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精神分析

アリスの余裕

アリスは不遜でパンクな女だ、という鈴木涼美さんのコラムに全くもって同意。意味の占有をめぐる攻防が生じがちな精神分析臨床においてルイス・キャロル『鏡の国のアリス』にでてくるハンプティ・ダンプティは象徴的だ。元々はマザーグースに登場する人だかモノだかよくわからないこの卵そっくりの何かの言葉。アリスにはいくつもの翻訳があるがここでは河合祥一郎の訳で引用する。

「わしが言葉を使うときは」ハンプティ・ダンプティはかなり軽べつした調子で言いました。「言葉はわしが意味させようとしたものを意味する──それ以上でも以下でもない。」

「問題は」とハンプティ・ダンプティ。「言葉とわしのどっちがどっちの言うことをきくかということ──それだけだ。」

ハテナハテナを浮かべつつまあなんとも偉そうなと思う。 アリスも混乱している。が、ほとんどそれをどうにかしようとしない。ただこれ以上めんどくさいことが起きないように丁寧にうまいこと言って切り抜けようとしているアリスは全く可愛げがない(実際そんなのいらないよね)。私はこれを第二次性徴を迎え混乱しはじめる思春期心性の特徴として捉えてもいる。思春期の彼らとの心理療法は深刻さと軽薄さを揺れ動く。使われる言葉も喃語と若者言葉と覚えたての敬語となど伝わらない言葉と伝わる言葉の間を行き来する。

たまたま自分が意味の管理人だとでも言いたそうなハンプティ・ダンプティに助けを借りて精神分析臨床を描写する試みをしていた。そんなときちょうど「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」のお知らせもみつけ、鈴木涼美さんのコラムもみつけた。こういうのは出会い。本と出会うときと同じ。惹き合う何かがあるらしい。

鈴木涼美さんも引用している『不思議の国のアリス』の冒頭のアリスも驚くほど呑気。

「うさぎを追ってアリスもすぐにとびこんだのですが、全体どうやって戻ってくるか考えてなどいなかったのでした。」

アリスの好奇心は常に現実的な未来のことよりも今ここでなにが起きようとしているかというところにある。

「というのも落ちていきながら、まわりを見わたして次には何がどうなるのかふしぎがる時間があったからです。」

まるで夢の時間のようだ。そしてよく喋る。なんだこの余裕は。

you know.を混ぜながら独り言を言い、

「口に出してみるとなんだかすごく大人の気分」

と自分を状況に委ねてそれがどんな感じかを描写するアリス。ほとんど自由連想だ。言葉を口にしてみることが自体が楽しい。口にしたら感じたこの気持ちが面白い。読んでるこちらもワクワクする。

まだ20代の頃、研修か何かで浜名湖に出かけた。夜、みんなで食事をして宿に戻る道で、普段からよく懐いている知人の子供たちになにか歌ってと頼まれた。が、私は歌詞というものをほとんど覚えられない。歌詞だけでなく曲も覚えられない。何度も何度も歌った歌でもそうだ。なので適当な言葉で適当な節をつけて彼らと手を繋いでぐるぐる回ってみた。彼らはゲラゲラ笑いながら私が2度と繰り返せない適当な歌詞と節を何度も繰り返した。こんなのでいいのか、と思った。盛り上がりすぎて興奮を収めるのが大変だった。ちょっと失敗したと思いつつめっちゃ楽しかった。

アリスはハンプティ・ダンプティと話すときも相手の反応を見つつ自分の感覚に開かれている。親の顔色を気にしつつ実は考えているのは自分のこと、という思春期っぽさが生意気で楽しい。可愛げのなさがかわいい。

思春期臨床には勢いとvividさが必要だと私は思う。彼らを押し流していきそうな心身の急激な変化を私たちはすでに体験している。彼らよりは乗りこなすのに慣れているはずだ。一緒に失敗しよう、一緒に楽しもう、激しい言葉の応酬、暴力的な動きもあるがどうしようもなくそうなるんだよね、大丈夫、これ繰り返しているうちになんとかなるよ、と半分翻弄されつつ半分余裕でもある。呑気さにも発達段階があるのだろう。

ナンセンスを遊ぶ。わかることばかり求めない。わからないはわからないでいいのでは。今日は土曜日。7月も明日で終わり。それは確かみたいだよ。それぞれ良い週末を。