昨晩は雨だった。夜遅くなるにつれ雨脚が強まる音がしたけれど私が最寄駅に着いた頃はそれほど降っていなかった。気温が高めだったこともあってなんとなく傘もささず歩き始めたら意外と降っていた。傘をさしていない人は朝に持って出なかった人たちか。駅からそれぞれの道へ向かう人たちがあまり傘をさしていないようにみえてそんなに降っていないのかと思ってしまった。たしかに朝は降っていなかったね。先日持っていかれてしまったビニール傘とは違うビニール傘に懲りずに養生テープを巻いて今度は名前を書いた。マジックがあまり出なくて掠れてるけどないよりいいと思う。
この仕事をしていると私たちは何度も何度も同じことを語ってしまうものなんだと実感する。それを失われた愛、叶わなかった愛の対象、つまり母のイメージを求めている、というのは精神分析のデフォルトで、私自身それに対して「またか」と思ったりするが、本当にそうである場合も大変多いのもまた事実だ。本当にそう、というのは患者の語りからして、ということ。精神分析の理論が患者の言葉と接続している限りは、外側から「いつもそれ」と言われようと「そうなんだよ、患者さんが実際にそう言葉にするから」と真剣に考えなければいけない。患者が言っていることをこちらが言わせてるくらいに思われているときもあるが、それも一部は本当だろう。コミュニケーションというのはそうならざるをえない面を持つ。だからこちらが母なり父なり神なりとは異なる言葉を使うことも大事だ。どうしても戻るそのイメージはどんな感じで動いてて、今どんな表情や形をしていますか。繰り返す語りで欲していることはなんだろう。いろんなことは動詞で考える。それは「名詞」ですね、ではなくて。一番ほしいものはそのものとしてはすでに失われているので手に入らない。でもそのイメージなら、ということでそこに拘束される。そのイメージで自分を守ってきた人はそれを手放すことが難しい。分離不安という言葉があるけどあれもどの水準で使っているのかというのは結構ばらつきがある気がしている。だから結局理論的背景がないとその問題について深く考えるということをしていくのは難しいと思うのだけど、そして理論というのはかなり難しいもので、研修とかはそれを自分で深めるためのきっかけに過ぎないのでもし深めたい場合は自分で一生懸命勉強するしかない。
ということを分離不安とは関係なく、昨日IPAジャーナルのThe Interface Functionという論文を読みながら思った。フロイトが『心理学草案』で想定したニューロンの機能である「流れ」、そして相反する作用が生じる場所である「接触障壁」、ビオンが「経験から学ぶこと」で展開した「接触障壁」、つまり「αファンクション」、これらをさらに展開してこの論文の著者らKaracaoğlan, U. & Speckmann, E.はThe Interface Functionを提案しているらしい。差異の創出と情報のやり取りが生じるファンクショナルスペースについては図で説明されている。ざっとしか見てないけれどこれはあまりに「情報」の話ではないか、という気がしているので大事かもしれないと思っている。
昨日の朝ドラ「あんぱん」のたかしとのぶのすれ違いが何かの本にあった描写と似ているんだよなあ、と思って、あ、これだ、と解決した気がしたのだけどそれがなんだったか忘れてしまった。たかしとのぶの場合は見えている部分が違うというすれ違いで2人を使ったスプリットの描写だと思うけど、その本はこうも見えるけどこういうところもあるよねという描写がやや一方的にされ、それを好意的に受け取る読み手がいてという往復書簡の一部だったと思う。そういう場合、対立は起きないけどすれ違いは起きてると思う。フロイトとフリースとかそんな感じ。
今は雨。これから止むらしい、予報では。どうぞ良い一日を。