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精神分析 精神分析、本

どうして5年日記とか10年日記は続かないのに毎日の日記なら続くのかしら。と思ったけど、日記ですものね。その日のことを記す場所として好きに紙面を割けばいい。その自由度の高さ、気ままにやれる感じがきっとよいのでしょう、私には。紙じゃないけど。

雨が降っています。昨晩より強く土砂降りのような音。レインコートと長靴かな。

フロイトは『夢解釈』が有名でしょうか。以前は『夢判断』と訳されていたけど精神分析ではやっぱり「解釈」かなぁ。

夢は本当に不思議で矛盾する出来事が普通に生じる時間を生きられる唯一の場所です。小学生の頃から「夢占い」とかもしました。フロイト を持ち出すまでもなく。

でも持ち出すと、フロイトには A  Lovely Dream(「素敵な夢」フロイト 全集5『夢解釈2』p12)、「すてきな夢」という題がつけられた夢が登場する。どんな夢だと思いますか。きっといろんな「すてき」を思い浮かべますよね。これ、読むとわかるのだけど夢だけみても特に素敵ではない。「すてきはどこ?」と思って読んでいくと、実はこれゲーテ『ファウスト』からの引用である。「いつか見た夢すてきな夢さ」。

連想のたくましい患者である。精神分析ではフロイトの時代から夢と分析状況は関連づけられている。そして今も私たち臨床家は患者の夢の中に自分たちを見出す。自分の夢の中にも様々な関係が姿を変えて現れる。「現実に起こったことと空想で起こったことは、まずは等価なものとして現れる」。私たちはごくわかりやすそうな夢もみるが「巧妙に仕込まれた夢作業」をすることもある。それは小学生の時代からそうだったように他者との間に置かれると意味をもつ。

当時の可愛いイラスト満載の「心理テスト」とか「夢占い」という本は大抵「A.〇〇の夢をみた人」→「ほかに気になる男の子がいます」とか選択方式で、それを読んで「きゃーっ」と盛り上がるという感じだった。現実的に好きな子が今いないとしても一部あっているような気がしてしまうのは昔から変わらないことである。みんな想像してしまうし、「ちょっと気になる子」は大抵いる。だからちょっと興奮して盛り上がる。ちょうどよい遊びだ。

精神分析は選択肢がない。使うのは「自由連想」である。こちらも想像力を必要とする。が、精神分析という状況で現れる夢は今ここにいる二人の関係だったりするので結構複雑だ。秘め事としての夢だからキャーキャーできていたのにここに置かれてしまう。置かれることで連想は質を変える。その連想がまた夢想に近くなる場合もある。

ひとりの夢がふたりの夢に。精神分析ってそういう場所だ。

出かけるまでに止まないな、この雨。今朝はどんな夢を見て起きただろう。精神分析家のウィニコットは「夢をみられない」ことを主訴に精神分析を受けはじめた。夢という時間と場所を失うことは主訴になりうる。こころの世界が守られること、いつだってそれはとても大切なことに違いない。

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精神分析

心理職

多くの同業者の実感と違うかもしれないけど、学校や病院みたいな他職種のみなさんの中にいると心理職はいいとこどりというか立場を曖昧にしておけるミステリアスな存在だと思うんだな、私は。それに対して外部に伝わりやすい名前をつけないと給与面での交渉はできないと思うけど、とりあえずそう思う。

一回30分とか50分とかいう枠のあるところもあるけど、なくてもやれることはたくさんあるし、隙間産業という人がいるのもうなづける。私が今、しっかりした設定の精神分析臨床をプライベートなオフィスで営めるのは、これまでのいろんな現場での流動的、中間的、ある程度可塑的なあり方を許容されてきたからだと思う。そこでの試行錯誤がないまま開業したらなおさら「精神分析とは」みたいな迷子になっていたかもしれない。

心理職は、家族と違うのは当たり前だけど、教師や医師や看護師とも違って、「心理教育」はするけど叱ったり、お説教したりする親役割をとることはない。どちらかというといいお兄さん、お姉さん、おばさん、おじさんみたいなちょっと立ち位置をずらした曖昧なところにいて、生徒や患者から「先生にこう言われた」とか愚痴や不満を聞いて、気持ちの一時預かり所みたいなことしながらお互いの仲介のような役割をとったりしていると思う。

しかも病院とかだと来院してはじめてそういう立場の人(心理士)がこの集団の中にいるってことを知った、というような患者さんも多いわけで、いつもは背景に紛れていて、必要とされたときにふわーっとそこから現れでてこられるような仕事だと思うのだ。前に別のところでも書いたけどスクールカウンセラーが週一回という設定なのも逸脱を防いだり、必要な子に開いておける仕組みになっていると思う。もちろんこちらの活用の仕方次第だけど。

私は組織内の心理士としては、ミニマムな存在でありながら使われるときは勤務時間内にしっかり(持ち帰りとかはせず)役割を果たす、という移行対象的な存在でいたい。(しつこいけど)勤務時間内にその人の固有性にちゃんと使用され、しばらくしたらその人にとってはもう必要ない存在にきちんとなるべく、中立性とか平等に漂う注意とか精神分析が大切にしてきたことをどこでも大切にする。

こういう存在に名前をつけられれば仕事として成立すると思うけどこういう考え方は少数派かな。ある意味、社会から少し逸脱した場所で、役割ありきではなく、荘子の「哀れみ」のような、人を基礎付ける何かを大切にできる存在として動きすぎず静かにそこにいながらしっかり使われる、心理士としては(分析家とは違ってという意味)そういうことを続けていきたいと思ったりしています。