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精神分析

精神分析って

朝から晩まで面接とSVと時々保育園巡回やコンサルテーションと自分の分析とSVとでバタバタしていて少しずつ進めたい勉強などもあるが疲れてしまってなにもできない。それも本当だけどいろんなことに心揺さぶられやすいのか気になることがあるとあっという間に1時間とか固執してしまってあーあとなることもしばしば。

ブラインド越しの光はまだ朝の色だけどすでにとても暑そう。

フロイトを読むのは楽しい。面白い。この人なんでこんなこと考えちゃったんだろう、と思いながらその思考を辿っていくと「ああ」とその熱い思いを感じたり皮肉にウケたり、背景の出来事にしみじみしたりして理論としてだけでなく楽しい。

治療としての精神分析も苦しくも楽しい、楽しいというと語弊があるかもしれないが勉強だってなんだって知らないことに取り組むには結構な苦痛が伴うわけで、でも驚きや喜びも多いわけでそれと同じ。ただ取り組む対象が教科書や本ではなく自分なのでそれは一人では無理ということで鏡のようでもあり別の考えや感情の動きを持つ他人でもある特定の人との密な関係のなかで結構な時間をかけて変わっていくプロセスになるからやってみないとその意義はわからないだろう、になってしまう、説明するとしたら。でもよく考えてみて。いやよく考えなくても私たちって日々ものすごく曖昧ななか大切な人の気持ちを一生懸命考えたり悩んだりするよね。それって答えのない世界だし、なんでそんなことに囚われちゃってんの、と他人だったら思うようなことでも1時間、2時間、夜中中悶々としたりして、爆発したり我慢したりしながらなんとか自分のこころ(想定だよ)ができることをしようとがんばったり耐えきれなくて壊れそうになったり実際に壊れてしまったりしながら生きている。その状態を治療者と一緒にみていくといつも同じ反応しかできない思いがけない理由が見えてきたり、わからないものをわかろうとしなくなったり、それまでは自分では気づいていなかったけどいろんなことにがんじがらめだったなと変わりながら気づいてなんとなく楽になっていく。それって生きているプロセスで多かれ少なかれ誰もが何度も体験してきていることだと思うのだけどそういう自分を実感して自分の使う言葉が自己中ではなく誰かと言わなくても通じ合うためのものになるプロセスを作り出しているのが精神分析の設定。中身より形式といってもいいくらいこの設定と方法は大事。自分を変えたいと願ったときに宗教やスピリチュアルな何かに一時的に助けられることはあると思うけど、精神分析にはそういう万能的な部分ないので地道。でも部分的には即効性もある。でも速攻で傷ついたりもする。なんなんだ、と思うかもしれないけど人との出会いって希望もあるけど賭けでもあるし偶然性に委ねる部分がとても多いのは誰もが経験しているはず。精神分析は歴史ある理論とその理論を確立してきた強固な設定に基づく膨大な臨床体験の知の集積によって、その暴力性に自覚的でありながら目の前の相手の今ここが示すものに関心を向け続ける。

さっきまですぐそばで早いリズムで高い声で鳴いていた鳥がいなくなった。よくあんなに早く鳴けるな。上質ソプラノ。

関心を向ける仕方もこうやって書きながら鳥の声を聞いているような仕方もあるけど精神分析の場合「平等に漂う注意」というのがその方法。これには訓練が必要なので訓練をしているわけだ。

精神分析臨床はとても泥臭い。遅々として進まず、愛憎入り乱れたり、反対に全く他人に関心のない自分に気づいたり、ものすごい情緒の揺れや空虚を体験する。なので数行でかっこよく記述できるものではない。そんな特別なものでもない。設定と方法が独特なだけで生活の中で自然に生じていることをやっているだけだ。普段はほとんど意識しないことに網羅的に注意を向けていくことで自分を楽にしていく。

パソコンが急に落ちた。一部消えたけど仕方ない。にしても急に堕ちるの嫌だなあ。なんでだろ。まぁここは時間切れということで。熱中症に気をつけて過ごしましょうね。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生