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読書

絵本のこととか。

空がきれい。月がまだ高いところで光っている。今朝はあまりお腹がすかないな、と思ったばかりなのにこうして何かを始めるとすぐにお腹がすいた、となる。食欲で満たされるのはおなかだけじゃないけど持続時間が短いからなあ。おなかを満たしてくれるのは食欲だけだから必要ではあるけどこんなに食べるのが好きだと困るなあ。

そうそう、今ともだちの編みメーション作家のやたみほさんがいがきけいこさんと「アメチャウ国の王さまと恐竜」という2人展をやっている。行かねば。場所は神保町のこどもの本専門店ブックハウスカフェ。展示自体は小さいと思うけどかわいい実物を見られるだろうし(受注販売だそうです)靖国通り沿いにある大きな本屋さんで絵本もたくさんあるからカフェでゆっくりしながらお気に入りの一冊に浸るのもいいと思う。そういえば昨年は素敵な絵本とたくさん出会った。保育園で子どもたちにせがまれて読む絵本も「へー」と思うものもたくさんあったし、保育園では子供たちの読み方(読み聞かせているのは私だけど)が本当に面白いしかわいい。ただそれ以上に慌ただしいので絵本の名前をゆっくりチェックし直す時間もなくどんどん記憶から抜けていってしまう。カフェとか図書館とかで出会った絵本の名前も覚えていないから忙しさのせいでもないけど。「谷川俊太郎 絵本★百貨店」ではじめましてだったり再会したりした絵本たちも素晴らしかったな。展示も工夫が凝らされていて遊び尽くした。詩の世界はこんなに楽しいということを改めて教えてもらった。旅先で読んだ絵本はその土地のもの。松谷みよ子監修だった。松谷みよ子は海軍の施設で働いていたんだよね。戦争中に童話を書き始めた。私はどの作品もとても好き。保育園にも松谷みよ子の作品は大抵置いてある。私はやっぱり小さな頃に衝撃を受けた『モモちゃんとアカネちゃん』が一番かな。松谷みよ子は数年前に亡くなってしまったけど、私が同じく小さな頃から読み耽っていた谷川俊太郎はまだ生きている。私もこんな年齢なのにもっとずっと生きて詩を書き続けている。すごい。かなり上の世代の人とも谷川俊太郎の話で盛り上がったりできるくらいshared realityになっている。生きた移行対象。すごいことだ。

さてさて今日も色々。がんばりましょう。本当におなかの疲れが出てくる頃みたい。七草粥も優れもの。どうぞよい一日を。

追記:松谷みよ子さんのことを調べたら戦争体験を語ったNHKのアーカイブがあった。「狂い出さないためにいるためには〜」

「明日生きている保証のない時代」

昭和20年2月3日の出来事と新聞記事。松谷みよ子さんの証言。徳川夢声の日記。

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読書 音楽

秋、80年代、ラジオ

涼しい。半袖だと少し寒い。今日は長袖で出かけられる。嬉しい。別にいつでも長袖着たければ着ればいいじゃん、という話ではないのである。どんな格好してても暑いぜ(でも電車は寒いぜ)、という日々がようやく終わってのびのびと秋の服を着られるのが嬉しいのだ。今年は本当に「秋なのに」という残念な気持ちが続いた長い長い夏だった。これ当然「春なのに〜♪」のメロディにのせて書いているわけだけどこの曲は春に期待しすぎだ。「春なのに」ではなく「春だから」だよ、と突っ込む人もいたと思う。現実、春は別れの季節なのだ。そう考えると「秋なのに」は暦に引っ張られすぎかもしれない。お天道様がそうならそうなんだよ、と素直に長い残暑を受け入れることも大切かもしれない。でも暦はもともとお天道様の事情に合わせて生活してきた人たちが作ったものなのだからそれが合わなくなってくるというのは環境問題、マジでやばいですよ、という話でもあるのである。本当に。ちなみに「春なのに」は1983年1月11日に発売された柏原芳恵の12枚目のシングル(by wikipedia)である。当時はみんな「こんにちは、柏原芳恵です」と真似していた。私はひたすら「ハロー・グッバイ」の冒頭を歌っていた。「紅茶のおいしい喫茶店♪」と。でも「こんなかわいいカップになりたい」とは思わない、と話したら「えー、そう?」と言われた。なりたい人もいるのか・・。「美女と野獣」のチップを思い浮かべた結果らしいが、あれ魔法かけられちゃてるわけだし。ちなみに(二度目)宮本浩次が歌う「春なのに」もいい。宮本浩次は何を歌ってもいい。

身体の強張りが強い日はこうしてタイプするのも苦痛だが一度座った場所から動くのももっと苦痛、ということでどうでもいいことをばーっと書いてしまった。いや、どうでもよくない。1980年代の歌と共に育ってきたのだから。どの曲も歌詞はツッコミどころ満載だがとても切なくもなる。

この前、 HelloTaroさんのニセコのコミュニテイラジオの番組RadioAmbient 026 : The Bookends Vol.01にお邪魔して主に私たち世代の曲に谷川俊太郎の詩を載せて遊ばせてもらった。ストリーミングありなのでよろしければ。ただおしゃべりをしているだけなのだが1970年代生まれの方には響く曲もあるかもしれない。

今流れているのは小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」♫

良い日曜日を。

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短詩 読書

短歌とか孤独とか。

台所の小さな窓を少し滑らせる。開けた隙間から風が入ってくるか手を寄せてみる。スーッと気持ちの良い風が入ってくることを期待しては裏切られるというまでがデフォルトなので今日も本当はそんなに残念じゃなかった。東京も少し雨が降っているかと思ったら降っていないみたい。わからないけど。昨日も降っていないと思って家を出たら腕にポツリと大きな雨粒が当たった。京都、大阪ほどは降っていないのはたしか。どうか皆さんご無事でと思う。

すでに起きてからしばらくたつ。少し眠いのだから寝ていればいいのだけどあっという間に30分以上経ってしまった。そしてこうして机に向かう。そのまま公にするには憚れることばかり考えていた気もするが冷蔵庫のゴールデンキウイをいつ食べようか、ゴールデンカムイと似てるなとかも思ったりしていた。

少し前に俵万智の『サラダ記念日』が話題になっていた。きちんと読んでいない私でもその名前はよく知っている。なんで話題になっていたんだっけと思って調べたら節目の年だったのか。『サラダ記念日』から35年。私はまだ小6か中1か。もう少し大きくなっていたらハマったかもしれないな。当時は詩集ばかり読んでいた。そして谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』から70年。『言葉の還る場所で―谷川俊太郎・俵万智対談集―』というのが出ているのか。谷川俊太郎は小さいときからちょこちょこ読み続けてきている。大岡信との対談本もよかった。これも良さそう。

そうだ、これを書く前、森英恵が亡くなったというニュースをみてこの前インタビューを読んだばかりだったなと思った。96歳。違う。あれは桂由美だ。90歳。軍国少女だったという。その時代を生きた人というかどんな時代を生きた人かということはどの人に対しても持つべき視点。

俵万智と谷川俊太郎、生きてきた時代が異なる二人だが詩人も歌人も時空の飛び越え方がすごくて私たちにいろんな時代のいろいろを感じさせてくれる。二十億光年の孤独なんてどんだけと思うが、孤独とくればなんとなく納得もいく。誰もが知っている孤独。動物も知っているのでしょう?分離の契機を持つ存在はみんな。

私は俵万智の良い読者ではないが初恋について考えているときに出会った本をたいそう気にいっている。ツルゲーネフの『初恋』にはまっていたことも思い出した。

あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫)。野田秀樹の帯のインパクトもあった。解説も面白い。何首あるんだろう、番号振ってないんだ、と最初の一覧をみていたが百首って題名にある。うーん。もうどれもこれも恥ずかしくなるくらいあからさまだったりある意味分かりやすかったりしてたやすくときめいてしまうわりにすぐおなかいっぱいになったりもする。俵万智の解説を読むと落ち着く。消化を助けてもらえる。ひとりひとりの歌人が生きた時代や状況に思いを馳せ、自分の体験とも重ね合わせながら読み解かれるそれぞれの歌は私からは近いものも遠いものもあるがわからないものはない。孤独、不安、嫉妬、恋はめんどくさい気持ちをたくさん連れてくる。そして歌にするとこんなにストレートになってしまうのも恋なんだろう。逆に言葉を失うことだって多い。なんだか馬鹿になってしまうのが恋だ。

秋深き網走の旅つづけゐむ夫の孤独を妬めり我は 宮英子

俵万智同様、私も網走を訪ね、かつての刑務所などを見学したことがある。網走刑務所は開拓の歴史にも重要な位置を占める。全国を旅してきたが網走はおすすめしたい土地のかなり上位だ。ここにも孤独がある。この歌の「夫」は歌人の宮柊二、歌人夫婦だ。この孤独は妬みの対象となる孤独であり、妬みとともに体験される孤独とは異なる。ひとりでいること、それがいかに難しいことか、それはたとえ秋の網走を旅したところで同じかもしれないがそれでもそうできていること自体がいろんな妬ましさを連れてくる。

暦の上では秋。網走は涼しいだろうか。過酷な冬に向かうそれはそんなに気持ちよくはないものだろうか。どこで生きるのも生きるって大変だ。いろんな気持ちに彩られてそれらが混じって真っ黒な気持ちになったりもするけれど今日もなんとかはじめよう。

さあ6時。準備準備。