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精神分析

自由連想、要約、フロイトを読む

いつのまにかをいつの間にか。自由連想ってそういうことだと思う。だから毎朝、家事や準備をしながらさーっと書いている。さーじゃないか。さーっと風のように書ければよいのだけど実際はベタベタダラダラしたこんな感じの文章になる。タイプの音だけ聞いていると軽やかだけどね。

今朝は雨。結構な音がして目が覚めた。今日もバタバタと移動しながらの長丁場だ。雨止むといいな。

千葉雅也さんのnoteを購読した。以前も一度購読したのだけどその頃は千葉さんのに限らず文章自体を読むのが苦痛で解約した。昨日だったか千葉さんの短いツイートに「ああ、これはいいな」と感じた。今日流れてきたnote更新のツイートにその時の感触が重なった。こういうのは出会いだろう。なんとなく買った。買ってよかったと思いながら最近隙間時間にまた本を読めるようになったことに気づいた。千葉さんの文章は思ったより短かった。私が毎朝書く字数と同じくらいだった。ただの自由連想を誰にともなく書き綴っている私と料金以上のサービスを提供する千葉さんという比較をしてどうというわけでもない。違う人が書けば違うものが出てきてあとは読み手におまかせ。

自由連想はオープンテクストといえるだろうか。フロイトの『夢解釈』はウンベルト・エーコのいうオープンテクストで”baroque”style、その要約版としてフロイトが渋々書いた「夢について」はより”classical”styleで教訓的、と書いたのはReading Freudの著者J.M.キノドスだ。邦訳は『フロイトを読む 年代順に紐解くフロイト著作』(岩崎学術出版社)。この本はキノドス自身が読書会で試行錯誤してきた方法を元に書かれているのでフロイトを読むときには必携だ。まず読むべきものはここに書かれている。ちなみにキノドスは初学者には「夢について」を『夢解釈』より先に読むことを勧めている。『フロイト全集6』ドラ症例と同じ巻に入っているがよくあれをここまでまとめたな、というか、フロイトは超人的に要約がうまい。グラディーヴァの物語なんてフロイトの要約の方が原作より魅力的なのではないかと思わされる。ちなみに私がその要約力に非常に助けられているのは東浩紀さんと哲劇のお二人(山本貴光さんと吉川浩満さん)だろう。こういった助けがなかったら再び本を読む気力も出なかったかもしれない。

『フロイト全集9』に収められている「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」はラカンとは異なる意味での応用精神分析の始まりの論文である。題名から想像される通りこれも『夢解釈』から派生した論文で始まりはこうだ。

「夢の最も本質的な謎は著者の労作によって解かれてしまったのであり、それが確定したこととして適用している面々のあいだで、ある日好奇心が目覚めて、そもそも一度として実際には見られたことのない夢、つまり、詩人によって創作され、物語の脈絡の中で架空の登場人物たちにあてがわれる、あの夢の面倒も見てみようではないか、ということになった。」

「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」(1906)『フロイト全集9』所収

なんだか大きなお世話みたいな書き出しだが、フロイトは詩人は自分と同じ立場であり同士だという。そして彼らの作品に含まれるいくつかの夢が

「いわば親しげな面もちで自分のことをじっと見つめ、『夢解釈』の方法をわたしたちにお試しあれ、といざなっているかのようだった、と思い起こしたのである」

とその魅力に取り憑かれてしまったようなのだ。主人公の考古学者ハーノルトがレリーフのグラディーヴァに恋をしたように。そして、1903年に出版されたこの書物を読むのがいいけど一応要約しておくね、という感じで書かれた要約が面白いのだ。前にも書いたけど小此木先生も恋をしていたな、グラディーヴァに。グラディーヴァ論文は文学と精神分析の橋渡しをした重要な論文だし、色々な論考も出ているのでそれを参照するのも面白いかもしれない。

昨晩の私の夢にはユロおじさんみたいな人と犬が出てきた。ジャック・タチの「ぼくの叔父さん」大好きな映画だ。またなんだかんだ『夢解釈』にちなんだことを書いてしまった。しまった、ということでもないけどね。

まだ雨の音。今日はずっと降るのかしら。滑らないように、濡れたあと冷房で風邪ひかないようにどうぞお気をつけて。