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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析、本

プリズム、やり直し

鳥が鳴いてる。カーテン開けられない。飛んでいっちゃうから。でもカーテン開けないと見えない。生活はジレンマだらけだな、とか急に大きそうなことをいってみる。鳥の世界の方がずっと広くて大きいけど。

すぐそばでスズメの大きな声がした。一羽じゃ出せない大きさ。『スイミー』(好学社)を思い出した。そっちの方を見上げる。いた!小さな木にいっぱい止まってる。一緒にいた人は最初気づかなかった。まさかこんないっぱい木と同じような色したのが止まってるって思わなかったみたい。毎日そこがねぐらなの?こんなに風が強いのに一晩中そこでそうやって丸まって寝るの?大好きなスズメのことも全然知らない。

まさかこんないっぱいいるとは、そうなんだよね。こっちは大体いつも同じ目線でしかものをみてないから向こうにとっては当たり前のこともすごく新鮮でびっくりちゃうことがあるんだよね、という話もした。よくよくみるように知るようになってから全然見え方が変わったものや人について話し、話しているうちにそのものや人のことをもっと共有したくなったといって色々教えてくれた。私は私でまた別の印象を持つわけでそうするともっとそれらについての見え方って変わる。プリズム♪YUKIの曲、よく歌ってたな。

♪いじわるな人がとやかく言うけれど 私は、どこかでまちがえたかしら?♪

今日はまちがえないぞ。この前すっぽかした予定を移してもらったの。すっぽかしたのだから移してもらったとは言わないか。すっぽかすつもりはなかったのだけど。すっぽかすつもりですっぽかす人だっているでしょ。日曜日に何も予定がない日はないはずなのにその日は「何もない!」と勘違いしてプチトリップに行ってしまった。そしたらLINEが。がーん。アイフォンに入ってない。入れたはずなんだけどなんかアイフォんのカレンダーに同じ予定が二重で出ることがあってその一個を消すと両方消えちゃうみたいなの。どうして?同期の問題?動機の問題?いやいや。だっていつもすごく楽しみにしてる予定だもん。そこでやり直しの機会をいただいたわけです。ごめんね、みんな。お詫びのお土産あり〼。お詫びのお土産って言うのも変か。でも本当ごめんよ、ありがとう。

昨日も海外でトレーニングしている友人からのメールでさ、とまた私側の忘却による不義理があったわけですが何度でもやり直せる関係の相手だからきっと大丈夫。ごめんなさい。

やり直せない関係は自分か相手が死ぬ場合以外、本来あるのかしらね。コミュニケーションを断たれることはやっていきたくないというコミュニケーションだからやり直す以前。基盤が壊されてしまうわけだから。やり直しには共有された何かが必要だものね。精神分析の防衛機制の分類は本当に有用。そういう分類でも使って仮の理解しなくちゃ耐え難い心ない反応にもたくさん出会うものね。こころが壊れないように、殺されないようにできることを実際に死にそうな人たちと一緒にいて自分たちが共有できそうなのは言葉だから言葉中心にできることを探って作り上げてきた治療文化を外側からわかったように語る人もいるけどそれはそれでコミュニケーションする気がないというか知的に素早くコミュニケーションできる人としかコミュニケーションしたくないとか色々あるのかしらね。私はコミュニケーションは時間をかけて続けていくものとしか思っていないので「正しさ」について何かいいながら何かの方法を「これぞ正しき方法」みたいに教えている人とやっていくのはいまのところ難しそう。どんな丁寧な物言いでどんなに信頼されていても陰で人を切り捨ててるような人がそういう教えによってお金をもらっていたりもするわけで、でも現実ってそういうことに溢れてる。教員のセクハラとかもそうだろうし。私たちの仕事だってある人にはこうである人には全く別物だろうし。だから実践を通じて訓練するわけだけど。ほかの人にいっても「まさかあの人が」と一面的な見方しかしてもらえず偏った聞き方しかしてもらえないようなコミュニケーションは死にたくなるほど苦しいしそうやって傷ついた人たちと関わるような仕事だから今日もいいとか悪いとか正しいとか間違ってるの前に何度でもやり直せるための条件について考えましょう。それを壊してくる圧力や暴力のことも同時に。

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コミュニケーション 精神分析、本

三木那由他さんの本のこととかを少し

昨日、三木那由他『グライス 理性の哲学』(勁草書房)を開いていたはずが持ち歩いたのは小さくて軽い古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)で読んでいたのはもはや紙ではなくkindleの三木那由他『話し手の心理性と公共性』(勁草書房)。三木さんは文庫じゃないのは両方勁草書房なのね。書いてみてようやく意識することってあるね。

書くことに関する本も山ほどあるねえ。私も辛いときほど小説を書きたくなって小説を書くための本とか何冊か読んでるけど書き物に生かせるほど読んでも書いてもいないねえ。でも小説でなくても、こんな駄文ブログであっても、書くことで自分をどうにかこうにか保とうとしているところは多かれ少なかれある。ひどいことって色々あるから。個人の体験で外側に見えているのってほんの一部。いろんな話を何年聞いても、まだ本人が知らなかった本人のことがたくさん出てくるんだから。そのプロセスでまとまらなかった断片がなんとなく居場所を得たりもするから量的な問題ではないけれど。言葉はいつも必要だし、コミュニケーションに関する本、言葉に関する本も出続けるよね、そりゃ、という感じかしら。言葉にできない、ならない出来事って尽きないけど。悲しいことに。苦しいことに。物言わせぬ圧力をかける側が相談って大事だよねとばかりに周りに上手におはなしして同情共感されているのをみたりするとそれはそれで地獄だったりするし(私は「地獄」という言葉を使うたび九相図を思い浮かべています。あれについてはまた別の機会に。)コミュニケーション大事だよ、相談大事だよ、と言いつつそのあり方によってはそれ自体がまだ誰かの傷口を広げるわけだ。そういう困難や不均衡は生じるわけだけどそれこそ言葉を持ってしまった以上そういうのは仕方ないのでそれぞれがどうにかこうにかやっていくために今日もまた言葉に困り言葉に助けられながら。

三木那由他『話し手の意味の心理性と公共性』はグライスの意図基盤意味論(これは『グライス 理性の哲学』で詳細に書かれている)に対する批判から共同性基盤意味論を立ち上げることによってコミュニケーションにおける話し手の意味の公共性に注意を向けさせる本である(と思う)。そこでは共同的コミットメントによって誰かと出会い、共にあることが重視される。私はこの考えはウィニコットのshared reality、サリヴァンのconsensual validation と重ねて考えることができると思って読んだ。精読すべき本だと思うので近いうちにしよう。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

簡単ではない

明るい。バタバタ動いていると暑いくらい。暖房つけてるからだけど。冷たくて脅すような言葉にゾッとした。そのときの感覚が繰り返し襲ってきて眠れない。悪意やなにやらをこちらに押し付け身軽になった人の軽薄な喋りを今日も聞かねばならない。ミュートにしても何をしてもあの声が離れない。ああ、今日も生きたまま朝を迎えてしまった、と絶望しながら始まるような朝でもとりあえずはじまった。いろんな朝がある、きっと。おはようございます。

私はとりあえず朝から拙い英語を久しぶりに喋った。母国語でも通じないことが前提だと思っているけど通じない体験をもっとした方がいいように思った。通じると信じている人には「なんでわかんないの」という顔をされることもある。ため息だってつかれてしまうこともある。ついてしまう場合もあるけど。カルチャーショックとか「文化が違う」とか言う人もいる。ちなみに私はこの表現が苦手。あなたのカルチャーって?文化って?と思う。

簡単に判断しない。勝手に自分流に受け取らない。でもそうしかできない。だから傷つき傷つけあう。そんなつもりはなかった、と言いながら。大事なのはそうであっても自分の拙い言葉でもなんとか表現してみようとする意志とそのためのエネルギーかもしれない。ただ多くの場合、通じない事態が生じるときは何を言っても通じない事態、つまり相手がもう言葉を受け取ることを拒否している事態なので愛情と呼ばなくても相手を想う気持ちがない場合はもう無理かもしれない。「もうおまえにさく時間もエネルギーなどない」とかはっきり言ってくれた方がまだ楽だったりする場合もある。

謝るまでは許さないという態度を維持する人が謝ったらころっと態度を変えていうあの一言、その直後に平然と振る舞う軽口や笑顔、多くの女性が経験している気持ち悪さと絶望。こんなに長く苦しく情けない時期が続くなら最初から会いたくなかった、と思っても会ってしまった事実は消せない。悲しくて寂しくて虚しくて眠れなくて幸福と思えた瞬間がすべて「あれはなんだったんだろう」に変わってしまう。唖然とし思考停止が続く。相手あることをそう簡単に片付けることはできない。特に受け手の側は。こういうリスクを承知のうえで私たちは繰り返す。愚かかもしれない。それでもそういうものなのだろう。

だからこそと言わなくても専門的な仕事では当たり前のことだが精神分析みたいに頻繁に長い期間会い続けていく方法にはこの最初のアセスメントが本当に大事。お互いに。終わるときも終わりにすることについて話しあう期間を治療者側は提示する。それを受けるか受けないかは患者次第。とにかくどちらかがコミュニケーションを断つようなことにならないように注意する。様々な手法は現実の人間関係で起きていることを詳細に吟味し積み上げていくところから生まれてきた。簡単ではない。

インドの女性の精神分析家と話したことでいろいろ考えたのだけどそれはまた今度。

(upし忘れてた。今日はもう始まってる。みんなはどうかな。良いこともありますように!)

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

無駄ってなんだったんだろう

「あれはなんだったんだろう」の時間は「余裕」があるときにやってくる。睡眠時間はそのための「余裕」ではないはずだけれど追い詰められる時間が長ければそんな変な認識にもなってくる。


「無駄な時間をありがとう」といわれた。曖昧に笑った。心が曇った。心があるとしたらの話だけど。なんの余韻も言葉もなくひきはがされることには結局慣れなかった。言葉や仕草の乖離やわからなさを埋めるのに消耗した。そういえば「無駄」って國分功一郎さんや藤原麻里菜さんにいわれたならうれしかったかも。そういうつもりだったのかな。誰かの真似が多くてよくわからなかった。どうにかこうにか大好きな気持ちと折り合いをつけようとしているうちにもいろんなところが裂けていった。傷口がふさがる間もなく。何か答えれば馬鹿にしたように首を傾げられたりため息つかれたり不機嫌になられたりした。最初はからかわれてるのかと思って情けない気持ちで笑ったりしてたけどだんだん怖くなった。「あれのこと?」といったら「わかってるじゃん」とうんざりされた。え?普通に考えたらわからないからわかろうと思っただけなのだけど。同じスピードで処理できないよ、あなたが見下すとおり馬鹿なんだから。体調が悪いことも増えて病院へ行く時間も増えた。体調が悪い、今日は病院、と伝えてみたけど思った通りお決まりの愚痴が返ってくるだけだった。SNS との乖離がすごすぎてこっちを信じていたけどそっちがほんとだったみたいでびっくりした。ほんとあれはなんだったんだろう。唖然としつづけている。文字情報のない世界に生まれたかった。あれはなんだと問わなくてもいいように。


そう、言葉は怖い。相手がどんどんなかったことにできるのは言葉のせい。だから逆に言葉でそれを大切に保存していく。いずれ戦うならそのために。一方的に戦いの言葉にされた気持ちを取り戻すならそのために。

それではそんなこんなでも良い日曜日を。

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写真

写真から

徒然に写真を撮るのが好きだ。あまりこだわらず適当にシャッターを切る。スマホだからシャッターを切るとは言わないか。

コミュニケーションを自分からたった人が外では自分からコミュニケーションしましょうと誘っている。コミュニケーション様式という言葉がよくわからないがしたい人としたいというのは普通かもしれないし常に次に開かれておきたいということかもしれない。そういう価値を自分に見出せる人は強い。断たれたほうはすでに言葉を使う気力を奪われ思考停止にさせられ知らないものと繋がるのが怖くなっているので体験する世界にはもっとずれが生じる。私はそういう人とたくさん会ってきているのでそのメカニズムには馴染みがある。累積的な傷つきから逃れるためにはまずは距離を取ることが大切だが、今の時代、これが本当に難しい。体験からもよくわかる。

家をなくした女性をさらに殴り殺すような人もいる。コミュニケーションなどしたこともない相手を。力ある人はますます強く、言葉足らずな人はますます孤独になっていく。そういう現実に対して実際に何かをしてくれるわけではないのだね、力ある人たちは、口では他人のことを「じゃあ何ができるんだ」とかいうわりに、とかいったら即座に返ってくる言葉もまた達者に部分をあげつらい追い詰める戦いの言葉ばかりで修復へと向かうはずもない。「こちらから言わせれば」と思ったとしても痛みを知っている人はそれ以上巻き込まれてはいけない。自分を傷つけそうな人たちの気持ちなど、という彼らにはみえない、あるいはみたくない人たちの方へ向き直さねば。彼らはいう。「人生何が起きるかわからない。そういうものだ。」と。それだって笑えないが笑うしかない。「自分で作り上げた王国から何か言われても」などといってはいけない。「王様は裸だ」といっていいのは子供だけだけど彼らのこころにそういう子供は住み着いていない。いくつになっても自分の成長が大事ともいえる。それでもこれからも彼らは口ではいいことをいうだろう。そしてまた味方を増やしていくだろう。お金にもなるだろう。そういう乖離に傷つけられてきたわけだがそれはそれ。この溝は埋まらないしコミュニケーションをたたれたらそんな機会もない。うまくできている。こういうのを戦いの言葉でいうならなんていう?彼らは反射的に答えるだろう。私は答えない。これは戦いだったっけ。昨日も書いたけどそこに戻る。

最近の写真展は写真撮影が許可されている場所が多いのだが、それって「写り込み」「多重性」についての考察を促すよね、ということを考えていたのだが笹塚のバス停でひとりの女性が殺された事件の写真に影響された。悲しいことがいつもよりずっと少しですむ今日でありますように。

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唖然としたとしても

ギターがキュイーンっていってそんなパンチはないけど激しく歌うバンドの曲を流しっぱなしにしている。ずっとハードロックに浸っていた日々はいつからか遠くへいってしまった。こうやって聞く分にはどこかしら熱くなりそうな気もするが熱いのはコーヒーのせい。

耐え難く理不尽と感じるのは親密な関係においてだけ(社会の理不尽はデフォルト)というより仕事では「親密さ」そのものが学会のテーマになるくらいその定義は曖昧なのでここでは家族とか恋人とか相手の人生のことも考えながら継続的に築いていく関係くらいな感じで書く。あれ?こう書いてみると理不尽だと思ったけどそもそも親密な関係ではなかったということ?とか思ったり。自分の定義づけによってなにかに気づくのはそこに内的な対話がない場合独りよがり。そう思いたいからでしょう、となる。でも一応私は精神分析のおかげで常に対話状況にあると思うのでそう思いたい自分に気づくことくらいはできていると思う。え?そもそも親密な関係ではなかったってこと?となるとさらに深部を突き刺された感じになる。もうこれ以上えぐれる厚みも残っていないくらいなのにさらに。皮膚みたいな表層はまだその奥を想定できるから希望があるか、と一瞬思ったけど、表面でバチバチ跳ね返していたら結局コミュニケーションにはならないからそもそも心が揺れ動くような関係を持ちにくいかな。内側に入れたくないわけだから。それだったらさっきみたいに「あれ?」とか「え?」とかならないでしょう。そういうのってまさかコミュニケーションの成り立つような親密さが成立していなかったなんて、という唖然さだと思うから。絶望的な気持ちで消えてしまいたくなったとしてもいずれムクっと起きあがろう。私たちは生活しなくてはならない、ならないというわけではないけれどあなたが生きてきた歴史を大切にしてくれる人がたまたまその人ではなかっただけだからそんなたまたまのために何か捨ててしまうのはやめよう。向こうは何事もなかったかのように動けているのに自分だけこうして動けないまま過ぎていく時間が本当に辛くて悔しくてやりきれないと思うかもしれないけど時間はなんにしても有限なので起き上がれるまでのどん底にどうにか耐えたいね。ポカンとしたり号泣してはシーンとしたり、自分の状態をじっと観察したりしながら。

土居健郎のいう「甘え」って大事なんだなと改めて思う。欠損を外から補うことは不可能。どんなに本を読んでもどんなに講義を聞いてもそんなもので埋めれば埋めるほど自分の傷つきにも相手の傷つきにも鈍感で頑丈な自分ができるだけかもしれない。そんな風になってはいけないような気がする、私は。

今日はどんな自分でいられるでしょうね。コントロールはできないとしてもこれまでと大きく変わることもないはずなので無理せずなんとか過ごしましょう。

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精神分析

グッドイナフで

蝉がジージーずっと元気。早朝、洗濯物を干しながらなんか蝉って世界をのっぺりした感じにするよね、と思った。いつもの森で鳥はまだ眠っていたみたいだけど流石にこの時間になると元気いっぱい。さっきからずっと同じリズムでピッピピーってないてるけどなんだい?というか私も誰にも通じない言葉であなたに話聞いてもらいたいことがあるよ。

ウィニコット (1971)は「心理療法は遊びの領域、つまり患者と治療者の遊びの領域が重なり合うところで行われる」と述べ、オグデン (2006)は「分析家と被分析者が「共有された」(しかし個人的に体験された)無意識的構築物の「漂い」(Freud 1923)を感じ取るところの、もの想いの状態を育むための努力」が重要であるとした。これらは精神分析が相互性に基づいた間主体的な場の生成によって展開することを前提としている。

実際の治療はこの前提を作り出すところか始まるといってもよいだろう。サリヴァンがいう共人間的有効妥当性確認(consensual validation)にいたる過程がまず必要と言い換えてもいい。

治療のみならずお互いが前提を共有することのなんと難しいことよ。治療と普段のコミュニケーションは状況がだいぶ異なるけどプライベートでもコミュニケーションは常に悩みの種。見て見ぬふりをして、なんとなく何も感じていないふりをすることもしばしば。「私だったらこうする」「私だったら絶対しない」ということはあるけどそれは私の前提であって二人の前提ではないことの方が多い。お互い大切なものは違うし、大切にする仕方が違う、だからといって想いあっていないわけではない。ただその出し方は違う。ずればかりだ。そこに攻撃性を含む場合だってある。でもそれだって人間関係では当たり前のこと。通じない、通じさせたくない、隠しておきたい、お互いの自由を守りつつお互いを悲しませたり寂しくさせたりしないことは多分不可能なんだ。我慢して悲しんででも寂しくて泣いて怒ってぶつけてまた辛い状況になってそれでも乗り越えられたら乗り越えてあるいはいずれ回復するまで壊れていく。できたら壊れない方向へお互いが最大限の努力をできることを願うけどそれも相当不可能なこと。私たちは委ねる形ではなく歪んだ形で自分の欲望を実現しようとする動物だと思うんだ。

治療状況はこの不可能と思える努力をお互いがかなりの程度やり遂げられる設定になっている。時間と場所を守り金銭のやり取りをする。設定をかたくすることで関係に生じる曖昧さに有限性を持ちこみ仮の形を与える。出典をメモするのを忘れたが北山修は言葉の曖昧な使用に着目し、「何かをはっきりと言うことは常に選択であり、同時に別の何かを言わないことでもあるが、曖昧化obscurationは、日本語に必要な基本的レトリックであるとして、それを「置いておく」ことの重要性を述べた。日常生活では関係が近くなればなるほどこの「置いておく」ことができない現実がくっついてくるが、治療状況はそれがかなりの程度可能なほどにいろんな要素が持ち込まれない設定になっている。錯覚を可能にするにも条件が必要だ。空想の余地を与えること。それは隠されていることがあからさまになりやすい現実では難しい。

現実の難しさを考えれば考えるほど治療の枠組みがいかに重要であるかが見えてくる。欲望を飼いならす、ということが精神分析では言われるがそれも程度の問題だ。私からしたらグッドイナフな程度に、というしかない。悲しんだり寂しがったり怒ったり、そういう感情を相手が持っていることに気づいたり、そういう能力を持つことでさらに苦痛だったりするわけだけどそれらをなくしたら人間ではなくなってしまう。だからグッドイナフで。あえて見るなの禁止を破ることもなかろう。そこは悲劇の発生の場でもあるのだから。

今日もひどく暑くなるらしい。まずは無事に過ごそう。