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精神分析

地獄、花曇

熱田の宮まんじゅうは何にでも合う。今日は大好きな白桃烏龍と。

なんでまた自分だけ子供になって散々嘘ついてる相手にいい子いい子してもらってるわけ、本当に毎回毎回よくそういうことできるよねといえばそういう人だからああいうことが起きたんでしょと嗜められる。

いろんなことは矛盾しているようで矛盾してないんだよ。こっちの矛盾はあっちでは矛盾ではない。投げやりな謝罪はいつのまにか「あんなに謝ったのにいつまでいってるの?自分だけが傷ついたと思ってんの?馬鹿じゃないの?」くらいに変わってるもんだよ。何が起きても「お互い様」ってやつ。人がたくさんいるってそういうことじゃん・・・。

そうなの?だから毎日「地獄だな」と思っちゃうのか。地獄知らないのにしっくりくるのはあれは人間の世界をかなり正確に切り取ってるからか。本当の裁きの場に持ち込む負担はものすごいから避けたいとしてもどうしても仮の裁きの場がほしくなるだろうしね。でも地獄ではなぜか裁かれるのはそこに出向いちゃった方だからずーっと煮たり焼いたりされながら死なずに生きることを求められて「でも大丈夫、神様がいるよ」みたいなノリに半笑いしながら疲れた心身を委ねることもありうるよね。自分の罪も抱えながらずっと絶望してればそうなるか・・・。半分死んでるような状態がこれからもずっと続くのか。本当に辛い。

ということを素直に言える相手がいるとしたらそれはやっぱり人がたくさんいるってそういうことなんだなと思えるかもしれない。でもいえない人はどうだろう。人を壊すのは孤立だという人は多い。人間誰しもひとりとはいえ「本当にひとりだ」と感じる出来事が起きない限りそれは日々の色々に紛れてそんな際立ってこない。じわじわと忍び寄るその感覚を自分でかき消し誰かの心身を傷つけてでも「そんなはずはない」と思い込もうとする機制も人は持ってる。自分で自分を欺く。本当に矛盾だ。そしてそれは矛盾ではない。地獄でケアを語ることだって可能だ。殺した相手のうめき声を聞きながら次なる相手の相談にのっていた事件もあった。「そんなことする人に見えなかった」と聞くとき「だったらどんな人だったら」と思う。戦争をしているのも同じ人間だ。なんだって自分とは無関係ではない。無関係だと思えるとしたらたまたまそう思える環境にいたということではないだろうか。そこには被害と加害という単純な言葉では捉えられない犠牲も献身も愛も憎しみもある。今日もぐちゃぐちゃの気持ちを抱えながら「日曜日なのに」と文句を言いながら(あるいは言われながら)自分ではどうにもならない「これ」をどうやり過ごそうか。自分ではどうにもならないのだから願うのみか。祈るのみか。

昨年、九品仏でみた紅葉が見事だった。総門を入ってすぐの閻魔堂にはそれなりに人がいた。あの辺は桜もきれいかもしれない。閻魔堂、地獄を安全に外在化させている場所といえるだろうか。あるかどうかわからないものを外在化というのは変だけどこころだってそういうものだろう。私はあの日門に近づくにつれ見えてきた紅葉に一瞬強い苦痛を忘れた。人がたくさんいる世界にはたくさんの人工物も自然もある。どうにかこうにかやっていこうとする人ができるだけ安全にそれらに守ってもらえたらいいなと思う。

今日は花曇。良い一日を。