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土居健郎『精神療法と精神分析』第1編のまとめ

なんとなく毎日読んできた土居健郎『精神療法と精神分析』ですが、といってもひとりでやっているわけですが、いつのまにか第1編(65ページ)を読み終わりました。せっかくなので、昨日からの続きの部分に触れつつ、これまでのところをまとめておくことにします。

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961)の「第3章治療の方針と目的」で「筋書きの種類」をいくつかあげます。a精神分析、bアドラー派、cユング派、dランク派、e ホルナイ派、f サリヴァン派、g ロージャス派(原文表記のまま)、h 実存分析と実存療法、i グループ療法、j 森田療法です。種々の治療学派を「筋書きの種類」という項目で分類するのも土居らしいところではないでしょうか。


土居はここまで精神分析と異なるものとして森田療法に特別な位置を与えてきましたが、それが最後にくることを不思議に思う人もいるかもしれません。土居が森田療法を別物とするのはここでも変わりありませんが、ほかの精神療法との間にも境界線をひいています。ここにあげられた森田療法以外の学派はすべて精神分析に影響をうけている、と土居は考えているからです。


土居は、森田療法も精神分析を意識し、それに対立するものとして生み出された、と考えれば、ここにあげられたのはすべて精神分析以降といえる、と述べます。それ以前の説得、暗示、催眠などが対症療法的であって、真に症状の背後にあるものを動かすことを目指していなかった、と土居はいい、精神分析及びそれに準ずる治療方法を力学的(dynamic)であると総称します。


土居は、それぞれ独自のパーソナリティ論を展開し、それに基づいて治療を行なうこれらの治療方針を力動的体系的精神療法とします。しかし、精神分析以前の治療がたとえ対症療法的であるからといって、それらは不必要になったわけではなく、力動的体系的精神療法の枠の中で適応を考えて行なうことは可能だし、実際に行われているといいます。土居が催眠術についての治療的応用を論じる文献としてあげるのが蔵内宏和・前田重治の「現代催眠学」(慶応通信、昭和35年)であるのも興味深いところです。


土居は、次に、精神分析を初めとして互いに相違する治療体系が存することをどう説明するかという問いをたてます。それぞれの治療が何がしかの成功を収めているという事実を鑑みれば、治療効果に関しては各治療体系に共通する因子があるだろうと土居は考えます。ここでは、それは、治療体系の如何よりも個々の治療者の能力とされます。それでも、ある一つの筋書きにしたがって精神療法という劇が実際に行われれば、患者はそれによってなにがしかの利益をうるだろう、と土居は言います。実践面はそうだとしても理論面はどうでしょうか。土居は、どのような治療体系でも治療効果は得られる、としても、その結果は決して一様ではないというところに着目します。


土居はここで、Glad,Donald D.のOperational Values in Psychotherapyを援用し、精神分析を受けた場合、サリヴァン派の治療をうけた場合、ランク派の治療を受けた場合とそれぞれの治療の目的を示す。そしてこの著者が言っているのは要するに、それぞれの治療体系の中に含まれている価値が治療の状況の中で患者によって学ばれるといいます。


土居は「筋書きの種類」に入る前に「精神療法の筋書きは、それぞれの学派によって異なるが、価値や思想よりも、むしろ精神構造もしくはパーソナリティについての理論の基盤の上に立っている」と書きましたが、上記では「価値が学ばれる」と書きます。
土居は、治療体系ならびに治療効果の多様性として、治療体系が異なるに応じて治療効果もいくらか異なる、という現象を説明するにはもの足りないようで、このような現象を説明する普遍的な精神療法の理論体系はやはりありうるのではないか。それはやはり精神分析の理論ではないか、といいます。


土居は、以下のように第3章を締めくくります。
「すなわち精神分析の出現は、それに対立する多くの治療学派の発達を促進する結果を生みだしたが、このことは特に初期の精神分析が不完全であったことを示すとともに、精神分析の中にその後の対立する学派が芽としてすでに潜在していたことをも暗示すると考えられるからである。けだし対立は無縁を意味せず、むしろこれらすべてがある意味で一貫した発展であり成長であることを暗示しているのである。」(p64)


土居は「したがって折衷的立場においてではなく、精神分析を主体とする統一的立場から」精神療法の過程を記述する、と第2編に向かいます。


この『精神療法と精神分析』は第1編「精神療法の構造」、第2編「精神療法の過程」、第3編「精神療法をめぐる諸問題」という三部構造です。第1編は、土居が精神科医として精神療法を劇にたとえ、その構造を「治療者患者の関係」「治療場面の設定(時間の条件と場所の条件)」「治療の方針と目的」の観点から検討するものでした。それは土居がなぜ精神分析の立場に立つのかという説明でもありました。


土居は、精神分析をいちばん正しいとは考えていません。ただ、不完全であるがゆえに、対立し分岐する学派を生み出したり、発展や成長の可能性を含んだ豊かな土壌として機能しうるのではないかと考えます。土居は、それぞれの学派に歴史的・力動的関係を見出しているので、それらを横並びにしたり、それらを折衷して使用するという発想にはならないのでしょう。土居は「筋書きの種類」において、ページ数はたいして割かないにも関わらず、かなり詳細に各学派を検討しています。森田療法の専門家であり知り合いが「土居は森田を一番読めた人ではないか」というのも腑に落ちます。だからこそ土居は、安易に複数の体系の寄せ集めをしないのでしょう。ここまでみてきたように、土居はなにか結論を導くときに差異をなくすという方向性をとりません。差異や対立が生じるなら、それはなぜ、という観点からひとつの立場にたどりつこうとするのです。これをヘーゲル的にとらえることもできますが、土居は精神分析の発展のプロセスに自分の態度を重ね合わせてもいるのでしょう。土居は、対立を保持したまま、その対立を生んだ歴史をさかのぼります。


土居は、医師と患者の関係の特殊さを語るにもそれを簡単に「非対称」とは言いませんでした。一精神科医として、権威をもつ立場であるという十分な自覚のもと、しかし患者と同じ舞台をみる観客として、同時に同じ舞台にたつ役者として、枠組みはあるが予測不能の、多様な筋書きを生きる関係が精神療法であると書いているように思います。このあとの第2編では、精神療法の過程が詳細に記述されます。楽しみです。楽しいですよ。

今日は水曜日。9月も2日目。さっそく憂鬱ですよね、たいてい。無理せずいきたいものです。今日もよろしくお願いいたします。

初台にできたカヌレ屋さんに行った!
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境界とか。

‟精神療法においては、言葉の真の意味において「私は誰なのか」「私は何をしてきたのか」「私は何を感じているのか」「私は何をすることを欲するのか」という問いに、自ら答えることを学ぶのである。”

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)「第3章治療の方針と目的」で述べた。

土居はここでも、精神療法の目的を「自己発見であり自己洞察であるといえるが、しかし単にそういってしまっただけでは、あまりに広範囲になってしまう恐れがあるだろう。もともと「己れを知れ」という命題は、すでにソクラテス以来の哲学の課題であるといわれているからである。」として簡単に名詞にはしない。

ここで比較の対象にするのは宗教・哲学その他である。土居はカトリック信者であり、そこでの自己発見・自己洞察と土居が精神分析によって得たそれとはおそらく異なるが、それはまた時代的にもあとのお話。今はまだ1961年。

土居は「ただここでいっておきたいことは、これらがたとい重複し平行するところがあるとしても、厳密にはそれぞれ区別されねばならぬということである。精神療法は哲学のように存在の意味を問らものではなく、宗教のように価値を教えるものではなく、またイデオロギー(思想体系)のようにすべてを説明しつくそうとするものでるない。」

という。

そしてまた「しかしこのことは、精神療法の中に存在の意味や価値や思想が全然入らないということではない。」という。土居のこの書き方にもみんななじんできたことだろう。

切断しては動かす。境界線は壁を作るためにひくのではない。

そして大事な一文が来る。「 むしろそれらは精神療法という劇の筋書きの中に暗黙のうちに含まれているのである。」

土居は「その劇的筋書きの枠組みの中で患者が自らの態度・感情・行動を理解するに至ること」が精神療法の目的であるという。土居は「この筋書きの中に含まれている思想なり価値なり断固として反対する者は、その精神療法によって利益を受けることはできない」というのだが、「しかしそれら思想や価値は表面には出ていないのであるし、またある思想や価値に断固として反対するという者は稀であるから、実際にある患者がある一つの精神療法によって何ら利益を受けないということは、少ないといってよいのである。」で述べる。

土居がせっかくあれやこれやと思考を巡らせながら自分の立場の表明に向かおうとしているのに、単純な言葉を使うのはどうかと思うが、実践に即していうならば、精神療法は「話しても意味がない」と本気で思っている人に対して役に立つことはできない、ということだろう。「話したくない」とか「なにを話していいかわからない」とかではなく、話すということ自体がなにかを動かすとは思わない、という強い信念があったりする場合は、である。

そういう人は最初からこないのでは?と思うかもしれないが、そんなことはない。それは、精神療法の筋書きの中の思想や価値が表面には出てこない、からではなく、私たちが言葉を使う以上、強い信念の表明もまた言葉によるものであり、その働きから自由ではないからである。私たちは「意味がない」とわざわざいいにいくこともする存在である。

舞台に上がる、土俵に上がる。まず、私たちは、そこには筋書きやルールがあることを前提とする必要がある。そこでの二人がこれから何をしようとしているのか、そこではなにが起こりうるのかわからないからこそ、土居は「治療場面の設定」に一章を割いた。精神分析的な心理療法の教科書のほどんどがそこをはじまりとするのではないだろうか。枠組みは大切である。

土居は、このあと自分自身の理論的立場を明らかにする。私たちはすでに知っているように、彼がとったのは精神分析の立場である。同時に、土居は、精神分析に対する懐疑もずっと持ち続けていた。宗教との深いつながりもあった。それらもまたずっとあとに語るべきことだろう。

8月も今日で終わり。またもやあっという間だったが、いろんな土地へいき、いろんな人の話をきくことができた。時折、ひきこもりたい気持ちにもなるし、時折ひきこもることは大切なことだと思うが、動けるところは動いておきましょう、ということで月曜日。今週もよろしくお願いいたします。

山梨側からの富士山
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劇としての精神療法

土居健郎が『精神療法と精神分析』のなかで、精神療法を一つの劇にたとえたことはすでに書いた。それは即興劇らしい。状況についての簡単な描写と相手役の台詞だけが与えられ、それに応じて即興的に演じることを繰返しているうちに、自分にあてがわれていた役割が何であったかを発見し、それとともにこの遊戯も終わる、と土居は書いているので、この劇はplayであり、ウィニコットのplayと近い。

土居は、精神療法の中で与えられる筋書きは劇のそれとはかなり異なるとして、それは物語ではなく「全くの骨組みにすぎない」という。しかもそれは治療者によって一方的に与えられるのではなく、むしろ患者自身が作るのだと。それに対して治療者がいう台詞が解釈である。このことを繰返しているうちに、患者は何のことか自分でも十分にその意味がわからなかった自分自身の物語を、治療者のさし示す筋書きにあてはめて考えることができるようになる。

昨日は土居の比較対象のみつけかたと深め方がすごいのだ、みたいなことを書いたが即興劇を例にしたのはそんなに成功していないと思う。土居はこの前の段落で、相手が筋書きを知らず、具体的にどのようなやりとりが展開されるか、完全にはわかっているわけではないので、治療者も患者も、通常の劇における観客のごとき興奮を精神療法の中でもいくらか味わう、と書いている。

そのあとに、観客の一人が選ばれて舞台に上らされて行なわれる即興劇のことを書く。土居はたぶん、まだ客席に残っている観客のこともみている。舞台に上らされた観客はここで複数化する。サリヴァンの関与しながらの観察を思い浮かべたりもするけど、土居の場合は観察する位置が舞台と客席にある気がする。

土居は、このあと、精神療法においては、即興劇のようにたまたま自分にあてがわれた何らかの役柄を探りあてるのが目的ではなく、言葉の真の意味において「私は誰なのか」「私は何をしてきたのか」「私は何を感じているのか」「私はなにをすることを欲するのか」という問いに、自ら答えることを学ぶのである。精神療法で患者が獲得するはずの洞察とは、このような答えをさしているのである、と述べる。

これらは夢見、夢思考、夢解釈として、今ならビオンを引用していわれるようなことにつながるが、土居の考えを詳細に追うと、そういう言葉を使わずにどのくらいのことがいえるのか、という問いは、そういう言葉を使わずにこれだけのことがいえるのか、という驚きになる。詳細はもっと時間がないと言葉にできないけど少しずつしていく。

一個書いておくけど、土居は、あっさり「自分にあてがわれた何らかの役柄を探りあてるのが目的ではない」と書くが、人生において、これを一生懸命時間を割いてきた人たちを舞台にあげるのが精神療法ということだよね、いってみれば。

今日は時間がないからここまで。

昨日は石川、富山、ネパールの映像をみてどんどん力がでないかんじになった。今月初めに乗ったばかりの七尾線も大好きな羽咋も加賀温泉駅も大変なことになっていた。本当にもう雨も地震も被害を起こさないものであってほしい。追い打ちの連続では身も心も持たないでしょう。もとにもどすための作業の手が早くたくさんはいりますように。

絡みついてる「目」っぽい植物。
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書評、土居の書き方

書評の仕事は謝礼がでるものだとしても(でないものもある)、書評のために使う時間や参考文献にかかる費用などを考えるとものすごい赤字である。それでも自分が読んで勉強したことをシェアすることには、それ以上の意義があると思っている。予算の問題でその本は買えない、という人にも少しでもその本のことを伝えたいし、精神分析に関していえば私は幸運なことに実践の場をもっている。なので精神分析実践の実感を伴う本であればそれを損なわずに捉えることはできると思う。だから、たいして得意なわけでもないのに依頼をいただいたらお引き受けするようにしている。

そもそも私は、どのような書評が読者を引き寄せたり、役に立ったりするのかよくわからない。身近な人に読んでもらったりはするが、彼らはだいたい臨床家であり、私が書いたものを読む前に私がいいたいことを大体つかめてしまったりする。

何年か前、『インターセクショナリティ』(パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ著、小原理乃訳、人文書院)で、インターセクショナリティはポリグロット(多言語的な存在)であるため、私たちは複数の言語や言葉遣いで話す必要性が出てきた。」というのを読んだ。生きる社会によって使う言葉は異なる。そこの言葉を使わないとわからないことがたくさんある。まずそこから。同時に今の持ち物でできることをやる。言葉はすぐには習得できない。

今のところ、私は狭い世界に向けた書評しか書いたことがない。もちろんその外側にいる人たちのことを意識はしているが、私が使用している言葉はものすごく狭い社会でしか通じないものだろう。

土居健郎は『精神療法と精神分析』の「第3章 治療の方針と目的」で精神療法を一つの劇と見立て「劇としての精神療法」「筋書きとしての治療方針と目的」と書いた。土居は第一章でキェルケゴールを引用し、精神療法を演劇にたとえる発想はすでにしていた。土居はここまで「普通の人間関係」「精神療法以外の一般の医学的治療」と「精神療法」の区別をしたり、精神療法のなかでも精神分析と森田療法の区別をしたりしてきた。この章で、土居は、通常の劇と精神療法の似ている点、異なる点を検討する。土居は、精神療法の場合は、筋書きを心得ているのは治療者だけである、と述べる。通常の劇でも脚本家の頭のなかには筋書きがあるが台本があがってこないとかはあるかもしれないが。

しかし、治療者が筋書きをあらかじめ持っているとしても、相手が筋書きを知らない以上、具体的にどのようなやりとりが両者の間に展開されるか、初めから完全にわかっているわけではない、と土居は続ける。だから、治療者も患者も通常の劇における観客のごとき興奮を味わうことができる、という。

土居はここでもありふれた比較対象を選んだのに、そこに見出す差異に読者としてちょっと驚くし、発見した差異を吟味してみると別の形で差異が類似点に変わってしまったりする。この運動が非常にうまい。これはたぶんフロイトよりうまい。土居の文章は読みやすいときと読みにくいときがあるが、土居の書き方になじめば楽しく読める。

フロイトも類似から差異へ進むのはものすごくうまいし、その語り口も面白い。でもフロイトの場合、それがすむと自説の展開へぐいぐいと進んでいくので「ちょっと待ってー」という気持ちになる。土居にはそんな気持ちにならない。土居は、比較対象のあいだを何度も往復して、境界線そのものをいつのまにかずらしてしまうのである。

私はこれを「言葉通じるとはどういうことか」という問いを持ちながら書いているが、それはまた時間をかけて。

東京はかなり曇っている。夜には雨も降るらしい。みなさん、無事に過ごされますように。今日もよろしくお願いします。