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精神分析、本

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』を読んでいた。

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(藤本一勇訳、法政大学出版局)を読み始めた、というかほぼ読んだ。文庫より少し大きいB6型判、講演のための発表原稿だがその内容ゆえに当日はこの4分の1しか読むことができなかっただそうだ。著者はインターネット上にすでにいい加減な形で拡散されている講演の断片ではなく、全体を分かち合うために本書を書いたという。それでもとてもコンパクトな本だ。9月に同じ訳者、同じ出版社から出た『カウンターセックス宣言』と併せて読むのもよいかもしれない。

まず、扉の謝辞に目が留まった。感謝を捧げられているのはヴィルジニー・デパント。『キングコング・セオリー』(柏書房)が話題になった著者だ。プレシアドとの関係は訳注に書いてある。

この本は「フランスの<フロイトの大義>学派を前にした、一人のトランス男性のノンバイナリーな身体による講演」の記録であり、ジュディス・バトラーに捧げられた一冊でもある。

2019年<フロイトの大義>学派、つまりラカン派が開催した「精神分析における女性たち」をテーマにした国際大会で行われたこの講演、聴衆は3500人、ラカン派に属する臨床医や大学人が対象だったようだ。日本の精神分析学会のような感じか。

著者は哲学者でありトランス・クィアの活動家だという。

「精神分析がそれを用いて仕事をしている性差の体制は、自然でもなければ象徴的な秩序でもなく、身体に関する一つの政治的認識論であり、そうしたものとして歴史的なものであり、変化するものだということです」(53頁)

「訳者あとがき」で書かれているように著者が「フロイトやラカンの精神分析理論をかなり単純化しているきらいは否めない」が、精神分析における「性差のパラダイムと家父長制的ー植民地主義的な体制とが振るう認識論的な暴力」(95頁)はこれまでもこれからもずっと批判の対象になるべきテーマであり、以前も書いたようにそこに最初に鋭く切り込んだのは「女性」分析家たちだった。とはいえ精神分析の訓練を受け、実践をし、その内部にいる私たちがこの講演の実際の聴衆のように居心地の悪さを感じた、感じない、その内容に賛成、反対とか、あるいは自分は女だから、男だからとかいう水準で反応したらそれこそ変わる気のない精神分析ということになるだろう。私たちが著者の戦略的かつ勇気ある提案に応答するためには患者との臨床体験をもとに慎重に言葉を使用していく必要がある。精神分析は個別の欲望のあり方に注意を向ける独特の学問であり実践である。「〜すべき」が外側からではなく自分の尊厳と関連づけたところで語られ実践されるように支援していく、その姿勢は分析家個人にも向けられるべきであり、たやすく手離せないものや言葉があるのならそれは何か、何故か、と考え続けることが大切なのだろう。

今は何かが普遍的になる時代ではない。どうなるかわからない、そういう時代だ。いや今がというわけではないか。ナチスの侵攻による大量の精神分析家の亡命によって協力せざるをえなくなった主にアメリカ、イギリスの精神分析家たち、それによって大論争もまきおこり、精神分析における政治的な状況も変化した。フロイトだってまさか姉たちをガス室で殺され、自分がロンドンで死ぬとは思っていなかっただろう。

予言の書という言葉を聞くが内容は知らない。まさかこんなことになるとは。夢にも思っていなかった。これからもそんなことの連続だということだけは予言できるかもしれない。一貫した思考など、一貫したあり方など、と私は思う。変化を厭わないがそれに伴う揺れやぶれに持ち堪えるのは苦しい。でもだから一緒にいる。自分を思うことが相手を思うことと離れすぎてしまいませんように。今日もそんなことを願いつつ。