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言葉

空がきれいなピンクと水色。南側の大きな窓を開けたら涼しい風が流れこんできた。気持ちいい。鳥たちはまだそんなに鳴いていない。昨日も少し欠けて猫の目みたいになってきた満月が輝いていてきれいだった。それにしても見るたびに位置が全然違うように見えるのは絶対私の勘違いなのだろうけど変化が早く感じる。そういえばボラスの本にconstellationが出てきてここは「星座」って訳したいな、と思ったところがあった。

Being a Character:Psychoanalysis and self Experienceのintroduction

we do this many times each day, sort of thinking ourself out, by evoking constellations of inner experience.のとことか。

言葉は大切にしたい。

時折、SNSを開くとびっくりするような言葉遣いに出会うことがある。日常生活で知らない相手から言われたら暴力でしかないような言葉はSNSでも同じように暴力だと思うし、身内から言われたって暴力だと思うのだけど、つまり暴力的な言葉はどこで言ったとしても暴力的だと思うのだけど、向こうが「そんなつもりはなかった」といえばそう感じたほうに問題があるみたいになるのかもしれない。明らかにサイズも力も優っている相手が近距離で大きな声を出しているだけでも十分圧を感じるけど、そういう場合、優位なほうが調整をするものだろう。子供に対する大人がそうであるべきように。大人の場合、どうしようもない場合はこちらからきちんと離れることが調整となる場合も多いけど、それさえ叶わない場合もある。相手が個人であろうとなんでであろうと直感的に気に入らない、信頼できない、と感じたものに対して距離を取るのではなく、ある程度一般的な意見をもとに「ふーん、自分はそうは思わないけどね」で済ますでもなく、自分が納得できるような説明を求める、それがないと攻撃する、みたいな態度がとても多い場なのはなぜか。とても怖い。電車で知らない人に近距離で覗き込まれて何か言われたときと同じくらい怖い。合わなかったから、信頼できなかったら関わらない、という選択を行使してほしい。させてほしい。攻撃はそこに終始する限り何も生まない。とにかくよく知らない相手のあり方を印象で否定するものではない、というのは基本ではないのか。

今日はとても慌ただしい一日になる予定だけどお天気も気持ちいいし、私も気持ちだけゆったり過ごせるようにしよ。良い一日になりますように。

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実、ボラス、ワーズワース

日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。

何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。

ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。

>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。

後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。

>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。

このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。

今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。

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俳句 精神分析 精神分析、本

秋、俳句、書き物

秋の朝だ。光が柔らかい。春のウキウキとは違う静かな喜びを感じる。嬉しい。

昨晩、久しぶりに中国茶の器を使った。白湯を飲んだなのにとても美味しく感じた。白くて小さな器。昨日は涼しかったからペットボトルでグビグビ水分補給をする必要もなかった。かわいい茶器を自然に手に取り冷めたお湯を注ぎ腰を下ろして一息。身体が季節に合わせた道具を勝手に手に取ったぞ、とそれも嬉しかった。

秋の訪れとともにさらに嬉しいニュースがあった。初対面でファンになった句友が念願の大きな賞をとった。俳句に対する情熱を知っているからとても嬉しかった。彼女ならこれらの瞬間もきっと素敵な俳句にする。私は俳句は全然だめだけどこういう瞬間を素敵だなと発見できる自分でいられただけで満足、とか言っていたら怒られそう。いや、私の師匠は怒らない。全然ダメでも俳句にすることを勧めるだろう。賞をとった彼女の俳句は誰でも知っているのに知らなかった日常を読む。絶対彼女みたいな俳句は作れないのに俳句、私にも作れそう、楽しそう、と思わせてくれるこれからの俳句界に必要な人。すでにいくつかの賞を取っているが、これからますます多くの人に知られていく。俳句界はいいな。楽しくなっていきそう。

私もがんばらなくちゃ、とひとつ書き物の目標を作った。できるのか。でもエントリーしちゃったから書く。子どもの遊びについても年内に書かなくては。年内なら大丈夫かな、と思ったけどこの過ごし方では無理な気がする。そろそろ暑さのせいにもできないから気持ちよさを感じつつしっかりしましょう。はい。

アメリカの精神分析家のクリストファー・ボラスのことを書いていたが、今引用するには理解が足りないのでウィニコットとアンドレ・グリーンに戻った。これはボラスを理解するのにも役立つのは間違いないとはいえ、精神分析の主要概念から振り返るような議論が多いから難しいは難しい。主体とは、とか。イギリスとフランスの違いが濃く出る言葉。フランス語よりは英語のほうができるのでとりあえず英国精神分析の伝統に乗るけど。ラカン派の勉強もまだまだ足りないし。まあ、足りずとも使える程度までは足らせましょ。

空がきれいで本当にうれししい。何度も言ってしまう。昨晩の月もとってもきれいだった。良い一日になりますように。

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Netflix 精神分析 精神分析、本

鬼滅とかボラスとか。

南側の大きな窓を全開にしても風が入ってこない。気温がまだそんなに高くないからいいけど。昨晩は半月がもっと膨らんできれいだったのにベランダからは見えなかった。なぜ半月基準か、といえばその日に月と星の話をしたから。8月の月の暦は1日:上弦 9日:満月 16日:下弦 23日:新月 31日:上弦だった。キッチンの窓からはすごく気持ちのいい風。ありがたい。

深夜、早朝と『鬼滅の刃』を見続け、ようやく追いついた。でも今のところ無限列車編までが一番よかったかな。ここまで見たら『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』も見ないとか、と調べたらまだ混んでるのね。すごい人気だ。“英語字幕版上映”もそろそろ始まるとのこと。

勉強がなかなか進まないから読み慣れてきたオグデンばかり読んでいたけどナルシシズムに関する文献はちょこちょこ読んでいる。ウィニコットとアンドレ・グリーン関連でクリストファー・ボラスもチェックしてるが読みにくい。邦訳はすでに何冊か出ているのだけど私が確認したかったThe Mystery Of Thingsの邦訳『精神分析という経験 事物のミステリー』Dead mother,dead childとWording and telling sexualityが割愛されている。ガーン。

Three Characters: Narcissist, Borderline, Manic Depressive: by Christopher Bollas, Bicester, Oxon, Phoenix Publishing House, 2021もチェックした。

iphoneのメモが煩雑でボラスが書いていること以上に自分の言いたいことがわからないが、キャラクターは「性格」で訳していいのか、とかなんでボーダーラインと躁鬱と「ナルシスト」なの(ナルシシズムじゃなくて)、とか、これって「性格」の類型なの、とかナルシストのところで神話から入るのは大賛成なんだけどエコーの解釈ってこうなの、とか思っていたらしい。


ボラスの思考を詳細に追いたいならStreams of Consciousness: Notebooks 1974–1990とStreams of Consciousness: Notebooks 1991–2024が出たけど、ビオンの自伝と理論を合わせて読むようには読めない気がする。精神分析の文献でさえ追いにくいのだから楽しめなさそう。ビオンの自伝なんて辛くてそういう意味では楽しくはないけど読書体験としてはとても豊かだったが。私に文学的要素が乏しいからボラスを読めないのかなあ。関心領域はものすごく被っていると思うのだけどな。

台風はどうなったか。被害が出ませんように。