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読書

門前で遊ぶ

この時間も静か。蝉はみんな粉々になってしまったのだろうか、なんらかの形で。命の長さなど気にもせず。夏休みもおわる。いっぱい遊びましたか?

今朝は東海道散歩土産、豊橋の名舗、御菓子司「若松園本店」の「ゆたかおこし」をいただいた。コーヒーと。最近は和菓子もコーヒーといただくのって普通になってきた気がする。昨日はあんみつを頼んだから緑茶がついてきてそれはそれでそっちの方がピッタリという気もしたけど。ずっと同じ文化にいたのはそっちだもんね。「ゆたかおこし」は数年前の朝ドラ「エール」で主人公が美味しそうに食べていたことでも知られる、とあるけどそんな場面もあったかな。甘さも乾き具合もお茶請けと呼ばれるにふさわしい感じがする。朝はこっちもカラカラ身体だからな。「エール」もずっと見ていたわけではないけど主役の二人が美しく瑞々しくとぼけた感じもあって素敵だった。豊橋かあ。通り過ぎたことしかない。

それにしても静かだ。今日もゴロゴロしながらあれこれ考えてたからすでにこんなことしている場合か、という感じなんだけどざっと書こう。私はざっと書くけど紹介する本はどれもとても丁寧に書かれているのでじっくり読もう。

昨年の読書会で『理不尽な進化 増補新版 ー遺伝子と運のあいだ』を取り上げ、著者の吉川浩満さんにもオンラインでご参加いただいた。その吉川さんの随筆集『哲学の門前』が昨日発売された。緑の文字、かわいいフォントで書名と著者名が記号的な門の周りに配置されているおしゃれな表紙。この本のもとになったのは、紀伊國屋書店発行、豪華執筆陣によるフリーペーパー『scripta』での連載だが、この連載は昨年の読書会の前に私がTwitterでめちゃめちゃ推したものだ。著者の姿勢を紹介するのにもっとも適切だと思ったから。その連載を大幅に加筆修正したのが今回の単行本。

昨年、読書会に参加してくださったみなさんは私も含め進化論の素人ばかり(フロイトの思想に大きな影響を与えたそれに対して精神分析をやっている私たちが全くの素人ではちょっといけない)で『理不尽な進化』によってようやく「このお寺ってここにあったんだ」という感じでその門前に立たせてもらった。今回、その門前で遊ぶのは「哲学」。

「知的な活動には遊びが必要であり、だからこそ友人が必要でもある」234頁

本は友だち。吉川さんのこれまでのご著書や対談など多彩なご活動に触れたことがない読者にとっては捉えどころのない不思議な本と感じるかもしれない。最初からいつも通り平易な文章でこれは「入門書」とはちがうということを書いてくれているが「門前書」を知らない私たちが思い浮かべるのはやはり「入門書」だと思うし、「「哲学」はどこ?」となってしまいそうな気もする。哲学者はそれっぽい感じでは登場しない本だし。

でも大丈夫。吉川さんはご自身の生活をいろんな風に切り取ってそこで感じたあれこれをあーでもないこーでもないと内省する。月日は過ぎていく。私たち読者はそれらの出来事を共有しているうちにもやもやといろんな気持ちになっていく。つまり哲学的状況が生じてくる。もちろんそれにどう取り組むかは自由だ。それは門前でこそ迷える自由でもある。

繰り返す。

「知的な活動には遊びが必要であり、だからこそ友人が必要でもある」

この本は出逢いに溢れている。自分はこんなに人に恵まれてこなかったから、という方も大丈夫(二度目)。私たちは日々誰かしらに出会っている。仲良くすることを出会いと呼ぶのではない。出会う相手は人だけとは限らない。誰かが存在する世界で何かに出会う。生活というのはその連続で、そこで私たちはすぐに忘れてしまうような小さなことから今すぐに解決を迫られるような切迫感のある事柄にまで出会い続けている。その状況自体が遊びの場であり学びの場、哲学の場になりうる。どんなにさっぱりと切り替えの良い人でも立ち止まったり躓いたり道に迷ったりすることはある。「そんなときどうしたらいいの?」「みんなはどうしてるの?」と聞きたくなることもあるだろう。「みんな」のことはわからない。「それぞれ」だから。この本はその「それぞれ」のひとりとして良い先輩、良き友の役割を果たしてくれる。

6章「友だち」ではきちんと(?)ドゥルーズとガタリも登場する。吉川さんと「哲学の劇場」を主宰する山本貴光さんが大学時代から今に至るまでの関係をお互いに説明しあってくれるこの章は長年のファンにとっても楽しく読めると思うし、新しい読者の方にも「へー、こういう関係もあるんだなあ」と新鮮に読めると思う。超個人的には「私、この名前でよかった」と思った。

今日もそれぞれに哲学的状況が生じるでしょう。それをそれと思わずともそれぞれの感じや気持ちや言葉や行動が大切にされますように。

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短詩 精神分析、本

複雑なものとして

ゴロゴロしながらあれこれ複雑な気持ちになりつつ、こういうのもだいぶ慣れたなと思う。それにしてもこういうのってしょうがないとはいえ一体なんなんだろうね、というようなことばかり考えているうちにあっという間に時間が過ぎた。1時間前に考えていたことはもうすでに形を変えている。「ちょっと待てよ」の繰り返しでそうなる。

机に向かってSNSをみたら笑ってしまった。私は知らないが私の知っている人がそれなりに親しいであろう人が私が一番気にしていることを書いていた。

あははと乾いたような笑いとくすくすくすぐったいような笑いの両方。自分に対する自分の態度だっていろんなものが混ざってる。人間は複雑だ。

高橋澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)を読みながら「フロイトの精神分析学までが」「フロイトに先駆けて」「フロイトの<リビドー概念>にさえも相通じる」という言葉に「フロイト警戒されてるなあ」と思った。フロイトは1939年に死んだのでまだ100年も経っていない。とかいったら第二次世界大戦からだってそうということ。

先日、ゆにここカルチャースクールが開催した「短詩トークショー『船コーン 砕氷船(ユニコーンが乗っています)』」のお題が「つの」で短詩集団砕氷船の歌人・榊原紘さん、俳人・斉藤志歩さん、柳人・暮田真名さんがそれぞれ短歌、俳句、川柳を作ったのだが斉藤さん(すっかりファンになってしまった)の俳句に化石がでてきた。新宿紀伊國屋書店の地下にも化石のお店あるよね、という話もされていた。

「一万年ですよ」

と化石を眺めながらその人がいった。そうか、想像もつかない。この100年のことだってこんななのに。子供たちが恐竜とか大好きなわけだよ。あと自閉症の子どもが原初的な、など色々話し出したらキリがない。

精神分析はフロイトの時代よりもさらに原初的なこころについての探究を深め、精神病理に対する理解と対応について貢献してきたが、世間的な関心はいまだフロイトにある。

「要するに、フロイトの結婚は彼に安全な避難場所をもたらしたのである。彼はマルタの個性を抹殺し、彼女を自分の外的要望すべてを叶える女性に仕上げた。彼女はフロイトの大勢の子供達の母親であり、有能な家庭管理者であり、決して不平を言わない配偶者であった。」

ルイス・ブレーガー『フロイト視野の暗転』(里文出版)133ページからの引用である。原書名はFREUD Darkness in the Midst of VIsion.書名通りこれまでの伝記とは異なり引用した部分だけでもわかるようにフロイトのダメなところをたくさん明らかにしてくれる本で大変参考になる。それはそうだ。が、しかし、と思う。

「決して不平を言わない配偶者であった」ってあなた、、、と思ってしまった。確かにフロイト一家には家政婦(というのかな)もいたし、様々な人がフロイトや家庭生活について語り継いでいる。何よりフロイト自身がフリースをはじめいろんな人に対し自分の気持ちを吐露するので推測の糸口はたくさん用意されてきた。

それにしてもだよ、と私は思わなくもない。臨床だけではない、研究だけではない、その両方を経験したうえで書いている、というのであれば(本書の「背景と資料」を参照)こういう直線的でゴシップ的な書き方はどうなんだろう。これでは私たちが普段他人の家庭に対して持ち込む勝手なイメージと変わらないではないか(「私たち」とか一緒にしないでという話かもしれない)。

人はもっと複雑で、だから関係は当然複雑で、家庭なんてその複雑さが蠢きまくっている場所なのではないのか。勝手なこといってんな、とこの類の文章についてはいつも思う。それを誰が書いているかなんて関係なくそう思うのだけどどうなのかな。「決して不平を言わない」人だったかどうかはともかく、それが夫であるフロイトに対してはね、ということであったとしても、これだけ長く暮らしていたら色々あるに決まってるじゃん、と思うのは私が「抑圧」の概念を理解していないからか。この時代の厳しさをわかっていないからか。そうかもしれないがそうでもないだろう。戦争はまだ起きているし、家父長的な意識はいまだ蔓延している。私はそういう世界で言葉を使いながら生活をしている。

心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)で「フロイトは警戒されている」と思ったと書いたが、こっちの方がずっと学問的だ。ヴントの『民族心理学』とフロイトの『夢判断』の出版年が同じであるという“偶然の一致”に対する慎重な姿勢は私たちがフロイトを読むときにも忘れてはならないものだろう。

安易に結びつける。安易に解釈する。「女だから」とかも同じ類だろう。自分ひとりにできることのわずかさを物事を安易に単純化することで否認するようなことはしてはいけないというか、いけなくはないかもしれないけど誰かを傷つけるし分断や差別を招くのではないか、と私は思っている。

少なくとも精神分析に関していえば、現代の精神分析はビオンの「記憶なく欲望なく理解なく」が頻繁に引用される状況にあるわけでフロイトを知るということはそのテクストを精読し続けることであってそういうことではないのでは、と私は思う。

他愛もない一言に涙が溢れた。

誰にも言ってないことを話した。話してから誰にもいえてなかったことに気づいた。

人には無意識がある。無意識という表現があれなら誰にも触れられない領域がある。ましてやコントロールなど。

泣き喚き大暴れする日もあれば穏やかに共に時間を過ごす日もある。そんな日々は共存する。寂しさも孤独も喜びも体験する。人のこころは意外といろんなものに耐えうるらしい。耐え難く辛いとしても。

別れを決断する人たちとも多く会ってきた。彼らがそれを決めたときの表情や言葉。共通する静けさを思い出す。

フロイトとマルタは別れなかった。離婚という意味では。単純ではない繋がりとそれに対して持ち込まれた切断とそこから生じたさらなる繋がりとなどもはや「色々ある」「複雑だ」という以外に描写しようのない関係がそこにはあっただろう。外からは決してみえないものが。

私はいろんなことを複雑なものとして考え続け、躊躇いながら言葉にしていくことを続けていけるだろうか。たった一言に心揺さぶられてしまうのに。すぐにもういいやと思ってしまうのに。わからない。でもとりあえず、いつもとりあえずだ。

今日の百年後、一万年後のことはまるでわからないけれど何かは繋がっていってしまうのだろうからあまりおかしな部分(?)を残さないようにできることをやりましょうか。それぞれの1日をどうぞご無事で。

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精神分析

人ひとりひとり

秋の蝶黄色が白にさめけらし

高濱虚子句集 『遠山』

虚子居らぬ世や風鈴を見て欠伸

秋風に見るうどんのううなぎのう

岸本尚毅句集 『雲は友』

文化を大切にすること。その文化に生きる人がいること。その意義や価値をあえていう必要のない世界はまだ存在している。とても安心した。

自分の領域への侵入には達者な言葉で謝罪を要求し続けるのにたいして知りもしない他者への領域への侵入はあっけらかんとおこなう。自ら対話の場を失い、同じような刃を持つ人か刃を権力として従うか利用する人ばかりが当面の話し相手になっている可能性は否認されているのだろうか。そうでないとそんなことできないか。撒き散らすようにかかれるものばかりが業績になり、それに素早く迎合できる人が作るものがこの国の「文化」になっていくのだろうか。

毎日、目に見えない差異に怯え、苦しみ、時折素直に反応しては素早い攻撃にあい、言葉にする体験を奪われ続けている人のことを知らないわけではないだろう。自らもそんな経験をし傷つきと戦い続けたプロセスが今なのかもしれない。でもそのやり方は反復を生じさせているだけだ。いつの間にかおそろしくマジョリティの立場から振りかざしているそれを指摘してくれる友はいないものだろうか。おそらくいるのだろう。でもできない。そういうものだというのはなんとなく知っている。力を持つものが弱さを持たないはずなどない。知性とは何か。やはり「連帯」という言葉が良きもののように利用されないことを願わざるをえない。

頭で考えることと気持ちを感じることの乖離が甚だしいこの世界に対する違和感を意識することもままならず、言語とスピード優位の周囲にただただ振り回されるように生活している人たちと私は仕事をしている。時間をかけてしっくりくる言葉を探す仕事をしている。これまでの傷つきをさらなる、あるいは別の傷つきとして重ねていかないこと、彼らに対するケアは彼ら自身にだけでなく、そこにいない周りの人たち、ひいては私たち全員に通じていることだ。それは特別なことではない。自分も関わりがある、と引き伸ばされた時間の先を想像できない人がそういうひっそりした場にぞんざいな言葉を投げ込んでくるのだろうか。だとしたら反射的にそれに応答するのではなく、何が生じているのか考え、静かに抵抗をつづけ、患者たちが自分のペースで言葉にできる場を守っていくのも私たちの仕事だろう。

昨日、紀伊國屋の階段を踏み外して派手に転んだ。そばを通り過ぎる人の足が見えた。顔だけよけるようにした。しばらくして通りがかった店員さんが心配して傘を杖にして歩く私と一階分一緒に降りてくれた。心優しい人もきちんといた。足腰が健康でないと不便な世界はたくさんあることを不注意で怪我をしがちな私は多分普通よりは知っている。人ひとりの力の大きさもたくさん経験してきたように思う。

昔、足の指の骨にひびがはいったときも一歩一歩片足を引きずるようにしか歩けなかった。前から人が向かってくるスピードが普段の何倍にも感じた。東京は前にも後ろにも真横にも人がいる。怖かった。でもあまり庇うと腰もやられる。人が来るたびに止まりながらやっと電車に乗った。疲れた。ドアの隅に立っていても続々乗ってくる人が怖かったけど足を安全な隙間に隠せて安心した。そのとき優先席にいた私よりずっと年上の方が「座りなさい」と声をかけてくれた。足の指など誰も気づかない。たとえ包帯を巻き大きなサンダルをはいていても。見かけは単に歩くのがやたらゆっくりな人だ。その人はどこからみていたのだろう。動かなければそんなに問題なかったので戸惑ったが座らせてもらった。とても疲れた。こんなに安心できていなかったのか。ありがたかった。

昨日もしばらくは人を避けて端っこをゆっくりゆっくり歩いた。怖かった。どうしても端っこを歩きたい人というのはどこにでもいてぶつかっていく人もいた。これは私がこの見かけでなくてもされることなのだろうか。よく思うことをまた思った。

自分が知らない世界がある。起きない方がいいけどどうしても起きてしまうことがある。細々とでも着実に受け継がれてきた学びや文化がある。

見知らぬ人の頭のそばを靴で通り抜ける。びっこをひいて隅っこを歩く背の低い女に邪魔だとぶつかる。誰かがそれで生計を立てている仕事をいらないものとする。こう書けばおかしなことのように思うかもしれないがこんなことは日々平然となされている。私たちがそれぞれに感じる不自由や理不尽に終わりがくることはないだろう。それでもできるだけ防衛的にならず、何かを排除する言葉を使うことに少し躊躇することを忘れない。それはひとりではなかなか難しいから私は今日も仕事をする。

何がなくとも何もないという必要などない。誰かにそう言われたとしてもそんなはずはないのだから。無理に言葉にしないで黙っている権利だって誰にでもある。黙っていることを何もないという人がいるとしたらそれはその人に圧倒的に何かが欠けていると思っても間違いではないだろう。時間をかけることで見えてくるものでゆっくり繋がっていくこと。その厚みと豊かさを静かに守るにはとても痛みが伴う世の中だけど今日もなんとかやっていこう。人ひとりひとりの力は小さくない。言葉にできない、言葉にならない、言葉にするプロセスにそんな戸惑いがたくさんあること、そこに注意を向けること、向けてもらうことはひとりではできないけど相手がいればできなくはない。

さあ、今日も一日。何がなくともどうぞご安全に。

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消せば暑いしつければ寒いものってなーに。冷房。いや、冷房のせいにしてはいけない。もう15年前のものとはいえ除湿機能だって「除湿」と「衣類乾燥」と「冷房除湿」の三種類ある。温度だって調整できるのにそれらの機能を使わずなんとなくつけたままなんとなく寝るから寝たり起きたりになる。と頭ではわかっていても最近少し涼しくなってきたのをいいことに油断(?)が続いておりますね。というわけで今朝も身体がバキバキ。部屋を出たらまだまだムッとした暑さで少し身体がほぐれた。

それにしてもなんとなくわかるのは「衣類乾燥」だけなんだけど。「除湿」って普通の除湿?普通の除湿って何?何がどう違うのだろう。さっきまで冷房だったのだけど「冷房除湿」ってやつに変えてみよう。冷房より身体によさそうだ。

具合の悪い人といるとどんな感じだったら負担にならないかなあ、と一緒にいる感覚を頼りに言葉や態度を調整しようとするけどこれがなかなか難しい。身近な人だとなおさら。具合が悪いというのはその人の調整機能がいつもほど働かないということだから「良くする」ことはできない(「良くする」ってなに、とか思ってしまうからそもそも使いづらい言葉だな)としても医者にかかることを勧めたり外側の力を活用することはしたい。すでにここからハードルが高かったりする(医者嫌い、薬嫌い、はそれはそれで事情がある)がそれはクリアーしているとして、辛くてしんどい状態にあるその人は調整機能不全によりいろんなことを負担に感じやすい状況にある場合が多いのでせめて現状維持、機能がどんどん落ちていきはしないから大丈夫、ということを余計なことをと思われずに伝えるにはどうしたらいいのかと悩む。そして失敗する。仕事柄、いろんな症状や状態に慣れているし知識のある部分もあるし色々わかっちゃいるが失敗する。冷房に対してと同じか。いや違う。人間は単に「機能」とかいう言葉で括れない。ひとりひとり反応が違いすぎる。コミュニケーションをしようする限り失敗はつきものだ。そういうズレがあるからこんな多様な集団でやっていけるのだろうけど。もちろん人間を二種類とか三種類に分けてしまうような人もいるだろうけどそういうのには静かに抵抗するのみ。バカに見えても、いや実際に私はバカなんだろうけどそこまで単純ではないんだよ、分けるにしたってもっと種類あるだろう、と。

8月31日に尾久守侑『偽者論』(金原出版)というキラッキラ(動画を見てびっくりした)の表紙の本が出る。前作なのかな、詩集『悪意Q47』(思潮社)を読んで現代詩ってこういうものなのかという驚きとともに「この嫌な感じ知ってる」と若い頃の感触を思い出した。安心した子どものような、そうせざるを得ない自分に対する悲しみのような、狂気にはいたらない苛立ちのような混ぜこぜの書き方が印象的な詩集だった。『偽物論』という書名を見たときもこれはfakeかfalseかと思ったが何かのツイートでfakeという写真があったのでそっち要素が強いのかな(そっち要素ってなんだ?)。

私は「偽」という言葉を見るとどうしても精神分析家のウィニコットのfalse selfを思い浮かべてしまう。false selfでこの多様な世界になんとか適応している私たちに真実とか良さとかあるんだかないんだかわからないもの押しつけないでほしいんだけど、と誰にともなく思う人だっていると思う。

昨日、町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』を笑いながら読んでいた。BGMは町田康「犬とチャーハンのすきま」。

町田康は「なんで俺は」を考えるのが本当にうまい。「なんで」とか言いつつ全然原因探しなんかせずにどんどん思考を展開させる。そうこうしながら「もしかしてこうだったんじゃないか」というところに辿り着くときにはいろんな出来事の厚みが増していて「まあどう思おうとそう思う余地は十分にあるよな」という気持ちにさせられる。正解とかないだろう、世界って、と大切な人に何もできないどころか余計なことをするという失敗を繰り返す自分のことも少し許容できる。ごめんよ、今のところこんなことしか。

「犬とチャーハンのすきま」に「うどんのなかの世界」って曲があるんだけど「〇〇なんかもいれてみればいい、大丈夫。」という無責任さが重苦しくも清々しいかっこいいが変な曲だ。「うん?うどん?」と正気に戻るときにはどこかが少し広がっているような気がした。

朝から何書いてるんだろう。このブログ「カテゴリー」というのに分けられるんだ、そういえば。私的デフォルトは「精神分析」なんだけど、多くは「精神分析、本」にしているかも。自分で決めたカテゴリーだからなんでもいいのだけど、今日も本のことは書いたが「未分類」にしよう。

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精神分析

連帯と孤独、居直り

夜通し、近所で工事をしていて時折家が揺れた気がして寝ては起きてを繰り返した。今「夜中中」と書いて中が続くのは強調表現として間違ってはいないのか、と思いつつやっぱりなんか変だなと思って「夜通し」に書き直した。工事は今も続いている。多くの人が起きだす時間には終わるのだろう。作業している人は完全に昼夜逆転か。大変だな。寝られるといいけど。

玄関に向かう門をあけると間近で虫が鳴きはじめた。すごく大きな声でびっくりして「人感センサーかよ」など思いながら本当に人感センサーのオレンジ色のライトの下を歩いて玄関の鍵を差し込んだ。虫の声が止まった。思わず振り返った。ドアを開けて入ると背後でまた鳴きはじめた。リズム。雑な詩のような私たちの関係。

私は「連帯」という言葉が好きではない。正確には良さそうな意味で使われる場合の。

先日もここで書いたエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson 1830-1886)の詩をおもう。

I’m Nobody! Who are you?

I’m Nobody! Who are you?
Are you – Nobody – too?
Then there’s a pair of us!
Don’t tell! they’d advertise – you know!

How dreary – to be – Somebody!
How public – like a Frog –
To tell one’s name – the livelong June –
To an admiring Bog!

これは「連帯」の詩のように思う。nobodyであれば。声を出さなければ。詩人の孤独はいかばかりか。

人間として扱われないのにnobodyには決してなれない事態もある。

そこにあるものは

そこにそうして

あるものだ

ー石原吉郎「事実」より抜粋

石原吉郎に「ある<共生>の経験から」という文章がある。シベリアのラーゲリ(強制収容所)での体験である。収容所での<共生>はただ自分ひとりの生命を維持するためのものだった。

「それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である」

「例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯である(イタリックは本文では傍点)ことを、私たちは実に長い期間を経てまなびとったのである」

そしてこの認識の末に発見される孤独は現在私たちが使用しがちな「連帯」との関係で記述さえる孤独とは異なり

「孤独は、逃れがたく連帯のなかにはらまれている。」

私たちは石原吉郎が体験したほどの過酷な状況に身を置くことはこれからも恐らくないと思うが、実は石原の書いたことを身をもって感じとれるとも思う。私の苦手な「連帯」という言葉はnobodyでいられない、ここにいるものはいるものとしての人間の孤独を否認しているように感じる。これも数日前にここで書いたが「シスターフッド」という言葉を苦手と感じるのもこのことと関係があるのだろう。

石原吉郎の詩やノートには引用したいものが多すぎる。でも詩というものを抜粋するのも野暮な気がするし(さっきしたけど)、実際どのくらい引用していいものかわからない。

でも「居直りりんご」という詩を書いておきたい。教科書で読んだことがある人もいるかもしれない。今日もこんな感じで過ごせたらとちょっと思った。

居直りりんご

ひとつだけあとへ

とりのこされ

りんごは ちいさく

居直ってみた

りんごが一個で

居直っても

どうなるものかと

かんがえたが

それほどりんごは

気がよわくて

それほどこころ細かったから

やっぱり居直ることにして

あたりをぐるっと

見まわしてから

たたみのへりまで

ころげて行って

これでもかとちいさく

居直ってやった

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精神分析 精神分析、本

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』をいただいた。

昨晩遅くにコーヒーを飲んでしまった。昨日はそんなにカフェインをとっていないような気がするが朝は紅茶にしておこう、とティーバッグをだした。カフェインであることに変わりないけど気分の問題。あっつい紅茶が美味しい朝になりました。今年も無事に夏が過ぎていく様子。私たちも無事に朝を迎えた様子。

昨晩、帰宅したらポストに厚みのある封筒が入っていた。あれ?なにか本の注文してたっけ、とポストから取り出す。早く見たかったが他の郵便物や重たい荷物のせいで確認できない。部屋に入るまですぐなのにこの短時間が待ちきれない。本が届くのは本当に嬉しい。荷物をドンと置いてチラシを紙袋に仕分けて厚みのある重たい封筒を手に取る。うわあ!と嬉しくなった。

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』(松木邦裕、小波蔵かおる監訳、岩崎学術出版社)をご恵投いただいた。重たいけど意外とコンパクト?と思ったけど他の本と変わらなかった。なんでコンパクトと思ったのだろう。ギュッと詰まった論文集だから?

そういえば最近本屋さんで精神分析の本が置いてある棚の方へいっていなかった。自分で買うつもりでチェックしてあったが大変ありがたい。この本は8月に出たばかりの新刊だが古典だ。

1965年にイギリスで出版された。すでに訳出されている1987年出版の『治療の行き詰まりと解釈』(誠信書房)はローゼンフェルドの後期の思索を解説したものであるが、今回訳出された『精神病状態』は初期の論文を集めたものである。原書はpsychotic states a psycho-analytic approachで、精神病に対する精神分析の貢献の可能性を示した1947年の彼の最初の論文から1964年の論文が収められている。精神分析を専門的に勉強している人はここに収められた論文をすでに英語で読んでいる人が多いのではないだろうか。監訳者のおひとり、精神分析家の小波蔵かおるさんがその訓練中に「なぜこれが翻訳されていないのだろう」と不思議に思い翻訳を申し出たということを「解題」の最初に書かれているが、訓練に入っている人はおそらくみんなそう思っていたと思う。だからこの翻訳は大変ありがたく、これから精神分析を学ぶ人たちがこれまた学ぶことが必須であるメラニー・クラインに始まるクライン派精神分析の初期の成果を追うためにも助けになってくれるに違いない。英語で、しかも精神分析で、しかも理解が非常に困難な精神病の世界のことが書かれた論文たちは読みとおすだけで精一杯みたいなところがあると思う。私はそうだった。多分私だけではないと思うから助けてもらおう。

ローゼンフェルドは1909年7月生まれの精神分析家だ。ドイツで生まれたユダヤ人である、と書くだけで彼が経験した苦労を想像できるだろう。1935年、ナチスの迫害を逃れイギリスへ向かうがそこでも敵国の外国人であるために居場所を得られなかった。しかしなぜか精神療法家としてなら滞在できるということで彼はタビストック・クリニックでの訓練をはじめ、そこでメラニー・クラインの分析を受けた。彼の人生史や人となりは本書の解題にも『行き詰まりと解釈』にも触れられているが、今回の監訳者のもうひとりである精神分析家の松木邦裕先生が昨年2021年に出された『体系講義 対象関係論(下)ー現代クライン派・独立学派とビオンの飛翔ー』(岩崎学術出版社)にはパーソナルな描写もあり、これを読むと論文にも近づきやすくなると思う。どういう時代を生きたどういう人がこれを書いたのかということはどの論文を読む場合にもとても重要だろう。

また、ローゼンフェルドの最も重要な貢献の一つである精神病に苦しむ人への精神分析的アプローチについては『行き詰まりと解釈』の第一章「精神病治療への精神分析的アプローチ」が詳しい。

毎日勉強だなあ、と思いつつ、フロイト以外の精神分析の本をあまり読んでいなかった。古典を読むのは楽しい。目次をみてパラパラとするだけでここに収められた論文のいくつかはぼんやり思い出すことができた。勉強会でも話したいことが増えた。正確に紹介できるようにきちんと読もう。訳者にはフロイトをしっかり読んでいる知り合いの名前もある。頼もしい。翻訳作業でも世代を繋ぎながら精神分析を受け継いでいる監訳者の先生方からこの本をいただけたことがとても嬉しい。もうちょっとしっかりしなさい、というメッセージとして受け取ろう。どうもありがとうございました。

今日は金曜日。週末ですね。無理をしなくてはいけない人もほどほどのところでお茶を濁す練習も大事かも。自分のこころを守ることを優先するってなぜか本当に難しいけど長い目でみれば今そんなに無理しなくてもどうにかなることもあるかもしれない。少しずつ、力抜きつつ、ぐったりするだけではない夜を迎えられますように。お大事にお過ごしくださいね。

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精神分析

模索は続く、与作は木をきる、ってなんか似てる、と思った、今。北島三郎が歌った「与作」。多分今生まれてはじめて書いた、北島三郎も与作も。ヘイヘイホー。

サンフランシスコでプライベート・プラクティスを営む精神分析家のトーマス・オグデン(T.H.Ogden,1946〜)が2021年12月にThe New Library of PsychoanalysisのシリーズからComing to Life in the Consulting Roomという本を出した。副題はToward a New Analytic Sensibility。

オグデンはここでフロイトとクラインに代表されるる”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ、と以前に書いた。

オグデンはウィニコットをはじめとした精神分析家の重要論文の再読、詩人ロバート・フロストの読解など”creative readings”を試みてきた。詩を読むことは一種の「耳の訓練」であり「言語の使用されかたによって創造される効果に気づき、それに対して生き生きしているという能力を洗練する」。精神分析における患者の言葉を「意識的無意識的な情緒体験の構造や動きが、無自覚にその文章を構成する道筋をかたちづくった」と捉え、それを「書き、読む体験のなかで初めて生起する何かを創造する」ために「分析家は、耳を傾けている自分自身に耳を傾けなければならない」とオグデンはビオンを引いていう。

引用はT.H.オグデン『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること』(藤山直樹監訳、木立の文庫)「一種の「耳の訓練」として詩やフィクションを読むこと(p94)」からである。

オグデンは最新刊でこれまで中心的に取り上げてきたロバート・フロストに加えエミリー・ディキンソンの詩、There’s a certain Slant of lightを取り上げている。

8:Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson

短い章だが死を想うオグデンを感じることができる。オグデンはもう70代後半だ。

I’m Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there’s a pair of us?
Don’t tell! they’d advertise — you know!

ディキンソンのI’m Nobody!Who are you?の冒頭だ。対象と出会う乳児のこころを描写したウィニコットの言葉のようだ。

この詩はWilliam BlakeのInfant Joy(赤ん坊のよろこび)Infant Sorrow(赤ん坊のかなしみ)の後に読むとさらにグッとくる。

魂の声 英詩を楽しむ』(亀井俊介、南雲堂)でその体験ができる。この本は私が思春期に詩をたくさん読み書いていた理由を体感的に思い出させてくれた。誰もが知る(私は詩人たちの名前しか知らなかったが)有名な詩の数々を対訳で読むことができる。亀井俊介の序文の言葉は「詩ってなんだっけ」とぼんやり考えていた私にしっくりきた。亀井は序文で詩に対する考え方が自分とは異なる研究者として二人をあげ、その一人は阿部公彦なのだが翻訳家の柴田元幸と共に帯文を書いているのも阿部だ。もう一人、亀井が序文で批判を向けた研究者がいたが名前を忘れてしまった。今手元に本がない。

音声ファイルをダウンロードし美しい英語で美しいリズムで読まれる名詩たちをきく。どれだけ多くの人がこの調べに支えられたりものおもったりしてきたのだろう。

誕生のよろこび、すぐにやってくるかなしみ、私は誰、あなたは?という問い。

「赤ん坊は生まれたとき、みんな泣くんだ」

生後二日で事故にあった宇宙船で育てられてきた(誰にかは読めばわかる)9歳の少女がはじめて宇宙船の外に出る。「初めての」だらけの「外」へ。泣き出す少女。

新井素子編『ショートショートドロップス』に収められた萩尾望都「子供の時間」の一場面だ。一緒に泣きたくなった。

喜びも悲しみも言葉にすれば分かれているようだが体験としては分けられないだろう。詩の言葉が持つ多義性を曖昧にせず、「曖昧」という言葉で7つの型に分類した『曖昧の七つの型《記号学的実践叢書》』 ウィリアム・エンプソン(著) 岩崎宗治(訳)にも似たようなことが書いてあった。亀井の本にも。

なんだか止まらなくなってきてしまったけどもう準備しなくては。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房)に詩を全部忘れたら詩を書ける、とビオンのno memory,no desireのような話がある。そのことも、というよりむしろそのことを書きたかった、ということを今思い出した。こういう忘却はどうなんだ。

まあ、今日も色々あるに違いない。私たちは頭だけでできているわけではないから子供のこころと身体で人間以外の世界にも助けてもらおう。昔読んだ詩とか思い出したりするかもしれない。そうだったらちょっと素敵だ。私が最初に思い出したのはヘイヘイホーだったけど。

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精神分析

沈黙のため

沈黙する。止まらなくなってしまわないように。一見まともそうな理由をつけて誰かを巻き込まないように。自分の不安をその対象からずらすことがその相手の不安を刺激することでもあるけど自分のことは自分で考えねば。だから見せない。その人はそういうこころのメカニズムがわからないからなんとも思わないだろう。本音を伝えたところでそんなつもりはない、これこれこういう理由がある、と苛立っていうだけだろう。頭でならわかるだけに嫌な思いをするだろう。悲しみや寂しさは感じるほうが悪いのだ。気持ちの共有はいつもむずかしい。もっと悲しくもっと寂しくならないために我慢する。こんな気持ちになる自分がおかしいのだと。受け入れることだけしてほしい相手に自分の寂しさや我慢することの負担を伝えることの負担はずっと経験してきた。それにこれ以上直面したくないから黙る。優しい人なのだ。でもその優しさを私に向けられるのは直接会っている間だけなのだ。会わない時間は時折思い出してもらえるだけマシなのだ。受け入れてあげることで嫌われないですむのならその人のあり方に合わせた私になるべきなのだ。自分の気持ちは自分で引き受け続けるべきなのだ。苦しんで苦しんで少し慣れてきたけれどノルマ的なスタンプと変わらない悪気のない言葉によって引き起こされる気持ちを抑えこむのは時間がかかる。でも暴発しないためにひたすら時間をかけるやり方を学んだ。外向けの饒舌と優しさも嘘ではない。それとは全く異なるあり方に心底悲しくなったけど何かを言ってはいけない。だから言葉にしない。沈黙の方法を模索する。言ってもまたスタンプ的な、あるいは本当にスタンプしかかえってこないのだから。悪気なんてないのだから。余裕がないだけなんだ。特別にしてあげてるくらいに思っているかもしれないのだ。気持ちを言ってもこちらの陰謀論だくらいに言われるかもしれない。陰謀論という言葉は相手を抑えこむために使うためのものではないけど。それにもしそうだとしても気持ちを考えてもらえなければそうなってもおかしくないのではないか、とも思うけど。でもそれも言わない。相手の振る舞いも自分の気持ちも飲み込むための沈黙の方法はどこ?どこまで続けるのだろうこんな見て見ぬふりを。

自分で理由をつけて苦しみを終わらせようとしない。身体もこころも壊れていくのを感じるけど壊れるまで続けてしまうのが私たちだ。そうなっても伝わらないものは伝わらないのに。

今日もいろんな人のこころが壊れていく。相手のことは諦めるざるをえなくともどんな言葉で思うこともどんなことを考えるのも自由であることを忘れませんように。一瞬一瞬の回復によってなんとか持ち堪えることができますように。

昨日も何冊かの本を買ってどれも途中まで読んだ。どれも詩に関する本だった。すごく大雑把に言えばだけど。沈黙するためにこころを大切にしようとする言葉を求める。そうだとしたらと思うと悲しくて可笑しかった。

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精神分析

「いいね」の応酬

泣いては眠り、泣いては眠り、何度目かに起きてやっぱりSNSにしかいないと確認して急に冷める。なーんだ。話されていないことのほうが重要、なんてこと、いつもそうと知っていたはずなのに。話していたあのことは話されていないこのことに向かっていてそんな日はいつもこうなる。なーんだ。もう泣きすぎて疲れて涙になるような気持ちにもならないし身体もどう動かしたらいいかわからない。なーんだが空虚にこだまするだけの身体。なーんだ蝉、だな。蝉は短命でいいな。もう夏は終わった。暦上は。

眠れない、生きてたくない、という投稿が増える時間。わかるー、と思って知らない人にいいねを押し続ける。我先に。そうしている間は多分大丈夫だから。向こうはまだ昼間だという。まだ?もう?先に進んでいるのかこれから追いついてくるのかなんてどっちでもいい。闇ではない。それだけで羨ましいようなこっちでよかったような気もする。

何年も何年も毎日毎日男女問わず年齢問わず数えきれない人の話を聞いてきた。仕事だけではなく。

私は「シスターフッド」という言葉をよくわかっていない。調べればわかる程度にはわかっているがそれが具体的にどう可能なのかがわからない。性別問わずたくさんの人に支えられてきたが私の周りは圧倒的に女性だった。彼女たちは私に理不尽で過酷なことが起きたときもそれを中立的な態度で聞いてくれてどう行動を起こすのか起こさないのかを私が自分自身で考えられるように一緒に考えてくれる人たちだ。子供の頃なら身内や友人が、社会に出てからはやはり身内や友人や職場の人が支えてきてくれた。これはシスターフッド?あえてそういう必要ないよね、と思う。私が戦うべきかどうするか考える対象は男性とは限らなかったし。私の理解ではあくまでフェミニズムの運動の歴史と文脈において外部へ働きかる際、男性に対して必要となる連帯がシスターフッドで当時はあえてそう呼ぶ必要があったと思うが現在の日本でその用語を使用することはあまり適切ではないのではなど考える。この用語に限らず男女の分断が言葉の吟味がされないせいで生じてはいないだろうかなど考える。知性溢れる明快さで強い語調で女の傷つきが語られているのをみるとなんだか傷ついてしまう。それは誰の痛みの発露だろうか。それとも愛とか欠如とか不在とかなんとか、など考えてしまう。

わからない。人は恐ろしく自己中だ、簡単にいえば。私も含め。そしてそれは悪いことではないはずだ。ただ時折死にたくなるほどに苦しくなるからいい悪いの話にした方が楽なときもある。傷つけるより傷つかないこと。不安は別のものに置き換えること。「いいね」を微妙にずらした相手へ向けること。持ちつ持たれつの「いいね」の応酬に終わりはない。今日も見ないふりをする。

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精神分析

つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。

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読書

短編

傘のいらない雨だったのが帰る頃には結構降ってきた。本屋さんに寄ってから帰ると人と別れ細長い本屋の自動ドアを入って真っ直ぐ歩いた。話題の文庫が置いてある棚をぐるっと回った。小川洋子『ことり』(朝日文庫)がまだ平積みされていた。通じないことの切なさ悲しさに溢れたストーリーだった。

今、またこの本についてばーっと書いたがあまりに陳腐な言葉の羅列のように思えて消した。私はあまりに人間的、だ。「小父さん」のように鳥のさえずりに静かに寄り添える人間ではない。この物語の最後にこちらが悲しくなってきてしまう人が出てくるのだが私の言葉はそっちのあまりに人間的な人の方に近いのかもしれない。

長編を読む時間がないので短編を買った。雨上がりの紫陽花みたいな可愛くてきれいな表紙の文庫本が目に入った。新井素子さんが編んでる!これにしようとすぐ決めた。

コロナ前、ほとんど出られない句会に出たとき新井素子さんがご夫妻でいらしてくれた。とっても嬉しくて飲み会の席ではお隣でお話もできたし一緒に写真も撮ってもらった。句会では下の名前で呼び合っているので新井さんも「素子さん」。「素子さん」と呼びながらお話ができる日がくるとは。素子さんは気さくで明るくて超ユーモアがあって、とまた陳腐な言葉しか出てこないがどこに触れても楽しい遊びにしてくれるような懐の深い人だった。もっと好きになった。

購入したのは新井素子編『ショートショートドロップス』(角川文庫)、星新一感があってすでに良い。というか執筆陣の豪華さよ。私は新井さんが「まえがき」で書いているように「あとがき」から読むタイプなのだが「あとがき」を読みはじめて「あ、これは読んでからだな」と思った。そして本来のはじまりの地である「まえがき」に戻ると新井さんはやはり面白いのだった。数えきれないほどのぬいぐるみとお話ししながら生活しているっておっしゃっていたし対話調の文章に素子さんとの楽しいおしゃべりを思い返した。

この短編集は確かに「ドロップス」のよう。だから表紙もこれなのね。そういえばさっきこの表紙って、と思ってカバーをペロッとめくってみたら「カバーイラスト三好愛」って書いてあった。私、この人の絵が大好き。今出ている『怪談未満』(柏書房)もほしくて、昨日別の本屋さんでちょっと立ち読んだばかり。まずはこっちが我が家に来てくれました。私が買ったのだけど。

短編なので短いものをさらに短く、しかも足りない語彙で説明するのは野暮なので一言で書くけど短編は余韻も短くていいですね。グッときてもパッと次へ。敬愛する村田沙耶香さんの短編は相変わらずファンタジック(と思っちゃう)でピュアな筆致で淡々と書かれていたけど読み終わって素に戻ると得体の知れない恐ろしさにゾワっとした。村田作品にいつも感じる余韻。ふー。

短編しか読む余裕がないとかいいながら短編を何冊も読んでたら時間あるんじゃんという話だが隙間時間ならそれなりにあるの。でもパッと切り替える必要があるの。そういう人には短編はお勧め。この新井素子編『ショートショートドロップス』(角川文庫)もぜひ候補に。

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精神分析

不気味世代

舌が痛い。朝からしょっぱいものを食べたからか。

PCに向かうと自動でアップデートされていたようで立ち上がるのに時間がかかった。しかもこれはアップデート時は毎回なのだが立ち上がってアセクスビリティに関する選択の画面が出ると凍ってしまう。「今はしない」だっけな。選択肢が出るけどクリックがきかない。で、毎回再起動する。するともうその画面はでず「問題が発生したため」どうこうという画面が出てその部分へのクリックもきかず「〜秒後」に再起動します、というのを待つことになる。そしてようやく起動。このプロセスってもう何度も経験してるのだけどどうにかなっちゃうから問題にしたことがない。数年前の年末年始、高野山へ旅したときは確か原稿締切が近いのに全然進んでいなくて仕方なくPC持ち歩いていたらフリーズ。外は雪。この子(PC)はフリーズ。私だってフリーズしかけたがもうこの歳になるといろんなことに驚かなくなる。歳のせいではないかもしれないがとにもかくにも自分にはどうにもできないことはどうにもできないのだ。何かできる状態に持っていくしかない。宿坊での早朝の朝勤行の床の冷たさに比べたらなんでもないわ、と思いつつ雪のなかを散歩した。今だったら気楽に旅できていただけラッキーだったわ、っていうことになるね。1月2日に一番早く予約が取れた銀座のアップルストアに持っていき理由わからず回収。数日後、中身が新しくなって戻ってきた。原稿は間に合った。

鳥が賑やかになってきた。SNSにも鳥の声をあげている人がいる。画面に鳥はいないけど高く響くかわいい鳴き声がそこから聞こえる。私も今窓の外に鳥を感じるだけでその姿は見えていない。生まれつき目が見えない人は鳥の姿をどんな風に想像するのだろう。私は私が見えているのと近い形に想像しているのではないかと想像する。彼らが音から空間をつかむ姿を見ているとそんな気がするけど違うかもしれない。どの程度を「近い」というかという話でもあるがそういう意味でも私はやっぱり近いような気がする。今度聞いてみたい。

昨日、千葉雅也さんのnoteを読んでいてホテルというのは出来事の宝庫だなと思った。現実にあることもないことも起きる。殺人、密会、乱交、ドラッグなどなどの現場になったり別の時代への入口になったりする。映画や精神分析状況を思い出している。

ビジネスホテルはコンパクトで過剰も余剰もないが千葉さんの記事に出てくるようなホテルにはある。さらに鏡、固定電話、湯沸かし器、エレベーターといったホテルに必ずある物たちも別の時空を現実的、想像的に体験するには十分な力を持っている。同じ姿をしたドアがずらっと並び中では何が起きているかわからない。その羅列は反復でもあり三面鏡の前に立たされたような感覚にもなる。少し時空が歪んだかのように過去と今が錯綜する。インターネット以前も以降も知る千葉さんや私の世代はある程度歴史を持つホテルがもつような空間とネット上、つまり平面が持つ奥行きという空間の両方に引き裂かされながら生きてきた世代だ。

疎外によって「私」が発生する鏡像段階、去勢による言語の発生の段階(精神分析の用語を使用する場合)、私たちの世代は身体で関わり合う対人状況と記号から立ち上がる触れえぬイメージの時代の比重が変化する移行期を生きてきた。「戦争を知らない子供たち」という歌を思い出す。私は千葉さんのnoteを読みながら、私が今以上に歳をとってある程度ラグジュアリーなホテルでくつろぎながらその時代にはすでに気持ち悪がられているかもしれない身体に悪そうなソースがかかったステーキとかを食べているのをこれからの世代が見たら不気味だろうなと思った。想像上のホテルの鏡的な場所に映った老いた自分を見たような気がした。フロイは『不気味なもの』のなかで不気味なものを「慣れ親しんだ–内密なものが抑圧をこうむったのちに回帰したものである」としながらそれだけではないという含みをもたせた。そこには触れえぬもの、疎外状況があるのだろうと私は思う。

千葉さんのような語り部が必要なのはそういうわけだろう。アイデンティティなんて言葉はいずれ使われなくなる気がする。自分を語る見知らぬ他者が連続しない場所に複数存在するような時代に誰の声でどうやって自分の輪郭を確かめていくのだろう。触れられ抱えられ声や身体感覚を頼りにそうしてきたこの身体が断片化したり流出し拡散していく状態はもはやエリクソンのいう「危機」でもなくなるだろう。

本当はnoteの内容を具体的に書きながら共有したいが有料記事なのでぼんやりしたことを書いた。千葉さんのしていることも私が考えていることも結構重たいと思う。でもこの世代としてやれるならやっておくべきことというのはあると思うのでとりあえず続けよう。

今日は土曜日。いいこともありますように。

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精神分析

新しいダム

昨晩のおかずの匂いがまだ残っている。台所の窓を開けた。今日も虫の声がした。もう蝉の声に戻ることはないだろう、来年の夏までは。来年の夏なんて本当にくるのだろうか。くるにはくるだろうけれど。不安がよぎった。

待ちくたびれた返事に返事をした。一瞬胸が疼いた。こういう時なんだな、不安になるのって、と少し笑った。おかしいからではなくてそうなるってわかっているのにまたそうなっていることに対して。

フロイトは、とまたフロイトが私の元へやってきた。昨日、私なんだかんだほぼ毎日ここでなんらかの本を取り上げている気がすると思った。メモがわりにツイートしておこうと思ったけど昨日分だけして面倒になってしまった。

フロイトは『フロイト全集 21』「終わりのある分析と終わりのない分析」(岩波書店)のなかで「分析を受けた人間と分析を受けていない人間とのあいだに本質的な相違をつくり出す」ものがあるのではないかという。フロイトはそこで分析によって作り上げられるのは「新しいダム」であり、それは「以前のものと較べ、まったく異なった堅牢さを有する。つまりわたしたちは、新しいダムに対して、それらはそんなにたやすく欲動の高まりの洪水にやられてしまわないだろう、という信頼を寄せることができる」と書いた。この論文は精神分析とは何かということを考えるための必読論文だ。そうか、私は、彼彼女は、あなたは「新しいダム」を作っているのか。大変なわけだ。

白川郷、飛騨高山へ向かう途中、ダム建設によって水没した村、元荘川村、現在は御母衣ダムのそばで高速バスが止まった。バスガイドさんが巧みな話術でそこから移転した桜の話をした。荘川桜の話だ。母も泣いていた気がする。

以前通っていた墨田区鐘淵に都営白髭東アパートという大きな防災団地がある。最初に見たときには思考が停止した。団地それ自体が防火壁になっており非常時にはシャッターが降りる大きな門がある。え?人が住んでるよね、と。もちろんこの構造は人を守るためでもある。でも人住んでるよね….。どうにも理解が追いつかなかった。

自分を新しいダムとして再建する。そのイメージを使えばその構造はそんなに矛盾を孕んだことではないのだろう。しかしリスクは大きい。まさに、だ。

フロイトはこの論文の最後では治療の終わりに突き当たる「岩盤」として去勢不安に基づく心的両性性の受け入れ困難の話もする。フロイトのダム建設過程において両性性は当然のものとされながらフロイト自身によって拒絶されたといえるだろう。そこはまだ「新しい」ダムではなかったのかもしれない。ダムや防災団地の建設過程にはマゾヒズムの問題を見出すこともできるだろうか。どんな建造物ができればそれは「新しい」といえるだろうか。それはどこまでいってもまだ途中のとりあえずの形なのかもしれない。

何はともあれもうこんな時間。地道にやることやりましょうか。まだまだ暑いですからお大事になさってくださいね。

cf.終わりのある分析と終わりのない分析」(1937) は岩崎学術出版社の『フロイト技法論集』にも入っています。

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短詩 読書

短歌とか孤独とか。

台所の小さな窓を少し滑らせる。開けた隙間から風が入ってくるか手を寄せてみる。スーッと気持ちの良い風が入ってくることを期待しては裏切られるというまでがデフォルトなので今日も本当はそんなに残念じゃなかった。東京も少し雨が降っているかと思ったら降っていないみたい。わからないけど。昨日も降っていないと思って家を出たら腕にポツリと大きな雨粒が当たった。京都、大阪ほどは降っていないのはたしか。どうか皆さんご無事でと思う。

すでに起きてからしばらくたつ。少し眠いのだから寝ていればいいのだけどあっという間に30分以上経ってしまった。そしてこうして机に向かう。そのまま公にするには憚れることばかり考えていた気もするが冷蔵庫のゴールデンキウイをいつ食べようか、ゴールデンカムイと似てるなとかも思ったりしていた。

少し前に俵万智の『サラダ記念日』が話題になっていた。きちんと読んでいない私でもその名前はよく知っている。なんで話題になっていたんだっけと思って調べたら節目の年だったのか。『サラダ記念日』から35年。私はまだ小6か中1か。もう少し大きくなっていたらハマったかもしれないな。当時は詩集ばかり読んでいた。そして谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』から70年。『言葉の還る場所で―谷川俊太郎・俵万智対談集―』というのが出ているのか。谷川俊太郎は小さいときからちょこちょこ読み続けてきている。大岡信との対談本もよかった。これも良さそう。

そうだ、これを書く前、森英恵が亡くなったというニュースをみてこの前インタビューを読んだばかりだったなと思った。96歳。違う。あれは桂由美だ。90歳。軍国少女だったという。その時代を生きた人というかどんな時代を生きた人かということはどの人に対しても持つべき視点。

俵万智と谷川俊太郎、生きてきた時代が異なる二人だが詩人も歌人も時空の飛び越え方がすごくて私たちにいろんな時代のいろいろを感じさせてくれる。二十億光年の孤独なんてどんだけと思うが、孤独とくればなんとなく納得もいく。誰もが知っている孤独。動物も知っているのでしょう?分離の契機を持つ存在はみんな。

私は俵万智の良い読者ではないが初恋について考えているときに出会った本をたいそう気にいっている。ツルゲーネフの『初恋』にはまっていたことも思い出した。

あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫)。野田秀樹の帯のインパクトもあった。解説も面白い。何首あるんだろう、番号振ってないんだ、と最初の一覧をみていたが百首って題名にある。うーん。もうどれもこれも恥ずかしくなるくらいあからさまだったりある意味分かりやすかったりしてたやすくときめいてしまうわりにすぐおなかいっぱいになったりもする。俵万智の解説を読むと落ち着く。消化を助けてもらえる。ひとりひとりの歌人が生きた時代や状況に思いを馳せ、自分の体験とも重ね合わせながら読み解かれるそれぞれの歌は私からは近いものも遠いものもあるがわからないものはない。孤独、不安、嫉妬、恋はめんどくさい気持ちをたくさん連れてくる。そして歌にするとこんなにストレートになってしまうのも恋なんだろう。逆に言葉を失うことだって多い。なんだか馬鹿になってしまうのが恋だ。

秋深き網走の旅つづけゐむ夫の孤独を妬めり我は 宮英子

俵万智同様、私も網走を訪ね、かつての刑務所などを見学したことがある。網走刑務所は開拓の歴史にも重要な位置を占める。全国を旅してきたが網走はおすすめしたい土地のかなり上位だ。ここにも孤独がある。この歌の「夫」は歌人の宮柊二、歌人夫婦だ。この孤独は妬みの対象となる孤独であり、妬みとともに体験される孤独とは異なる。ひとりでいること、それがいかに難しいことか、それはたとえ秋の網走を旅したところで同じかもしれないがそれでもそうできていること自体がいろんな妬ましさを連れてくる。

暦の上では秋。網走は涼しいだろうか。過酷な冬に向かうそれはそんなに気持ちよくはないものだろうか。どこで生きるのも生きるって大変だ。いろんな気持ちに彩られてそれらが混じって真っ黒な気持ちになったりもするけれど今日もなんとかはじめよう。

さあ6時。準備準備。

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精神分析、本

言える機会

空はグレーと水色のあいだ。グレーと水色なんてただでさえ間の色なのにさらに。間ってどこまでいってもあるのね。

コーヒーが熱い。冷房も入れたばかりだけど飲んだらすぐに汗になりそうな季節はもう過ぎたみたい。虫の声が朝の静けさを守ってる。蝉の声が世界をのっぺりと平板にしていくのとは違う。言葉にできないけどなんか違う。

この前、暮田さんとフェミニストの言葉について少し触れた時に竹村和子の『愛について』は精神分析の知識がないと難しくてとおっしゃっていた。そうなんだよね。でもあそこで想定されている精神分析の「目的」は大分古典的かつ一般的なフロイトに対するイメージであって誤解を招くと思う。私の場合、精神分析の本として読まないせいかそこを「わからない」とはならないかな。精神分析がこうやって捉えられがちなのはわかるけど違うよ、とは思うけど。でも著者はこの主張をするための補助線として精神分析をこう理解して使っているのかと仮固定の場と捉えて読む。

最近ますます複数のことを同時にできなくなっている。例えば今ならNetflix流しながらこうしているんだけど感覚が以前と大分異なる。注意の配分が自然にできなくなっている感じで指の動きとかにもたまに意識的になる必要があるくらい。次にやるべきこともルーティンなのに抜けている感じで時間感覚も鈍くなっているみたいだし。ほんと軽い認知症なのではと思うことが増えた。ただ記憶力は元々相当悪いし、注意力も子供の頃から注意されてばかりだからようやく自分の状態を正確に認識しつつあるだけかもしれないわね。あまり嬉しくないけど自分を知るってそういうことかもね(これ以上みたくないみたいから適当に終わらせようとしている気もするわね)。

あー。さっき書いた本の読み方もこういう適当に割り切ってしまうところが出ているのかもねえ。前提が正しくないのだからそこをどう読むかはもっと正確であるべきなのかもしれないけど。うーん。でもどこに時間をかけるかと言ったら精神分析そのものだからフロイトはもちろん主要な古典を精緻に読むことで暮田さんとのちょっとしたおしゃべりの時に「あれはちょっと違うの」と言えたみたいな関係を持つことが大切かもしれない。言えたのは嬉しかったな。そもそも読めなくても触れてないとその本の話が自然に出てくることはなかったから。

この前もね、とまたとめどなく書いてしまいそうだけどやめとこ。この日記ともいえない朝のこれはなんていうのかしら。もう90日続いてるって通知がきた。衰えゆく認知機能に対する無意識的抵抗かもしれない?「これをやっている今は朝だぞ」ってことを染み込ませているのかしら。そんなこといってないで仕事へいく準備をしましょう。余った時間は精神分析の文献を読みましょう。読みます。はい。

今日は東京は雨が少し降るみたい。少しであってほしいな。

週の真ん中、休みが遠く感じるかもだけどご無理なさらず。無理しなくてもいい環境づくりもしていきましょうかね、少しずつ。

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頼もしさ

机に向かうのが少し遅くなった。鳥たちはもうバラけてるよう。

どうしても気持ちが強くむいてしまう人やもの、ことに振り回されているうちに受身でいることを選んだ気がする。どちらにしても壊れていくなら私を保てる時間を引き伸ばせる方を思ったのかもしれない。

1歳3ヶ月になる子の隣に座った。「久しぶりだね」口をキュッと結んでチラチラと私をみるが不安や緊張が高まってはなさそう。突然のことで引越し祝いも誕生日プレゼントもあげられなかった、とあとから気づいた。録画された昔の「みぃつけた!」が小さな音で流されていた。違う。「いないいないばぁ!」だ。ワンワン大活躍だな。テレビを見たり私を見たり立ち上がってテレビに近づいていって転んで立ち上がったりしているうちに声を出すようになった。今日は特別だから夏の彩りの美味しいお弁当を買っていった。コーンと枝豆のまぜごはんもきれい。この前は二段重ねの小さなちらし寿司だった。一緒に食べようと椅子にのせると前に置かれたごはんを見て大きな声をあげた。食べよう食べよう。私たちのごはんもじーっとみている。まだこちらの目線など気にしないのもいい。今のところ食べるのが大好きだそうで本当にモリモリ食べていて頼もしかった。コーンが大好きでねだっては一粒のせてもらい美味しそうに口に入れてた。美味しいよね、私も好き。前回は持つことはできても飲むことができなったマグをひょいと片手で持ち上げて上手にストローでお茶を飲んでいた。頼もしい。このくらいの年齢の子を見ていると「頼もしい」とよく思う。慌ただしくも楽しい時間が過ぎるなか、いつから自分が壊れることを想定するようになったのだろうと一瞬思った。

ごはんを食べ終わってまた隣に座る。すっかり懐いてくれている。あまりにかわいい笑顔で私をみたので友人と顔を見合わせて笑った。前より広くなったスペースでよく動く。小さないないいないばぁをたくさんする。そういえばマグにタッパーの蓋をのせて外すような動きを私に披露していたのもいないいないばぁだった。フロイトがfort-daと言いながら糸巻き遊びをする子どもに惹きつけられたのもよくわかる。繰り返されるけど少しずつ変わるそれに。この前はちょうどつたい歩きができるようになった頃だった。椅子は手押し車のようでそれは今回もそうだった。おむつを替えたあとポイポイとおむつをカゴの外に出しはじめた。「入れといて」と特に期待もせずいう私たちの言葉よりみられていることがなんらかのやる気を出させるのだろう。わからないがおむつを一つカゴに戻した。私たちが手を叩いて褒めると頬が緩んだ。この年齢の子の表情というか表情筋?微細な変化が遠目にでもわかる、遠目というほど距離とらないけど。もう一つ戻す。また私たちにニコニコと手を叩かれる。また戻す。繰り返す。いないいないばぁの変形ver.だね。途中から自分でも手を叩き、小さな手で上手にタッチもできた。ニコニコさんだ。別にお片付けなどできなくてもいいのだが(全く片付けられない大人との引っ越しストレスの話もした)何かをしては喜ばれる、そんな体験はたくさんあってもいいと思う。私がその動きを忘れかけた頃、その子がとっても明るい顔でそばにきて両手を叩くようにして合わせた。思わずニコニコした。お片付けしてくれたのね。すごいすごいありがとう、と私も手を叩く。一緒に叩く。笑う。幸せ。

いつからこんな風にできなくなったのだろう。思い思われること、動きを呼応させること、何も難しいことはないのに。

昨晩は私たちがネット上に立ち上げた小さな句会の投句締切だった。彼らと過ごした時間のおかげでいつもと違う気持ちで言葉に向かえた気がする。

壊れることを想定しない自分を前向きというのかな。彼らには前も後ろも過去も未来もまだないか。これからたくさんの分離を経験するなかで今ここの幸せが幻だったように感じるときがくるかもしれないけど大丈夫だよ、と言ってあげたい。あなたは今こんなに頼もしくて私たちを幸せにしてくれる。それを私たちが覚えている。覚えていたい。いずれ過ぎる、いずれ終わる。それは本当のことだけどそんなことあえていわずとも今ここに委ねられるように今日も過ごせたらと思う。

今日は火曜日。無事に一日過ごしましょう。

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短詩 読書

暮田真名さんと川柳WSをした。

数年ぶりに最初の職場の先輩と会えた。コロナ禍で仕事がオンラインに切り替わる中、もう一人の先輩にzoomの使い方を教えるついでにおしゃべりして以来かな。LINEではたまにやりとりしてたけど。先輩たちの子供たちもおもしろかわいかったな、あの時。ちっちゃなときから知っているけど先輩たちが母親になってもずっと私の知っている彼らなままであることにいつもちょっと驚く。そして昨日もいつものままだった。飛びつくように再会を喜ぶ私にも普通にのんびり喜んでくれて日影茶屋の水ようかんをくれた。

8月14日は14時から16時まで川柳作家の暮田真名さんをお招きしてワークショップを行った。紀伊國屋の詩歌コーナーがある2階で待ち合わせをした。もちろん暮田さんの『ふりょの星』もある階。左右社から4、5、6月と3ヶ月連続で刊行された川柳本も相変わらず平積みされていた。こんなおしゃれな本たちが川柳の本であるとどのくらいの人が知っているのだろうか(知ってほしい)。

暮田真名『ふりょの星』平岡直子『『Ladies and』なかはられいこ『くちびるにウエハース』(いずれも左右社)

生まれてはじめて川柳と向き合う参加者のみなさんにとってサラリーマン川柳とは異なる川柳というものがこんな形で存在することがすでに驚きだったらしい。先輩は最初の感想で「それだけでもすごい収穫」といってくれた。これまでそうとしか思っていなかったものに別の世界があったという意外性との出会いに素直に感動する人なのだ、昔から。

サラリーマン川柳で名を馳せた人とかいるのかな、そういえば。あれは笑って流せる感じが「川柳」という言葉が持つ流れて消えていくイメージと響きあうことで世に広まったのかもしれないね。共有すべきはそれぞれの事情ではなく会社員で配偶者がいてこういうことを言っても崩れない程度の関係性をもった主に男性というなんとなくの前提。それを「川柳」という言葉のイメージ通り聞き流してきたのが私たち。それに対して「穿ち」「おかしみ」「軽み」に主観性と詩的要素が加わったその歴史の流れのなかで川柳観を育まれつつ実作しているのが暮田さんたち。(『はじめまして現代川柳』参照)。歴史認識のあるものとないものが同じ名前を持ってしまったこと、そして大抵の場合、歴史認識のないものの方が市井の人には広まりやすいことは現代川柳が詩性を兼ね備えたものとして読まれる機会を減らしたかも知れない。また、ちびまる子ちゃんの「友蔵こころの俳句」、それをもじった「〇〇こころの短歌」など「思い」発の言葉を定型に投げ込むことに馴染みがある私たちにとって「思い」ではなく「言葉」から書く(これも『はじめまして現代川柳』を参照)現代川柳の存在は遠かったのかもしれない。だから暮田さんがサラ川には登場しない私やあなたや彼らたちいろんなみんなの存在を思い出させたnoteの記事「#01 川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」も話題になったのだろう。先輩が「収穫」といったのももちろんこの視点の(再)獲得のことだと思う。

ワークショップでは『はじめまして現代川柳』の編著者小池正博さんの川柳を用いた穴埋めでいかに私たちが最初に浮かんだ言葉から離れられないか(全然それで構わないわけでもある)を知り、その広告が持つ意図をいかに台無しにするかという穴埋めではなかなか台無しにするのは難しい(意味の変更はできるが)ことを知り、生まれてはじめて川柳を作る時間ではわけわからないまま文字を組み合わせる自分と出会う体験をさせてもらった。やや混乱しながらも普段から逆転移としてそういった感触がどこから生じるのかにも注意が向いているみなさんなのでその言語化も興味深かった。こういうのをどう体験するかは当然自由で、正解のない世界に戸惑いを感じてもそのまんまでいいし、やりたくなければやらなくてもなんでもいい(与えられても拒否してもいいとは思いにくいかも知れないが拒否はいつでもしていい)。ただそのような感触も体験しないことには生じない。

私が多くの情報が流れるTLで暮田さんの講座名「あなたが誰でも構わない川柳入門」という言葉に目を止めたのも無理がない。一人の人に複数的なあり方を認め、その力動によって立ち現れる現象を言葉にしていく精神分析とそれが響きあったのだろう。それを単なるイメージで終わらせるのではなく、まだアカデミアの領域にはないとはいえ、そのサークルの中だけでなく積極的に外に作品を送り出している実作者から歴史認識とともに川柳を学び、体験できたことは貴重だった。

参加者のみなさんはそれぞれ初対面だったが別れがたく暮田さんを交えお茶をして帰った。よく笑いよく喋った。なんかいいことをした気分になった。暮田さん、松岡さん、参加者のみなさんのおかげ。どうもありがとうございました。

早朝に日影茶屋の水ようかんをいただいた。最高だった。逗子にも遊びにいくからね。また一緒に美術館とか海とかいこう。先輩ありがとー。

ちなみにおしゃれでかわいい暮田さんの写真はTwitterに載せました。

今週もあっついですよね、きっと。無事に過ごしましょうね。

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光で混じり合う領域

カーテンを開ける。レースのカーテンが少し破けてきた。確かにそういう年月が過ぎたかもしれない。満月だ。空はもうだいぶ明るい。でも満月もしっかり光っている。太陽と月が一緒にいる時間はなくても光で混じり合っていく。

せっかく楽しかったのに、限られた時間しか一緒にいられないのに、今そんな話してなかったのに、私が嫌がると知っているのに・・・。

こう並べているとだんだん自分のいってることが馬鹿みたいに思えてきてさっきまでマグカップの湯気で誤魔化しつつ涙ぐんでいたのがスーッと冷めて無表情になる。こういうのは私のわがままだから相手にとっては理不尽なだけなんだから考えても仕方ない。さあ帰ろう、と立ち上がろうとする。

一応専門家としては全然仕方ないとは思わないけれど。

ひたすら自分のなかでこなしてこれは誰のせいでもないというところに落ちつける。人は自分の欲望を優先させたいものだ。ちょっとした好奇心を満たすことの方が好きな人へのちょっとした愛情表現より優先されることなんて誰にでもあるし実例ならSNSに溢れている。してほしいこと、してほしくないことなんてそんなはっきりしているものではない。こちらには一番重要なことでも相手にとってはどうでもいいということだってありうる。様々なズレの中でどう均衡を保つのか、相手の自由も自分の自由も尊重するってどうすればいのか。大切にしたい人にどういう態度を取れば大切にしていることになるのか、もう、なんだかケアという言葉について考えるときと同じ難しさがある。

餌を与える、という言葉がちらつく。嫌な言葉だ。その人の特徴をよく知っている。こうしたらこうなるということを知っている。だからこうしておけばいい。こうなるのは仕方ない、だから慣れないと。私がここで反応しすぎたらその人はなおさらそれをするだろう。なんの悪気もなく、忘れてたルーティンを思い出したかのように。だったら反応しすぎる私の問題なんだろう。

臨床でもそうだが、私たちは関わりがつらくて仕方なくなると相手を変化しないものとして捉え始める。相手にとってもそのほうが楽な面もたくさんある。でも変わらないってありえるのか、お互い。

マグカップを両手で握るようにして頭を垂れる。頭で考えているうちに落ち着いてくる。これを知性化というと頭の中でいう。だいぶ落ち着いてからその人のことを具体的に思い浮かべる。気持ちがざわつき始める。なんだ何も落ち着いてないじゃないか。自分に嘘をついてる。本当のことがいいたい。それが私のわがままでどんな馬鹿らしいことでも私はそう思った、私はこんな気持ちだった、もう我慢したくない、といいたい。

また涙が出てくる。頭で考えてるだけじゃダメだ、やっぱり。今日した会話を思いだす。たまにしか会えなくても積み重ねてきた言葉のやりとりを思いだす。冷たい手も暖かい手も思い出す。悲しいことより理解しあおうとする時間の方がずっと長いことに気づく。いつもこの繰り返しだ。どうしてすぐに小さな方に反応してしまうのだろう。もちろんその一言に私が反応するのにも理由がある。でもお互いを知るほどズレもたくさん知ることになるのは普通のことでは。だから言い合いをしたりほかでは感じないような気持ちになったりする。親密さは大抵強い気持ちとセットだろう。

ちょっとした好奇心を満たすことの方が好きな人へのちょっとした愛情表現より優先されることなんて誰にでもあるし実例ならSNSに溢れている、と書いた。データをとったわけではないが印象では子育て中の夫婦、特に母親側に多いつぶやきな気がする。辛いなと思う。なぜその一言が言えない、という事態は第三者が登場すれば増える。二者は常に第三者に揺さぶられる。そこで私たちが感じる気持ちはどうしたらいいかという話以前にまずは無条件で傾聴されるべきだろう。とても簡単なことなはずなのにそれを求めることすら許されないという絶望を抱えていれば自分に対してもどんどん懐疑的になる。それは辛い。もちろん湧き上がる衝動を抑圧し無理や我慢にとどめるか、もう壊れてもいいとぶちまけてみるか、それぞれのあり方はどれにも間違いはないだろう。それに関係というのはずっと続ければいいというものでもない。選択肢があることを忘れてしまうほどに身動きが取れなくなる前にお互いがお互いの光に支えられていることを感じる瞬間が生まれたらいいのに。

私はできたら時間をかけたい。限られた時間をお互いにとって開かれたものにするために言葉にするまでにも時間をかけたい。そこには確かに無理があって嘘っぽい自分にうんざりし泣き過ぎて頭痛で起き上がれないこともあるが、とりあえず事実に即した気持ちを優先的に描写することをしていきたい。結局臨床と同じみたい。

どうにもならない気持ちのときほど別の仕方を探せたらいいと自分に願う。与えられた構造が有限であるのは当たり前。それでも私には長すぎる時間だったり広すぎる空間だったりするのだろうからそっちを意識したい。ただでさえ限りあるものをさらに自分サイズにしてなんていたらそれこそ独りよがりだもんね、と持ち直していきたい。

どれもこれもまた心揺さぶられたらあっさり忘れそうだから宣言ではなく希望として書いておこう。すべき、やらねばという言葉で自分を縛るのも変だと思うから。

太陽と月。光で混じり合う。そういう領域を増やせたらいいな。

良い日曜日を。

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俳句 未分類

台風、見通し

台風が近づいているらしい。外国だと台風には名前があるよね、と思ってwikiをみてみた。今はアジア名というのもあって日本からは「琴」とか「山羊」とか星座に由来した名前を提案してるんだって。最初「日本 yagi やぎ 」の並びを見たとき2度見したけど星座ね、なるほど。琴座って久しぶりにみた。アメリカのハリケーンは人の名前で好き勝手に投影できてしまうせいか「それは合わないのでは」とか思わないけど日本の台風は数字で呼ばれているのしか聞いたことがない気がする。

今空は静かなのだけど台風前のなすすべなしな感じってこれまでの経験からきているのかな。時折強く吹く風、そしてまた静けさ、突然降っては止む雨、そしてまた、という繰り返しにリズムを見いだせないことが見通せなさに対する諦めを生じさせてるのかな、とか。

今思い出したのだけど今日速達で出さなくてはいけない俳句を投句用紙に清書していない。昨日のうちにやろうと思って持ち歩いていたのに投句用紙が載っている結社誌もない。どこ?持ち歩いていてオフィスで出しておいてきてしまったのか・・・。多分そうだ。もー。締切間際に作って安心、という態度もいただけないが、無くしものの多さよ・・・。こういうのは何度もやっているので予測がつく。見通しがつく。相手は台風ではなく自分だもの。なのでなすすべなしではないが、こんな自分にはいつも軽く眩暈がする。やろう。探そう。なかったら別の手をうとう(あるのかよ)。

あー。兎にも角にも台風でもなんでも自然にはなすすべなし、とはいえ、被害が生じませんように。気をつけて過ごしましょうね。

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未分類

立秋と二度寝

虫の声だ。今年も立秋の日にそう思った。夜が急に静かになった。

新宿駅西口を出て歩いているとどんどん蝉の声が大きくなる。新宿中央公園全体の形が自然に脳内に描かれるのはこの季節だけだ。

光と音でその距離を測れることを子どもの頃に知った。地元は雷が多い土地だった。空が真っ白に光りしばらくすると遠くから地鳴りのような音が響いてくる。それが一気に集まりバリバリっと空を破るときは近い。光が鳴ってからそれが聴こえるまでの秒数を数えるまでもなく近い。当時はとても怖かった。実際にあった怖い話もたくさん聞いたからだろうか。ゴロゴロ、ゴロゴロという音が少しずつ遠ざかっていく。あの人の街はもう通り過ぎた?自分では超えられない距離を想う。

音で距離を測り空間の形をつかむ。近所の森でアブラゼミが鳴き始めたが鳥の声がかき消されない程度になった。新宿中央公園は30年近くずっと身近で園内の地図だって何度かみている。思い浮かべたのはその地図だったのかもしれない。公園に入ると音は上から降りはじめる。何種類もの紫陽花はフェイドアウトして鳴りを潜めている。あるいはすでに切り取られた。繰り返す生に切断を持ち込む。現状維持のためか、これからのためか。紫陽花同志ではそんなことは起きないから考える必要もない。

立秋。気候変動を肌で感じているつもりだがなぜこの日に秋を感じるのだろう。「夏ってこんなに暑かったっけ」と毎年思うのだから私に掴めるほどの変化は起きていないのか、もしくは季語が持つ力か。それを秋と感じる仕方はきっとあまりにも多様だ。

じっと考えこむ。答えなどないというか問いにすらできない事柄を。問いの形にしてしまえば何かを言いたくなってしまうかもしれない。みなかったこと知らなかったことにできたとしても。いやできない。見えたものは見えたもの。秋がきた。秋と名付けられた自然現象のなにかをそれぞれが掴み取ってそう思う。問わずともそれの仮の名前はそれであり、私にとってのそれもそれである。ただそれだけ。なんだか眠くなってきた。その場しのぎしよう。ちょっと二度寝しよう。

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精神分析、本

小さな抵抗

フロイト、クライン、ウィニコット、ビオンという精神分析の柱をなす精神分析家の理論と十分に対話し、ほとんど公の場には出ずプライベートプラクティスにおいて多様な患者と会い続け(対象の幅広さが別格)、美しい文体で精神分析で生じる現象に理論的意味づけを与えてきたアメリカでは誰もが知る分析家といえばトーマス・オグデンだろう。日本でも人気があり、着々と翻訳が勧められていることは前にも書いた。

オグデンの初期の著作に『こころのマトリックス』(岩崎学術出版社)という本がある。私はマトリックスの意味がよくわからず映画の「マトリックス」もピンときていなかったのだが、この本やその後のオグデンの思索を追い、引用などもするなかで少しずつわかってきた気がする。蜘蛛の巣みたいなものか、と思っているのだけれど違う?

オグデンは乳児のこころのマトリックスは母親のこころと身体というマトリックスの内側にあるとした。確かに乳児の最初の体験の場所は母親のこころと身体であるのはわかる。乳児はそこでみずからのこころのマトリックスを生成するという仮説もわかる。ウィニコットがいうようにそのときの母親は乳児が外的現実を侵襲として体験することのないように原初の母性的没頭によってほぼ乳児と同一化し、内的現実と外的現実のずれを消している、という仮説もわかる。つまり外的現実という世界は乳児が創造したという錯覚を作り出す、というのもウィニコットを読む私にはおなじみだ。

そしてこれらは大抵の場合失敗する。それが外傷となるかならないかは母親次第であり、母親の持つ環境次第である。と書いてしまうと身も蓋もない。

最初に出会う対象をAとしてそれが既にA以上の何かであることはAにとっても出会いにとってもどうにもできないこと。社会状況、経済状況、教育環境なども全て連動している中で、本来境界線などないにも関わらず様々なカテゴリーに投げ込まれることを繰り返すうちなんとなく自分を説明する言葉が増えていき自分もそんな気分になってくる。何かを一括りにするような言葉はほとんど気分や雰囲気で使用されており自らそれに縛られることで自分の衝動や攻撃性や破壊性を抑圧している、と考えることだってできなくはないだろう。子供たちが言葉遊びや反対言葉に大喜びするのは既にその不自由を体験しているからではないか。変化の原動力でもあるそれらは全て抑圧されるべきものではないし、そんなことはできないから、あるいはできないのに無理やりしようとするからいろんなことが起きているとだっていえるかもしれない。

昨晩ごはんを食べながらそんな話をした。細かいことは早くも忘れてしまった。

自分なんて曖昧なものだ、と私は思う。精神分析は母子関係をモデルとして使っているうちに「母」に役割を与えすぎたのかもしれない。精神分析は「自我」に対しても同じことをやったと思う。ひとつの言葉に多くを任せすぎるからなんかよくわからないことになってなおさら気分や雰囲気でその言葉を使うようになってしまい、なんの根拠もないのに「そういうもんだ」みたいな役割に自らも縛られていくのでは、だから「本当の私」みたいな言葉を使いたくなるのでは、など思う。

その人がいたから私はこう考えるようになったのかもしれないんだよ、といい意味でも悪い意味でも思う。それがたとえ悪い意味だとして「あの人さえいなければ」と思ったところで、多分きっと別の似たようなことは起きたと思うよ、もしかしたらそれをするのは自分だったかもしれないよ、と自分に対して思う。誰にもわからないこと、わからなかったことばかりなのに誰かを決めつけて排除することなどできない。そうしていい理由などない。そうわかっていてもしてしまうしされてしまうのだけど流されるままにそれを「そうするもんだ」とすることには抵抗したい。

いつも何かと小さな抵抗を自分に対して試みている気がする。試行錯誤の繰り返しだ。辛くて苦しくて寂しくて泣いてばかりな時だってある。でもそれだって「これってたまたまでしょ」と思う。勝手に自分のことを決めつけない。たまたま自分がいる状況から見えること、そこで聞こえること、感じることに地道に注意を払う。決めつけた方が面倒ではないがその場しのぎは辛いと思う。私は患者に興味を持ち続ける。患者がそうできるようにそうし続ける。そうされることで取り乱すことが増える。取り乱されると私も揺さぶられる。抑圧は万能ではない。さらなる抑圧が生じる。気づきつつもそこに委ねる。なかったことにしない。すると時々どうしようもなく追い詰められた状況からふと解放されるような体験が生じる。力が抜ける。「今まで気づかなかったんだけど」とずっとそこにあったものに気づいたりする。道端の花、とかそういうのではなくて、大抵の人はそこにあると知っていたであろうものが自分には見えていなかったことに気づくようなことが起きる。驚きつつ恥ずかしそうに笑う。笑っている場合ではないということに気づく場合もある。どんな体験が導かれるかは人それぞれだけど「そういうもんだ」「そうするもんだ」と世界を偉そうにくくるよりは自分にも相手にも地球にも優しいあり方な気がする。

土居健郎も中井久夫も価値の棚上げについて考えていた人だと思う。そしてそれを言葉の問題として位置付けていたように思う。間違いを指摘し、正しさを伝えることはもちろん大切だ。そしてそうされることに強く抵抗を示し頑なに修正を拒む人たちがいたとしてもそれが「悪い」わけではない。誰だって一人で勝手にそうなったわけでもないのだから。いろんな気持ちになりながら今日も過ごすことになるのだろう。何かを決めつけては頑なになって苦しくなってひどいこと考えたりもするだろうけど行動するなら言葉にしてみるという行動を優先したい。相手がいなくてもこうして書いたり考えたり。寝るのもいいかも。時間が過ぎるのを待つよりはいつの間にか過ぎていく時間に委ねるのも。蜘蛛ってそういう時間を過ごしているようにみえるけど餌がかかるのを待っているわけだよね。うーん。生きるって難しい。

今日は祝日。ハンモックに揺られていつの間にか寝てしまっていい夢とかみられたらいいのに。ハンモックないけど。お休みの人もそうでない人もまずどうにかしたいのはこの暑さか。気をつけて過ごしましょ。

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精神分析

中井久夫の本

3時過ぎ、揺れを感じて起きた。地震ではなかったらしい。

昨日、店が開くのを待ちながらTwitterを見たら友人が中井久夫死去のニュースを流していた。そうか、ついにと思った。

揺れを感じて目が覚めるなり中井先生のことを思った。大地震が来るような気がして少し怖かった。先生というほど直接的な関係はない。講演は聞いたことがある。本はずっと読んできた。引用もした。中井先生の下で働くために神戸へ越していった知り合いは数年前に亡くなった。東日本大震災の時、阪神・淡路大震災以降に先生が書かれたものを読み直した。土居健郎先生との交流が心に残り彼らと付き合いの長い分析家の先生と話した。

私が自分の書いた論考で引用したのは『徴候・記憶・外傷」(みすず書房)の主に外傷性記憶についての文章だった。この本は1995年阪神淡路大震災以降に執筆された論文を集めたもので、エピグラフのあるものとないものがある。

私が繰り返し読んだ「外傷性記憶とその治療ー一つの方針」のエピグラフは中井久夫が愛し、訳したポール・ヴァレリー『カイエ』からの引用である。

“体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。五〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。”

中井久夫が翻訳について書いた文章もまさにまさにだ。先日、「言葉の可能性を探る」〜心理士(師)が地域でひらかれるために〜というテーマでイベントをしたときに参考文献を写真でツイートしたが、その中の一冊『私の日本語雑記』(岩波書店)は今年最初に文庫化した。

中井先生は描画の天才でもあるがその言語感覚にはこれからもずっと刺激され続けるだろう。言葉がいかに人間を作り、動かしていくか、中井先生の言語での描写には静かな危機感が滲むようで私のような一読者の言語使用をとどまらせ再考を促す一面を持つ。

3時過ぎに起きて二度寝してしまったせいか少し疲れた。さっき調べたらその時間に実際に地震があったらしい。あの震災の体験を生き続け書き続け伝え続けた中井先生の言葉がこうして残っていることに気付かされる体験だった。

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短詩 精神分析 読書

Z世代のうたい手たち

空が赤みがかって水色とピンクが混じり合う時間。今朝もまだ風が強い。昨日、新宿の上空に次々現れる飛行機を見上げながら見送った。いつの間にか月が大きく出ていた。近くの森でアブラゼミが鳴いている。ミンミンゼミが鳴き始める頃には出かけよう。

キャロル・キングの優しい歌声を流しながら先日読んだ『ユリイカ』2022年8月号

<今様のうたい手>
何万回でも光る遠吠え! 初谷むい
川柳のように 暮田真名

を思い出していた。オフィスに置いてきてしまったので見直せないが同世代の二人の文章にはしみじみ思うところがあった。1990年代後半、2000年手前に生まれた子供たちだった彼らは短歌と川柳の世界で早くも輝き始めている、と書きたいところだが彼らにそんな陳腐な言葉は似合わない。

彼らはその時代のその年齢らしい悩みを抱えながら生活する中で偶然出会ったものに素直に反応し自分の好きなことをやっていたら早くもその才能を見出されただけという感じで自然体であると同時に短歌にできること、川柳にできることをしっかり発信している職人であるようにみえる。愛想もあまりない感じなのになんだかかわいい。自分のあり方を模索し苦しそうな様子も見せるのに今回のような散文で見せるバランス感覚はこの世代独自のものと感じる。AI時代の彼らは人間そのものと塗れなくても寂しさや苦しさを癒す方法を知っているからだろうか。若い患者たちの世界にもそれを感じる。もちろん私の主観に過ぎないが、彼らの作品や文章はエネルギーはあるのにこちらを巻き込んでくる感じがない。私は見かけがいくらカッコよかったり素敵であったとしても人目を気にしすぎではと感じてしまうと冷めてしまう。自分がそういうのをめんどくさいと思っているから上手に受け取ることができないのだろう。器が小さい。一方、Z世代と呼ばれるらしい彼らは自分がどう見られるかよりも自分がいる世界のことを気にしていて、そことどう折り合いをつけたらいいのかナルシシズムと格闘するのではなく小さな無理を重ねては解消し少しずつ進む形で自分を大切にしているように感じる。今回掲載された散文は文体も雰囲気もだいぶ異なるが、壊しては出会う、生きてるってその繰り返しだ、ということを二人とも書いているように思った。その循環によって過剰な表現(=死に急ぐ可能性)は遠ざけられているのだと感じた。

イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは主体が空想できるようになり、生き残った対象を「使用」できるようになるプロセスをこんな風に表現した。

‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’ 

ーWinnicott, D. W. (1971)

6. The Use of an Object and Relating through Identifications. Playing and Reality 17:86-94

邦訳は『改訳 遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」である。

「こんにちは、対象!」「私はあなたを破壊した。」「私はあなたを愛している。」「あなたは私の破壊を生き残ったから、私にとって価値があるんだ。」「私はあなたを愛しているあいだ、ずっとあなたを(無意識的)空想のなかで破壊している」と。

若い世代に自分たちの世代が負わせてしまったものを感じる。でもそれを生き抜く彼らのバランス感覚を頼もしくカッコいいとも感じる。あなたたちのために、なんて今更いうことはできない。ただ彼らの世代が「自分自分」とがんばらなくても大丈夫なようにできるだけ広く注意をはらいたい。早くもトップランナーになりつつある彼らはきっとそれに協力してくれるだろう。

「また会ったね」としぶとい自分に笑ってしまいながら卑屈にならずにいこう。といっても難しいから卑屈になっても壊れても回復しながらいこう。そういう力は強度の差はあるかもしれないが誰にでも備わっているはずだから。いいお天気。とりあえずカーテンを少しだけ開けるところから。

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精神分析

ラッパ、小径、猫

ラッパみたいに白くて大きな花を首を垂れるようにして咲かせているお花がその小径の目印になる。毎朝遊歩道を彩る花々を愛で時々写真に撮りながら歩いているが名前を言えるのはほんの少し。私がいろんなことを覚えられないのはお花のことだけではないのでもう仕方ないとして、お笑いでも作家でもなにかとなんでも詳しい俳句仲間たちが割と私と似たような感じでお花の名前を知らないのは興味深い。すごい数の俳句を空で言えたりするのに。あれ「空」でいいんだっけ。誦?まあいいか。「空で言う」なんてなんか素敵だものね。

そうそう、早朝から脱線している場合ではない、というほど今日はバタバタしていない、というかなんとなく毎朝こうするのがリズムになっているだけでノルマでもなんでもないし、これを書くぞ、と決めているわけでもないのだから脱線とかないよね。線路がないよ、元々。

お花の名前って調べるのに覚えられない。さっきも「ラッパ 白い大きな花」で検索した。「エンジェルストランペット」だって。え?そのまんま?いや、エンジェルの、とは思わなかった。確かに天使ってああいうラッパ吹いてる。トランペットね、なるほど。熱帯花木ですって。「天使のラッパ」で調べたら「黙示録のラッパ吹き」のウィキペディアがトップに。クリックしないでも見える範囲に

“黙示録のラッパ吹きは、『ヨハネの黙示録』に登場する災害の前触れとなる7つのラッパを吹く7人の天使達。”

って書いてあった。まあ・・・。やめてよね、そういう合図鳴らすの。でも「きみたちがラッパ鳴らしたせいでこんなことが起きたんだからね!」と怒るのは多分違うな。見かけからして彼らのアイデンティティって奪われてるものね。神様、やめて、ってことになるかしら。

昨日は「心理師(士)×言葉」イベント第一弾で公認心理師でアーティストの松岡宮さんの「小屋」へ行ったのだ。松岡さんはこの一軒家で障害のある方々のピアサポートをされていて、そうだ、この小屋のことを「公認心理師のいる白い小屋」と書いていた。そうだ、と思ったのは、とまたどうでもいいことを書こうとしてしまったけど戻ろう。この「小屋」が下の写真にある小径にあって、その入り口にこのラッパ花(こう言い換えるから覚えないのか)があったの。道に迷ってしまってもこれが目印になるかしらと思って写真に撮ってTwitterに載せた。松岡さんは「毎日来てるのに全然気づかなかった。やっぱり感性が」とか言ってくれたけどそのあと行ってみたらオレンジ色の車が停まってて見えなくなっていた。そっか、駐車場だもんね。松岡さん、感性とかではなくて視覚的に見えていなかっただけかもしれません…。しかも毎日きている松岡さんが気づいていないなら目印にはならなかったな、多分。

イベントのことを報告がてら書こうと思っていた気がするのだけど迂回に次ぐ迂回。寄り道しかしてこなかったからかな、幼稚園の頃から。田舎だからサイロ近くの小径を牛に塞がれて(牛にしてみたら座ってただけなんだけど)しばらく牛と見つめ合いながら立ち尽くしたあとトボトボ引き返してそこから走って学校へ行ったこともある。

昨日は少人数でそれぞれの現場での話をちょうどよく具体的にしながら言葉で表現することについていろんな話ができた。いつもならこう書き始めればサラサラ書けてしまうのだけど昨日のは多分書きたくないんだろね、私。荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』をなんとなく参考文献のような感じでツイートしたけどまさにそんな感じ。とても言葉にはできない曖昧でギリギリのところでなんとかやっているような仕事なんだな、この仕事。改めてその部分を自覚できてよかった。

そうだ、「地域」という言葉の使い方についてややピキッとしたね、私は、昨日。はっきりとは言わなかったけど。元々曖昧な区分でしかないこの言葉を「閉じる」方向で使用することに対しては今後もピリッとしていきたい。ピキッとするよりは。

良い時間、良い小径でした。猫と見つめあったり見送ったりしていたら松岡さんがちょうど玄関から出てきて「猫ちゃんいました?」と。いつもいる猫さんなのね。「今写真撮ってました」と答えたその中の一枚がこちら。

今週も始まりますね。またとっても暑くなるみたい。どうぞお大事に。

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精神分析

慣れない

これは本当に私が求めていることなのだろうか。求めれば求めすぎだといわれ我慢していずれ慣れれば関係が安定する。それは私が求めていることなのだろうか。「でも彼が」「でも母が」「でも子供が」と「でも」を使いたくなるとき、私の気持ちは何をしたがっているのだろうか。

言葉にしないことに慣れつつある。私とあの人とでは「普通」が違う。これがあの人の「普通」なんだから「普通はさ」と私が言ったところで「だったら」とまた突き放されるか謝ることで責められたと感じていることを示されるだけだ。できるだけ受身的に合わせていればそのうち慣れる。今はまだこんなに長く眠れもせずただぐったりと何も手につかない時間が続いてしまうけれど。

共に生活をする仲でもなければ言わない、見せないことはいくらでもできる。普通は会わないからこそ細やかに想像しあい思いやりあう部分もあるのだろうけど。また「普通」って使ってしまった。相手にとっては普通ではないのだから仕方ない。でもそんな風にできないことを「わかってくれたか」と言わんばかりにあるいは何か言いたげな私と「一緒にいてやっている」と言わんばかりに自分の都合ばかり。私にも都合があるんだよ、と小さい声でいうことも憚れる。

それでも私はこの関係を絶対に間違っているとはいえない。私が本音をいうことで相手が傷つくなら私も私がされたことをその人にしているということにならないか、と躊躇する。明らかに感じている理不尽さを「わかってもらう」ように伝える仕方がわからない自分がおかしいのではないか。

もし気持ちがもっと元気ならこういう状況になっていること自体を「間違っている」として自分の自由を模索できるのだろうけど。

簡単ではない。だからアドバイスはしない。一般論はいうが「普通」とかよくわからないものを探したりもしない。いい悪いの話もしない。あってる間違ってるの話でもない。ただあなたが辛くて悲しくて寂しくてそういう気持ちを隠したくてでもこれ以上嘘をつきたくなくて変わらないであろうその人との関係をどうにかしたくて眠れない日々を送っている、そしてそれを私に正直に話したら何かしらの評価や判断をくだされるのではないかと恐れ、そう私に理解されているにも関わらず上滑りする言葉ばかり使ってしまう。

私は人ってそういうものだと思いつつ「今、こういう感じみたいだ」ということを伝えていく。その時間は相手と私だけのものだ。そこで相手に向けられる眼差しは親が子供に向けるそれと似ている。が、日常は仕事ではない。

古来「川」は境界として機能してきた、という。

“そのほか、水辺、崎、みなと、山の端、道、関、戸、門、垣根、軒など、境界の表象は和歌にふんだんに登場する。空間の境界だけではない。季節や一日の時間の中でも、変わり目となる境界的な時間がしばしば選ばれる”

ー渡部泰明『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか」

今は時空をたやすく越えた気になれる時代だ。先月天の川を見上げた?私は18歳の七夕の日のことをここに書いた。今年の空のことは覚えていない。

今は自分の都合や気持ちを優先するためのツールがある時代ともいえる。だが、それが誰かの気持ちも動かしている限り不安や後ろめたさやそれをかき消そうとする衝動や攻撃性から逃れられることはないだろう。

「本当に」なんて言葉も相手がいる限り無理をしている証拠にしかならないかもしれない。なんとなく自然に委ねるように相手のことも自分のことも信頼できたらよいのだけど、と思う。

今日は日曜日。眠れなかった人がまだゴロゴロしていられますように。そうできない人がとりあえず動くというところまでできますように。願うばかり。祈るばかり。

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短詩

言葉イベント

明日はこれ→https://aminooffice.wordpress.com/2022/06/30/【東京公認心理師協会地域交流イベント

誰かが何かを教えるわけではなく同じ職種の方々との交流の時間を持つ。テーマがあった方がよかろうというか、東京公認心理師協会の地域交流イベントはテーマ設定を求められているので「言葉」とざっくりしたものにした。元々は暮田真名さんを呼びたいというところから始まったが外部講師を呼ぶための謝礼も出してもらえないし、あくまで内側でというような感じだったので暮田さんをお呼びするのは私個人ですることにした。地域のNPOを長くやっていた私からしたら謝礼云々はともかく、外部に自然に開かれておけない状態自体、すでに交流を閉ざしていると考える。

関わりたい時に関わりたい部分だけに関わることを私たちは避けがたくしているわけだけどそこに意識的でないことが様々な傷つきを生じさせている気がする。今ではSNSがそれを巧みにできるツールだということは自分自身の体験を振り返れば大抵の人は思い当たるだろう。私は大いに思い当たるので使用の仕方には意識的な方だと思う。ただ、自分では気をつけても気をつけても難しいので使わないのが無難とも思っている。みる方としても随分気持ちに負荷がかかるのでなおさら自分がそれをしてしまっていないかを考える。

さて、今回は対面。協会の地域交流イベントに応募してみようと思ったのは私がSNSで公認心理師でポエトリーアーティストの松岡宮さんの活動を知り、オフィス見学をさせていただいたところからだった。私はプライベートプラクティスをメインの仕事にしているのでもはや時間がとれなくなってしまったが、松岡さんは私が昔から好んでやってきた活動を大田区の一軒家でやっていらして、しかもそこでご自身のCDや詩集も作られているとお聞きした。1時間ほど楽しくおしゃべりをして別れた。数週間後には松岡さんが私のオフィスに来てくれた。そこで協会から地域交流のパンフレットが来ていたと見せてもらった。私はまだそのお知らせの封を開けていなかったのだけどすぐに応募を決めた。松岡さんはオフィスで高次脳機能障害の方々のピアサポートを地道に行っている。このような場所を持つ人自体今は減っているし、行政との関わりを個人オフィスが維持しているのも貴重なことだ。このような活動はモデルになってくれるし根付かせていくことを彼女も望んでいたし、それを応援したかった。

それは単に以前の活動の代わりというわけではなく、現在も私は発達臨床の仕事を請け負う杉並区の社団法人に登録し行政から保育園巡回の仕事を委託されて行っている。なので私自身の職場環境を考える上でも重要だと感じた。行政の仕事でもっとも重要なのは予算を得ることだがその分野で経験を積んだ専門職で構成されている団体にお金を出すことの意義は年々認めてもらいにくくなっている。資格を持っていれば誰でも、ということでより安い給与で別の形式での雇用も始まった。非常勤の掛け持ちで生活をしている人の多い東京の心理職の職場は飽和状態なゆえ求人があるだけありがたいと感じる人だっている。それだけで生活はできないにも関わらず。この悪循環は心理職全体の問題だと思うが、杉並区の場合は新しい区長に期待したい。お役所を通すと何事にも時間がかかるが文句だけいってても仕方ない。

その点、松岡さんや私のように自分でオフィスをもち仕事をしているとフットワークは軽い。今回もほとんどノリでやっている。「あそぼー。」「いいよー。」という感じで。こういうのが大事だと私は思う。

今後、心理職が外に自然に開かれるために、という目標を掲げなくてもなんとなく繋がっておくことは災害時などにも役に立つ。そのためにまずは自分たちの文脈と相手の文脈がどう異なるかを意識化するために自分の発話、相手の受容と反応という繰り返しを辿ることからはじめてみるつもりだ。「はじめまして」なので素材があった方がやりやすいだろうということで3つの素材を考えた。タスクではないのでやらねばというものでもない。当日の変更も可能だ。一応松岡さんと話したことを私のメモとして書いておく。

素材は①それぞれの職場環境 ②女性性、男性性を語る言葉 ③川柳句集『ふりょの星』暮田真名(左右社)より「OD寿司」である。

文脈が異なるといえばすでに職場環境からしてそうだ。先述したように自分の仕事は働く場所によって大きく規定される。私たちが自己紹介をするときに自分の職場環境をどう表現するか、受け手はそれをどういう場所として受け取るか、自己紹介は通常は一方通行の発話だが録音したものを(余裕があればテキストにして)辿り直し、どの部分で何をどのように受け取ったかについて話し合う。みんな同じようで異なる前提のもとそれを解釈していると思うので小さな違いを楽しめたらいいと思う。

さらにせっかく中立性をあり方の基本とする心理職が集まるので分断の解消を目指す言葉がさらなる分断をうむ事態について話しあってみる。最近の事件で心理職全般への信頼度は下がっているかもしれないがそういう大雑把な括り方をされたくないなとも常々思うし、世間という受け取り手の特徴についても同時に考えられるだろう。

そして最後にそこまで丁寧にお互いの前提や文脈を確認してきた時間から言葉の意味を解体する時間にジャンプしたい。そのための素材が14日にワークショップを開いていただく川柳作家暮田真名さんの川柳句集『ふりょの星』に収められた現時点での暮田さんの代表連作「OD寿司」だ。

フロイトは圧縮と置き換えを夢解釈の技法とした。暮田さんの川柳は置き換えの機能を存分に発揮し、意味と言葉の繋がりはゆるゆるだ。一方、断言するような文体は、文法は間違っていないが自分の文脈仕様に単語の意味を変えて使うロボットの言葉を聞いているようでなんとなく説得されてしまう。煙に巻かれるのは楽しい。そこまで立ち上げてきた「共有」の空気を一度かき消しその遊びをすることで一緒に笑ったり考え込んだり意味ではなく体験の協働をする。

そしてお茶とお菓子をいただきながらこれらの体験を振り返る。そんな流れだ。7日に参加してくださった人にはぜひ14日もきていただきたいがお盆の時期で今年は帰省をするからいけない、残念、また絶対やって、という人が多く、一方でコロナ自粛をする人も重なった。当日はコロナ対策は十分にするが人数が少ないのは最大の対策だろうとも思う。なので少人数での開催もいいものだと思っているがいろんな人に暮田マジックともいえる言葉遊びを伝えたい気持ちもある。

一応ご案内はこちら。ご案内には有資格者限定と書いてしまったが、資格のあるなしに関わらずなんらかのケアを行っている方々はお気軽にお申し込みを。いろんな人の言葉との出会いを楽しみに。お楽しみに。

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副都心線:明治神宮前

あー、渋谷止まりか、と思う。渋谷からバスでオフィスの近くまで行けるので雨の日とかはとてもいいのだけど同じ渋谷でも東横線からだと結構歩く。副都心線直通の電車だったら新宿三丁目で乗り換えることになる。そこから新宿へ出て、新宿からオフィスまで歩くとなったらそっちの方がいっぱい歩くことになるわけだが結局歩かねばならない距離や時間で選んでいるわけではないのだな。直通ではなく渋谷止まりの電車を見るたびにどのルートで行こうか迷ってしまう。

いつのまにか他の路線に乗り入れる電車が増えた。

精神分析家の藤山直樹先生がご自身の本の最後に副都心線が開通して賑わう明治神宮前にて、みたいなことを書いていた。ちょうど見直そうと思っていた『集中講義・精神分析 上』(岩崎学術出版社)を手にとった。あとがきの最後を後ろからめくる。

「二〇〇八年九月 夏の名残の夕立の音を聞きつつ、神宮前にて」

あれ?違う。では『精神分析という営み』(岩崎学術出版社)を。はじめて明治神宮前にある先生のオフィスへ伺った頃に出た本。あのグループで一緒だった仲間から今年精神分析家が誕生した。育てている。この本は國分功一郎さんや村上靖彦さんも言及している転移の本質を描写した本だ。藤山先生の本で一番読まれるべき本だと思う、ということは以前にも書いた。二日目のグループが終わったあとのオフィスで著者割で買ってサインをいただいたのだと思う。藤山先生の落語を聞いたのもあのときがはじめてだった。今や安くともお金をとってホールで披露するまでになっている。寿司でも落語でも精神分析でも極めるのが好き、というか極まっちゃう(日本語間違っているってわかってる)のか、あと俳句も。この時点で私は「あ、多分、『落語の国の精神分析』(みすず書房)だ、副都心線開通のことが書いてあるのは」と思っているがそばにおいていないので確認できない。

一応『精神分析という営み』のあとがきの最後をみてみる。

「二〇〇三年 初夏の神宮前にて」

あれ?シンプル。この本もさっきのも夏に出たのね。あ、これはこの前の一文が大事なのか。

「フロイトも見し暗澹を昼すがら寝椅子のうへに編み上げほどきて」

ほとんど短歌。フロイトの見た暗澹はすごかっただろう。ユダヤ人であることに生涯苦しめられた。死ぬ間際にナチスから逃れロンドンへ移住。姉たちはガス室で殺された。フロイトのテクストは苦しみよりも悔しさや人間のやることなすことを徹底的に見つめていこうとする姿勢に貫かれていると思うけど。

副都心線が開通したのはいつだろうと調べてみた。2008年か。だったら『集中講義』上巻が出たときじゃん、と思うけどこのときの副都心線は先生のオフィスがある明治神宮前まで伸びておらず和光市と渋谷間の往復だった。東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始は2013年3月16日。やはり『落語の国の精神分析』のあとがきに書いてあるのだろう。

面白いのは副都心線開通に関する年表をウィキペディアでみていると

「2013年(平成25年)

2月21日要町駅 – 雑司が谷駅間で携帯電話の利用が可能となる」

などちょこちょこと「携帯電話の利用が可能」となった日時と区間が記されていることだ。そういえば前って電車で携帯使えなかったんだっけ。今や通じすぎる時代になった。気持ちが通じることの難しさは何も変わっていないけど。精神分析が細々と生き残っているのもそのせいだろう。

そうそう、なぜ『集中講義』を手にとったかというと三浦哲也さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩書房)をパラパラしていたらアントナン・アルトーの

「映画は、人間の思考の曲がり角に、すり切れた言語がその象徴力を失い、精神が表象の戯れにうんざりする、まさにその時点に到来する。」

という言葉が引かれていたのをみて「藤山先生もどっかで精神分析は鞍馬天狗のように現れるんだみたいなこと書いてたよね、そういうこと言うから精神分析の印象悪いんだと思うよ」と思い、どこに書いてあったんだっけ、と思ったから。探してばかりだな。まあ、50歳近くなってもまだ候補生という立場で(精神分析のトレーニングってそういうもの)直通運転とは遠い世界にいるのだし「おー、やっと携帯繋がったよ」という感じでいろんなことが繋がっていけばいっか、と思っているので地道にのんびりやりましょ。

今日は東京は30度超えないみたい。大雨の被害がこれ以上広がりませんように。

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前髪と雷

また前髪を切りすぎた。思ったよりひどいな、と鏡をみて思う。

「すいません、自分で切っちゃって」というと「あちゃあ」という顔できれいに切り揃えてくれるその人はもう随分前から軽く頷くだけになった。お互いにいつものことだけど私はいつまでも少し恥ずかしい。その人と出会ってから一度も美容室を変えていない。出産でお休みをされたときは私の街でやはり小さな美容室を一人で開いている友人を紹介してくれた。その人にも前髪を揃えてもらった。私はずっと開業を見据え部屋借りをしながらいくつかの仕事を並行してやってきた。今は自分のオフィスでのプライベートプラクティスがメインだ。美容師と心理療法家の仕事はよく似ている。その人は私の開業を心待ちにしてくれてとっても喜んでくれた。一年に数回しか会わないけれど会えばずっと話をしている。お互いのプライベートもそれなりに知るようになった。その人が隣町で女性一人で小さな美容室を開き、たまたまそれを知って通い始めてから10年以上が過ぎた。本当にいろんなことがあった。

昨晩は眠りに落ちてまもなく雷の音で目が覚めたようだった。カーテンを真っ白くして入り込んできた光のせいだったかもしれない。うめき声のようないびきのような音が一気に高まってバリバリと空を切り裂く。白い光を浴び、大きな音を聞きながらぼんやりしていたが眠れなくなってしまった。バリバリ音を録音してみようとiphoneを手にとったがこっちがそのつもりになると鳴ってくれない。寝る前に出したメッセージにマークが灯った。まだ起きているのか、あるいはこの雷で起きてしまったのか。もう遠くにいっちゃったのかな、まだこんな光ってるけど、とiphoneを枕元に置くとまた地響き。くるぞ、バリバリ、と思ったけど結局録音せずただ聞いていた。

しばらくしたらリンリンと雨が手すりを叩く音が聞こえてきた。まだ降っていなかったんだ。この音が消えたら雨が手すりを全部濡らしたってこと。雨はどんどん激しくなる。

「ちょうど雨と雷が。すいません。」と申し訳なさそうにしながらワクチン接種会場の出口のドアを開けてくれた。「すいません」だってと思いつつ笑ってお礼をいうとその人も笑って見送ってくれた。回数を重ねるごとに動線がはっきりし、案内がスムーズになるワクチン接種。初めての会場だったが知っている街なのに思ったよりずっと近くて早く着いてしまった。「大丈夫ですよ」と熱を測ってすぐに待機場所へ。スムーズ。医療従事者として高齢者の方々に囲まれて待っていたのだが携帯電話の使い方やご夫婦の連携などみなさんの行動がひとつひとつ興味深く面白く「元気でいましょうね」と呟くように思った。

動かすと腕が痛重たいがこれまでと同じように大きな副反応は出なそうだ。これからということもあるのだろうけど。ワクチン接種会場を出て雷の大きな音に怯えながら駅に急いだ。ポツリポツリと大粒の雨が落ち始めすぐに傘を傾けても防げない雨に変わりジーンズが濡れた。たまたま晴雨兼用の大きな傘を持っていたのはよかったがジーンズは失敗。目的地に着くまでは不快だったが何事もなかったかのように戻ってきた強い陽射しですぐに乾いた。空、すごい。

講談社学術文庫から『風と雲のことば辞典』というのが出ている。ウィトゲンシュタイン研究者の古田徹也さんがブックフェアか何かで紹介していた。開いてみる。「浮雲」「浮き世の風」「動かぬ雲」「丑寅風」「丑の風」ふむふむ。昨日の風は何?昨晩の風は何?

「白雲糸を引けば暴風雨」

「ハチの巣が低いと風の強い日が多い」

などなどもある。そうなのか。地方によっていろんな観察から生まれた言葉があるのね。私は無知すぎるな。まあ、そういう人のために辞典というのはあるのだろうから助けていただくことにしましょう。

そういえばともう一度鏡を覗く。おでこが狭い上にこの前髪、風に揺れる長さもないな。

警報の出ている地域の方々もどうぞご安全に。皆様、ご無事でありますように。

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また言葉

何かを捕まえにいくような聞き方をするときもあれば囚われて巻き込まれているなかでなにか聞こえてくるのを待つときもあるけどどちらにしてもそれが臨床である以上どっちかの言葉ということはないから難しい。

なんだかわからないことばかりで暴走したくなるときもあるけど暑いのでやめよう。まあ相手にも世界にも色々あるのだろう、と思うことにしよう。

暑いのでやめよう、となるエネルギーの乏しさ。老化とも成長とも。気持ちまで沸き立つのいやだからね、と私が私の感情を拒否する。上手くなったものだ、と自分の心身の連動に笑う。正直そんな暇ではないという思いもある。そっちにエネルギーを使うならこっちだろうと冷静な自分に静かに言われたような気もする。

言葉のことばかり書いている気がするが仕事がそうだし言葉には苦しめられもするけど面白い。トークも下手だし、好きな人を怒らせるし、文章もこの程度だけどだからこそ言葉への興味は尽きない。自分の態度も言葉の使用を辿り直すことで振り返る。人間の身体の水分量と同じくらい言葉が私を占めていると推測する。だからかな。なんだか離れられない。

私の知っている言葉の才能が豊かな人たちはお互いを収集しあうのが好きでその人自身のことなどどうでもいいようなのだけどそんなもんなんだなぁ、と思う。葛藤のない気持ちの良いところだけ受け取ればいい関係が必要らしい。私はこの表面だけ触り合うような言葉だけの関係をやらしいなと思って眺めている。そこから恋が始まることもあればハラスメントが始まることもあるだろう。冗談で今書いたようなことをいって怒る場合なんてなおさら。

大体のことは言葉から始まっている。誰かを気持ち良くしながら誰かを傷つけることを巧みにやってのけるのも言葉だ。どの言葉も反応もその人だけに真っ直ぐ向けられているわけではない。こういう複雑さを知りつつそれを利用する人と反応を控える人がいるわけで、それを人によって使い分けている人もいたりする。もちろん「そんなつもりはない」と思う。

精神分析臨床で二人の間でキーワードになるような言葉が生まれることがある。生まれるといっても既存の言葉ではあるが二人にとってはそれがターニングポイントになったり支えになったりするような言葉だ。週一回の面接ではこの言葉の力を非常に感じる。これまで自分が囚われ苦しめられてきたと感じてきた出来事や関係を治療者を通じてある程度やり直すなかで言葉と感情と行動がバラバラとしたものからまとまりをえていくと患者は自分がどうしていきたいのか、それがいかに無理か、あるいはこういう方向でなら可能か、とやや未来志向になってくる。変化をあまり恐れなくなってくる。精神分析の理論は「原初の」という言葉をよく使うがそういうものを想定はするが、私は週一回の面接ではそれを想定しなくても日常言語でこういう変化は見込めると考えている。

IPA基準の「精神分析」は週4日以上のセッションを継続していくことが条件だがそれを体験してから言葉がいかに役に立たないかということを実感するようになった。それでも言葉しか使えるものがない。そういう状況を乗り越えていくのも言葉だ。言葉に対して不信感を持っている場合でもないが信頼して使うこともできない。しかし希望を持つしかない。「原初の」というときそれは主に不安に対して用いられるだろう。何がどうなっているのかまるでわからない状態と言ってもいい。意味と言葉の繋がりをゆるくすることでなんとか生きてきた人たちの言葉の使用を精神分析は一度解体する。何を言っているかわからないという状態が始まる。週一回ではとても抱えきれなかったものたちと私たちは遭遇する。言葉巧みな人たちがみせるような言葉の使い方が可能なのは初期だけだ。沈黙が増える。体験したこともない恐れや苦痛を表現する言葉がまるで見つからない。戸惑い、泣き、激しく怒り表現が退行していく。それでもこれまでの言葉を使用し上滑りを繰り返しながらやっていくしかない。

週一回でも普通の人間関係よりはかなり親密になる頻度だとは思うが精神分析の設定は夫婦関係や親子関係のあり方と近い。そこで生じる言葉にならなさ、どうにも抑えきれない感情、外からは見えない暴走、誰でもいくらかは思い起こせるだろう。周りにはわからない。言葉を何かの操作のために使うことはできない。言葉では通じない、と絶望したところでそれを伝えるのも言葉であるという絶望だけはかなりの程度共有されているはずでこれは支えになる。通じるより通じないことの共有がまずされること。言葉の使用の不自由さに戻ること、ナルシシズムと共に言葉が肥大し、自傷他害へと利用されないためにそれは必要なプロセスとなる。防衛パターンばかり身につけてやり過ごしてきた人生をどうにかしようとしているのだからそれは致し方ない。始まりに戻ることは誰もができることではないし別に望ましいことでもない。目的のためのプロセスとしてどうしても生じるし、これが生じないと別の動きが始まらないというものでもある。

あー時間切れ。暑いから仕事いくのもやめておこう、とはならないからいきましょう。みなさんもお大事に。

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ここにもアリス

夜中ほどむっとした空気ではなくむしろ少し涼しい気がする。そんなはずないか。今日だって猛暑日のはずだ。情報ではなく自分の身体で確かに感じられることの少なさ。私だけの問題でもなかろう。おはようとおやすみの挨拶さえすれ違う時代。「価値観が違う」という言葉を離婚記事とかで見るたびに「違うの当たり前だろう」と思ってきたが「時間や情報に対する価値観が違う」とか言われたら「なるほど」と納得してしまいそうだ。それだって違うのが当たり前ではあるけれど。

一緒にいるってどういうことなんだろう。

わからなくなる。自分のしていることが。思考と行動が乖離する。老眼鏡をかけたはいいが何を持ったらいいかわからない。軽い認知症のようだ。しばらく考えてからiphoneを探し手に取る。呟きはあるのに返事は来ていなかった。何かを手に取らなくても見える世界を見てればこんな寂しさは知らなくてすむのだろうか。

解体。言葉も自分も。『不思議の国のアリス』と突然再会したことは書いたと思うがさっき何気なく手にとった多和田葉子『穴あきエフの初恋祭り』を読みながらこれもアリスの話だと気づいた。

“朝目が覚めたら、睡眠中かかった呪いを吹き飛ばす勢いで、寝間着のボタンを引きむしるように外せばいい。ボタンをイメージするのは簡単だ。半透明の桃色の貝殻の頭がクリッとボタンの穴を通ってはずれる時の指先の感触を思い浮かべるのも簡単だ。ところが、イメージ・トレーニングをすればするほど、脳と指の距離が遠くなっていって、どうしてだろうと思ってみると、腕が長くなっていた。身体がどんどん大きくなっていってしまう時のアリスは、不思議の国で自分の身体が自分のものではないことに気がつく。”

ー137頁「てんてんはんそく」『穴あきエフの初恋祭り』(文春文庫)所収

輾転反側。眠れぬ夜を繰り返すうちに少しずつおかしくなる身体が自分のものではないと気づくならまだいい。不思議の国にいけなくなってしまったアリスは病気になってそれを作り出すかもしれない。

洗濯が終わった、と洗濯機が音楽を鳴らした。最近はなんでもメロディつきだ、ということは以前にも書いた。今日は火曜日。こうして毎日書いていたら少しは時間感覚がはっきりするだろうか。会いたい人に会えなくても解体せずにいられるだろうか。私もあなたも私たちの言葉も。

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止まる。動く。

夜明け前の曖昧な明るさ、静けさが好き。鳥たちが鳴き始めたら世界が少しはっきりしてきた証拠。

複雑な状況をどうにかこなそうと意識的にも考えるが多くの場合仕事をするのは無意識だ。無意識というのがあれなら、私が意識的に何かをしている感じがしないといえばいいのか。胸が苦しくなるような出来事に涙や怒りやどうしようもなさを感じてもじっとそこに浸る。今具体例を書こうとしたが、こういうときもセーブがかかる。私がどうかしそうになる瞬間を多く体験するのは親密な関係においてだけど、親密な関係であることを権利として奪われていると感じ毎日絶望しながら戦っている人たちもいるだろう。差別的な発言でない限り、私が何かと比較して表現を抑える必要はないとわかってはいるし、そうすること自体が何か偉そうな気さえするが意識して考えようとしなくてもこういう考えが次々に浮かんでくる。辛くて悲しいけどそれらをじっと観察している自分を感じる。それすら私がそうしようそれがいいと思って選んだ方法ではない。声をあげる権利は誰にでもある。悲しむこと寂しがること怒ること自体に抑制をかける必要などないはず。そう思っても相手のことを誰かのことを想うと私はこうしてじっと自分を追う以外なくなってしまう。こんなに書けない、書いては消すみたいな状態になるときこそ不用意に最初に感じた強い気持ちをぶちまけたくなるときかもしれないが自分でもよくわからない。

こんなときも「とりあえず」だ。「動こう」と思う。世界が二人でできていない以上、私があなたが誰かに向ける感情はすでに二人だけの関係で生じたものではないからものすごく複雑だ。憎しみや怒りも本来特定の人に向けるものではないはずで、だから私たちは苦しむ。でもこの立ち止まる感じなく、みながみな自分を制止する自分や誰かを振り切って「声をあげる」ことを善として動き始めたらそれはそれで相当の無理が生じているだろうし、誰にも気づかれないように少しずつなんとか関係を紡いできた日々をすべて同じ色で塗りつぶすようなことにもなりかねないのではないか。

私は止まる。いつも通り動く。その両方を今日も繰り返す。無意識が仕事をしてくれることを願いつつ私は私の仕事をする。私も私たちの関係もものすごく複雑な世界にあるのだから半分委ねつつ自分たちを観察し想いあい小さな関係を大事にしていけたらいいのに、と辛くなりながらも願う。測定しえない何かはもうそうなっていると信頼する以外ないが盲信するべからずではある。普通に見て普通に聞いて自分の感じることを大切にする。何を書いても無理そうな気分なときもあるけど、そんなふうにできる時間が少し先のあなたや私を守ってくれる気がするのだ。さぁ8月、と意気込むには暑すぎるので無理せずいこう。熱中症気をつけようね。