寝たり起きたり。寝違えたわけではないというか、仕事中に急に寝違えたような首の痛みがきてそれからずっと痛くてそれでうまく眠れないみたい。暑いというのもあるね。
心ない人についてずっと考えている。性的な加害性を持つ心ない人(自分の加害性は相手に押し付けるような心はあったりする)が信田さよ子や小川公代を引用して暴力やケアについて被害者の味方みたいな立場を維持しているのをみると心ないというよりもあなたの心はどうなっちゃってるのと怖くなる。でもこれも外からはわからない。信田さよ子だって相談に来なければ助けることはできないからSNSとかで発信してくれていると思うのだけどSNSの言葉ってこうやって都合よく利用されることもしばしば。
「私はそんなことされてないしむしろ優しくされてるしそういうのは個人的なことだと思う」という人も多い。もちろん個人的なことですよね。でもそれを個人的なこととして片付ける個人が多いという意味では社会的なことですよね。個人的なこととかいっている人が「フェミとは距離とってまーす」(こういう軽薄さを伴う場合が多い)とか「ひどいことしてくるのは大抵女」とか雑な分類で何かいってたりするのもよくあること。都合がいい言葉の選択。
ペットが子供代わりみたいな関係がペットが死んで変わることもある。というよりペットが死んだらペットによって繋がれていた関係だったとわかる、みたいなことはペットがいなくても起きる。たいていの関係には媒介がある。利害とかも媒介となりうる。いつの間にか死んだペットを自分の寂しさの象徴として利用していたり。モーニングワークはそういうものではないし、二者関係によって第三者を慈しんでいたならその第三者を喪失したら二者関係がワークの基盤になるが相手を想う心があまり育っていない人は自分の痛みや葛藤を抱えることがすでに難しく快を維持する二者関係以外はしんどいからどこかへ追いやってただただスッキリしたい。商魂逞しい場合、ネタ化、商品化によってさらに誰かの痛みや孤独を強めたりする。「黒歴史」として書いて売っていることもあるだろう。「こういう現実を生きるために」という本だって書いてしまうかもしれない。その場合「なかったことにするために」が正確な題名だと思うけど。
こういう現実を生きるために何にお金を使うかはもっと大切に考えないとだな。貧しい時代なんだもの。心と経済の繋がりを具体的な体験と離れない形で考えて行けたらいいですね。
今日は友達がくれたクラブハリエのちっちゃいバウムをいただきました。とってもかわいいし美味しかったです。お花もいただきました。夏のお花、明るくて大好きです。