カテゴリー
精神分析、本

距離、言葉、秘密

なにやら素敵なデザインのドリップコーヒーをいただいた。お味も美味しゅうございます。ありがとさんです。美味しいショコラのスイートポテトと一緒にいただきました。

この前、ドゥルーズ研究者の小倉拓也さんが秋田で研究をされていること自体に意味があるのでは、と精神分析にとっての中央であるロンドンではなくスコットランド、エディンバラで分析も受けず分析家になった精神分析家、ロナルド・フェアバーンのことを思ったりしながら書いた。いわゆる「中央」との距離というやつは結構重要なのだ。言語だって変わってくる。精神分析だって初期の論文は全部ドイツ語。でもフロイトがロンドンに亡命したり、戦争が中心を変えた。それまでもどの国で誰が何を、ということは本当に色々あったわけでそれはジョージ・マカーリ『心の革命 精神分析の創造』(みすず書房)に詳しい。

今ぼんやりドナルド・フェアバーンと書きながら、あれ、フェアバーンもドナルドだっけ、ウィニコットと同じ?あれれ?と思ったけどロナルドである。なんでドナルドとかロナルドとか似てるけど違うみたいな名前ができてきたのかな。伊藤とか佐藤とか武藤とか古藤とか江頭とか、あ、江頭だと漢字は「頭」になった。そうか日本語だと漢字で由来も変わってくるか。ドナルド、ロナルドとかきながら、なるほど、とかロナウジーニョとかも浮かんできた。ロナウジーニョは昨日のTBSラジオ「#こねくと」で書評家の渡辺祐真/スケザネが、古田徹也『謝罪論――謝るとは何をすることなのか』(柏書房)を紹介するなかで石山蓮華のエピソードに出てきたお名前。いいエピソードが出てくる素敵な紹介だったでのぜひ。『謝罪論』はとてもいい本だよ、と言っていたら私の周りでも「買ったよー」という人が何人かいて嬉しい。あーでもないこーでもない、こういう場合もあるけどこういう場合は、とか色々考えられるのはいい本だと思う。

毎月、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいる。フランス精神分析においてはラカンとの距離は重要だ。この前はセルジュ・ティスロンの『家族の秘密』を読んだ。秘密の言葉に関して「追放された言葉、あるいは情熱(ふりがなはパッション)に覆われた言葉」という項目があってhomonyme,paronyme,allosème,cryptonymeというフランスの精神分析家のニコラ・アブラハムが分類した秘密を伝達する媒体についての4つの語法を知った。こういう考えはフランス人には馴染みがあるけど日本人には、というから子供の遊びはこんなのばかりだし、私なんていまだにやってる、というようなことの子供の遊びにはありますよね、という話だけした。秘密や恥についてもフランスと日本ではその言葉が使われるときに前提とされるものが異なるという話は重要だと思った。ティスロンがここで秘密を取り上げているのは精神分析が秘密を取り扱うものだからであり、トラウマとの関連においてなのだけどヨーロッパでトラウマというとき、そこには必ずホロコーストが背景にあり、日本だったら原爆、阪神淡路大震災があるなど。今まさに起きている戦争はそれ自体もトラウマとなるし、今を生じさせているトラウマの歴史にも目を向けざるをえない。先日、最初に挙げた小倉拓也さんが秋田魁新報の連載に書いた記事『「逃げて、生きる」という平和試論』を読んだ。言葉や戦争について考えるときに保持しておきた視点だと思う。ホロコーストに関して読むべき本は山ほどあるが『ホロコースト 最年少生存者たち 100人の物語からたどるその生活』(柏書房)は精神分析家がそこにどう関わったかの一端を知ることができるし、生活史に耳を傾ける臨床家にはおすすめしたい。紹介代わりに『子供の虐待とネグレクト』(日本子ども虐待防止学会)に掲載された森茂起先生の書評はこちら。

東京は今日もいいお天気。忙しい毎日だけど健やかに過ごしたいものですね。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。