

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瓜番

夜、オンラインで「瓜番」という季語を使った句について話しあった。

夏の季語だ。

たかが4音のこの季語だが、17音のうち4音と考えると全体の約3分の1なので、その影響は大きいことが容易に想像がつくだろう。俳句は季語の選び方、置き方がとても重要なのだ。

俳句には「一物仕立て(いちぶつじたて)」という言葉があり、これはそのままひとつの題材だけで一句作ることを言う。一方「取り合わせ」「配合」とは季語のほかにもうひとつの材料を用いて作ることである。この時取り合わせた二物に飛躍が大きいと「二物衝撃」といって読む側につよいインパクトを与える。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

などがそれである。万緑といえばこの句というくらいの有名句である。見渡す限りの緑と赤ちゃんの小さな白い歯。今、歯と葉を誤変換したがここにも繋がりがあったか。

生後半年を過ぎて表情も豊かになり、さかんに声をあげて何かを伝えようとする子どもの口元に見えはじめた白いもの。最初に生えるのは下の前歯だ。生命とはなんと不思議で素晴らしいものか、と感じる瞬間が切り取られているようである。

「生命力」という言葉を使わなくてもその瞬間を切り取るだけでそれが伝わる。赤ちゃんに対しては特にそういう発見が多い。その細やかな視線は赤ちゃんが生きるために必要なもので小さな変化は赤ちゃんにとっては大きな変化だ。季語が17音に占める存在感と同様に。

私たちは本当はそんな変化の積み重ねで生きている。「こんなことして何が変わるの」「もうここまできたら変わらない」と思うとき、私たちは変化に気づくゆとりがなく、あまり元気がないときかもしれない。

瓜番というのは、瓜の熟す頃、夜盗みにくる者を防ぐための番人で、小屋の中で番をする。昔は瓜が夏の代表的な食品で上等のものだったので、こうしたことが行われた、と平井照敏編『新歳時記』に書いてある。

大事なもの、重要なもの、代表的なもの、どれも移ろいやすいかもしれない。でも俳句が伝えるように私たちはただ生きているだけでかなりの部分、いやむしろ、生きていることそれ自体がかなり大事なんだと、私は思っている。

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people people

people peopleはpower peopleより楽しそうだ。音だけ聞くと救急車みたいで、緊急事態に対応できないのだけど、この仕事、とは思うけど。

『患者から学ぶ ウィニコットとビオンの臨床応用』(松木邦裕訳、原題はOn Learning from the Patient (1985))などで有名なパトリック・ケースメント。英国精神分析協会の精神分析家である。彼は神学、ソーシャルワーク、そして精神分析の専門家でもある。英国ではソーシャルワーカーから分析家というコースはそれほど珍しいことではない、と訳者あとがきで松木先生が書いている。

その彼が心理療法家としてB.A.Pでのトレーニングを終え、さらに精神分析家になるためにインスティチュートでトレーニングを受け始めた頃、ソーシャルワーク関連で好条件の仕事を提示された。彼はアプライするかどうか迷ったらしい。その選択を助けてもらった言葉がこれ。彼は結局アプライせず、精神分析家になるための訓練を選んだ。

There are two kinds of people: ‘power people’ and ‘people people’. I, Patrick, am a power person and I’m looking for another power person to work alongside me. You, Patrick, are a people person so I will not be short listing you for this job.” That was very clear and a most useful comment. I didn’t apply.

たしかケースメントの自伝。Growing Up? A Journey with Laughterを読んだときにメモしたのだと思う。非常に優れた臨床家であるケースメントにもこんな面が・・とちょっとひく(私はひいた)ようなエピソードもあって面白い。人はこうだから面白い。A Journey with Laughterという副題だし。

でももしかしたらLearning Along the Way: Further Reflections on Psychoanalysis and Psychotherapyのほうかも。これは翻訳がでる予定だから見てみるといいかも。

うん、ピーポーピーポー、この仕事は確かに緊急事態に駆けつけることは難しいのだけど、「ここがある」ということで日々の緊急事態を持ち堪えている患者さんは多い。身ひとつというがそこにこころを住まわせること、こころに共にいてくれる人を育むこと、people peopleであること。精神分析の仕事のひとつなんだと思う。

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いろんな部分

この仕事をしていると本当にいろんなこころの状態があってその人たちと会う私にもいろんな部分があるんだな、と気づく。

私の仕事は緊急の対応はできないけど、そんなときに追い詰められたり無理をすることでまいってしまうことが少し減るような、大変だけど考えて持ち堪えることが可能になるようなこころを育てていくお手伝いはできると思う。

時間を体験する仕方が変わる感じかもしれない。突然傷つけられてすごいスピードで去っていたように見えた何かがもう少しスローモーションで見えるようになる体験と言えるかもしれない。

もちろんどんな場合もはじめてみないとわからないので、ここでもやっぱり同じではないか、となることもあるかもしれない。だからなんとも言えないのだけど。

でも、自分にも相手にもいろんな部分がある。だから通じないこともたくさんある。でも通じることもある。とにかくみんないろいろだ。だから比べなくていい。出し方にいいとか悪いとかはあるかもしれないが、心のもちようにいい悪いはないだろう。

そんな考えで、できることを話し合えればと思う。

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異物

「頭が痛い」「お腹が痛い」など痛いと感じているのは自分の身体なのに、それは突然起きるし、理由もわからないし、まるで異物みたい。内側に感じる異物。それはこころでも同じだけど。自分のこころなのに全然わからないとか。無意識とか。

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オグデン『もの想いと解釈 人間的な何かを感じとること』

「耳だよ、それをやるのは。耳だけが本当の書き手で、本当の読み手だ。」(Frost 1914)

オグデンは『もの想いと解釈 人間的な何かを感じとること』(大矢泰士訳.岩崎学術出版社,2006)の第7章「精神分析における言葉の使用について」のなかで、上記のフロストの言葉を引用し考察を加えたプリチャードの「耳のトレーニング」という言葉を引用している。(ややこしい)

オグデンは「分析の言説は、隠喩的な言語を発達させることを分析のペアに求める。その隠喩的な言語とは、ある瞬間において考え、感じ、身体的に体験するということ(つまり、その人に可能な範囲で、人間として生きていること)がどんな感じがするかを反映している響きや意味の創造に適した言語である。」と書いた。

そして分析家は「高圧的な教訓主義を回避するようにしつつ、言語の機微に調律する患者の能力を強化し、また分析の言説のなかで患者自身の思考、感情、知覚などをいっそう十全に捉え/創造するように言語を使う能力を強化する努力」、つまり「耳のトレーニング」という体験を分析で提供する、と述べた。

分析において二人の間で交わされる些細な言葉を分析家の耳がとらえ、ふたりで共にいるための言語を創造しようとする患者の無意識的努力をそこに見出すこと、「どんな感じがするか」という体験を捉え、創造する言語を生かし続けること、分析の頻回の設定はささやかで繊細な作業(耳のトレーニング)の積み重ねのためにあるのかもしれない。

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Talking Cure

zoomでの会議が終わった。これまでメールでのやりとりしかしていなかった人たちとオンラインで話すようになったのは面白い。コロナがなければ今まで通りメーリングリストなどでやりとりしていたことだろう。

それにしてもみなさんなんとか元気そうでよかった。

ところで最近、チェーンの薬局や家電量販店やカフェで店員さんとおしゃべりをすることが増えた。コロナ以前と以降では格段の差がある(以前はマニュアル的な話しかしていない)。

フロイトとブロイアーの共著「ヒステリー研究」にTalking Cureという言葉が登場する。精神分析の本質は最初から患者によって語られていた。

私がここで書くように、誰かが手紙を書くように、みたこともあったこともない相手にメールを打つように、書き言葉は話し言葉とはだいぶ違う。

話すこと、今だからこそvividに語れることがあるかもしれないと、コロナ禍における患者との関わりのなかでも感じている。

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線を引く

ウィニコットは線を引く名人だった。舌圧子,スクイグルなど環境という外部を少しずつ安全に導入するためのものの使用がとても上手だった。

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精神分析における愛とセクシュアリティ

精神分析の概念を研究する時間で私が選んだのは「セクシュアリティ」だった。最初は精神分析における「愛」とは、と仲間たちと考えたかったけどある対談を聞いて「フロイトって愛についてはあんまり語ってないの?」と思ったところからなんとなくの調査(上部を拾っただけだけど)を始め、一応こんなことを紹介がてら話したので載せておく。

十川先生の本に関連した記事はこちらに。https://aminooffice.wordpress.com/2021/01/01/『フロイディアン・ステップ』/

 精神分析家の十川幸司は『フロイディアン・ステップ』(2019,みすず書房)の刊行記念対談において「フロイトは性の偉大な理論家ではあったけども、愛の理論家ではなかった。彼は愛の背後に、必ずリビードの働きを見て取る。・・・フロイトの(唯一の)愛の理論は、「欲動と欲動の運命」(1915)の最後の部分で論じた、愛する―憎む―無関心という三つの感情の相互関係の分析です。このさいにも、フロイトはこの三つの感情を性欲動との関連で捉えようとしている。フロイトにおいては重要なのは、やはり欲動であって、愛ではない。・・一方、ラカンは愛の偉大な理論家です。」と言った。

 私はここで「へー、そうなんだ」となった。

 一方、その対談の相手であった立木康介は『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(2016,水声社)のなかで「フロイトがそれを創造して以来、精神分析とは愛についての言説である。」と述べた。そして、ラカンがセミネール「アンコール」で述べた「愛について語ること、精神分析の言説においてなされるのはそれだけだ」を引用し、「話す主体の心の病はすべて「愛の病」である」といった。つまり、エディプスコンプレックスは最初に経験される愛の挫折であり、ヒステリーは自らの欲望の満足を放棄しても、他者が自分を欲望し続けるように策を凝らす。そして強迫神経症は自らの欲望とあからさまに衝突する義務や志向で日常生活を埋め尽くすことで、愛する対象に到達するのを無限に先延ばしする。一方、愛の挫折を本当には経験したことがなく、欲望のプログラミングによってその挫折の予感から身を守り続ける主体の構造が、フロイト的な意味での「倒錯」であると。


 それではフロイトは、ということで『フロイト全集別巻』の索引をみると(というか別巻は総索引、年表、主要術語訳語対照表なのだが)愛、性愛、恋着という愛にまつわる用語が多く使用されていることがわかる。「愛」という項目は総索引の最初の項目であるところもなんだか良い。そして「愛情生活/性愛生活」と一緒くたにされているところを見るとやはり十川がいうようにフロイトはラカンのいう「愛」というよりは「性」の理論家だったのかもしれない。ためしに「愛」の中でも最初にあげられている「愛情生活/性愛生活」がフロイト全集のどの論文に出てくるかをみてみよう。

フロイト全集 別巻より
⑤夢解釈⑥ドーラ、性理論三篇(性的異常、幼児性欲、思春期の形態変化)⑦日常生活の精神病理学にむけて(決定論、偶然を信じること、迷信、様々な観点)⑨『グラディーヴァ』、精神分析について、子供の性教育にむけて⑩鼠男 11、レオナルド・ダ・ヴィンチ、男性における対象選択のある特殊な型について 12、転移の力動論にむけて、性愛生活が誰からも貶められることについて 13、ナルシシズムの導入にむけて、子供のついた二つの嘘、精神分析への関心、転移性恋愛についての見解 14、狼男、戦争と死についての時評、転移神経症展望、欲動転換、特に肛門性愛の欲動変換について 15、精神分析入門講義(人間の性生活、リビード理論とナルシシズム)16、処女性のタブー、「子供がぶたれる」、『宗教心理学の諸問題」第一部「儀礼」への序文 17、快原理の彼岸、集団心理学と自我分析(恋着と催眠状態)、女性同性愛の一事例の心的成因について、嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的規制について 18、「精神分析」と「リビード理論」19、素人分析の問題、フェティシズム、ドストエフスキーと父親殺し 20、文化の中の居心地悪さ、1930年ゲーテ賞、リビード的な類型について、女性の性について 22、精神分析概説(性的機能の発達)

 ざっとこんな感じである。確かにフロイトの愛は。。。幅広い。

 ラカンは、フロイトが「欲動と欲動の運命」(1915,『メタサイコロジー論』所収)において「むしろ愛を全体的な性的傾向の表現とみなしたいのだが、それでもやはり問題は解決しない」と述べたことを重視した。それに対して立木は先にあげた著書で「ラカンの「性関係はない」というテーゼですら、愛の問題に終止符を打つには十分ではなく、このテーゼが愛について意味しうるのは、せいぜい、愛の成就は性関係の充足という形を取らない、ということでしかない。反対に、愛が性関係の不在を補填する可能性は、おそらく常に開かれている」と述べた。その行方は著書を読んでいただくとして、私はやはり、フロイトの愛について考えるとき、彼がその本性を見出したというセクシュアリティに注目したい。なぜならフロイトのテキストにおいて、セクシュアリティは、異性あるいは同性を対象とし、セックスを目標とした本能行動であるだけでは決してなく、精神分析におけるそれは、人間のこころの組織化の中心をなすものであるからである。したがって、その概念の射程の広さとその使用について確認しておくことには意味があると考えるからである。

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『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』

社会学者の岸政彦さんの著作にであったおかげで社会学の本を読むようになった。研究会で社会学にもいくつかの分類があると教わった。今回はいつも読んでいる領域とは少し違う社会学の本を読んでみた。

『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』中森弘樹(2017,慶應義塾大学出版会)は失踪という事態?出来事?あり方?を通じて、私たちが当然のように大切なものとする「親密な関係」に私たちを繋ぎ止めるものを浮かびあがらせる丁寧な研究の書である。

著者は最初に「死ぬことと消えることはいかなる点で異なるのだろうか」という問いを掲げ、失踪が自殺を代替しうるか、だとしたら失踪に含まれる意味とは、そこにおける他者とは、責任とは、倫理とはということに考えを巡らしていく。第6章 失踪者のライフストーリーでは、<失踪>経験者のライフストーリーが2例取り上げられる。つまり今は失踪していない人たちの言葉を聞くことができる。「自殺中に電話をしてきた友人」という表現なども興味深い。失踪が生と死の中間にあるとシンプルにいうこともできるかもしれない。失踪に至るまで、あるいは失踪中、失踪後という物語を作るとき、そこには親、配偶者、家族、友人、周囲、世間といった他者との関係が自然に立ち現れてくる。

この数ヶ月、コロナが可視化した「他者」や「関係」に対する人の態度は以前からその人に潜在していたあり方だろう。この本は今読むとなおさら逃れようのない他者を感じる。その他者とともに、あるいは別々に(逃れようがないとしても)、どう生きていくのか、そのプロセスに失踪、あるいはそれに近い出来事が生じるとしたら、そのあり方とはいかなるものか、これらの問いに対する社会学者の語りは他者との間にこころを見出そうとする私のような臨床家の語りとは重なるが異なる。だからこそ読んでよかった。臨床家がともすると陥りがちな二者関係の押し付けについて考えるための補助線をもらったと思う。