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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

語り、消費など

疲労困憊、おなか痛いとか思いながら美味しいりんごを食べたり美味しいかりんと万頭を食べたりいただきものに美味しい美味しい言っている。深刻で呑気。死にたいけど生きてる。みんなそうでしょ、とは言わないけど両立する状態って色々ある。

たとえば、するならそれ相応のリスクを負う、絶対に隠し通さなくてはいけない、そう思っていたのは自分だけで相手は都合のいいところだけ切り取って絶対的に味方でいてくれる相手(いろんな心地よさの維持によって可能となっている関係)に伝えてたと知ってビックリすることがある。マジかよ、と頭を掻きむしる事態に現実的な対応を考えつつ、ああ、またいつものガキくさい感じで(言葉遣い)最新の知見で防衛しながら不満と怒りを出して「えーひどーい」とか言ってもらってるのだろう、ごはんとか食べながら、と呆れ果てる、みたいな。恐ろしく深刻なことを「ビックリ」とか「マジかよ」と表現できるとしたら絶対にこんなことあってはならないと思いつつもアイツならやるだろうと思っていたかもしれない。だったらどうしてそんな相手と~、とひたすら「あれはなんだったんだろう」的な問いの中に居続けるか、戦いの文脈に変えて白黒つけるか、現実的な対処も色々あると思う。なんにしても「好きでやってる」「気持ちいいからやってる」と言われる事態でもある。被害者に対してさえそう言う人はいるのだから。実際脳科学の知見はそんなようなことになってるんじゃなかったっけとかね。でもね、という場合に精神分析の理論は役に立つけど複雑だから書かない。書けない。そうでなくても脳科学的にそうであったとしても身体の状態とか生活状況的に持ちうる時間とか色々違うので個人の話に今それ持ち出すのやめてもらえないかな、と思ったりはする。

女性が女性の話を聞く話、それについて書かれた本については何度か書いた。彼らが自分のことを自嘲気味に描きつつそれを乗り越える書き方をしているときいろいろ感じることがある。決して笑えない苦しい話を笑ってしまうこと、笑いながら話すことは日常的に皆やることだと思うがそれを「消費」する男性のことを思い浮かべてまたうんざりする。『キングコング・セオリー』(柏書房)とかに対してもそうだったよね、とか。ただ私の仕事は言葉にできない人たちがとりあえず語りの場を求めてきたところにあるから「共感」との関連でいずれ。高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)とかカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』(みすず書房)とかも参照してあれこれ書いたメモが発掘できれば。

ところで、最新号の『POSSE vol.52(特集:奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代)』は充実してそう。最近『仁義なき戦い』、潜伏キリシタン、貧困と自殺とかのことを話したりするなかで小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)を読み返しているせいもあるか。途中までしか読んでいなかったかも。これいつ出たんだろう。あ、昨年か。教育の問題と金融の問題は異なるだろうけど。人間相手という場合も色々だねえ。AIのことも含めて考えざるをえないけど昨日も書いた「性的モノ化」について考えておくと応用が効く気がする。

ああ、あと開業場面はそのお金を払える人たちが来る場所だからっていうのはまあそうなんだけど、そうでない人も来ることがあるとかそれもそうなんだけどそういう話ではなくて、ものすごい貧困を生きてきた人や貧困との関連で病気になったり様々な症状を抱え社会的にもとても難しいことになって通ってくる方もおられるわけで。お金と心の関係とかその資源の利用とかってものすごく複雑だから表面的には語れない。なんだってそのはずだけど。いろんな方々のことを思い出しますね。

オンラインの仕事が始まる時間。はあ。心身というより身体が辛いなあ。頭はこんなこと書ける程度には機能できるか。相互作用の力を信じてるからきっと大丈夫。痛い辛いしんどい色々言いながらなんとかしましょう。

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精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

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精神分析、本

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』を読んでいた。

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(藤本一勇訳、法政大学出版局)を読み始めた、というかほぼ読んだ。文庫より少し大きいB6型判、講演のための発表原稿だがその内容ゆえに当日はこの4分の1しか読むことができなかっただそうだ。著者はインターネット上にすでにいい加減な形で拡散されている講演の断片ではなく、全体を分かち合うために本書を書いたという。それでもとてもコンパクトな本だ。9月に同じ訳者、同じ出版社から出た『カウンターセックス宣言』と併せて読むのもよいかもしれない。

まず、扉の謝辞に目が留まった。感謝を捧げられているのはヴィルジニー・デパント。『キングコング・セオリー』(柏書房)が話題になった著者だ。プレシアドとの関係は訳注に書いてある。

この本は「フランスの<フロイトの大義>学派を前にした、一人のトランス男性のノンバイナリーな身体による講演」の記録であり、ジュディス・バトラーに捧げられた一冊でもある。

2019年<フロイトの大義>学派、つまりラカン派が開催した「精神分析における女性たち」をテーマにした国際大会で行われたこの講演、聴衆は3500人、ラカン派に属する臨床医や大学人が対象だったようだ。日本の精神分析学会のような感じか。

著者は哲学者でありトランス・クィアの活動家だという。

「精神分析がそれを用いて仕事をしている性差の体制は、自然でもなければ象徴的な秩序でもなく、身体に関する一つの政治的認識論であり、そうしたものとして歴史的なものであり、変化するものだということです」(53頁)

「訳者あとがき」で書かれているように著者が「フロイトやラカンの精神分析理論をかなり単純化しているきらいは否めない」が、精神分析における「性差のパラダイムと家父長制的ー植民地主義的な体制とが振るう認識論的な暴力」(95頁)はこれまでもこれからもずっと批判の対象になるべきテーマであり、以前も書いたようにそこに最初に鋭く切り込んだのは「女性」分析家たちだった。とはいえ精神分析の訓練を受け、実践をし、その内部にいる私たちがこの講演の実際の聴衆のように居心地の悪さを感じた、感じない、その内容に賛成、反対とか、あるいは自分は女だから、男だからとかいう水準で反応したらそれこそ変わる気のない精神分析ということになるだろう。私たちが著者の戦略的かつ勇気ある提案に応答するためには患者との臨床体験をもとに慎重に言葉を使用していく必要がある。精神分析は個別の欲望のあり方に注意を向ける独特の学問であり実践である。「〜すべき」が外側からではなく自分の尊厳と関連づけたところで語られ実践されるように支援していく、その姿勢は分析家個人にも向けられるべきであり、たやすく手離せないものや言葉があるのならそれは何か、何故か、と考え続けることが大切なのだろう。

今は何かが普遍的になる時代ではない。どうなるかわからない、そういう時代だ。いや今がというわけではないか。ナチスの侵攻による大量の精神分析家の亡命によって協力せざるをえなくなった主にアメリカ、イギリスの精神分析家たち、それによって大論争もまきおこり、精神分析における政治的な状況も変化した。フロイトだってまさか姉たちをガス室で殺され、自分がロンドンで死ぬとは思っていなかっただろう。

予言の書という言葉を聞くが内容は知らない。まさかこんなことになるとは。夢にも思っていなかった。これからもそんなことの連続だということだけは予言できるかもしれない。一貫した思考など、一貫したあり方など、と私は思う。変化を厭わないがそれに伴う揺れやぶれに持ち堪えるのは苦しい。でもだから一緒にいる。自分を思うことが相手を思うことと離れすぎてしまいませんように。今日もそんなことを願いつつ。