カラスが鳴いて小さな鳥たちが鳴きはじめる、という順番に思えるのだけど違うのかな。なんかいつもと違う感じの鳴き声が聞こえるけどどなたかしら。
以前その地域で間借りして面接をしていた頃、隙間時間によく行っていたビルへ久しぶりにいった。かわいいものがたくさんでウキウキした。オフィスのある初台になんの不足も感じないけどインスタで目にするようなものたちが実際に並んでいるとどれもこれも目新しくはじめて東京に出てきたような・・・と思わず書いたけどはじめてはどうだったかな。当時、群馬から東京入りするというのはまずは上野駅に到着するということであり、そこからお茶の水へというのが私のはじめての東京。家族でなら毎年後楽園に野球にきてたから水道橋だけど。3月に千代田区のギャラリーへ行ったついでによく泊まったホテルのあたりを歩いた。当時私が少しドキドキしながらした寄り道の距離の短いこと!知らない道を延々と走っても見晴らしがよく、少しのランドマークで戻ってこられた田舎とは違う景色に警戒していたのだろう。立ち並ぶ高めの建物に挟まれた道路、つまりは普通の住宅街の道だが、とまで書いて携帯をいじったらそのまま『ゴリラ裁判の日』を読んでしまっていた。著者は須藤古都離、ことりさんって読むのかな。講談社から。はじめての東京がいつのまにか最も長く住んでいる場所に変わったがいまだにキョロキョロして過ごしている。群馬と比べると視界が狭いのだ、やはり。視線が「その先」を見ることができない。老眼も進んでいて本を読むのも苦痛だがこうしてなんとなく読み始め気づいたら読み耽っているのは習慣だからだろう。東京は変化が大きく習慣は個人のものな気がするが田舎はまず自然に規定されるものとしてあるような気がする。久しぶりに寄ったビルは上の方の階にはあまり人はいない。ギャラリーも無料なのに誰もいなかった。フラッとよると受付の人にわりと遠くから挨拶をされたのでお辞儀をかえした。眺めながらそこに置いてあるものたちの関連性を考えていたらしく、いまやすぐそばにいる受付の人の視線を受けて尋ねてみた。この距離でそんなふうにみられたら言葉で距離をとるかそそくさと出ていくかしかないが私は言葉で。これとそれには関係がなかった。びっくりと納得と。なぜそうなっているかといえば、という説明を聞いてはじめて知ったのはギャラリーの運営をする会社のこと。そうか、どの建物にも管理者がいるもんね、など展示の中身よりも箱に関するお話を色々伺って「もっとゆっくり手に取って」と言われたが時間調整で少し寄っただけだったのでお礼を言って次の場所へ向かった。本の話はやはり盛り上がるな。
今日は何を食べようかな。耐え難い苦痛や行動化への衝動から身を守ってくれるものがあるとしたらその一つはやはり「習慣」だろう。外に光が増えてきた。今日は一日お天気なのかな。みんなはおやすみ?おやすみの人もそうでない人もどうぞよい一日をお過ごしください。