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精神分析

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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精神分析

人のこころ

袴田さんの再審開始確定はよかった。でもよくない。こんなに長い間、心身を拘束して、身の回りの人の生活だって変えて、もう想像を絶する。姉の袴田ひで子さんももう90歳。お二人が生きておられたのは本当によかったと思う。人が人を裁きコミュニケーションの場を奪い尊厳を奪う。簡単にできてしまう。本当に恐ろしいことだと思う。世田谷事件の遺族である入江杏さんは未解決殺人事件の遺族として時効撤廃とともに冤罪防止を願っていたのでほっとしたとツイートしていらした。この事件のことも忘れることができない。あの辺は土地勘があるからなおさらだった。高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』をまた手に取りそうだ。人の心なさ、恐ろしさ。尊厳ってなんだろう。尊厳を傷つけられたときに生じる仄暗かったりドロドロした重たい闇のような感情、理不尽に晒され消耗しながら冷たく残酷な鬼と化していくこころ、知らない人はいないだろう。そんなものは自分にはないとしれっと軽薄に過ごしている人もたくさんいるだろうけれど。それが心なさ、恐ろしさというものだよ、とそれらを投影された人が感じ、支えのなかでこなしていければいいが。

毎日毎日本当にひどいことがたくさん起きている。でもそれだけではない。袴田さんを支え続けた人たちの涙、笑顔。どれだけの想いを抱えてきたのだろうか。全く想像がつかない。この複雑で残酷な毎日を生き続けていくことの困難を否認しなければ訪れるかもしれない希望を身をもって教えてくれる人たちに少しでも早く穏やかな日々が訪れますように。こう書くだけで本当にそれを穏やかといっていいのか、あまりにひどくないか、という気持ちに再び覆われるが、彼らがそう感じられるならそうなんだから何も知らない他人が再びそこに侵入するようなことはあってはいけないのだろう。

今日の東京は曇りみたい。明日は早くも花散らしの雨らしい。毎年そうだ。日々が過ぎる。季節が巡る。さまざまな人とさまざまなことに思いをめぐらせながら今日も一日。みなさんもどうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

お喋り、バッティングセンター、月曜日

よく話しよく笑った週末だった。大切な話もたくさんできてやっぱりこういう場が大切だね、と頷きあった。話している内容というより話すこと自体の大切さ。「普通」に言いたいことが言えるって当たり前ではないんだ、という感覚はポストコロナという感じもした。コロナ禍における「あれはなんだったんだろう」を相対化できる時期がきたのだろうか。まあしたくもないか。まるでなかったことにして進んでいく世界を前に置いてけぼりの感覚を維持している「あれはなんだったんだろう」状態のまま「人間って・・・」と考え続けるのは私の仕事でもあるし心身を守るすべでもある。「きっと今日もまた」と予想していたくせに傷ついたり衝撃を受けたりする体験に慣れることはないが慣れないことで維持されている自由や倫理だってあるだろう。違和感や不快感を対象まるごとなかったことにして平然と口にされる自由や倫理なんてそれこそ不快だけどそういうのに蝕まれながらもなかったことにだけはしないということも大切だろう。

久しぶりにバッティングセンターへいった。ゲーセン兼バッティングセンターだけどゲームをやりにここにくる人もいるのだろうか。バッティングの合間とか待ち時間にやる人の方が多そうというかゲーム台の前の椅子に人はいてもゲームをしている人はあまりいなかった。バッティングは二打席目はそこそこ当たったがなんかもう姿勢とかもろもろどんなだっけという感じだし腕がすぐに疲れてしまってそのあとやったストラックアウトなんてバウンドした球で2枚抜けただけだった。球技全般得意だったのなんてもう遠い昔のこと。身体がバキバキだ。そうでなくても加齢による身体の悩みは増えるばかり、と同時に同年代のみんなの共感と持ち寄られる情報の質は高まるばかり。不注意による怪我の多さとかはほとんど共感を得られなかったけど。バッティングセンターは自打球にさえ気をつければいい狭くてやることがシンプルな安全空間だから私には向いてる。常に運動不足だからまた行こう。東京は水曜から雨だって。雨の日でもバッティングセンターなら行けるね。時々こうしてバッティングセンター熱が高まると歴史とかも気になってきて「バッティングセンター 歴史」で検索してみた。やっぱり調べてる人っているんだねえ、何事も。『日本バッティングセンター考』(カルロス矢吹/双葉社)という本が見つかりましたよ。本紹介を読んで全国のバッティングセンターにいってみたくなった。今度旅に出るときは必ずその土地のバッティングセンターやそれっぽい娯楽施設をチェックしよう。これまでの旅を思い返しても田舎の3,4,5階くらいの総合スーパー的な施設のぽかーんとしたスペースに卓球台があったりしたもんな、そういえば。もちろん見つければやる。卓球もバッティングと同じで娯楽とトレーニングの境界が薄い気がする。たまにめちゃくちゃ上手い人が打ち合ってたりするもの、そういうスーパーの一角で。温泉卓球とかもそうね。

とか書いてるうちに月曜日、という言い方も変だけど休みはおしまい。「きっと今日もまた」という失望や絶望に沈んだとしてもいずれ回復できるようにこころの隙間を残しておけるといいですね、お互い。とりあえず今日をご無事に。

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精神分析

ひとりとみんな

いいお天気。朝からきちんと食べてしまった。おなかいっぱい。

10年以上仕事をともにしている人たちと集まった。仕事ではバタバタと準備をしながら必要な確認事項を交わすくらいの余裕しかないがこの関係になるとそのほんの数分の中のさらに短い時間でも普通にお茶しながら話すのと同じくらいの濃さがあるしこういう時間に支えられている。それでも実際にゆっくり会えるとなるとそれはまた全く別の楽しさがあって「嬉しい!!」と連発したくなる気持ちもみんな同じだ。

ひとりでオフィスを構えて仕事をしていると当たり前だがなんでもひとりでやるわけだがこうしてたまに会ういろんな人との繋がりが緩やかに豊かにあってくれることでひとりでやれているんだなと実感する。社会人になってはじめて勤めた職場の同僚もいまだに支えてくれる。

人のこころの恐ろしい部分、ずっと苦しめられ続けるであろうことは今後も変わらないだろうけどそこだけで生きているわけでもない。いろんなシビアな局面にも自分で対応しなくてはいけないがどんな行動にもこれまでの私のあり方が出るだけだからいろんなふうにやってみる。そして何かまずいことが起きたらまた助けてもらいながらやり直す。その繰り返しかな。ひとりでやることとみんなでやることの豊かな連動を、孤独になればなるほどそうではないと静かに支えてくれる力を今日も忘れないでいられますように。

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精神分析

嫌だった。怖かった。

雨か。昨日は雨予報だったわりに夜遅い帰り道もそんなに降られなくてよかった。天気予報知っていたのに水に弱いスニーカーで出ちゃって「やだなぁ」と思っていたから。帰り道に濡れる分にはまあいっかとなるけど。どうして天気予報を気にするわりにすぐ忘れてうちを出るときのお天気に靴を合わせちゃうのかしらね。なんでも「あーあ」で済ませられるからかしらね、放っておいても乾くとわかってるからだよね。

そうそう、この前、とても暖くなるという予報だった日、中は薄着にして薄手のダウンを羽織った。毎日夜遅くまで仕事してるから帰り道の寒さをいつも警戒してる。ただでさえいつも人より厚着してるけどこの日もそうだった。ホームへの階段をあがってパラパラと並んでいる人の前を黄色い線に気をつけながら歩いていたら背の高い初老の方が私が通り過ぎる瞬間にすごく大きな声で「あつそう!!」と言った。すごく嫌な感じに聞こえたけど反応せず通り過ぎてあとから振り返ったらこっちを見ててすぐに背中を向けた。「暑そう」って言ったよね。「あ、そう」とかじゃないよね。しかも怒鳴りました?さすがに私に対してですよね?背の高い人が低い私の頭上から野太い声で。その勢いでホームに落ちそうでしたなんてことはなくてよかったけどああいう場合無視する余裕があったわけではなく単に無反応になることで危険を回避しているだけなので怖いのですよ、ものすごく、本当は。知識としてでいいから知っておいていただきたいのだけど。それに私は私のために厚着しててしかも全く暑いとか思っておらずむしろちょうどいいじゃんと思っていたのです。私の感じ方など興味がないと思いますがそういう人もいると知っておいていただきたいのです。知識で反応を遅らせることはそこそこできるので。とにかくもし私が厚着することで不快さを感じたとしてもそれは自由なのですが、反射的に大きな声でそれをぶつけてくるのはやめてください。これがご自身と同じような見かけの方にでも同じことなさいましたか、というのもよくある質問なのだけど私くらいの厚着の方、そばにおられましたよね。もちろん私だからだろうと思って私は言っています。背の低い女の私はしょっちゅうこういう嫌な目に遭うのでほとんどパターンでこういうこと書けてしまうのだけどそんなことはできなくていいことですししたくもありません。でも書いておきます。気持ちの負担で時間を奪うにも程度があります。どうかお気をつけて。何歳になってもできることってあると思いますよ、機械的にで構わないのです、本当に。

と思ったことがあったの。嫌だったー。怖かったー。もう!!今日はまずは足元から気をつけましょうね。安全に気持ちよく過ごせますように。

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精神分析

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』(河出文庫)を読んだり。

カラスが遠くで鳴いている。スズメはすぐそばで。薄暗い朝。雨が降るのかな。昨晩、いつもの帰り道で桜が咲いていた。もうすぐもうすぐと蕾が膨らむのを見上げながら通り過ぎていたけど今年も変わらず咲いた。何事もなかったかのように。

「多分本当にわからないんだろうなあ、そんなことありうるのか、あるんだろうなあ」と私の理解を超えたわからなさにどうにか耐えながらこれも仕方ないあれも仕方ないと何も言わずにいた。一番嫌なことだけは伝えた。それが一番嫌だったんだろうだなあ。それが氷山の一角であれ、その下に広がるものと繋がっていることくらい本人の無意識は掴んでいるのだろうから。ただ人は健康を守るために良い部分、悪い部分を別々の人に投影して悪い部分を押し付けて切り離すという病的なことができてしまうのでチャンチャンと。病院に通う必要がない病気で健康を保つってことをしているのが私たち。あえて病気と書いているけどこれを病的な防衛機制とよんでいるのが精神分析。精神分析は異常と正常をスペクトラムと捉える、ということを学びはじめから何度も何度も教わった。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』(河出文庫)をため息をつきながら読んでいた。これは長く復刊が待たれながらなぜか実現してこなかった本。今回は新潮文庫版に改訂を加え河出書房新社から出版。翻訳チーム『第二の性』を原文で読み直す会の井上たか子によるあとがきから読むのもいいと思う。なんにしても早めに買うべき一冊ではなかろうか。4月にはⅡも出るそう。冒頭のエピグラフはピタゴラスとプーラン・ド・ラ・バール。プーラン・ド・ラ・バールという人は『両性平等論 』(叢書・ウニベルシタス)という本を書いているのか。これも読んでみよう。それにしても「ド」が「怒」に変換されるのを見ると女たちは怒ってきたんだなと改めて思ったりする。

「私は長いあいだ女性についての本を書くことをためらってきた。この主題はいらだたしい、とくに女にとっては。それに新しくもない。」

書き出しから魅力的な本書は訳文の読みやすさはもちろん内容の面白さに最初から惹き込まれるがため息もたくさん出てしまう。はあ。

そして、ボーヴォワールの精神分析に対する評価を私はとても正当だと思うし、それを取り上げて書く仕方も好きだ。

ここでは冒頭に引用されたピタゴラスを引用させてもらおう。

秩序と光と男を創った善の原理と、混沌と闇と女を創った悪の原理がある。

ーピタゴラス

どこにもかしこにも存在するスプリット。それをどう曖昧にこなしていこうか。いくつものスプリットに引き裂かれたこころをどうかき集めていこうか。いびつでもそれなりに正気を保って生きていく力なら大体の人に備わっているはず。善とか悪とかうるさい、と思いながら言いながら今日も何とか。

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精神分析

「気のせい」「おまえのせい」

また作業しながら眠ってしまった。というか何も進まないままただここで眠ってしまった。身体が痛い。歯が痛い。歯は関係ないけど歯軋りのせいかも。マウスピース作ってもらったけど全然使ってない。歯って治療を始めるとなぜかほかの歯も痛くなりませんか。私がお世話になっている歯医者さんはすごく優しくて説明も丁寧なのだけど痛いものは痛いというのが現実の辛いところですね。でも優しいのはありがたいですね。痛い、辛いということをわかってもらえるありがたみってすごい。

痛みというか不快さに耐えるというか傷というものに関わり続けていくことが精神分析の基本的な作業なのだと思うけど耐え難いものは耐え難い。自分の身体のことなら自分で引き受けるしかないが、と一瞬思ったがそんなことないね。むしろそれこそ「どうして自分が」となるかもしれない。相手あることであればそこで生じた不快さは関係という観点から考えることができるかもしれないけど身体は痛いとか辛いとか八つ当たりするとか理不尽を叫ぶとかいうことはできてもその痛みは常に自分で抱えこまなくてはいけないものとして内側に存在しつづける。ものすごいナルシシズムに巻き込まれたとき、心もそんな状態になるけれど。だから辛いのだろう。いないものとして扱われる、いらないものとして扱われる、何事もなかったかのように平然と生きている相手に蝕まれ続ける世界。それでも物理的な距離をとることができたり時間が過ぎていくことにじっと身を委ねることができるという点では身体に対するなすすべなさと比較したらマシかもしれない。でもなあ、余命宣告されその期間を生きながらえもういつどうなるかはわからないと余命も測れない宣告(?)を受けながら生きておられる(た)人たちを知っているがそれはそれで本人も家族も拍子抜けしたと笑い、それで痛みが減るわけでは全くないのに死に対する態度が変わっていくような例もある。人ってわからない。自分のことも全然わからない。やはりたとえ具体的なことはできなくても痛みや苦痛を「気のせい」とか「おまえのせい」とかにしないことされないことの力の大きさたるや、ということになるだろうか。

今日もあれこれ。みなさんはどんな感じ?ずーっと辛いとかいうことのありませんように。世界を呪いたくなるような瞬間からも部分的に回復できますように。きっと「気のせい」でも「おまえのせい」でもないよ。東京はいいお天気。今はこの部屋は陽射しでいっぱい。でもここで「えー今日は雨なのー」みたいなこと書いて玄関を出たらピッカピカの晴れということもあるからこのあとはどうかな。いろんなことわからないけどなんとか今日も一日過ごしましょ。またね。

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精神分析

西村賢太「疒の歌」、深瀬昌久展など。

二度寝してしまった。いつも途中一度は起きるけど今日はきちんと2回寝たという感じがする。今朝の地震、またかと思いながらいずれくるであろう大地震のことを少し思った。映画「日本沈没」は私が生まれた年の映画で小さい頃に再放送?ビデオ?かなにかでみたがいまだ思い浮かべるのは特定の一場面だ。誰かと離れるということ、小さな私にはそれが一番怖いことだったのだろう。

西村賢太「疒の歌」を読んでいる、とnoteにも書いた。やまいだれって自動変換ででないからウィキからコピペ。「疒」。私にはもっとも馴染みのある部首ですね。臨床、という言葉はそれと共にある言葉だから。

本当にあったことを嘘のこととして細部を積み重ねながら書いていきたいなと思って読んでいるが、西村賢太はすごいな。というか貫多、十九歳、すごい。面白い、というのもなんだかだが「駄々っ子気質の完璧主義者」、めんどくせーと思いつつこういう人いるいる、自分にもあるある、となる。共感したくないがせざるをえないというのは精神分析で防衛解釈をされたときの感じだ。直接言われないだけマイルドだから面白がっていられるが。

あ、深瀬昌久展のことを書こうと思っていたのに。場所は恵比寿の東京都写真美術館。写真は本当に面白いな。うつすものがなければ始まらないが時代と土地の力に圧倒されるのは文学より写真だ。写真家がカメラに憑依し一体化してしまうまでのプロセスを決して多くない数の写真なのに細かく見せられたような気がした。過剰さはないがインパクトのあるとてもいい展示だった。そこから色々と考えさせられたことを書こうと思ったが時間切れ。やることが多い。あれだけ嫌だった確定申告がはじめてみたら意外とあっさり終わったことに何か間違っているのではないかと不安を感じるがまあとりあえず出そう。何かあれば後から言ってくるだろう。何もありませんように。

それにしても今朝は地震が続く。どうかみなさんもご無事で。ご安全に。

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俳句 言葉

滑らかに。

領収書全部やっつけたぞ、と思ったけどamazonで買った本が未入力だった。あーあ。どこかでわかっていたはずだぞ。あーあ。私の支出はとてもわかりやすく家賃、書籍、訓練費、その他という感じ。ほかにほしいものも必要なものもないから問題ないけど。あ、甘いものにお金使いすぎなのは問題かも。オフィスのある西新宿は新宿の雑踏は越えるけど歩けばコンビニ、セブン、ファミマ、ローソン全部にあたる。ミニストップも遠くない。こんな環境で我慢とか無理、とか環境のせいにしたくもなるけど変わらない自分なりに少し工夫をしましょうね、と思うのですけどね。春は、夏は、秋は、冬は、と全部の季節を言い訳にできちゃうからなあ。加齢が最も現実的なストッパーかも。

今日は3月14日火曜日。日めくりは「花種を蒔きて呪文を掛けておく 太田土男」つちおさんって読むのかしら。お名前とピッタリの一句。花種は春に蒔く種のことで夏か秋に咲く花の種ですって。どんな呪文を掛けましょうか。すごく先のことより少し先の季節に向けて欲張らずに。うーん。呪文というとなんか怖い花が咲きそうだけど種を蒔く人が掛ける呪文なんだから花に何かを託すわけだよね。何を託しましょうか。適当に呪文めいた何かを唱えながら種蒔きすること自体楽しそうでいいことありそうだからそれだけでもいいか。でも「無事に咲いて」と願うのだって小さくない願いかもしれない。だからどうかそれまで無事にいられますように、呪文が守ってくれますように、って考えるとどんなのがよいかしら。とかいっている間にきっと季節はどんどん先へ。どうにもならないこともたくさんあるけどとりあえずとりあえずでどうにかこうにか生きていけるように願う言葉をそのまま呪文に。大江健三郎さんが光さんと一緒にうちの大学にいらしたのはいつだったか。仙川あたりによくいるけれど見かけても声をかけないでください、と上品におっしゃっていたっけ。なんだかいろんな人が引き伸ばしてくれた時代が終わりに向かっているようでとても寂しいけれど亡くなったことではじめてその言葉を知る世代もあるでしょう。少しずつ少しずつ。断絶よりは滑らかに。

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散歩 読書

日記

先日、編集者の天野潤平さんのツイートを見て聞いてみた小沼理さんのポッドキャストがとてもよかった。一緒に少し涙ぐんでしまった。

ハッシュタグの「いちなが」とは小沼さんの2020-2022年の日記を本にした『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)のこと。

https://twitter.com/onumaosamu/status/1577859428883521536?s=20

「わたしは思い出す」とは「大地震後の11年を生きた、ひとりの女性の育児日記」。さっきツイートしておいた。

私は毎日書いているという点では日記っぽいここでの文章を読み返す作業はしていないがいずれするかもしれない。少なくともバラバラと創作や画像を置きっぱなしにしているnoteよりは読み返す可能性は高い。毎日書いていれば私なりのその日その日が現れているだろうし少なからず生き延びるために書くという側面があるから。生き延びるというとなんだか大仰だとすれば今日もとりあえずこうしているなあ、という観察を記録する感じかな。たしかに生き延びることを意識的に課題としながらなんとかやっている日々はあれど。

先に挙げた二つの日記はまさに「日記」だ。何が起きたとしてもそれぞれの日常というものはある。「奪われた日常」という表現が持つベクトルとはまるで異なる、何がなくとも失われたり何かが生じたりするその日その日を綴った結果、自分がそこで生きていたことを意識した、そんな感じか。

昨日、コキアと菜の花がたくさん咲いている場所の無人直売所でみかんを買った。そばに「みかん」と書いてあったからみかんだと書いているが、これはネーブルだな。皮が剥きにくいし。同じ場所に「ネーブル」「八朔」とも書いてあった。「八朔」はドンドンドンと3つ網におさまっていたのがそうだと思う。別の直売所では売っている方もそれがなんなのかすでに曖昧なのか柑橘というものは桜と同じようにしっかりそれが何という名前を持っているものとそうでないものがあるのか「みかん?」とクエスチョンマークつきの看板を出していた。道にもところどころオレンジのみかん的なものが落ちていて、カラスがその断片を加えてバッサバッサと飛んでいく姿もみた。黒にオレンジが映えていた。いろんな種類の桜もみた。遅咲きの梅もまだまだ咲いていた。菜の花は完璧に主役だった。Twitterにも載せたが桜の花びらが菜の花に落ちてまるで蜜を吸っている虫や蝶々みたいでとても素敵だった。小さい子たちに混じってローラーコースターにも載った。お尻が痛かった。もう色々軽やかには動けない。ということでこんな時間までダラダラしてしまった。動かねば。

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精神分析

「みんな」、use、伊万里

何歳になっても誕生日をお祝いしてほしい人だったな、とある人を思い浮かべた。私もいろんな記念日は忘れてても誕生日くらいは覚えているけど自分からお祝いしてほしいとか思わないから不思議だった。しかもその人は「みんな」にそうしてほしいみたいだった。そういえば親たちの誕生日を親から仄めかされ(なくても日付ちょっと怪しいながら覚えているけど)たことってないと思う。自分が誰かを生み出していると自分の誕生についての認識が変わるのかしらね。そんなはずないか、とも思うけど誰かが心の中にいるって自分自分ってなる暇をなくす(悪い意味ではなく)のかも、ここにもbeingとdoingの違いがあるんだろうな。今日は別のある人の誕生日。本人も忘れている可能性が高いし私もいざ会ったら伝えるの忘れそうだから書いておこう。おめでとう。

ウィニコットのuseの概念を精神分析を受けることで実感したわけだけど自分の心の中に人がbeingしていないと安心して人をuseできない。搾取という意味でのuseでもなく、クレーンとしてのuseでもなく。

秋にウィニコットの書き物について話す予定があるんだった。この辺の論文を取り上げようかな。ああ。今積んでいることをどうにかせねば。

さっきNHK俳句で佐賀県伊万里市の方の俳句が入選していた。伊万里市は行ったばかり。あの居酒屋知ってるかな。2月で閉店するといっていた親子でやっている細長いカウンターだけのとっても味のあるお店。いつもはご夫婦だけでやっておられるみたいだけどあの日はとても混んでいてお子さんが大活躍だった。もう80いくつだから、と父である店長は笑っていた。常連さんにすごく惜しまれながら。すごいことだ。たまたまだったけどちょうど空いた席に入れてもらえてよかった。そういえば隣の新婚カップルとのやりとりも可笑しかったな。みなさんお元気でありますように。

河津桜はもう葉桜に変わりましたね。いよいよソメイヨシノも開花かな。花粉で辛い方も多いと思うけど今日もご無事によき春を。

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読書

3月11日(土)朝

3、11を意識するなかでの早朝の地震。みなさん、大丈夫でしたでしょうか。それまでの出来事の体験の仕方によって同じ出来事をどう体験するかは異なると思いますができるだけ安心できる状況にありますように。

俳人の池田澄子さんのこととか写真家のトモコスガさんのこととか何冊かの本のことが頭にあるのですが早朝から次から次へと注意が移り変わってこうして椅子に落ち着いてもすぐに別のことでぼんやりしてしまいオハナシニナリマセン。いよいよ手首の痛みが強くなってきたのも困り物です。友人から良い理学療法士さんを紹介してもらったので伺ってみようと思います。

今年の冬も少ない数の洋服を着回している間に春になってしまい昔からあるのに一度も着なかった服が大部分でした。少ない数のそれらをおしゃれ着洗いで洗濯してしまったのでようやくそれらからどれか選ぼうかなと思っていますがしばらく暖かい日が続きそうだから花冷えのときまでそれもお預けとなりそうです。

森茉莉が『記憶の繪』の中で「関東大震災」「震災風景」という短文を書いているのをご存じでしょうか。森茉莉は「例によって私は地震でも平然として、」と書き始めたしかにそれは特別なものとしては扱われません。森茉莉の書く出来事はうとうとしながらみるやけにリアルな夢のようでもあり現実に対して頑固に距離をとっているようにも私には感じられます。書き物にするというのはそういうことなのかもしれませんが大きなことを大したことないとするわけでもなく、情緒的でありながらもいつもどこか少し別のところへ気が逸れている様子を私は好ましく感じているのだと思います。

最初に思い浮かべていた何冊かの本とは別の本のことを書いてしまいました。誰に頼まれて書いているわけでもないのでそれは全くの自由なのですがなんだか不思議な感じもします。

先のことはわからないことだらけで見えないこと知れないことは不安を生じさせるかもしれませんが私たち自身が有限の存在であることを考えれば、などと考えているうちにこんな時間。急がねば。急げる余裕があるのは良きことなのでしょう。それぞれの土曜日を安心してお過ごしになれますように。

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あれはなんだったんだろう

3月10日(金)

今月も発表か。その機会があるのはありがたいが・・・と思ったが今日ではなかった。しかも今日までのことをやっていないことに今気づいた。色々気づくのが遅いのもいつものことすぎて、え?雨?窓を開けた。風もすごい。なぜ?いや特に不思議はないか。そんな日もあろう。アイフォんで天気予報をみたらちょうど私が出る時間は雨だそうです。ということは東京の多くの人にとってそうかもしれませんぞ。気をつけてまいりましょう。

山梨県北杜市でケーキ屋さん(配送のみ)をしている友人のケーキが届いた。花豆のパウンドケーキがシンプルで美味しく3つの花豆が散らばった断片もかわいい。花豆が地元で有名なことを自閉症の人たちと週末過ごしていた場所で教えてもらった。その美味しさもそこで知った。

川内倫子さんの写真集『やまなみ』はやまなみ工房という福祉事業所の方々を撮ったものであの光は私が彼らと過ごした場所でも体験したものだった。もちろんこういう雨風も。

耐え難いことがますます耐え難いことになる仕組みといえばいいのだろうか。あれはなんだったんだろう、と一年近くブログを書き続け、公開しない場所でも書き続け少しわかってきたことがある。痛みの最中にSNSとかで発散するのではなくある程度長文でその状態を書くことをしている人は多いと思うが、複数の形式で書きつけておくのもいいと思う。私が忘れない。それがすごく大事なんだと確認するような日々は今も続いている。いずれさらに別の形にしたい。

明日は3月11日。また石巻へいこう。南三陸、相双地区、塩釜へ行こう。震災直後、一年後、数年後に行った地域だ。たくさん労ってもらった場所だ。どうしてあなたの方が、と思うかもしれないがこっちもあっちもごっちゃになって一緒にいればそんなことが自然に起きてお互いに涙声になったりするものなんだ、ということも知った。

少しずつ。癒えない傷も少しずつ。

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読書

高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』文庫版を買った。

高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』(小学館文庫)を購入。渋谷駅を出てすぐの大盛堂書店でサンバイザー広告を出していると呟かれていたので頻繁に前を通るのに最近寄っていなかった大盛堂へ。半蔵門線を出てこの階段でいいのかなといくつもある地上への階段を適当に登ったら地上に出るなり大盛堂。「おお!これがサンバイザー広告!」と結構感動した。小さいのに写真でみるよりずっといい感じにヴィヴィッドだった。本自体は文庫の中でもかわいらしいサイズ。レジ前に積んでくれていたのですぐに手に取れた。店員さんがサイン本かどうかも確認してくれた。「しおりも入っていますか」とおずおず聞いてしまった。入っていると知っているから大盛堂にきたのになんだか不安になってしまった。


noteにも書いたけどノンフィクションは伏線回収とか不可能なので好き。現実の複雑さ、解決しなさがそのまま描写される。特にこの著者の書き方が好き。変な興奮も強い主張もなくごく普通の感覚とスピードで真相を追う(という表現はしっくりこないのだけど)感じがすごいと思う。私はニュースレター「高橋ユキの事件簿」も購読しているが、noteでも本書が書籍化するまでの流れも読めるし、弁護士ドットコムの連載とかいろんなところで著者の記事は読めるので本書とあわせてぜひ。主に裁判の傍聴席から、そして本書のように現場から、裁く目とは異なる視点で事件を丹念に追う著者の作業はSNSとかでサクッと記事や写真を拾って上から目線でなにかいう作業とも呼べないようなお手軽作業とは全く異なりとても貴重だと思う。そこでは実際の人がきちんと生きている。この本の現場は山口県周南市。小さな小さな村で起きた殺人放火事件。私は今回文庫化にあたり著者が再び現場を訪れ加筆した新章から読み始めた。現場へ行きたいと思った。事件の現場としてではなく。当たり前だがどんな土地の生活にも歴史がある。小さな村で多くの人が殺害されたあとも生活は続いている。今まさにこの瞬間も。

私は学会や旅で日本全国行っているので事件の現場を訪れることも多い。あえて訪れる場合もあるし、偶然犯人と同じルートをいっていたという場合もある。当事者ではない自分がその生々しい事件が起きた後の場所に立つときの、解釈できない出来事にとどまらざるをえないあの感触は独特だ。著者はそこにただとどまることをしない。真相を知ろうとする。自分の生活を維持しつつ取材に向かう著者の胆力のみならず現場や当事者に対する配慮ある距離感にもじんわり様々なことを感じさせられるこの一冊、少し不気味で(先入観のせいかも)美しい著者お手製のしおりと共に手に取ってみるのはいかがだろう。私はおすすめしたい。

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精神分析

なんでもないことはなんでもないこと。

お湯が沸いた。低めの音でパチンといった。いろんなこと着々とやっているつもりが終わりがないし新しくやるべきことはどんどん入ってくる。まあなんとかなるよね、結果的に。なるのかな。

なかったことにする人って本当にどこまでもどこまでも終わりなくその活動を繰り返すんだなあと眺めている。それでもうまくいかなくなったら忘れられる権利とかを軽薄に持ち出しそう。もはやそういうのは「活動」だなと思う。加担する人も似たような人ばかり。まずはカップルを形成して似たようなことをするところから。依存も排除もひとりでではできないものね。そういうのは数が増えても依存と排除であって協力でもなんでもないので搾取と侵害をさらにひどい形で繰り返しているだけじゃないかなと思うけど。「活動」に対する「運動」というのもある。私たちの運動の相手は政治家であり同業者なわけだけど別のなかったことにする人グループを見ているとその人たちのあり方とよく似ている。膨れる集団。なんにしてもなかったことになどできないのだけどね。そうしない人が生きているうちは。

冷凍ごはんを冷凍庫からガタガタと取り出す。タッパーで冷凍しているからベリベリと少し蓋を開けて電子レンジにいれる。その間に納豆をかき混ぜる。あの音はなんて表現したらいいのかな。さっき一度鳴った電子レンジが早く取り出せとばかりにもう一度なる。はいはい覚えていますよ。納豆まで準備してごはん忘れたりしないと思う、さすがに。そのうちそうなりそうだけど。

近所のコンビニみたいなお店が早くもなくなるのでコーヒーを買ってきた。閉店で安くなっているとかではないけど安いドリップコーヒーはそこで買ってたから。私はいつもそれを「おいしいコーヒー」と言い間違えるけど「いつものコーヒー」だぞ、と心の中で確認しているときに「うまいコーヒーだよ、いつものコーヒーじゃないよ」と言われて驚いた。ありゃ、どっちにしてもまた間違ってた。

関係が良好だとなんでもないことに何度でも笑える。なんでもないことは実際になんでもないことでしかないのに、という一言を言いにくくなるような圧力を受けることもある。どうでもいい一言にまで正確さを求められようになったらその関係は支配関係かも。それを怖いといえなくなったらその関係はとても悲しく辛くて苦しいけど離れた方がいいかもしれない。怖いし愛情も混ざってるから離れがたくて頭が真っ白になる瞬間が増えて解離を起こすときもあるかもだけど相手のことを思うならなおさら離れた方がいい。そういうことをする人は大抵なかったことにする人でそういうことをさせない人が必要だから。怖くて悲しくて辛い気持ちは心身が回復したら別の形で見て見ぬ振りをしない人に向かって伝えていこう、ということを別の場所で書いた。

今日は20度まであがると教えてもらった。「すごいね」といったが何がすごいかはわからない。相手も「ねー」と言っただけ。イラッとされて「なにが?」とか聞かれる人もいる。どうだっていいじゃん、ということにまで憎しみを向けられるようになった、愛情なんてそんなもの?そんなことないよ。最初から搾取の文脈に使われてしまったのかもしれない。攻撃性というのは関係性を使って複雑に表現されるから。自分だけがそうされたから自分が悪い、なんてことはない。そう思わされることはいっぱい起きるだろうけど断じてそんなことはない。似たようなことが真逆の形をとっていたりするのは普通のこと。

なんでもないことに溢れている小さな日常がきちんとなんでもないこととして扱ってもらえますように。朝から苦しむなんてことのありませんように。願うばかりでそうでない現実は世の中に溢れていると知っているけどそれでも願う。

東京はよく晴れていますよ。それぞれの場所でどうぞご無事でご安全に。

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精神分析

早朝

自分が書いたものに向けられた批評のやりとりに対するご本人の理性的で論理的な応答をみた。実際現場で困難を引き受けながら仕事をしている人の強さだと思った。性的搾取についてコミュニケーションをたつことでなかったことにした人が公私混同パートナーとフェミニズムに触れていた。自由や倫理と同じく見るだけ知るだけ語るだけなら実際のあり方などどうでもいい(というのが世の中か)、とさっきと真逆のことも思った。深夜のSNSでは、すごく面白い書評を書く人が書評している本をつい買ってしまうけど〜、とちょっと可笑しい投稿があった。その人も独特の書き手だけどこんな感じのことも書くんだと新鮮だった。最近はどんな本を書いているのだろう。

暖房をつけっぱなしでうとうとしてしまった。まだ鳥の声がするには早い。

確定申告が嫌すぎてまだできていない。これに関してはSNSが非常に助けになった。私の好きな書き手である女性たちが「したくない」「辛い」と書く仕方が面白くて励みになった。だからといって進んでいないけど。そして彼らがなぜこんなに辛いのかということを確定申告の意義まで遡って検討しているのもとても共感した。頭ではわかっていても行動には結びつかないことは多い。理性は感情にたやすく負ける。

カラスが鳴いている。鳴き始めたというのか?カラスって夜も突然鳴くからいまいちわかりづらい。スズメたちが起きるまでお布団にいようかな。暖房ついていてもなんか肌寒いよね、この時間。今日もいろんな人たちに困らされたり励まされたりしつつ進まないものたちを抱えつつなんとかやれたらいいですね。

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精神分析

今はこう。今はここ。

右側の髪の毛を重く感じた。頭がすごいことになっているときもそんなふうに感じないのに。にしても髪が少なくなった。女性でも髪は減る。昔は黒くて豊かな髪ともてはやされたのに。今思うとああやって黒髪がやたら褒められるの変だよね。ワカメが好きだからとかさ。と書きながらもしかしたらすごいことになっていたりして、と鏡を見たけどまあ普通だった。多分寝ているときに変な格好をして髪と地肌が引っ張られたのだろう。

またどうでもいいことを書いているが昨晩もハラスメントや暴力がなくならないわけについて具体的な出来事に基づいて考えた。そうしたら眠れなくなったが今日も起きられた。意地でも行動を変えないことで自分には責任はないという態度を維持する「ひどい人」をそうとは知らずサポートしてしまう「いい人」たち。とても誠実に女性に寄り添うフェミニストだってそこには含まれる。見えないものを知ることはできない。恐ろしい世の中だな。というか世の中はこうやって恐ろしくなっていくんだな、といえる素材が揃ってきた気がする。揃えたくなくても日々そういう状況を目や耳にしてしまうのが現状。具体的な流れのパターンが見えてくると眠れなくなるほどに苦しいときも一定の冷静さは保たれていると感じる人もいる。そのあり方が解離である場合もあるが人はどうにかこうにか生き延びようとするものらしい。

出来事が起きれば考えざるを得ないはずだが考える力を奪われつつ進行する事態は多い。それまでたくさんお世話になってきたとばかりに人を無邪気に信頼し続けられるような関係ばかりならいいけど現実はそうではない。信頼していたのに、と生活自体が一変してしまう人だっている。そうまでなってもすぐには立ち上がれない。すでに思考停止になっているから。苦しくて眠れない日々を過ごす間もそれを公にしない限りは同じ人物と誰かの無邪気で楽しげな信頼関係を見せつけられる。SNS時代だ。自分もかつてはそうだったと問題をずらしてやり過ごす人だっているだろう。利益が絡み契約がはっきりしていない関係はもっと難しい。「仕事だから」「だから?」と。

「仕事だから」に限らずそこに含まれる物言わせぬ圧力に「だからなに?だったらなにやってもいいわけ?」とはいえないことともしばしばだ。圧力を受け続け少しずつ蝕まれてきた。もう限界、と立ち上がりたいがまずそこから回復しなければならない。そしてその間にも搾取は続くだろうし、その人となにも知らない周りの人たちは、という繰り返しもあるだろう。累積外傷という言い方はしっくりくる。よって悲しいこと苦しいことに終わりはなく大抵悪いのは弱い立場の人という構造は維持される、のか?現状はそうか。本当はそこで生じていることはそんな単純なことではなく気持ちもぐちゃぐちゃぐるぐるとものすごい複雑なのにまず単純な構造にしないと思考停止の仮死状態が続いてしまう。それでも何度も襲ってくる痛みを消せるわけではないのであまりの負担に「次行こー」「前を向こう」と自らを励ましてはズタズタになって戻ってくる人もいる。矛盾する感情に疲労し無気力で動けない日々を過ごしている人もいる。だからまずはシンプルに。自分に扱える範囲を一緒に探そう。でもそのプロセスはあくまで自分の気持ちを殺さないためのものだからそれを忘れてしまわないようにしよう。なんで自分こんなことしてるんだっけ、とひとりで迷子にならないように。「今はこう」「今はここ」少しずつ少しずつ。

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精神分析

寝不足、聞き方、当たり前

寝不足のまま冬が終わった、とか書けるのは朝が暖かくなってきた証拠だ。寒いうちは寝不足よりも寒さに気を取られてびびっていた。毎年寒さにびびりすぎているがそれ以外になすすべなしなまま今年も寒さが緩んできた。慣れないことに慣れた。毎日まだ暗いうちから起きて何かはしているがそんなだったら寝ていたほうがいいのではないかというグータラな時間を過ごすことも多い。むしろその時間がほしくて起きてしまうのか?わからん。まあ寝不足にも色々あって不安と疑惑に苛まれ真夜中に目を覚ましスマホをみて予想通りのことを目にし予想通りにも関わらず苦しくて眠れない、という日々を過ごす人もいればなんとなく寝たり起きたりしているうちに朝になっているけどそれなりに元気みたいな寝不足もある。私がお会いする方の多くは睡眠に関してなんらかの困難を抱えている。使われる薬は同じだとしてもそれについての描写は様々だ。とはいえ、それでもやはり睡眠や食事は生活の基本なのでほかに話されることとは少し聞き方も異なりサクサクと抑えておかねばならないことを聴取したりする。何年も医師にも並行してかかっている人でも医師の前では「お変わりありませんか」「はい」みたいなやりとりをしてしまい、あちらが色々選択肢を準備してくれたとしてもなんとなく全部「大丈夫です」とか言ってしまう人も少なくない。こちらで話を聞きながら「お医者さんに言ってみました?」「(首を横にふる)だって先生(医師)忙しそうだし」という人もいれば「なんていえばいいんですか」といつもそこからみたいな場合もある。そういわれると「あ、そこからだったか」とわかるので助かる。

私は精神分析だけやっているわけではないというか精神分析を求める人というのはそう多くないのでいろんな形でいろんな方とお会いしていくわけだけど話をよく聞いてその人がなにを言いたいのかを教えてもらうのはお互いにとって有意義だと感じるしなんらかの驚きがたくさんあるので驚く(楽しいとか面白いとかも違うかなと思って)。精神分析はよくわからないけどむやみに嫌味や批判の対象にされやすい。否応なく相手がいる場所で自分の言葉を発し続けることで自分のモヤモヤや自分でも受け入れ難い考えと出会って(相手がいるってそういう機会だから。)それに対する自分の態度に「あれ?」と思ってSNSとかではなくずっとそこにいる治療者に違和感をぶつけてみたりしながらいい悪い正しい間違ってるとかの基準ではない見方で自分が他人や状況をどう体験しているかに気づいていく。あえて目的というなら今とは違う目と耳と身体で体験し言葉にしていけること、だろうか。ダラダラダラダラしゃべっていても「なんで自分こんなダラダラしゃべってんの」と気づいて止まって「ああそういえば」と一見全く繋がりのないことが想起され話されたりする。それの連続。よく勘違いされるように過去に因果関係を求めているわけではなく、過去から続いている今の自分がこんな苦しいのはこういう見方や行動と関係あるのかということを聞き方を知っている治療者の前で話すことで体験、吟味しなおし、たとえ今こんなにダメな気持ちで何もできないとしても自分がダメとか誰かのせいとかそんな単純なものではないんだなということにじっくり触れていく。それが衝動的な行動化や身体化の予防にもなっていく。そのための手助けをしている。そしてそのための訓練をしている。確かにエヴィデンスとは馴染みにくい方法ではある。でもそれについて実践的に学んだことやある基準を満たしている分析家のもとでそれを体験したこともない臨床家(こんな前置きつけずとも「臨床している人が」)が国際的に実践と研究が積み重ねられ続けている技法に対してとても学問的とは思えない口ぶりで何か言っているのをみると当事者の言葉や体験を大切にするって仕事だとしても本当に難しいんだなと思う。エヴィデンスが足りないという理由で「正しく」ないもの、自分にとってなんとなく「良い」とは感じられないものはどう扱ってもいいわけではない、というごく当たり前のことがせめて共有されるといいと思う。そこには人間がいるので。

今日は夜は雨が降るの?今こんないいお天気なのに?洗濯物はどうしましょう。花粉も飛んでるから外出さないほうがいいかしらね。みんなもう起きたかな。寝ていない人も寝不足の人もいっぱい寝たけど寝足りない人もどうぞご無事で。できたら元気で。

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短詩 読書

『アンソロジスト』、時実新子『小説新子』を読むなど。

時実新子という川柳作家がいる。現代川柳の暮田真名さんが早稲田大学大学院で研究しようとしている対象だ。ということを以前伺った。

紀伊国屋書店で待ち合わせをした。お目当ての『アンソロジストvol.4』(田畑書店)を見つけた。川柳の本が増えている気がした。暮田真名『ふりょの星』は相変わらず平積み。表紙の吉田戦車の絵はやはり最高にかわいい。吉田戦車の川柳とか面白そうだ。『走れ!みかんのかわ』(河出書房新社)とか組み合わせ可笑しいでしょう。彼は音程はどのくらい意識しているだろうか。暮田さんは今号の『アンソロジスト』「スケザネ図書室」に「音程で川柳をつくる」という短文を寄せている。暮田さんが教える仕事が増えるにあたり「でっちあげていかなければ」とでっちあげた「作句のルール」のひとつだ。でっちあげというわりに超真面目に実践が紹介されているのが暮田さんらしいズレだと思う。超音痴の私にはやはり難しそうと不安になったがここで挙げられている方言がそうであるようにイントネーションというのは音痴のもつ特性とは少し別のところにあるような気がするからなんとかなるだろう。五七五に五七五を意識せずに言葉を入れ空席の数にはまる言葉が聞こえてくるのを待つようにすればいいらしいっすよ、先輩、という感じですね。

この『アンソロジスト』を指にはさみ(薄いのだ)平積みを眺めているとどーんと目に入ってきたのが『小説新子』(小学館)。そう、最初に書いて忘れていたわけではないよ、川柳界の与謝野晶子と言われた情念の女。この方、第一句集も『新子』。自分をどどーんと出してくる。ペンネームではあるけれど。

いやあ、すごかった。見も知らぬ家へ嫁へ行く『嫁ぐ』で幕を開ける新子の半生。暮田さんは新子をどうやって扱うのだろう。この人でっちあげ要素ゼロではありませんか。あまりにストレート。結婚の約束までしてくれた初恋の人を追い返した母。親には親なりの理由がある。

河口月光 十七歳は死に易し

読み始めてまもなく最初に登場する川柳だ。つまりこれは新子が十七歳で嫁いでからのお話である。

この続きは今度書こう。同時代のいろんな女が思い浮かんできてしまったのでキリがなさそうだ。女の言葉というものがあるかどうかは知らないが言葉から意味を外してなお残る情念みたいなものがあるとしたらそれをどう表現しよう。

なんてことを意識的に考える時間は今日もないがこう書いておけば突然どこかで何か思いつくかもね。花粉が辛いけどまたね。元気で。

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精神分析

カタカタカタカタやっているが一向に進まない。なぜ。書いては消しているからか。なのでサボってこうしている。そんな場合ではない。ああ。

まず思考停止し、再度読み直し、またしばし停止し、自分の読み方が何か違うのではとまた読み直し、やや混乱しながら大変な不快さに襲われるニュースが多い。「教育・人材力強化調査会」を検索してみたら役員一覧をツイートしている人がいた。ああ。心なんて見えないものの扱い方がわからないのは仕方ないにしても身体はその人のものであってなんてことをわざわざ書くのも思考停止を防ぐためでしかないのかもしれない。

なになにができる身体、できない身体で分類するのはたやすい。そうしたい、したくないという欲望も当然持つ身体だが自分自身でもそれに気づくことは難しかったりするからまた厄介。

しまった、うとうとしてしまった。作業に戻ろう。

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紅茶、目覚め、ひどい人

お湯沸かしてる。ティファール系は沸くのも早いけど冷めるのも早くない?ポンと沸いた音がする。美味しい紅茶をいただいたのでそれにしようかな。「素敵な一日になりますように」というメッセージ付き。おお、個包装ひとつひとつにも書いてある。これみんなに分けるにもいいですね。ありがとう。「3-5分後」というハイフンが短すぎて35分後かと一瞬目を疑った。そんな特別な紅茶なのか!?と。そんなはずないじゃんね。冷めちゃうよ。うわぁ、きれい。ジャーマンカモミール、ジャスミンフラワー。ジャジャ繋がりだね。最初の職場で「ジャージャージャー炊飯器ー♪」という所ジョージ的ソングを披露してバカにされつつ喜ばれたのを思い出しますね。ああ、とってもいい香り。全然目が覚めなそうだよ。美味しい。

目が覚めるのは嫌なものを見るとき。目が覚める以前に眠れなくなる。ひどいことを言う人が公の場にいるのは政治家からしてそうだけど個人的にひどいなあと思っている人が倫理とか自由とか語っているのを知ると、いや知っていたけど、ああこの世は地獄だなあと眠れなくなるよね。私のいうひどい人は悪いものはout、楽しいもの美味しいもの知識的なものだけinする人のことなんだけどそういうのってひどいけど誰の周りにはおられるでしょう。誰かにとってはとってもいい人として。

視界からは消せないけど見せないようにしてくれてありがたい、というようなことをハラスメントを受けた方が呟いていたけど見える形で存在しつづける「悪」とは簡単にはいえないひどい人に対してはどうすればいいのでしょう。こちらが目を閉じれば?ひきこもれば?SNSもみない、周りの人も気を遣ってくれる、そういう努力をしてもしても消えることなんかない痛みはどうしよもない?また「自分が何したのかわかってないのか」とか言われてこっちのせいにされておしまい?そうやって繰り返す?

苦しいですね、こういうの。終わりが見えない。視界から消すことも今の時代は本当に難しい。言葉はどんどん見える形になる時代だもの。長い間眠れない日々を過ごしながらなんとか持ち堪えている人にこの紅茶を渡したい。メッセージつきは嫌かな。「素敵」なんて言葉みたくないかもしれないね。それがいかに言葉でしかないかを体験してしまった人にとっては。とってもきれいでとっても美味しいこれを共有したいけど思い出したくない香りかもしれないね。トラウマという言葉で括ることなく傷ついた体験を細やかに共有することは難しいけれどどういうことが起きるとどういうことが生じやすいかを知ることは役に立つだろうか。私たち専門家は知ってはいるけどだからといって傷つきを予防したり回避したり他の人より素早く楽な方に向かわせるなんてできない。そういうことが難しい場合があるんだよ、ということを実感を持って知っているだけ。

さあ、やるべきことやらないと、と毎日思うだけでなにも進んでいないけどなかったことにはできないからね。どうにかなることを自分に期待しよう。

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小さな間違い、矛盾、積み重ね

チョコレートを食べすぎている。肌にもでちゃっている。というか肌の調子はここ一年ずっと悪い。本当にひどくなったとき以外何もしないからきちんとせいという話か。メイクをほとんどしないから肌に負担かけてないと思い込んでるけどそんなはずない、というのを何十年繰り返しているのでしょう。なのにまたチョコもらっちゃった。しかも美味しい。困る。

昨日、クリックポストで本が届いた。あまりに薄くて間違って空っぽのまま送られてきてしまったのではないかと疑ったくらい。きちんと入ってたよ。薄い本。読む余裕がなくてまだ起きっぱなしだけど今日持ち歩こうか。クリックポストってどうしてクリックポストっていうのかしら。1クリックで送れるよ、とか?そんなはずないよね。ポストに入れないとね。なんとなくクイックポストかと思ってた。プロセス上どこかがクイックなんだろう、と勝手に。このくらいの間違いなら誰のことも傷つけなさそうだからこのくらいの間違いの繰り返しで生きていきたいと思ったけどこういう小さな間違いの積み重ねがいろんな問題の構造化に繋がっているのかもしれないとも思った。積み重ねられる何かって怖い。いい方向に構造化されてほしい。いい方向への関係がほしい。悪循環はもう目にしすぎてる。方向転換のために何が必要か模索せねば。小さな間違いに注意を払うところからか、自分の。ああ。

人新生の本でラディカルなことをいっていた斉藤幸平さん(ご本人は何かで「あえて」といっていたけど)、神宮外苑再開発認可取消裁判の原告になったのか。原告何人くらいいるんだろう。各界の専門家60名くらいか。ほんと力を持つ人は口ばかりではなくこういうことに力を発揮してほしい。色々偉そうなこというけどおまえはどうなんだよ、なにやってくれんだよ、ということを常に問われる立場になるということなんだろうから、ああいう本を書くということは。対立関係を作らないための構造について熱く語っている人がいつも同じ人やサイドをスピーディーに支持している様子をみると言葉ってむしろ・・・と思ってしまうときもある。身体へのアプローチとの矛盾があるとなおさら混乱する。嫌いな相手の身体を触ることに対してものすごい葛藤を抱えながら仕事をしている人もいればそれとこれとは別でした、はいすいませんでした、みたいな人もいるけど他人の体験を体験することは自分を通してじゃないと難しいからそれに対して何かをできるのも自分。通じ合えないのはしかたない。でも他人との小さな積み重ねを自分の良い方向への動力にできる人はたくさんいると思う。この場合の「良い」も曖昧なものだけれど。今日もよくわからないけど良さの方向へ偶然が導いてくれますように。みんなの自分じゃどうにもならないこともそんな方向へいけますように。