遠くで救急車の音がする。何もないといいけど人は突然死んだりすることも経験済み。驚くほどあっけなく。もちろんそうでない場合も。いろんな生き方があっていろんな死に様がある。どんな場合もそれは誰にもコントロールできない部分を残す。誰もがいずれ死ぬ以外のことは私たちはまるで無知。
文芸誌『群像』で山本貴光さんが「文学のエコロジー」という連載を持っている。2022年7月号では「文芸と意識に流れる時間」という題そのままに「時間とはなにか」という終わりのない問いを具体的な文芸作品を素材に検討している。普通こう書かれたら前号までの素材『ゴリオ爺さん』のような名作がくると思うではないか。しかしなんとここで山本さんが取り上げたのは
古池や蛙飛こむ水のをと
たしかに言わずと知れた松尾芭蕉の一句である。が、こんな最短のところから見ていくのか、と思った。
575の17音にいかに豊かな世界が展開しているかはいい俳句を読めばわかるとばかりにさまざまな俳人がさまざまな句集や解説書を出している。例えば私の師でもある堀本裕樹先生の『十七音の海』(株式会社カンゼン)は題名がすでにそれを示しているし、先生の恩師である宗教哲学者鎌田東二は「俳句は宇宙を詠めるんだ」と言ったそうだ。堀本先生のこの本はリニューアル版として2017年に『俳句の図書室』(角川文庫)という書名で文庫化された。『俳句の図書室』でもはじめに「はじめに」で登場するのは松尾芭蕉のこの一句である。常に源流を辿る山本貴光さんがここから始めるのも必然、当然なのだろう。とはいえ、山本さんがこの句を使ってここでしようとしているのは十七音に流れる時間、それを読む人の意識における時間などをシミュレーションによって検討することであるからまた新しい。俳人の作業をメタで分析されるとAI俳句もそんなに別物という感じがしなくなる。
古池やかはづとびこむ水の音
私は最近別の本でもこの表記でこの句を見かけている。真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)のなかでだ。
今年の4月に亡くなった超有名社会学者だが私はあまり読んだことがなかった。私はこの本の最初の方で自分が重度の自閉症の方々と関わってきた記憶のなかでずっともやもやと抱えていた部分に光を当ててもらったような気がしたのだがそれはまた別のお話。
真木はこの句を「時間の構造を空間の構造におきかえている」と延べ「水の音という図柄はじつは、このしずけさの地の空間を開示する捨て石なのだ」といった。イタリックは本文では傍点である。
「存在を非在の非在として、有を無の無としてとらえる感覚の反転力をこの一句は前提としている」
ー真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)
ここで生じているのは単なる図と地の反転ではない。それを通して得られる「地を地として輝きにあふれたものとする感覚だ」。芭蕉は四十日余りも歩いて着いた松島では一句も残していないという。
「松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけだ。芭蕉の旅の意味は「目的地」に外在するのではなく、奥の細道そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ。」
松島に到着することに価値があるのではない。「心のある道を歩く」とは「その道の長さいっぱいを」歩くこと、「その道のりのすべてを歩みつくすことだけがただひとつの価値のある証なのだ」「息もつがずに、目を見ひらいて」。
真木はドン・ファンがカスタネダとパブリートと別れの時に告げた言葉も引用する。「夜明けの光は世界と世界のあいだの裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」
また救急車の音だ。今度は近くを通り過ぎた。今日も無事に朝を迎えられたこと自体はたまたまかもしれない。たまたまな気がする。この生を、生活を、「今ここ」という時空に向かって回帰する自己の歩みを一歩一歩確かめるように、というのもなかなか難しい。でもそんなことを考えるこんな朝の短時間は悪くない。何のために?そんなことは考えずに今日も一日。