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精神分析

受け止めきれないものたち

「邪悪」という言葉を使いたがる人が本当に邪悪だなと思う出来事があるとポカンとする。わかっていることにポカンとしてしまうのはどう考えても理解不能だからだろうなあ。

TwitterのDMの問題について聞いた。何かに情報を書き込むって怖いことね、こうやって。SNSは公私混同とかバウンダリーに対する意識をうやむやにしやすいツールだし削除してしまえばもろもろなかったことにできる。とはいえ、たとえやりとりを消すことができなくても立場利用してDM悪用して安全そうな顔して近づいて利用や搾取を繰返している人の実態は分析されることはないだろうし立場の弱い人ばかり傷つくことが繰り返されるだろう。特に女を利用する男という構造はなんとでも言い換えできてしまうから。最近立て続けに読んだノンフィクション本でもそう思った。救いがない。

自分の身体の痛い箇所をどうやって説明したらいいのだろう、と一般向けの解剖図など見てみたがやはりよくわからない。痛みの移動もあるからなおさらよくわからない。痛むたびにマジックで印をつけておくとか、と思えるほどの余裕があるうちは大丈夫か。

いつも通る遊歩道のつつじが満開で、この前まで沈丁花が満開だったのになんだか不思議と思う。まるで沈丁花がつつじに置き換わったみたいに道全体がつつじの雰囲気。沈丁花も結構な面積をしめていると思うのだけど。

最近、明治の作家に触れていたので久しぶりに松浦寿輝『明治の表象空間』を読んでいた。鴎外、漱石の文体と対比される樋口一葉などの日本語への意識、大江健三郎作品への言及あたりを。

実体のなさ、あるいは隠蔽や抹消、空虚で軽薄な言葉たちに振り回される毎日を「そんなもんだ」という絶望とともに生きるのは身体にもよくなさそう。受け止めきれないものたちとどう過ごすかというか過ごさざるをえない。苦しいね。辛いね。悲しいね。普通に優しい言葉と出会って行けたらいいですね。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生